20 春暁の囀り
しなやかに降り立った、鴉の翼には濡れ羽色の艶がある。奈落へ心を塗り潰す
「私には、貴き妖である貴方が視えない。檻の中は、鴉が思っているよりも退屈なんだから。永き絵巻物語の
玉髄の勾玉のように幽玄で、蒼白い輪郭。
「私と桂花宮家を秋暁で繋ぐのは、『現人神』と呼ばれた女性だ。最初の生力由来術式『金の稲妻』を込めた刀にて戦った、彼女の名は『
冷静に見えた、鴉の声音が震えていた。秀眉を寄せ、己の拳を睨む黒曜石の瞳は金光に細まる。
「己穂の大切な存在を殺め……憎悪で『妖』に転じさせれば彼女の明星の魂が手に入ると、私は信じていたんだ。だが……銀の色彩の『
「貴方も、遺言を追っていたのね」
秋陽の遺言を生かすと決めた私と似ている。いつか鴉が帰りたいと語った秋暁に、私は救済すべき雛鳥の色を重ねていた。
「己穂のように、金の瞳で生力を操る力を持つ人間に会ったことはある? 」
刹那、黒曜石の瞳は見開かれ――水紋に星芒が巡るように
「そんな人間が居たのなら……愛されて、生きて欲しいが……私は希望と同時に、罪悪感を抱かずにはいられないだろうな」
苦く俯き自嘲した鴉は、まだ『千里』と出会っていないのだ。私は、
「巡り逢えたのならば……『金の稲妻の現人神』の己穂の生まれ変わりみたいね? 貴方が愛してあげればいいのに」
縁知らぬ鴉に、私は
「私には、その者を愛する資格など無い。……雛へ与えるような慈愛ですら」
「己穂が貴方に遺したのは、妖が人を愛するきっかけだけじゃない。人との関わり、その物だったんじゃない? 奇跡が舞い込んだなら、手放すべきでは無いわ。正直者は大成するんだから」
「もしも……己穂が自分を犠牲にして、誰かを救おうとしていたら、
「当たり前だ。その者が己穂のお人好しを継いでいたら……本当に有りそうで怖い。まるで、
鴉の瞳は細まる。【未来視】を持つ青ノ鬼が関わっていると、疑念を抱かれてしまっただろうか。
「【感情視】を持つ下賎な私も、占い師の端くれなのよ。私なりに、不安を解消したかっただけ」
「もしも、の話だろう? 」
「ええ」
薄情に微笑む私を、睨むのを止めた鴉がため息を
「酷く、生き写しだ……。私を恨んだ『雪』に」
かつて己が殺めた銀の色彩の少女の名を呟いた鴉は、秀眉を顰めた苦い驚愕を隠せない。黒曜石の絵皿が映す金と銀は、己穂と雪の『生まれ変わり』という御伽噺で繋がった。私が目配せすると、鴉は我に返り……闇へと消えゆく。私の幼猫以外にも声がする。
「ちっ、離せよ! 」
「にゃーにゃー騒ぐなや、チビ餓鬼。他の
「……マ……」
白銀の猫耳は萎れた。
「あ!? 檻に錠が掛かって無いじゃねぇか! 迷子も道理だな」
私は密かに翔星を恨む。客人が来る時くらい、檻に錠を掛けておくものだ。家族であろうと、私の建前は『桂花宮家に飼われる妖』なのだから。
「私の忠義を試す
放られた智太郎は、猫ひねりの四足着地にて都峨路を睨んだ。逆立つ尾を、鼻で嗤う彼には全く堪えてないようだが。
「子猫も逃がすんじゃねぇ。
「貴方は樹木医でもあるのね」
桂花宮家を毛嫌いして放浪しているくせに、彼岸桜の診察の理由一つで翔星の召喚に応じたのか。偏屈な花咲翁だ。
「彼岸桜も元気なもんで、唯の花見に終わったがな。羽衣石家の嬢ちゃんも来てるぞ。『
「
烏合の
「『秋陽様』のご威光を見た、尾白家の
秋陽の生み出した崇拝は、千里を今も守護してくれている。私は、ほんのりと胸を温める灯火を感じた。
「貴方は、心酔するような柄には見えないけれど」
ヤンキー座りした都峨路は、次の咥え煙草に火を付け始めた。柄は間違いなく悪い。
「そうなんだがな。見えぬ生力を術式で掌握しようとする者の一人としては、術式を介さずに生力を見て操れるってのは憧憬を覚えるのさ」
薄闇に、火花は付かずに散る。照らされる顏に【異能】への憧憬が含まれているのだとしたら、青ノ鬼が語った【異能】の血塗られた強奪は真実か否か。徒人を殺せない掟に従うはずの妖狩人の道に外れ、処罰を掻い潜って為せるものなのか。正治も翔星も、宮本家を断絶していない事実だけが残る。
「【異能】は、どうやって奪われるものなの」
率直過ぎる問いが零れ、自分でも眉を寄せた。流石の都峨路も瞠目し……呵呵大笑した!
