20 春暁の囀り


 しなやかに降り立った、鴉の翼には濡れ羽色の艶がある。奈落へ心を塗り潰すくろとも、藍を帯びた水墨画のような檳榔子黒びんろうじくろとも違う。永き黒曜石の絵皿は、極彩色を乗せてきたのだろう。紫烏色しうしょくに、翠色すいしょくに、瑠璃色るりいろ。私が己の唇にくすぐる一枚の漆黒の羽だけでは、古き金と銀をなぞられない。


「私には、貴き妖である貴方が視えない。檻の中は、鴉が思っているよりも退屈なんだから。永き絵巻物語の感情いろを語ってよ。貴方の『過去』は『未来』に繋ぐ為にある」


 玉髄の勾玉のように幽玄で、蒼白い輪郭。神威しんい纏う横顔のくせに、鴉は父親ヅラをしたがるのだ。私は我儘に、耳元に飾った金銀ギルバーの雪華の髪留めを羽先で弄ぶ。『家族』である千里と智太郎の感情いろは、艷めく睫毛を伏せた鴉に繋がっているはずだ。千里の『願い』に、鴉が答える感情いろを手繰り寄せねば。

 

「私と桂花宮家を秋暁で繋ぐのは、『現人神』と呼ばれた女性だ。最初の生力由来術式『金の稲妻』を込めた刀にて戦った、彼女の名は『己穂いづほ』。金の色彩を髪と瞳にて放つ彼女は、私と同じ原初の妖に化せる『生力を操る力』を持ちながら、『人』を守る事を選んでしまった……」


 冷静に見えた、鴉の声音が震えていた。秀眉を寄せ、己の拳を睨む黒曜石の瞳は金光に細まる。

 

「己穂の大切な存在を殺め……憎悪で『妖』に転じさせれば彼女の明星の魂が手に入ると、私は信じていたんだ。だが……銀の色彩の『ゆき』という半妖の少女を殺めても、鼓動に刺さるのは後悔ばかり。人と妖の戦渦に成り果てた私と己穂は、秋暁と金木犀の下で『妖と人の対立を終わらせる』と最期に約束をした。弱き人を妖と対等の存在にする為に、『現人神』である亡き己穂の姿を借り受けた私は『初代当主』として妖狩人達の総本山『桂花宮家』を創設した。そして……『血肉を奪わなくても、愛する人からならば妖が生力を得られる』ように妖を改変した己穂のような『人と原初の妖との狭間に有れる存在』を、私は今も探している。原初の妖ごと、妖と人の運命さだめを変える為に」


「貴方も、遺言を追っていたのね」


 秋陽の遺言を生かすと決めた私と似ている。いつか鴉が帰りたいと語った秋暁に、私は救済すべき雛鳥の色を重ねていた。小猫わたしの前で、千里の潤んだ瞳が変幻する前……人である本来は淡い黄色ライムライト楔石スフェーンのような金色だったはず。


「己穂のように、金の瞳で生力を操る力を持つ人間に会ったことはある? 」


 刹那、黒曜石の瞳は見開かれ――水紋に星芒が巡るように澄浄ちょうじょうになる。威厳の籠から垣間見た鴉は、恋情みがたい青年のように見えた。


「そんな人間が居たのなら……愛されて、生きて欲しいが……私は希望と同時に、罪悪感を抱かずにはいられないだろうな」


 苦く俯き自嘲した鴉は、まだ『千里』と出会っていないのだ。私は、の青ノ鬼がの千里を『己の創造主』と呼んだ矛盾を思い出す。千里と鴉には『前世からの因縁』があると青ノ鬼が語った通り、古き時代に千里が生きていた事があったとすれば矛盾は解消される。つまりそれは――

 

「巡り逢えたのならば……『金の稲妻の現人神』の己穂の生まれ変わりみたいね? 貴方が愛してあげればいいのに」


 縁知らぬ鴉に、私は北叟ほくそむ。千里を守る為に、瞳孔惑わす鴉に千里を『己穂の生まれ変わり』だと信じさせ……私の味方にするのだ。


「私には、その者を愛する資格など無い。……雛へ与えるような慈愛ですら」 


「己穂が貴方に遺したのは、妖が人を愛するきっかけだけじゃない。人との関わり、その物だったんじゃない? 奇跡が舞い込んだなら、手放すべきでは無いわ。正直者は大成するんだから」


