13 試練の刻

 一九四二年七月五日〇七二二時(現地時間:四日一〇二二時)。

 すべてのことは同時に起こり、そして混乱の中で事態は進んでいった。

 断雲を隠れ蓑にして空母蒼龍に接近しつつあったヨークタウンのショート隊。太陽を背後とする位置に回り込もうとしていたエンタープライズのマクラスキー隊。そのマクラスキー隊を追う岩本徹三一飛曹の小隊。加賀への急降下爆撃を見て急上昇をかけた藤田怡与蔵大尉らの零戦。

 そしてその下にある赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四空母。

 すべての要素が絡み合った混沌の中で、各人がその役割を果たそうとしていた。






 最初の異変は、マクラスキー隊に発生した。

 一〇〇八時、マクラスキーの機上無線に第十六任務部隊参謀長マイルズ・ブローニング大佐の怒鳴るような声が届いた。


『攻撃せよ! ただちに攻撃せよ!』


 ブローニング大佐の声は、興奮で上ずっていた。

 マクラスキーは知らないことであったが、この時、エンタープライズにはフレッチャー少将率いる第十七任務部隊の惨状が通信によって届いていた。味方が大損害を受けていながら何の戦果報告もないことに苛立っていたブローニング大佐が、マクラスキーの敵発見の報告に我慢がならなくなって通信機に向かって叫んでいたのである。

 そしてこの音声は、ハワイ真珠湾の太平洋艦隊司令部でも傍受されていた。これまで太平洋艦隊司令部には戦況に関する通信が一切入ってきておらず、ニミッツ長官を始めとした司令部要員たちを不安にさせていたのである。だが、この通信によって司令部の雰囲気は幾分、和らいだという。

 ブローニング大佐からの檄を受けて、マクラスキーは麾下のガラハー隊(第六偵察隊)とベスト隊(第六爆撃隊)に目標についての指示を下した。

 ガラハー隊が手前に見えるジャップ大型空母(赤城)を、ベスト隊がその奥に見える大型空母(加賀)を攻撃するように命じたのである。

 東進を続けていた第一航空艦隊の陣形は、一時間以上にわたる防空戦闘と回避運動によってかなり乱れていた。飛龍は米雷撃機の回避運動によって北側に突出した形となり、加賀も急降下爆撃を回避した影響で本来は赤城の後方を進んでいるはずであったのが、赤城よりも少し北寄りに逸れていた。

 この結果、太陽を背にするよう襲撃運動をとっていたマクラスキー隊にとって、一番近い標的が赤城だったのである。

 しかし、ベスト機の後部偵察員がこの通信を聞き逃してしまった。そのため、ベスト大尉はこれまでの訓練通り、自分の隊が最も手前の敵艦を狙う役割を負っているものと思い込んで、ガラハー隊と同じく赤城を目標に定めていた。

 そしてここで、マクラスキー隊のSBD三十一機の編隊に異常が生じた。

 ベスト機の酸素吸入器が故障してしまったというのである。この通信はマクラスキーの元に届いたため、彼はやむを得ず高度を六〇〇〇メートルから四五〇〇メートルに落とすことにした。

 そして緩く降下を始めるドーントレス隊の動きを、背後下方から見つめている者たちがいた。






「いかん!」


 ベスト機の酸素吸入器の故障によって編隊の高度を下げ始めたマクラスキー隊であるが、その降下を急降下の前触れであると捉えた者がいた。

 彼らに背後から接近していた、岩本徹三一飛曹である。

 この時、彼の小隊の後方には翔鶴、瑞鶴を発艦した残りの零戦隊が続いていた。しかし、これら零戦隊はそれぞれ翔鶴所属機、瑞鶴所属機の他、第六航空隊の零戦で構成されていたため、その連携は円滑とはいえなかった。

