二十二歳
09 柘榴は割れる
潤う柘榴がふくらみ熟せば、毒皮は割れる。
割れた柘榴の胎座は、手の内から滑り落ちる。粒を放して地へ弾け、濡らした。
互いの柔い舌を交えた温い同一感は、甘く沁みる。胸打つ甘苦しい切迫感は、いつか離れて行ってしまうのだけれど。口付けを解いた
「知ってるの。正治は
思い返せば、身が竦む。気を許した私が渉に話したのは『猫屋敷』では無く、『隠世』そのものや『原初の妖』についての知識だったが。正治に内通していた渉の静かな声音を、柱の影にしゃがみ込んだ何時かの私は聞いてしまった。
「謝る気は無い。俺は咲雪の帰路を消す気だった。目が覚めたら、儚い咲雪が『隠世』へ消えてしまわないか……不安に苛まれて、悪夢ばかり見たから。激情に繋がる恋情で
それは妖狩人達に明かされてしまえば、私を桂花宮家で飼えなくなる秘匿の鍵だった。渉は真に桂花宮家側の人間となり、私の命を支配する正治へ跪いたのか。血脈の水流である尾白家を自分の歩幅で
「私は私を許せなかったんだと思う。『家族』も、秋陽も傷つけた
ふいに渉は、優しい吐息混じりに微笑を綻ばせた。渉の掌が、完全に伏せられた私の猫耳に触れる。暖かな手の内にむず痒さを我慢出来ず、開いた猫耳で小さく弾く。渉が見つけた、安堵する瞬間の私の癖。
「俺は咲雪以外には価値を見いだせないし、信頼するつもりは無い。咲雪が欲しいと言ったなら、尾白家の『秘ノ得物』から術式を継いだ俺の得物なんて渡したさ。けれど咲雪は俺に得物を強請ることは無かったし、術式に興味すら無かった。咲雪が首謀者の配下であることは有り得ない」
「……そうね。私は扱えもしない術式どころか、自分自身の妖力を恐れ続ける臆病者だから。
「咲雪は、自分の価値を甘く見ている。
「まさか……六年前より、異常に妖との戦いが頻繁しているのは……」
「
「渉が猟犬になる必要なんて無い。『秘ノ得物』なんて、渡してしまえばいい」
「『秘ノ得物』だけが絡んでいたら、そうしたかもな。けれど、『秘ノ得物』に込められた家門の生力由来術式が明かされてしまえば、最悪解術される。咲雪を、自分の得物で守れない。咲雪へ疑念を擦り付けられたままでは、俺達は平穏に生きられない」
渉は、体温纏う
「……行かないで」
これは、
「俺は
苦笑した渉は慰めに、私の首筋を唇で悪戯に辿り擽る。ふわふわとした
辛い待ちぼうけと再会を繰り返し、
私は二十二歳になった。
母を支えて『隠世』から逃げた少女が、白魔に叫んだ望郷の冬。『猫屋敷』の板戸を閉めて、あれは嘘だったと冬眠する夢を見た。本当は、暖かい温もりは嫌いじゃない。幼い私を膝枕で寝かしける
だけど、この胎動は私の心音じゃない。
もっと、内側から小さく打つ。
私を呼ぶ渉の声に、『隠世』の母の膝枕から立ち上がる。
キラ、きら、キラ、きら。
芽衣は砕けて、雪解け水へ散る。
慟哭した私は、『母』である事を自覚した。
もう、芽衣の膝の上には帰れない。
私は、誰かの膝の上で目覚めた。彼女の鶯色の長い髪が、春風に揺らぐ。藤色に染められた木漏れ日が降りてくるのに、蝶形花が連なる暗さは深い。守護すべき藤棚の下にしか、サラサラとした
「咲雪、起きたの? ……髪、解けてるよ。結んであげる」
微笑む秋陽に安堵した私は、彼女の膝から起き上がる。いつもサラサラだねと呟いた秋陽は、私の白銀の髪に触るのが好きらしい。手櫛で梳いて、三つ編みにするのだろう。
「咲雪はさ、『
「翔星の話はやめて。秋陽とは別な話がしたい」
私の髪を編む秋陽の手が止まり、我に返る。子供っぽい嫉妬を剥き出しにしてしまったのに、くすくすと秋陽が小さく笑う声がした。秋陽が私と桂花宮家に住まうのは、翔星のおかげなのに、私は小さい人間なんだ。