「面白ぇ事を聞く女だな! 弐混神社の奴らとの因縁を聞いたのか。簡単さ……【異能】を持つ奴の心臓を喰うんだ。受容する人間が、僅かでも妖の血を引いていなければ意味は無いがな。まさに、人の所業じゃないだろ? ……
暗い嘲笑にて、睦言は紡がれた。『首謀者』との関連を探れる好機に、私は惑う。
鈍色の眼閃へと誘われれば……【踏み
「いいえ、やめておくわ。余計な火の粉は浴びたくないの」
「懸命な判断だ。長生きするぜ」
「生憎、
「これは失敬! 精々、濃い人生を謳歌しろよなっ……!? 」
呵う都峨路の煙草は、可憐な手によって奪われる。いつの間にか地下へ降りて来ていた、那桜に安堵した。肩上で真っ直ぐに切り揃えた薄茶の髪は、さらさらと靡く。やや垂れ目の
「一日何本吸う気なんですか、都峨路さん! いい加減怒りますよ!? 」
「もう怒ってるじゃねぇか……嬢ちゃんの旦那との縁に免じて、許してくれや」
「
それが、那桜が嫁いだ羽衣石家の当主の名か。宮本家が羽衣石家と協定を結んだ理由も、彼にあるのだろう。
「いいんだよ……俺はこの中で一番早死するんだから」
「やめて下さい、縁起でもない! 」
「へいへい。煙草の箱ごと捨てられない内に、行くわ。またな、チビ餓鬼」
「二度と会いたくねぇ」
わしゃわしゃと頭を撫でられた智太郎は威嚇を返すのに、都峨路は人懐っこい笑みを去り際に深めていく。
「やっぱ、うちの
カランコロンと高下駄を鳴らし、都峨路は吼えた! ドカッと地上への扉を蹴っ飛ばしたのには、思わず親子で猫耳を伏せてしまったが。
「全く、もう……悪い人じゃないんだけどね。
那桜は、ため息を吐く。
「優等生にしては、意外な人付き合いね」
「私って……咲雪からは、まだそう見えてたんだ」
苦笑する那桜は、千里を伴わずに子守りをしていない。彼女にしては珍しく、犬猿の仲の私の前なのに少々浮かれているように見えた。白頬を仄かに染めた、穏やかな微笑みに変わったから。
「実は、暫くお
己の胎に触れた那桜に、驚く。愚直な彼女が羽衣石家に嫁いだのは、妖と妖狩人の世へ踏み入った秋陽を追いかけて守りたいが故に、『術式』という力を手に入れる為だったはず。
「情が無い契約婚なのかと、勘違いしていたわ」
「私も、初めはそのつもりだった。でも結局、お綺麗な無情なんて保てないものね。少女時代の焦燥が嘘みたい。咲雪が桂花宮家の妖になった頃……秋陽の関心は、貴方にしか向けられてなくて。私が踏み入れられ無かった、
那桜の恐れは正しかった。私を追いかけた秋陽は、
「秋陽から伝い聞きした、妖狩人の誰かを籠絡してしまえば、秋陽と同じ場所に立てるかもしれないなんて、酷く甘い事を考えてた。
その男が、
「縁側に腰掛けて世間話を穏やかに交わす内に、
「だから、都峨路は恩人なのね」
「都峨路さんに助けられてるのは、
唇の端に綻ぶ恥じらいに、私は紡がれる想い出を予想した。
「羽衣石家の内情を知った私が、お堅い顔で『一目惚れ』だなんて吐いた嘘は、賢斗にはバレバレだったけどね。一瞬、頬を染めて挙動不審に陥っていたけれど。『偽りだとしても……病を患う私なんかを選んだら、若い君の可能性を無下にしてしまう』って。『だけど本当の夫婦になれば、私は君に縋るんだろう』なんて、澄んだ眼差しで冷静に言われて……私の方が参っちゃった。変に悟ってて、純朴過ぎるのよね……賢斗は。宮本家の人達が訪れてくれていても、独りは寂しかったのかもしれないけれど」
那桜が伏せた睫毛は、硬質な艶を瞬く。
「賢斗は、『滅びの蝶』を囲う繊細な紙繭の籠はもう編めない。けれど『蝶の群れ』には『餌の妖』が必要だし、女王蜂同様の司令塔の役割を果たす『女王蝶』には『術者の血』が必要。『滅びの蝶』の本体は、生力を喰らう『女王蝶』で、妖力を喰らう『群れ』は『女王蝶』の分身にしか過ぎないから。今の私は『女王蝶』に同調出来る、唯一の『
那桜は、凛と顔を上げた。聖なる燐光を弾く瞳へと、私は吸い込まれるように【
そこは、波紋跡を描く枯山水の上で展開した、紙繭の中だった。青白磁の蝶達が淡く発光すれば、透かし彫りの雪洞のよう。『女王蝶』の譲渡の契りを交わす為に、向かい合う二人は掌に刃を滑らす。揃いの
私は【感情視】に伴う想い出から、
「あ!? 今視てたでしょ!」
「視てない」
「ほんっと、嘘つきなんだから…… 」
頬を膨らます那桜に、私は思わず微笑む。彼女に悪戯をするのは、案外心地よいのだ。
「那桜は、秋陽の願いが『家族が幸せに生きる事』だと私に伝えてくれたけれど……秋陽は、貴方の幸せだって望んでいたはずよ」
「咲雪に、そんな事言われる日が来るなんてね。悪くないけど。今は満たされているの……
皮肉に言い放った那桜は、もう行くのだろう。迷子から戻った幼猫の少年を、慈愛が綻ぶ微笑みで振り返って。
「産まれたら、省吾と仲良くしてあげてね。智太郎」
「……考えとく」
戸惑う智太郎は、私の背と幼い自分の蓑に隠れる事にしたらしい。私へ別れも告げずに、艶々と瞳を輝かせた那桜が地上への階段を駆け上がれば、桜の木の下で車椅子の男が待っていた。優しい笑みを交わす『羽衣石家夫婦』は、花見をする為に訪れていたのか。『花咲翁』が咲かした薄紅色の彼岸桜は、まだ散っていない。
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