二十二歳

09 柘榴は割れる


 潤う柘榴がふくらみ熟せば、毒皮は割れる。吉祥果ザクロを一粒齧ろうが、『愛する人』でなければ喰らうべき血肉の代わりにはならない。華奢だと憎まれた手首を頭上に晒し、戯れに手に入れた柘榴を秋空へ掲げた。抱き寄せられたわたしが得たい生力しょうりょくは、との口付けから。


 割れた柘榴の胎座は、手の内から滑り落ちる。粒を放して地へ弾け、濡らした。

 

 互いの柔い舌を交えた温い同一感は、甘く沁みる。胸打つ甘苦しい切迫感は、いつか離れて行ってしまうのだけれど。口付けを解いたわたるは、冷静を装う私を蒼黒そうこく鵲眼しゃくがんで捉えた。


「知ってるの。正治はあなたという檻で私をゆっくりと甘やかしながら飼い殺す事で、『隠世』の知識を独占しようとしていたんでしょ。……恋人にならば、故郷について口を滑らしてもおかしくないから」


 思い返せば、身が竦む。気を許した私が渉に話したのは『猫屋敷』では無く、『隠世』そのものや『原初の妖』についての知識だったが。正治に内通していた渉の静かな声音を、柱の影にしゃがみ込んだ何時かの私は聞いてしまった。

 

「謝る気は無い。俺は咲雪の帰路を消す気だった。目が覚めたら、儚い咲雪が『隠世』へ消えてしまわないか……不安に苛まれて、悪夢ばかり見たから。激情に繋がる恋情で妖力たいおん支配コントロールを失う事を恐れる咲雪の願い通りに、得物を手にし……繋ぎ止めるように身体を抱いたのも、そう。だけど咲雪は、俺の前から消えたりしなかった。咲雪は『』の罪を裁いて欲しいと思っているから、桂花宮家ここに居るんだろ」


 それは妖狩人達に明かされてしまえば、私を桂花宮家で飼えなくなる秘匿の鍵だった。渉は真に桂花宮家側の人間となり、私の命を支配する正治へ跪いたのか。血脈の水流である尾白家を自分の歩幅でわたり……隆元ちちおやを裏切った。


「私は私を許せなかったんだと思う。『家族』も、秋陽も傷つけたわたし自身を。でも、このまま私を桂花宮家てもとに置いておけば、妖狩人達のおさとしての立場が揺らぐのは正治。渉は、『隠世』に血が連なる私が『秘ノ得物』を狙う首謀者の配下だと疑わないの……? 」


 ふいに渉は、優しい吐息混じりに微笑を綻ばせた。渉の掌が、完全に伏せられた私の猫耳に触れる。暖かな手の内にむず痒さを我慢出来ず、開いた猫耳で小さく弾く。渉が見つけた、安堵する瞬間の私の癖。

   

「俺は咲雪以外には価値を見いだせないし、信頼するつもりは無い。咲雪が欲しいと言ったなら、尾白家の『秘ノ得物』から術式を継いだ俺の得物なんて渡したさ。けれど咲雪は俺に得物を強請ることは無かったし、術式に興味すら無かった。咲雪が首謀者の配下であることは有り得ない」


「……そうね。私は扱えもしない術式どころか、自分自身の妖力を恐れ続ける臆病者だから。な隆元が、正治と渉からわたしを引き剥がす為に疑念で貶めたいのは理解出来るけど、当主達まで揃いに疑うのは違和感がある」


「咲雪は、自分の価値を甘く見ている。隆元ちちうえを発端に桂花宮家に疑念を掛け、『隠世』に繋がる咲雪を『詰問』の理由で引き摺り下ろし、欲しいものを手に入れたい輩は蛆のように居るんだ。その蛆の中に、首謀者が居る。……だからこそ、俺は奴らのに敢えて乗ってやる。妖狩人の名に隠れ、原初の妖と手を組み、『咲雪』と『秘ノ得物』を狙う輩を……狩る猟犬になって。下等な妖達の封印を解いてまで、妖狩人おれたちと踊りたいらしいからな」


「まさか……六年前より、異常に妖との戦いが頻繁しているのは……」


妖狩人みうちの不始末に、妖狩人おれたちは奔走しているっていう訳だ。虱潰しに下等な妖を滅する内に、封印を解く首謀者にご対面出来るはず」  

 

「渉が猟犬になる必要なんて無い。『秘ノ得物』なんて、渡してしまえばいい」 

 

「『秘ノ得物』だけが絡んでいたら、そうしたかもな。けれど、『秘ノ得物』に込められた家門の生力由来術式が明かされてしまえば、最悪解術される。咲雪を、自分の得物で守れない。咲雪へ疑念を擦り付けられたままでは、俺達は平穏に生きられない」


