06 花束を抱えた死神


 おかえり、悪い子。


 そんな幻聴が、このけもの耳に囁かれた気がした。逃げ帰る場所など、ただ一つしか持たない私は穢れた家に帰ってきた。硝子に裂かれ着地の損傷を負った身体は癒えていくはずなのに、転んだ子供みたいに甘えたくなる。


「助けて、お母さん」


 答えるはずが無いって分かっているのに、治りかけの身体を引き摺る私はベッドに眠る彼女に縋る。そこで初めて、芽衣ははの手に触れた私は違和感に気がついた。


 ――冷たい、凄く。布団が呼吸に上下していない。


 死後硬直は始まっていた。肌の柔さすら、遺されていない。凍えていく私の喉が、妙な嚥下に鳴る。一体何時から? 前髪を払ってあげたあの時……芽衣の体温を……私は覚えていない。


 誰が彼女を殺したか。そんなの火を見るより明らかだ。虚ろのつがいへの愛を口実に、痩せた母から血を奪い続けてきたのは一人しかいない。母の首には、治らない対の牙の跡。


「……何で、最期まで……私の名前を呼んでくれなかったの……お母さん」


 帰る場所を無くしたのは私自身のくせに、縋るのを諦めきれない。芽衣はは咲雪わたしを望まずに、小さく微笑すらしている気がした。芽衣は炎陽の夢を見れただろうか。


 私は……本当に……


 身体は完全に癒えた。だがこの器に宿るは引き裂かれた虚ろな魂。冷えきった芽衣の頬に、咲雪わたしは最後のキスをする。どうか、私の親愛を凍らせて欲しい。


 異常な体温を受け取った白魔の私は、立ち上がる。帰るべき家は失った。探さなきゃ、化け物わたしの最期を……。

 

 紅音あかねの言う通りだった。『人』を混じえた弱い半妖の私は、自分の欲求を支配コントロール出来ない。白い太陽の根源が殺すのは、私の脆い器だけじゃなかった。周りの大切な人達から奪って行くのだ……。

 


 ――秋陽の期待を笑顔ごと裏切ったのは、私の方だ。もう私には、希望なんか無い。あの時、差し出された手を取っていれば……秋陽を酷い目に合わせることも無く、友達で居られただろうか。



 開いた穢れた家の戸は、軋んで閉じる。化け物わたしはゆくあてもなく彷徨う。私達が殺されかけた『隠世 猫屋敷』へ戻る気にはなれなかった。どうせ滅びるなら、かつて希望が存在した『人の世』で死にたい。隠匿を解いた私の姿に、驚き振り向く人も居たが……もう私には関係ない。隠匿する事で保ちたかった人としての幸せは、掻き消えてしまったのだから。


 彷徨う化け物わたしを恐れて、或いは無関心で、誰も近寄ろうとしない。歩みを止めない無機質な白い群衆を背景にした路地裏。冷たいコンクリートの壁にすら縋るのを諦め、しゃがみ込んだ時。


 ――私の前に、死神が舞い降りた。

 

 視界の端に広がるは、漆黒の翼。見上げれば、幻覚と見紛うような精巧で美しいかんばせの男が居た。鋭い瞳孔を宿す黒曜石の瞳を僅かな驚きで瞬いたが、憂いのある睫毛で静かに飾った。彼の手には、青紫の躑躅つつじの花束。春に咲くはずの花をぶら下げた死神だなんて、ふざけた冗談みたいだ。皮肉に唇を歪ませた私は、幻覚に付き合う事にした。


「助けてよ、死神。貴方なら、化け物に引導を渡せるでしょ? 」


「私は咲雪を殺さない。私はお前の父親の願いを叶えに来た。……無対価だがな」


 流石の私も、死神の戯言に目を丸くした。


「炎陽の意思は、【魅了】から蘇ったの? 」


「ああ。珠翠が自らの命を懸けて蘇らせた。死にゆくみずからの血肉を炎陽に喰わせて、『欲』を抑えたんだ。咲雪が残した『家族』の絵を手に取った時……『家族』を守る覚悟を決めたと、珠翠は言っていた。遅すぎる決断だった、と咲雪と芽衣へ代わりに詫びて欲しいと」


