13 青蛍の小さな息吹


 久しぶりに演じた『人』は、少々難儀だった。『蛍雪けいせつ中学校』時代よりも、すれ違う人々には親切と無関心が混ざりあっている。黄昏に降りる乗客をバスの窓から見つめる頃に、私はようやく座れる事が出来た。妊婦わたしに気づき席を譲ろうとしてくれたお婆さんが、ウトウトと船を漕いでいる。そっと、肩に触れれば……礼を告げ、彼女は降りていった。


 秋陽の仮寓となる、『竜口家 別邸』は近いはず。窓硝子を境に、夜の海へと花緑青はなろくしょう猫目まなこ閃くわたしは、最後の乗客になる。海が、燐光で応えた。紫外線探傷灯ブラックライトを浴びた石油入り水晶オイルインクォーツのように、くらさへ青く浮かび上がる幻想を疑う。月明げつめいの無い春濤しゅんとうには、青い蛍が泳ぐのか。


 潮風に黒紅色の髪を靡かせて降りれば、さざめく海辺には蛍烏賊ホタルイカの身投げ。光る小石の道とは違い、足元の天の河は鯁骨こうこつと瞬き動く。引き波を辿れば、横たう彼らはまだ生きていた。夜目が利くわたしは、青く光る触腕を動かす彼らの藻掻きの中……海辺に立つ彼女が同じ妊婦だと直ぐに気づいた。但し、秋陽あきひでは無い。胎の膨らみを見るに、私より先輩らしい。黒髪靡かせる彼女のに気が付けば、潮風に晒される肌が粟立つ。


 

「ふぅん……可哀想に。お前は、晨星落落しんせいらくらく。明け方の空から、己の星達を失うのか。だが……散華の結実が齎す甜香てんこうに、最後の明星は在る」


 

 闇夜に浮かぶ青の一つ……青玉サファイアの蛍は、海から生まれたモノでは無いと確信した。それは、私を捉えた彼女のだったから。

 

「なんだ? 中学生時代から【感情視】で、下賎な占い師の真似事をしてきたくせに……は怖いのか? 」


 秋陽と私しか知らないはずの記憶に、息を呑む。冴の中の『人魚』のように……得体が知れない『混沌』の存在は私を嘲笑う。

  

「貴方は本物の占い師だというの……」


「まぁ、似たような者だ。僕は、過去・未来・現在を縦横無尽に駆け回る! 戯言を信じるか信じないかは、お前次第だがな」

  

 確かに高くとも男のような声音だが、妊婦のくせに奇妙な事を言う。だが、彼女かれが【異能】を扱う妖ならば……私は戯言を聞き流せない。


「貴方が本物だと言うなら、教えてよ。どうすれば、私の星達は瞬き続けるの? 」


 理知的な獣は、青玉サファイアの左眼で軌跡を引く。潮風よりも冷たい囁きが、私の蝸牛かぎゅうを凍らせる。奈落に渦巻く、凶器の風鳴りへと。


「僕が良いお告げをしに来たとでも思っているなら、間違いだ。……お前が爪痕を遺すべき明星は、一つだけなんだから」 


 凍えた耳を抑えれば、彼女かれは牙を垣間見せて嗤う。体温で蘇った耳を離すと、私は問うべき声を刹那へ失っていた。戯言は、人を呪える。連れの男が呼ぶ声に、私を呪ったはずの彼女かれは臆病に肩をビクつかせた。


「いいか……は、アイツにも『この女』にも言うんじゃないぞ! 境内以外で顕現すると、シバキ倒されるからな! 」


 気迫る表情で、ズイっと人差し指を差し向けられ、茫洋と頷く。境内……? か、何かか。随分キャラが立った妊婦が瞬けば、視線が絡む。初めて会ったかのように会釈する彼女に困惑していると、長い髪を束ねた連れの男が追い付いた。


「どうした、玲香れいか? 」


「何でもないわ、雨有うゆう。気分転換に散歩も良いものね……綾人あやとが産まれたら、も暫く動けなくなるし」

  

 歩む彼らは、普通の夫婦にしか見えない。青蛍瞬く海辺に俯き、私が独りになる頃には……潮風の冷たさに耐え切れなくなっていた。


「……咲雪? どうして、ここに」

 

 望んだ優しい声がした。温かさを冀求ききゅうし、私は顔を上げる! 潮風に悪戯される鶯色の長髪を耳に掛けた秋陽は、杏眼を純朴に丸くした。悪い戯言を風船のように手放し、甘えたくなる自分が子供みたいな気がする。