 渉は、体温纏うかいなを緩める。私を離そうとするのは許さない。貴方の静謐な香りは……私の檻なのだから。


「……行かないで」


 これは、ただの我儘。擦り寄り、繋ぎ止める為に重ねようとした唇を……寸前で止めた。これ以上生力を奪えば、戦地へ赴く渉の死を自ら手繰り寄せてしまう。

 

「俺は、清らかで優しい人間なんかじゃないから……咲雪を盗ろうとする奴らが存在するだけで、腸が煮えくり返りそうなんだ。盗人同然なのは、俺の方だけど」


 苦笑した渉は慰めに、私の首筋を唇で悪戯に辿り擽る。ふわふわとした柳煤竹やなぎすすすたけ色の髪を勝手に撫でても……顔を上げた渉は鵲眼しゃくがんを心地良さそうに細めて微笑するだけで、決して怒らない。渉の口付けの代わりに、誰かの血肉で生力を満たせても、渉の代わりなんて居ないのに。

 

 辛い待ちぼうけと再会を繰り返し、

 私は二十二歳になった。

 

 母を支えて『隠世』から逃げた少女が、白魔に叫んだ望郷の冬。『猫屋敷』の板戸を閉めて、あれは嘘だったと冬眠する夢を見た。本当は、暖かい温もりは嫌いじゃない。幼い私を膝枕で寝かしける芽衣おかあさんは、慈愛に満ちた微笑で頭を撫でてくれる。絵本を読み聞かせる穏やかな声が幻聴でも、温い羊水に浸っていたかった。


 だけど、この胎動は私の心音じゃない。

 もっと、内側から小さく打つ。


 私を呼ぶ渉の声に、『隠世』の母の膝枕から立ち上がる。真朱まそおの糸が見えたから。再会した渉は、手を取った私を『人の世』に繋ぎ止める。振り返れば、泣き笑いした芽衣は透明な硝子のように罅割れた。


 キラ、きら、キラ、きら。

 芽衣は砕けて、雪解け水へ散る。

 慟哭した私は、『母』である事を自覚した。

 もう、芽衣の膝の上には帰れない。


 私は、誰かの膝の上で目覚めた。彼女の鶯色の長い髪が、春風に揺らぐ。藤色に染められた木漏れ日が降りてくるのに、蝶形花が連なる暗さは深い。守護すべき藤棚の下にしか、サラサラとした甜香てんこうはむせ返らないんだ。雪解け水で咲いたのだと信じたくなる私は、涙の跡に頬が引き攣れていた。むず痒くて、拭う。最近、涙脆くなった気がする。妊娠すると、心まで弱くなってしまうのだろうか。渉を待たないといけないのに。

 

「咲雪、起きたの? ……髪、解けてるよ。結んであげる」


 微笑む秋陽に安堵した私は、彼女の膝から起き上がる。いつもサラサラだねと呟いた秋陽は、私の白銀の髪に触るのが好きらしい。手櫛で梳いて、三つ編みにするのだろう。


「咲雪はさ、『柘榴石ガーネット』の石言葉って知ってる? 『変わらない友愛』なんだって。『忠実な愛』でもあるけれど。『生命力』が有るって言われるのは、血みたいに赤いからかな。……翔星さんが教えてくれたの。見せてもらった鉱物標本、世界の心臓コアを砕いた欠片達みたいで素敵だった」


「翔星の話はやめて。秋陽とは別な話がしたい」

 

 私の髪を編む秋陽の手が止まり、我に返る。子供っぽい嫉妬を剥き出しにしてしまったのに、くすくすと秋陽が小さく笑う声がした。秋陽が私と桂花宮家に住まうのは、翔星のおかげなのに、私は小さい人間なんだ。


「なんだ……咲雪も同じ感情いろだったんだ。だね。……私、渉さんのこと嫌いだったの。咲雪を盗られたような気がして。友情と恋情を比べるなんて、私達自身への冒涜なのに」


 秋陽は手を離した。三つ編みにならなかった髪は、そのまま解けていく。


「だけど大切なことを伝えてくれたから、大嫌いな渉さんを株上げしたの。……大好きな咲雪は、半妖の死の運命さだめを秘匿して、勝手に私を置いて逝くつもりだったんでしょ」


 振り返れば、秋陽は真っ直ぐな杏眼で私を捉えた。純粋な瞳の強い輝きは円やかなのに、渉にもどこか似ていた。彼らの強さは捉えられた者の邪を晒し、時に不安にさせる。

 

「……やっぱり、怒ってるの? 」

 