「珠翠は……私達を『家族』と思ってくれていたのね……」


 鼓動が締め付けられれば、乾き切ったはずの冀求ききゅうの杯は蘇る。私が愛した『優しい女王さま』と『賢い女王さま』は、もう居ないのに。そして、『美しい王さま』は蘇った。だが、何もかも遅い。自らの意思で無いとはいえ、私と母から『家族』の理想を奪って殺しかけた炎陽えんようが、今更娘に何を与えるというのか。


「……これを」


 口下手な死神に青紫の躑躅つつじの花束を押し付けられ、妙な迫力のまま受け取る。白銀の私と、漆黒の死神。白黒モノクロの私達の間で、花束はほんのり光ってるように錯覚した。


「綺麗……」

 

「それは『死せる妖』を苗床にした、妖の『欲』を抑える花だ。刻み煙草に混ぜて煙管キセルで喫煙すれば、『人』の中でも生きて行ける」


 死神のもたらした希望は、私に残された家族の『愛』だった。私と芽衣ははを、こんな末路に追い込んだのに……父親から送られた贖罪の花束を私は手放せなかった。

 ふと、私は現実に意識が帰る。目の前の死神は、現実に生ける存在のはずだ。『隠世 猫屋敷』と炎陽に繋がる、私と同じ妖。

 

「貴方は、誰なの」


「私は帰るべき『隠世』を持たぬ妖達のおさ。『カラス』と呼ばれる時もあるが、私に名は無い」 


「なら、鴉は私のおさ様なんだ。紅音と翠音を……『家族』を見捨てた私の帰る場所は、『猫屋敷』では無いから。貴方にも……帰る場所は無いの? 」


「いつか帰りたい場所ならば、ある。秋暁の野に咲く金木犀の隣だ。但し、秋暁の野はもう無いが。代わりに『桂花宮家けいかみやけ』という、の屋敷が金木犀を守ってくれている」


「貴方が語ると、なんだか……凄く素敵な場所に聞こえる。そんな場所を故郷に出来ていたら、私は化け物にならずに済んだのかな」


 暖かな陽光降りるような響きの、まだ見ぬ場所は……自然と、屈託ない秋陽の笑顔を思い出させた。化け物の私は、秋陽にもう二度と会ってはいけない。だからこそ、秋陽を思わせる『無き秋暁』に懐古を覚えてしまった。だけど、私が縋りたいのは透明な郷愁だけじゃない。


「私……その場所に囚われたい。もう傷つくのも、傷つけるのも怖い。妖狩人達が集う桂花宮家ならば、また誰かを傷つけるかもしれない『バケモノ』の私を支配コントロールしてくれるでしょう? 優しい花束だけじゃ、私には足りないの」

 

「咲雪は死にたいのか? 」


 私を殺してくれない鴉は、まるで本当に心配しているみたいに秀眉を寄せた。そんな顔をされると、貴方に『優しい父親』を夢見てしまうからやめて欲しい。


「私が欲しいのは、檻。私は、『バケモノ』の私を信用出来ない。自由を奪い尽くして……それでようやく、『人』の私で有れるの。息が出来るの。強いだけの貴方には分からないでしょう。本当の弱い自分が、本能だけの強い自分に侵食される絶望を」


 青紫の躑躅の花束を握りしめ、幽光を浴びた私は嗤う。私は白黒モノクロの絶望の内に、希望の色を見つけたんだ。

 

「さぁ、案内して。退屈な私は、私の欲しい安寧を求めているだけ。おさならば、望む幸せを与えてよ。心配しなくても、私はただ死ぬつもりは無い。どうせ、妖狩人かれらが私に欲しい物なんて予想がついてる。長様は私が死なないように、見てるだけでいい。……交渉は私がやる」


 『人』の世に足を踏み入れたばかりの、愚かな少女が世迷言を口にした。溜息をついた鴉の胸の内は、そんな所か。弱った野良猫を見捨てられない鴉は、私が音を上げるまで世迷言に付き合うのだろう。


 ――白黒モノクロの私達は、混凝土コンクリートの影と冷たい『人』の群衆を捨て、人の世このよの『妖』を侵食する享楽と猜疑心の混沌へ往く。 

 

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