 嘘つきわたしと違ってね。智太郎こねこおやねこ……私はどちらを応援しているのだろうか、と可笑しな自問が掠めた。

 

「もしも……己穂が自分を犠牲にして、誰かを救おうとしていたら、鴉は止めてくれる? 」


「当たり前だ。その者が己穂のお人好しを継いでいたら……本当に有りそうで怖い。まるで、ように問うのだな」


 鴉の瞳は細まる。【未来視】を持つ青ノ鬼が関わっていると、疑念を抱かれてしまっただろうか。


「【感情視】を持つ下賎な私も、占い師の端くれなのよ。私なりに、不安を解消したかっただけ」

 

「もしも、の話だろう? 」


「ええ」


 薄情に微笑む私を、睨むのを止めた鴉がため息をいた時……地上に通じる扉が軋んだ。漆黒の翼を翻す寸前、鴉は一人の少年の姿を見開かれた眼に映す。


「酷く、生き写しだ……。私を恨んだ『雪』に」

 

 かつて己が殺めた銀の色彩の少女の名を呟いた鴉は、秀眉を顰めた苦い驚愕を隠せない。黒曜石の絵皿が映す金と銀は、己穂と雪の『生まれ変わり』という御伽噺で繋がった。私が目配せすると、鴉は我に返り……闇へと消えゆく。私の幼猫以外にも声がする。

  

「ちっ、離せよ! 」


「にゃーにゃー騒ぐなや、チビ餓鬼。他の妖狩人やつらに見つかる前に、人が親切にママん元に連れてきてやったのに」 


「……マ……」 


 白銀の猫耳は萎れた。四十路よそじの男に、首根っこを掴まれたまま智太郎は絶句する。肩に触れる赤胴色のうねり髪をむしゃくしゃに掻き上げ、咥え煙草の白煙と共に地下牢へと降りてくるのは、宮本みやもと 都峨路つがろではないか。褐色肌の顔立ちは、やや頬骨が尖り、力強い輪郭だ。険しい落窪み目の中、鈍色の瞳の色素の薄さが眼光を強めた。桜紋の長羽織を肩に引っ掛け、黒鳶色の会津木綿の着物をベルトで裾絡げし、ダメージさせた黒ジーパンと一本歯の高下駄を履いている。浮浪する極道者のように錯覚した。

 

「あ!? 檻に錠が掛かって無いじゃねぇか! 迷子も道理だな」


 私は密かに翔星を恨む。客人が来る時くらい、檻に錠を掛けておくものだ。家族であろうと、私の建前は『桂花宮家に飼われる妖』なのだから。


「私の忠義を試すあるじの気紛れだから、気にしなくていいわ。烏合の『宮本家』当主は、案外親切なのね。その子の母親 兼 同じ愛煙家として、礼を言わせて」


 放られた智太郎は、猫ひねりの四足着地にて都峨路を睨んだ。逆立つ尾を、鼻で嗤う彼には全く堪えてないようだが。

 

「子猫も逃がすんじゃねぇ。桂花宮家ここは、金木犀の守護が強すぎんだよ。咥え煙草でもしなきゃ、落ち着かねぇ。宮本家おれたちが献上した彼岸桜を手入れする為でなけりゃ……近付きたくもないさ」


「貴方は樹木医でもあるのね」


 桂花宮家を毛嫌いして放浪しているくせに、彼岸桜の診察の理由一つで翔星の召喚に応じたのか。偏屈な花咲翁だ。

 

「彼岸桜も元気なもんで、唯の花見に終わったがな。羽衣石家の嬢ちゃんも来てるぞ。『秋陽様あきひさま』とあんたと嬢ちゃんは、『御学友』だったんだろ? 」 


那桜なおとは、だけどね。生力由来術式家門は、秋陽の事をそんな風に呼んでいたの? 」


 烏合のかしらと言えど、宮本家は元々生力由来術式家門だったはずだ。秋陽が正治に千里を殺されない為に、『生力を操る力』を癒しの力として、生力由来術式家門に見せ付けた事実は崇拝を生じさせた。秋陽亡き後も、彼らの崇拝は続いていたらしい。