 小隊を組むのに手間取り、上昇が遅れている機体もあった。

 岩本は素早く背後を確認した。自分の列機である伊藤機、前機が続いている。その後方から、二個小隊六機の零戦が続いているのが見えた。

 つまり、この段階で敵降爆に襲撃をかけられるのは九機の零戦のみ。

 だが、下には一航戦、二航戦の空母がいる。彼女たちは真珠湾以来、戦列を組んできた戦友たちである。

 岩本はこれ以上の逡巡は時機を逸すると見て、襲撃を決意した。

 列機に合図を送り、スロットルを開いて機体を加速させていく。






 一方、蒼龍を攻撃すべく断雲に隠れながら機会を窺っていたヨークタウンのショート隊も、決断を迫られていた。

 通信機から、テイラー雷撃隊がジャップ空母に攻撃を仕掛けたこと、そして戦闘機隊の援護を求めるテイラー隊の悲鳴のような声が聞こえてきたことから、これ以上は自分たちも零戦ジークの餌食になるだけだと考えていたのである。

 彼らは、蒼龍への急降下を開始しようとしていた。






 一方、洋上にあって最初に上空の異変に気付いたのは、飛龍であった。

 〇七一九時、飛龍見張り員が赤城に向かう敵編隊を発見していた。


「敵降爆、赤城に向かう! 高度四〇〇〇!」


 見張り員からの報告に、山口多聞少将以下艦橋要員は艦隊陣形南側に位置する赤城に目を向けた。上空に存在する断雲の合間に、黒い点が見える。

 山口は一抹の不安を覚えて、掌航海長の田村士郎兵曹長に尋ねた。


「掌航海長、赤城の矢先(砲の向き)はどうか?」


「水平です」


 つまり、赤城の高角砲は上空を向いていない。これは拙いと、山口は咄嗟に感じた。


「直ちに赤城に信号を送れ! 敵降爆、貴方に向かう、と!」


 信号員を急かすように山口は命じた。内心では、これは間に合わないのではないかと思っている。

 しかし、先ほど加賀は敵の急降下爆撃を鮮やかに回避した。誰もが、加賀のように赤城も全弾回避してくれるようにと、祈りを込めながらその様子を見守っていた。


「念の為、加賀や蒼龍にも警告せよ」


 山口多聞少将は、敵が赤城だけを狙うとは考えていなかった。加賀の高角砲は先ほどの急降下爆撃もあって上空を向いていたが、飛龍も含めた残り三空母はこれまで雷撃機を相手にしていたため、対空火器は水平になったままである。

 飛龍から発光信号が瞬くのと、加賀の高角砲が再び上空に向かって火を噴くのはほとんど同時であった。

 恐らく、加賀の発砲には他艦に対して警戒を呼びかける意図もあったのだろう。上空に、黒煙の花が咲く。


「敵機、赤城に急降下!」


 そして、その中を敵急降下爆撃機が逆落としに突っ込んできたのである。






零戦ジーク!』


 マクラスキー機の無線機に、部下からの悲痛な叫びが響き渡った。


「―――っ!?」


 マクラスキーは、喉まで出かかった罵声を呑み込んだ。あと少し、あと少しですべてが上手くいくはずだった。

 だというのに、最後の最後になって神は我らを見放したというのか。


零戦ジーク、下から突っ込んできます!」


 南太平洋カナカ族の血を引く後部偵察員チョチョラウセクが叫ぶ。


「ガッデム!」


 マクラスキーは操縦桿を捻った。旋回する機体の脇を、曳光弾が通り抜けていく。彼は操縦席のバックミラーを確認した。

 そこには、日の丸ミートボールを描いた忌々しいジャップ戦闘機の姿があった。


「各機、後部機銃で応戦しろ!」


 ドーントレスは後部に七・七ミリ連装機銃を備えている。背後から迫ってくる零戦を牽制する程度には役に立つだろう。

 だが、ジャップは巧妙だった。

 連中はこちらの死角になる背後下方から接近し、一挙に襲撃を仕掛けてきたのである。

 回避運動を続けつつ、マクラスキーは編隊の様子を確認する。突然の零戦の襲撃に、編隊は完全に崩れていた。三十一機のドーントレスは空中であちこちに散らばり、その何機かは火を噴いて落下しつつある。