「なんだ……咲雪も同じ
秋陽は手を離した。三つ編みにならなかった髪は、そのまま解けていく。
「だけど大切なことを伝えてくれたから、大嫌いな渉さんを株上げしたの。……大好きな咲雪は、半妖の死の
振り返れば、秋陽は真っ直ぐな杏眼で私を捉えた。純粋な瞳の強い輝きは円やかなのに、渉にもどこか似ていた。彼らの強さは捉えられた者の邪を晒し、時に不安にさせる。
「……やっぱり、怒ってるの? 」
「怒りたかったけど、怖さの方が勝った。咲雪は、私に目隠しで命綱無しの綱渡りをさせていたんだよ。……酷いとは思わない? 」
「ごめん……秋陽、私は」
黒檀色の杏眼を潤ませた秋陽の人差し指が、私の唇に触れた。
「私より先に死なないでくれるなら、許してあげる。私、咲雪にめっぽう甘いし」
慈愛の微笑を浮かべた秋陽は驚愕する私の手を引き寄せ、自らの胎に添える。外側から感じる胎動は、私を戦慄させた。翔星と秋陽の子は、
「咲雪は、『母親』以外の生き物を殺した事がある? 」
息が止まるかと思った。睫毛を伏せた秋陽は、まだ微笑を浮かべている。
「私はあるよ。飼ってた金魚をね、上手に世話が出来なくって。自分が悪いくせに、凄く罪悪感に襲われた。今も呪われているんじゃないかって気がする。濁らせてしまった水槽に浮かんでひっくり返った胴体と、あの目玉が怖い。だから私は、もう二度と金魚を飼うことは無い……はずだったんだけどね。
「母を殺した私は、まともな親になんかになれない」
「完璧な母親なんていないよ。
私は『隠世』で冬眠した夢を思い出す。母の膝に縋りたくなる衝動を、まだ捨てきれない自分が晒された。
「でもその純粋な信道は、子供だった私達が『大人』になって守らなくちゃ。『大人』って……多分、自分の善を信じて実行出来る人なんだ。でもその善って、曖昧。教えてあげる事も重要だけれど、悪い子ならルールって破りたくなるでしょ? 私も悪い子だから、分かるの」
立ち上がった秋陽が見つめる
「善悪は直感的にしか決めれない。それが命を懸けた判断であるならば、尚更。……だからこそ、自分自身の『
「秋陽は、自分の子を愛しているのね。恐れているだけなら、未来なんて想像出来ない」
「愛してるよ。私はこの子と、憧れた『家族』ごと愛したいんだと思う。私達の子が産まれたら、二人できっと桜の木の下を無邪気に駆け回る。那桜の子もそこに居たらいいなって思う。女の子なら、私達と那桜とおままごとが出来るよね。翔星さんは不器用だけど、子供達に絵本を読んでくれそう。渉さんは、やんちゃな男の子達と鬼ごっこをしてくれるかも。
秋陽が憧れた『家族』は、私自身が帰りたい場所だ。『家族』になった私達の姿は、私が幼い頃の『猫屋敷』の家族達の姿にも重なる。芽衣が語り、幼い私がクレヨンで描いた『家族』は……少女時代の私達が、手が届かぬと悟ったはずの夢物語は、失われてなんかいない。
「私も……秋陽と同じ『家族』の夢を見たくなった。そんな未来なら、私も自分の子と『家族』を愛せる気がする」
「……私の事なんて信用しないで。嘘つきの私は、咲雪と同じ色なんて視えないんだから」
藤棚を抜ける風が吹き、彼女の鶯色の長い髪は靡く。春塵に目を痛めたのか……私へ振り返った秋陽は陽光の下、
「秋陽は嘘つきなんかじゃない。私達は『家族』になれる」
瞼を開いた秋陽が答えかけた時、誰かがこちらへ駆けてくるのが見えた。……あれは翔星? 珍しく息を上げている。
「急ぎ伝える! 『
私を捉えた
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