「『秋陽様』のご威光を見た、尾白家の隆元おっさんが言い出しっぺだ。桂花宮家御息女の『千里様』も、『金花姫きんかひめ』だとか崇め始めてるぜ。……まぁ、気持ちは分からんでもないが」


 秋陽の生み出した崇拝は、千里を今も守護してくれている。私は、ほんのりと胸を温める灯火を感じた。


「貴方は、心酔するような柄には見えないけれど」


 ヤンキー座りした都峨路は、次の咥え煙草に火を付け始めた。柄は間違いなく悪い。


「そうなんだがな。見えぬ生力を術式で掌握しようとする者の一人としては、術式を介さずに生力を見て操れるってのは憧憬を覚えるのさ」 

 

 薄闇に、火花は付かずに散る。照らされる顏に【異能】への憧憬が含まれているのだとしたら、青ノ鬼が語った【異能】の血塗られた強奪は真実か否か。徒人を殺せない掟に従うはずの妖狩人の道に外れ、処罰を掻い潜って為せるものなのか。正治も翔星も、宮本家を断絶していない事実だけが残る。


「【異能】は、どうやって奪われるものなの」


 率直過ぎる問いが零れ、自分でも眉を寄せた。流石の都峨路も瞠目し……呵呵大笑した!

 

「面白ぇ事を聞く女だな! 弐混神社の奴らとの因縁を聞いたのか。簡単さ……【異能】を持つ奴の心臓を喰うんだ。受容する人間が、僅かでも妖の血を引いていなければ意味は無いがな。まさに、人の所業じゃないだろ? ……


 暗い嘲笑にて、睦言は紡がれた。『首謀者』との関連を探れる好機に、私は惑う。


 鈍色の眼閃へと誘われれば……【踏みにじられた、錆色の柊鰯ヒイラギイワシ】。


 朱殷しゅあんに乾いた障子の組子に、伝う鮮血が混ざり、どろりと溜まっていく。歪に嗤う人鬼がゆらゆらと、浴びた血をしとどに垂れ流す。千切れた血管を開閉し、拍動する心臓をこちらへ差し出した。ぼやけた灰が落ち、残火が燻る。乾いた口から、煙草を呆然と下ろした都峨路の――が鳩尾から同調し、胃を重く捻りかける。酸味を嚥下した私は睫毛を伏せ、視なかった振りを決め込んだ。

 

「いいえ、やめておくわ。余計な火の粉は浴びたくないの」 


「懸命な判断だ。長生きするぜ」

 

「生憎、半妖わたしは短命だけどね」 


「これは失敬! 精々、濃い人生を謳歌しろよなっ……!? 」


 呵う都峨路の煙草は、可憐な手によって奪われる。いつの間にか地下へ降りて来ていた、那桜に安堵した。肩上で真っ直ぐに切り揃えた薄茶の髪は、さらさらと靡く。やや垂れ目のつぶらな瞳は黒艶で、淡藤色の柔い光を弾いた。鳥の子色の羽織に、乾鮭色のあわせ。白桜の花吹雪と流水紋が、上前うわまえを彩る。若葉色の重ね衿は、桜の葉と揃いだった。腰に手を当てたご立腹が可愛らしく見えるのは、彼女が都峨路に気を許しているせいか。


「一日何本吸う気なんですか、都峨路さん! いい加減怒りますよ!? 」


「もう怒ってるじゃねぇか……嬢ちゃんの旦那との縁に免じて、許してくれや」


賢斗けんとの恩人ならば尚の事、身体を気遣って下さい! 長生き出来ませんよ!? 」


 それが、那桜が嫁いだ羽衣石家の当主の名か。宮本家が羽衣石家と協定を結んだ理由も、彼にあるのだろう。


「いいんだよ……俺はこの中で一番早死するんだから」

 

「やめて下さい、縁起でもない! 」

   