「この海辺を辿って、秋陽に会いに仮寓へ向かう所だったの。檻の中で『白魔ノ猫』を演じてくれている人のおかげで、ここに居る私はただの『人』でれる」


 黒檀色の杏眼は星彩せいさいに瞬き、細められた。秋陽の優しいため息は、私にも安堵を与えてくれる。


「良かった、咲雪は幻想なんかじゃないんだね。仮寓から海辺を見下ろしたら、似た人が居た気がして……私は『偶然』を願いたくなったの。渉さんも、すぐに来ると思う。……翔星さんは、まだ帰ってきてないけれど」 


「そう……」 


 どう答えるべきか逡巡している内に、悪戯に笑みを綻ばせた秋陽は私の手を繋ぐ。柔い温もりに戦慄すれば、宝石箱をひっくり返したように青は跳ね光る。歩む彼女の足は、蛍火ルシフェリンの群れに呑まれたりなんてしなかった。

 

「海が天の河みたいで、凄く綺麗だったから驚いちゃった。妖の魔法かと思ったけど、違うの?」


「お馬鹿さんね、これは産卵を終えた蛍烏賊ホタルイカの身投げ。妖で魔法が使えるのは、絵本の中の『双子の魔法使い』だけ」


「咲雪は、芽衣おかあさんの絵本の中の『シンデレラ』だったんだよね。空色のワンピースに、似合ってるよ」

 

「秋陽も白色のワンピースに、真紅のリボンとが可愛い。私、『お揃い』を大切にしてくれた秋陽の温かさに救われてきたんだと思う」

 

 秋陽は苦笑した。高尚な『親友じぶん』を否定するように。

  

「咲雪に憧れていた私は、孤独から自分勝手に救われたかったの。咲雪と会えないかもって思ったら、が酷く痛い気がして……『古傷が痛む』って、やつかも。寒かったからかな」

 

 白魔の硝子の煌めきが、脳裏へ降り注ぐ! 明滅する記憶から守る為に、私は瞠目する秋陽を抱き寄せていた! 早鐘が痛い。かつて血溜まりへ倒れた秋陽の姿に、今も怯えているのは秋陽自身よりも私の方だったのか。情けなく、秋陽の背を確かめた手が震えていた。

  

「『親友』になったのが別な誰かだったら……秋陽は傷つかずに済んだ。わたしのせいで、秋陽は平穏な『人』として生きていけなくなってしまった」


「別な誰かなんて、考えるだけでおぞましいよ。そんなの私じゃないし、咲雪が居なければ私もここに居ない。咲雪が言ってくれたように、生きて『この子』を導く事も出来なくなっちゃう。……私の身体の傷は、宝石の疵と違ってが居るから、価値があるんだよ。おなかの真皮が裂け始めた、妊娠線もね」


 秋陽は安心するように息を零したのに、私の背に縋る両手は力が籠っていた。待ち人を、焦がれるように。新月の夜でも、陽の香りは消えない。鼓動リズムは、親しんだ体温を私達へ広げる。

  

「咲雪はさ……私と、ずっと一緒に居る為に来てくれたの? 」


 迷いなく頷こうとして……青蛍の天の河の中で、私は魔法が解ける時間を知る。鴉が演じられるのは、私の見た目だけ。中身こころまでは演じられない以上、いつか綻びが生じる。『檻の中の私』の子が、産まれないのも不自然だ。私が居なくなれば、正治は私を狙っていた冴達への疑念を得る。秋陽の仮寓への手懸かりを見つけてしまうかもしれない。衝動のままに秋陽の期待へ応えれば、『占い師の戯言』が現実に近づくのだ。


「私は……秋陽と約束をしに来たの。離ればなれになっちゃうけど、それは少しの間だけ。正治の殺意を解いてみせるから……私達の子が産まれた頃に、また会いましょう」


 秋陽と二度と会えないなんて、私には耐えられない。なら可能性が低くても、白金の船を覆す激浪になるだけだ。


「私と一緒に、桂花宮家から逃げてはくれないんだね」


「共に逃げたら、堂々巡りになる。いつか居場所が知られてしまう恐怖に追いかけられるくらいなら、立ち向かいたい。私にも秋陽を守らせて欲しいの」


 秋陽の吐息は、私達の沈黙を丁寧に解いていく。


「……分かった。一時だけじゃなくて、咲雪とずっと一緒に居たいから……待ってる。今度は那桜なおも一緒に、会いたいな。あの子は意地っ張りだけど、本当は寂しがり屋なの。でも産まれるまでは、咲雪との約束を果たせないんだね」


「悲しむ必要なんて無い。次に会う時には、私達の家族は二人も増えるんだから」

 

「そだね。産むのは怖いけど……凄く楽しみだよ。『この子』を抱けるのが。……女の子なんだって。竜口家の人が連れて行ってくれた、産婦人科の先生が言ってた。翔星かいせいさんは、まだ知らないの」


「なら、私達の『雪華の髪留め』をいつか付けてあげられるわね。私の子はまだ分からないけど……わたるみたいに強い子な気がする。お腹を蹴る力が強いから」

 