「やむを得ん! 各機、直ちに攻撃を開始せよ!」


 不幸中の幸いなのは、恐るべき零戦の姿が十機程度しか見えないことだ。敵が増援の戦闘機を呼ぶ前に、何としても攻撃を成功させねばならなかった。


「目標に変更はない! ガラハー、お前は俺と一緒に手前の空母をやれ! ベストはその奥に見える大型空母だ!」


 部下たちから“壊れた拡声器”と揶揄される怒鳴り声で、マクラスキーは全機に命じる。

 この混乱の中で、その命令がどこまで正確に実行されるかは判らない。だがそれでも、マクラスキーはここで二隻のジャップ大型空母を仕留めるつもりであった。

 彼は機体をジャップ大型空母に向けて降下させる。

 教範通りであれば、目標に対して左翼の前端を合せて、発動機を絞って機体を左に捻って降下させるのであるが、零戦に襲われている今、訓練通りの急降下爆撃などやっていられない。

 命中率は落ちるだろうが、それでもやるしかなかった。このままでは、自分たちのすべての努力が無駄になる。

 彼の機体は、七十度という急角度で赤城への降下を開始した。

 一方、マクラスキー機の動きに驚いたのは、第六爆撃隊を率いるベスト大尉であった。これまでの訓練であれば、自分たち第六爆撃隊が最も手近な目標を狙うはずであるのに、何故か隊長機はガラハーの第六偵察隊を率いて手前のジャップ大型空母に降下を開始してしまった。

 ベスト大尉は、隊長の連絡不足を内心で罵った(正確には、彼の機体の後部偵察員が命令を聞き逃していただけなのだが)。


「やむを得ん! 俺たちは奥に見える大型空母をやるぞ!」


 ベストは即座に目標を変更した。

 自分たちエンタープライズ艦爆隊は、零戦の襲撃によって隊列を大きく乱し、中には撃墜されてしまった仲間もいる。

 ここで一隻でも多くのジャップ空母を仕留めなければならないという思いは、ベスト大尉も隊長と同じであった。


「おい、ブラック・スミス! 俺たちについて、落ち着いて狙うんだぞ!」


 ベスト大尉は、隊内で練度最悪と言われているブラック・スミス少尉機に呼びかけた。彼の機体は、これまでの訓練で一度も目標に爆弾を命中させたことがないのだ。

 ベスト隊はそのスミス機を殿として、四機のドーントレスで加賀への急降下を開始した。

 機体の周囲で敵対空砲火が炸裂し、風防が震える。






「面舵一杯! 急げ!」


「おもーかーじ、一杯!」


 赤城艦橋に、青木泰二郎大佐の急かすような声が響き渡る。

 赤城見張り員はこれまで敵雷撃機にばかり気を取られていたため、上空から迫っていた敵艦爆の発見が遅れたのである。見張り員がようやく上空から迫る脅威に気付いたのは、飛龍からの発光信号と加賀の高角砲発砲があってからであった。

 そして、飛龍へ「了解」の返信を出す間もなく、見張り員の絶叫が赤城の危機を告げたのである。


「……」


 南雲中将は長官席で唇を引き結んでいた。インド洋で赤城が被弾した時の記憶が蘇っていた。そしてそれは、あの戦いを経験した他の者たちも同様であった(青木艦長はインド洋作戦後に着任したので、赤城被弾の経験はない)。

 あの時は、水平爆撃を仕掛けてきた敵陸上機の爆弾が運悪く命中したという印象を皆が抱いているが、今回は違う。水平爆撃などよりも遙かに命中率の高い急降下爆撃である。

 基準排水量三万六五〇〇トンの赤城の船体が、ゆっくりと右に振られ始める。だが、誰もがその動きを遅いと感じていた。

 最初の衝撃が訪れたのは、その刹那であった。

 艦橋からもよく見える前部甲板に、爆炎が生じた。艦橋の防弾ガラスが、爆風で粉々に飛び散る。

 引き起こしをかけて離脱していく米軍機の星印が、妙に艦橋にいる者たちの脳裏にこびりついていた。


「前部甲板に火災発生!」


「消火、急げ!」


 だがその直後、後部甲板にも爆弾が命中した。再びの衝撃が、赤城を襲う。

 米軍の投下した一〇〇〇ポンド爆弾は、〇・三秒の遅延信管が付けられており、二発とも艦内に飛び込んでから炸裂していた。

 特に前部に命中した爆弾による火災は、前部航空燃料庫に引火して猛烈な勢いで燃え出した。消火に駆け付けようとした赤城運用長が、咄嗟の判断で周囲の隔壁を完全に閉鎖し、それ以上の延焼を食い止めようとする。