「怒りたかったけど、怖さの方が勝った。咲雪は、私に目隠しで命綱無しの綱渡りをさせていたんだよ。……酷いとは思わない? 」 


「ごめん……秋陽、私は」


 黒檀色の杏眼を潤ませた秋陽の人差し指が、私の唇に触れた。

 

「私より先に死なないでくれるなら、許してあげる。私、咲雪にめっぽう甘いし」


 慈愛の微笑を浮かべた秋陽は驚愕する私の手を引き寄せ、自らの胎に添える。外側から感じる胎動は、私を戦慄させた。翔星と秋陽の子は、わたしが凍えた指先を動かしたら……簡単に殺せてしまう気がする。脆さを恐れるべきは、私の胎の内の子も同じ。


「咲雪は、『母親』以外の生き物を殺した事がある? 」


 息が止まるかと思った。睫毛を伏せた秋陽は、まだ微笑を浮かべている。

 

「私はあるよ。飼ってた金魚をね、上手に世話が出来なくって。自分が悪いくせに、凄く罪悪感に襲われた。今も呪われているんじゃないかって気がする。濁らせてしまった水槽に浮かんでひっくり返った胴体と、あの目玉が怖い。だから私は、もう二度と金魚を飼うことは無い……はずだったんだけどね。生命いのちを恐れている時点で、私は母親に向いてないのかも。咲雪の方が、良い母親になれるんじゃないかな」 

 

「母を殺した私は、まともな親になんかになれない」

 

「完璧な母親なんていないよ。偶像それは、子供が描いた理想だから。子供はみんな、絶対的な守護に抱かれたいんだよね」


 私は『隠世』で冬眠した夢を思い出す。母の膝に縋りたくなる衝動を、まだ捨てきれない自分が晒された。


「でもその純粋な信道は、子供だった私達が『大人』になって守らなくちゃ。『大人』って……多分、自分の善を信じて実行出来る人なんだ。でもその善って、曖昧。教えてあげる事も重要だけれど、悪い子ならルールって破りたくなるでしょ? 私も悪い子だから、分かるの」


 立ち上がった秋陽が見つめる方角さきには、塀の向こうに遠い山脈があるはず。座る私には、まだ見えないけれど。


「善悪は直感的にしか決めれない。それが命を懸けた判断であるならば、尚更。……だからこそ、自分自身の『』が必要なんだと思う。善の色だけに目が眩めば、微細な色の違いなんて分からなくなってしまう。逆も然り。正しい感情いろへ追いかけさせたい。まだその方法は、分からないけど」

 

「秋陽は、自分の子を愛しているのね。恐れているだけなら、未来なんて想像出来ない」


「愛してるよ。私はこの子と、憧れた『家族』ごと愛したいんだと思う。私達の子が産まれたら、二人できっと桜の木の下を無邪気に駆け回る。那桜の子もそこに居たらいいなって思う。女の子なら、私達と那桜とおままごとが出来るよね。翔星さんは不器用だけど、子供達に絵本を読んでくれそう。渉さんは、やんちゃな男の子達と鬼ごっこをしてくれるかも。子供達みんなは、いつか私達みたいに恋をして……未来を繋ぐ。私は咲雪と同じ夢が見たかったから、想像したの」


 秋陽が憧れた『家族』は、私自身が帰りたい場所だ。『家族』になった私達の姿は、私が幼い頃の『猫屋敷』の家族達の姿にも重なる。芽衣が語り、幼い私がクレヨンで描いた『家族』は……少女時代の私達が、手が届かぬと悟ったはずの夢物語は、失われてなんかいない。

 

「私も……秋陽と同じ『家族』の夢を見たくなった。そんな未来なら、私も自分の子と『家族』を愛せる気がする」

 

「……私の事なんて信用しないで。嘘つきの私は、咲雪と同じ色なんて視えないんだから」


 藤棚を抜ける風が吹き、彼女の鶯色の長い髪は靡く。春塵に目を痛めたのか……私へ振り返った秋陽は陽光の下、淡く微笑していた。高尚な夢を語ってしまったと、恥じらっているのだろうか? 私のように【異能】で感情いろが視れない秋陽を、卑怯に覗き視たくはなかった。


「秋陽は嘘つきなんかじゃない。私達は『家族』になれる」


 瞼を開いた秋陽が答えかけた時、誰かがこちらへ駆けてくるのが見えた。……あれは翔星? 珍しく息を上げている。


「急ぎ伝える! 『亀甲竹きっこうちくの竹林』へ、妖狩りに向かったわたるとの連絡が途絶えた! 」

 

 私を捉えた鷹眼ようがんの鋭さよりも、翔星が紡いだ名に息を呑む。不安を積み重ねるまま、花の檻へ閉じ込めた自分を恨んだ瞬間だった。

 

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