 自然に笑みを交わした私達が、包容を解く頃に……わたると共に、秋陽の待ち人は海辺を駆けて来た。


「秋陽、無事か! 」


「翔星さん……」


 寂寞に耐えていた秋陽は、惑う杏眼まなこが潤んでいく。踏み出せない彼女に苦笑した私は……そっと、秋陽の背を押した。鼓動を邪魔する棘など、無視しなければ。小さく涙を伝わせた秋陽を抱き留めても、焦燥を隠せない翔星に北叟ほくそんでしまう。

  

誘拐ほご秋陽を、迎えに来るのが遅いじゃない。せっかく、お膳立てしてあげたのに」 


「咲雪、お前……本当に竜口 冴と取引したんだな。一体、どうやってあの女を掌握したんだ」


「方法なんて、どうだっていいでしょ。誰かさんが秋陽を泣かせるから、私は冴を介して仕返ししただけ。になれた貴方に、私は感謝されてもいいくらいだけど」


 私を睨む翔星を嘲笑っても、取引の内容を教える事は出来ない。冴に掌握されているのは、微笑を解いた私の方なのだ……。


「翔星……貴方が、桂花宮家よりも、妖狩人の信条よりも、正治ちちおやよりも……秋陽とその子を選ぶのなら、私に誓って。必ず守り通すと」


 強まる鷹眼の鋭光を、私は初めて素直に見つめることが出来た。私と同じ海辺に立ち、青蛍の導きを映していたから。


「あぁ、誓おう。今まで、『人』の生存を選ぶ妖狩人の信条に疑問を持ったことは無かったが……俺は正治ちちうえの選択が正しいと思えなくなった。妖狩人おれたちが自らの手を汚してきたのは、『大切な人』を守る為だ。秋陽と子の中の『妖』諸共、守るべき『大切な人』を殺すなど間違っている」 


「私は私の方法で、秋陽を守る。翔星の事は好きじゃないけど……貴方への信頼は嘘じゃないの。決して、私を裏切らないで」


を裏切りはしない。会う度に尾が逆立ってた頃とは大違いだな。……俺は、咲雪を嫌な奴だと思ったことは無い。お前は、『妖』の中の可能性を俺に教えてくれたからな」 


 私は瞠目してしまう。そんな私へ苦笑する翔星を慌てて睨み返したけれど、翔星との隔たりは既に壊されてしまった。青白い蛍火は鯁骨こうこつに瞬き、『仮寓』へと踵を返した秋陽達を見送り始める。


「またね、咲雪。会えないのは寂しいから……早く、お母さんになりたいな」


 はにかむ秋陽に手を振り返せば、二人は手を繋ぎ、私が憧れた絵本せかいの中の海辺を往く。恨む気すら無くなるほど、囁き合う彼らは天の河を綺麗に歩んでみせた。その姿は再会した彦星と織姫のようにも思えたし、『竜宮城』への帰路のようにも思えた。


 絵本の中のツガイは、いつも一対。帰る場所が彼らと違うのは『普通』なんだと自分に言い聞かせても、屋根を同じとする『私の家族の夢』とは違うと痛感した。 

  

「やっぱり最後に、『友情』は『恋情』に奪われてしまうのね」 

 

「もしそうだったなら、おれが秋陽さんを恨む事は無かっただろうな。俺を睨んだ秋陽さんが、咲雪の守護を託すことも無かった」


 傍に渉が居なければ、私はどうかしていただろうか。きっと、触れられない脆い現実に叫んで、壊せない別れの歯がゆさに消えてみたくなる。


「秋陽は私に綺麗な感情いろを見せてくれたけれど、欲深い秋陽だって可愛いの。嫉妬を忘れられなかった、私達三人は似たもの同士だったって言う事ね……。翔星だけが、真っ直ぐに私達を見つめていた」

 

「翔星は清濁併せ呑んでも、自分の信条を綺麗に追いかけられる奴なんだ。妖狩人になる血筋に生まれた運命さだめを、自分の意思だと断言できる強さが羨ましかった。咲雪は翔星のように、秋陽さんを一番近くで守りたかったんだろ」

 

「黙って。私は、あの男になりたかった訳じゃない」

 

「なら、どうして咲雪は泣きそうなんだ? 咲雪が望むなら、このまま檻から逃げたっていい。……俺に我儘を言ってくれないのか」


 鵲眼しゃくがんを伏せた渉には、私の嘘が通じない。私の代わりに、潤む瞳を隠した渉を慰めたくなる。私は小さくわらい、手を差し伸べた。 

 

「秋陽の為に檻から逃げた私が、それを望むと思う? 檻を望む理由だって、同じなのに」


 二人で手を繋いだ、月の無い夜。過ぎた海辺を振り返れば、誰も居ない。青蛍の星彩は少しずつ瞬きを眠らせていった。



 

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