「へいへい。煙草の箱ごと捨てられない内に、行くわ。またな、チビ餓鬼」 


「二度と会いたくねぇ」 


 わしゃわしゃと頭を撫でられた智太郎は威嚇を返すのに、都峨路は人懐っこい笑みを去り際に深めていく。燦々さんさん天日てんじつを浴びた、悪餓鬼のようだな。


「やっぱ、うちののちっさい頃みてぇにツンツンしてんなぁ! 生きが良い奴は好きだぜ!」


 カランコロンと高下駄を鳴らし、都峨路は吼えた! ドカッと地上への扉を蹴っ飛ばしたのには、思わず親子で猫耳を伏せてしまったが。 


「全く、もう……悪い人じゃないんだけどね。雅量がりょうがあって、面倒見も良いし。近所のちょい不良ワルなおじさんみたいだよ。どんなにスレたでも拾ってきちゃうって、配下のが嘆いてたけど」


 那桜は、ため息を吐く。とは、雅量を慕う配下の者の事だったのか。宮本 都峨路が、烏合の衆のかしらである事に改めて納得した。

 

「優等生にしては、意外な人付き合いね」


「私って……咲雪からは、まだそう見えてたんだ」


 苦笑する那桜は、千里を伴わずに子守りをしていない。彼女にしては珍しく、犬猿の仲の私の前なのに少々浮かれているように見えた。白頬を仄かに染めた、穏やかな微笑みに変わったから。


「実は、暫くおいとまを頂く事にしたの。千里は寂しがるだろうけれど……仕方ないよね」 

  

 己の胎に触れた那桜に、驚く。愚直な彼女が羽衣石家に嫁いだのは、妖と妖狩人の世へ踏み入った秋陽を追いかけて守りたいが故に、『術式』という力を手に入れる為だったはず。

 

「情が無い契約婚なのかと、勘違いしていたわ」


「私も、初めはそのつもりだった。でも結局、お綺麗な無情なんて保てないものね。少女時代の焦燥が嘘みたい。咲雪が桂花宮家の妖になった頃……秋陽の関心は、貴方にしか向けられてなくて。私が踏み入れられ無かった、桂花宮家ここが酷く憎かったわ。秘された妖しき貴方が、秋陽を返さなくなるんじゃないかって……」


 那桜の恐れは正しかった。私を追いかけた秋陽は、のだから。但し、それを成したのは私ではなく、あの翔星おとこだが……。那桜は小さく自嘲した。


「秋陽から伝い聞きした、妖狩人の誰かを籠絡してしまえば、秋陽と同じ場所に立てるかもしれないなんて、酷く甘い事を考えてた。御空みそら色のセーラー服を着たまま、徒人が行ける領地の縁まで、焦燥の中歩んでいたの。だから、菜の花畑に建つ水車小屋の前に辿り着いたのは、偶然では無かったのだけれど。泥濘に車輪が嵌ってしまった、を助けたのは奇跡みたいだった」 

 

 その男が、羽衣石 賢斗ういし けんとなのだろう。語る声音は、澄んだ囀りのように高くなる。


「縁側に腰掛けて世間話を穏やかに交わす内に、水縹みずはなだ色の立襟に白羽織を纏った『三十路の彼』が羽衣石家の当主だって気づいたわ。当時から羽衣石家は、緩やかに筋肉が衰えていく病を患った彼一人。『滅びの蝶』だけでは無く、広い領地の管理にすら苦労してたみたい。他の擬似妖力術式家門からは、『滅びゆく異端』と疎まれるばかり。だけど、都峨路さん率いる『宮本家』は烏合。分家同様の協力関係を結び、継承者が現れない場合には『滅びの蝶』を宮本家へ譲渡するという契約を交わしたの。はね。実際は、人懐っこい都峨路さんが賢斗を案じて、宮本家の若人わこうど達に世話を焼かせる為だったんだけど。元ヤンみたいな彼らが畑仕事までしてくれてるの、笑っちゃうよね」

 