 一方、後部に命中した爆弾は、弾片によって周囲の機銃座にいた乗員を切り刻んでいた。首や手足のない機銃員の死体、あるいは弾片に体を貫かれて機銃にもたれ掛かったまま息絶えた乗員が、機銃座を埋めていた。

 さらに命中しなかった爆弾が赤城の周囲に水柱を噴き上げ、彼女の姿を他艦から覆い隠していく。

 前部甲板から濛々と黒煙を噴き上げる赤城が助かるのかどうか、まだ誰にも判らなかった。






 爆撃を受けたのは、赤城だけではなかった。

 ベスト大尉が際どい判断で目標を変更したため、加賀もまた爆撃を受けることとなったのである。

 先ほど最初の急降下爆撃を受けた加賀見張り員は上空にも注意を払っていたため、赤城よりもマクラスキー隊の急降下に備える時間はあった。

 岡田艦長は再び取り舵転舵を命じ、加賀の巨体が傾斜していく。

 来襲してきた敵急降下爆撃機は四機だけ。今度も何とか避けられるだろう。

 だが、そんな乗員たちの思いを嘲笑うかのように、飛行甲板前縁に閃光が迸った。加賀の船体に、つんのめるような衝撃が走る。

 舷側に立った水柱が、硝煙混じりの海水を加賀の甲板に叩き付けていく。


「被害知らせ!」


 加賀は操舵員に与えられた命令通りに、右に傾斜を深めつつ左舷へと旋回を続けていた。


「前部にて小規模な火災発生! 前部エレベーター、使用不能!」


 それは、艦橋からも見て取れた。

 加賀の前部エレベーターが爆風によって噴き上げられ、歪な形でめくれ上がっていたのである。これでは、飛行甲板は使えない。

 だが不幸中の幸いであるのは、命中がこの一発で済んだことであろう。






 一方、合衆国側にとっても最も劇的な攻撃となったのは、蒼龍に対するものであろう。

 ショート大尉率いるヨークタウン第五爆撃隊もまた、マクラスキー隊と同じく下方から零戦が突っ込んでくる中で急降下を開始していた。

 降下をかけようとするドーントレス隊と、上昇を続けつつそれを阻止しようとする零戦隊。

 零戦の二〇ミリ機銃とドーントレスの十二・七ミリ機銃が正面から交差する。

 この空戦で“恐れ知らずドーントレス”の名に相応しかったのは、あるいは零戦の方であったかもしれない。彼らの背後には、守るべき母艦が存在していたのだ。

 正面から撃ち合った結果、零戦とドーントレス双方が火を噴いて墜ちていく光景すら見られた。

 より壮絶であったのは、その身を以てドーントレスの降下針路を塞ごうとした零戦だろう。空中で二つの機体が激突し、火球となって消滅する。

 だが一方のドーントレス隊の中にも勇敢な者はいた。

 その中の一機、ジョン・J・パワーズ大尉の機体は、零戦からの銃撃を受けて後部偵察員が戦死。翼から炎を噴き出しながらも、なおも蒼龍目がけて急降下を続行したのである。

 パワーズ大尉は出撃前夜、部下たちに対して「ジャップがパールハーバーでやったことを忘れるな」と檄を飛ばして、さらにこう続けていた。「俺は敵空母に爆弾を直撃させることにしているが、俺はそれを明日やるつもりだ」、と。

 その言葉を、彼は忠実に実行した。

 炎上したまま、パワーズ機は高度三〇〇メートルで爆弾を投下したのである。最早、引き起こしは不可能な高度であった。

 彼の操るドーントレスは炎上したまま、蒼龍舷側の海面に激突した。

 パワーズ大尉が蒼龍への体当たりを考えていたのかは、誰にも判らない。だが、彼が命を賭して投下した爆弾は、確実に蒼龍の飛行甲板を捉え、そこで信管を作動させた。

 蒼龍の飛行甲板に、閃光が走る。

 さらに蒼龍にはもう一発の一〇〇〇ポンド爆弾も命中し、その飛行甲板は完全に破壊された。

 エンタープライズとヨークタウン、二隻の空母から飛び立った計四十八機のドーントレスは、それまでの味方の無念を晴らすかのように、三隻の日本空母を炎上させたのであった。

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