「だから、都峨路は恩人なのね」


「都峨路さんに助けられてるのは、羽衣石家うちだけじゃないんだよ。弱小家門は、宮本家と分家同様の関係を結んでるの。妖狩人家門全体の、三分の一は下らないんじゃないかな」 


 唇の端に綻ぶ恥じらいに、私は紡がれる想い出を予想した。

 

「羽衣石家の内情を知った私が、お堅い顔で『一目惚れ』だなんて吐いた嘘は、賢斗にはバレバレだったけどね。一瞬、頬を染めて挙動不審に陥っていたけれど。『偽りだとしても……病を患う私なんかを選んだら、若い君の可能性を無下にしてしまう』って。『だけど本当の夫婦になれば、私は君に縋るんだろう』なんて、澄んだ眼差しで冷静に言われて……私の方が参っちゃった。変に悟ってて、純朴過ぎるのよね……賢斗は。宮本家の人達が訪れてくれていても、独りは寂しかったのかもしれないけれど」


 那桜が伏せた睫毛は、硬質な艶を瞬く。

 

「賢斗は、『滅びの蝶』を囲う繊細な紙繭の籠はもう編めない。けれど『蝶の群れ』には『餌の妖』が必要だし、女王蜂同様の司令塔の役割を果たす『女王蝶』には『術者の血』が必要。『滅びの蝶』の本体は、生力を喰らう『女王蝶』で、妖力を喰らう『群れ』は『女王蝶』の分身にしか過ぎないから。今の私は『女王蝶』に同調出来る、唯一の『メツ』の術士なの。省吾しょうごの母として、『滅』の術式は途絶えさせない」

 

 那桜は、凛と顔を上げた。聖なる燐光を弾く瞳へと、私は吸い込まれるように【催花雨さいかうを乞う、勿忘草色の水心鏡】を視た。


 そこは、波紋跡を描く枯山水の上で展開した、紙繭の中だった。青白磁の蝶達が淡く発光すれば、透かし彫りの雪洞のよう。『女王蝶』の譲渡の契りを交わす為に、向かい合う二人は掌に刃を滑らす。揃いの羅袖らしゅうが、羽化したての薄翅を真似る。庭石に座る彼へと、那桜は跪いた。瞼を無機質に閉ざし、血に濡れた指を絡めた二人は、『女王蝶』の止まり木になる。渦を巻く口吻こうふんが、新たな味を覚えていく……。柔く這われるおぞましさに不安を覚えた那桜が瞼を開けば、賢斗は花笑んだ。耳下まで緩く流れる茶鼠ちゃねず色の髪が、穏やかで品のある顔立ちに添う。青雪のような反射光にて和らいだ、子犬に似た柳葉眼に那桜を映す。微笑みを返した那桜は、縋るように額を合わせた。いつか遺されるとしても、だ。


 私は【感情視】に伴う想い出から、うつつに返る。ふぅん……成程。狼狽する眼前の那桜が籠絡されたのは、このような男だったのか。


「あ!? 今視てたでしょ!」


「視てない」


「ほんっと、嘘つきなんだから…… 」


 頬を膨らます那桜に、私は思わず微笑む。彼女に悪戯をするのは、案外心地よいのだ。

 

「那桜は、秋陽の願いが『家族が幸せに生きる事』だと私に伝えてくれたけれど……秋陽は、貴方の幸せだって望んでいたはずよ」


「咲雪に、そんな事言われる日が来るなんてね。悪くないけど。今は満たされているの……も守れて。咲雪には、盗れないでしょうね」


 皮肉に言い放った那桜は、もう行くのだろう。迷子から戻った幼猫の少年を、慈愛が綻ぶ微笑みで振り返って。 

 

「産まれたら、省吾と仲良くしてあげてね。智太郎」 


「……考えとく」 


 戸惑う智太郎は、私の背と幼い自分の蓑に隠れる事にしたらしい。私へ別れも告げずに、艶々と瞳を輝かせた那桜が地上への階段を駆け上がれば、桜の木の下で車椅子の男が待っていた。優しい笑みを交わす『羽衣石家夫婦』は、花見をする為に訪れていたのか。『花咲翁』が咲かした薄紅色の彼岸桜は、まだ散っていない。



 

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