二人目…(結び)【罪の自罰と自失】

 ◆◆◆




 男から一頻ひとしきりの暴力を受けた少女は、髪を掴まれコンクリートの地面に頭を叩きつけられる。それまで何十回と少女を殴り続け、ようやく男の気は済んだのか「けッ」と、してやったりな声と共に彼女は足蹴にされ乱暴に地面へと転がされた――。


「……あァ……嫌……痛ィ……!」


 ――彼女の身は痛々しい姿となっていた。

首から上だけでもむごたらしい姿で。可愛らしかった顔はれ上がり、鼻や唇からは流血。鼻が曲がり潰れてしまい、唇から覗く歯の何本かが折れていて。生気を失った蒼白な顔に、虚ろな目。喘鳴ぎんめいのような苦しげな呼吸で、身体を動かそうとしてもできずに小刻みに震えて涙を流している……。


 それを無表情で冷たく見下ろす男。

 男は首の骨をボキボキと鳴らすと、ゴキリと腰を曲げ、地面に転がる彼女の顔を覗き込む。


『だ、だァ、レェ、だァ? 誰だァ……?

だ、だだ誰だァ……? ……誰だァ?』


 ――やはり、言葉は支離滅裂であり。

しかし彼女に向け『誰だ?』と、尋ねてきた。

 答えれば、逃がしてでももらえるのか?

察するに『彼女オマエは誰だ?』でなく『じぶんが誰だ?』といった意味合いで発した言葉だろうか?


「あなたが……誰か、ですか……?」


 男の顔、彼の顔、その顔は、


「……し……りィ……ません……よ」


 でも知らない。こんな男なんて。

だから彼女は“そう答える”しかできない。


 ――見えていても、男の顔を判別できない。

いいや、こんなクズを判別なんてしたくない。顔を直視していたら目が潰れそうだ。どこかでは見た覚えはあった男の顔が『誰』であったかと、考えるのさえ虫酸が走ってしまって。激しい不快感と拒否感で喉の奥から胃酸が逆流してくる。

 他人を何とも思っていないのだろう暴力男、やはりこんな社会のクズは、知らない。できる事なら関わりたくなかった。この『クズ』が同じ世界に存在しているだけで嫌だ。知らない、今の『わたし』が全力で理解を拒む。ふざけるな『じぶん』は何も悪くない被害者の、未来ある少女なのに、と――。


 ――そう思考しつつ。少女わたしは、彼女わたしは。

狂った男から、今は何とか助かろうと、


「……もぅ……止めて……下さ、ィ……」


 腫れた唇から折れた歯の欠片を吐き。噛んでしまった舌を必死に動かして喋り、懇願こんがんする彼女わたし


 対し。言葉を止め、ガクガクとした動き。

身体全体をだらんとさせて、男は下を睨む。


『――んなァ黙れよォ!!』


 男は彼女じぶんに舌打ちをして、また足蹴にする。

彼女わたしはそれ以降は動けなくなった。意識を失ったりしたわけではないが、食いしばって沈黙する。何か少しでも男の気に触れば、何度だって逆上し残忍なまでの暴力を浴びせてくると。そう判断して。


『念のためだァ、携帯と身分証……アハハ!

まだ優しくしてやってるうちィ出せやクソ女。

あァ覚えたぞ……アハハ……アハハハッ!』


 殴られているうちに落ちた彼女わたしの生徒手帳と携帯電話を拾い上げ、直ぐに投げ捨て、笑う男。

 彼はその後は何をするわけでもなく、そのまま少しずつ距離を取って行く。へらへら、ぶつぶつ、ぼそぼそと、汚い笑いと譫言うわごとの繰り返し。豹変する前の状態に戻ったようだ。彼女わたしは少しだけ安堵の表情を浮かべた。でも、まだまだ安心はできない。男は壊れた車と彼女わたしの周囲を徘徊している。


「ぅ…………」


 仰向けの無抵抗で沈黙する彼女わたし

並大抵ではない恐怖だが、我慢しなければ。男が居なくなるまでは、彼を刺激しないように……。


『――あァ?』


 ――ぐりんっと、男の首が彼女わたしを向く。

焦点の定まらない目で、舐め回すような視線で。


「――ひィ……っ!」


 彼女わたしは、ひきつった声を出した。


 下着を履いていない現在の彼女わたし。捲れたスカートの内は恥部が丸出しのまま。視線を向けそれに気が付いたんだろう男の視線はその一点に注がれて、十数秒。彼は徐々に唇の端を吊り上げてニチャアとおぞましい笑顔を作ったから。恐怖で声が出た。それで彼は鼻息を荒くし、ズボンの股間部分をテントを張ったよう膨らませて彼女わたしに再び接近してきたのだ。


「……嫌……嫌ァ……!」


『ハァハァ、こりゃたまんねェなァ!』


 男は鼻の下を伸ばして舌舐り。猿や豚や蛙などが苦手な人間から忌避される要素を混ぜ合わせたかのような嫌悪を抱かせる醜さ、加えて人間的にどうしようもなく醜悪に満ちた笑顔の後、彼女わたしの着るワイシャツを引っ張ってボタンを飛ばす。次に胸の下着を剥ぎ取り乳房を揉んでから、下半身。スカートのホックを壊して布をやぶいてしまい。そして終には『アハハッ! たまらねェぞォ!』目を剥き、狂気めいた笑いで涎を垂らし、情念情欲にまみれた罪深い行為に手を染める。人間性や倫理観は持ってなどいない、理性の歯止めなんてものは壊れているとばかりに。彼女わたしの穢れ無い恥部を、股間の渓谷を無理矢理にさらしてしまう。


 更にそれだけではなく。男は己のズボンと下着までを下ろし、陰茎をも外に露出させた。それで彼は汚いモノを出すやいなや、彼女わたしの身にその突起し脈動する赤黒いグロテスクなものを寄せてくる。


「……嫌、い……やァ……!!」


 男は一体何をしようとしているのか?

 彼女じぶんは何をされてしまうのか?


 下卑げびた笑いで、股を舐められた。


「……嫌、嫌、嫌ァ! 嫌ッ嫌ッ!!」


 程無くして、想像してしまった通りの流れ。

 男の陰茎が、彼女じぶんの恥部に触れて……。


「いイィ、嫌ァッ嫌ァアッ――ッ!!!」


 彼女わたしは喉が潰れるほどに叫んだ。

殴られて胸の骨でも折れていたか、それか内臓でも痛めていたのか、胸の辺りから尋常でない激痛が襲ってくるも。彼女わたしはこれ以上になく必死に叫んで、男の醜悪な顔を引っ掻き抵抗する。


『ここまでやっちまったんだァ!

アハハッ、オイ! もう後に引けねェな! 全部オマエのせいだぞオイ! 身体だけはオレ好みのクソ女さんよォ、さんざんに好き勝手言ってくれたんだァ覚悟はできてるかァ? オレに詫びろや。詫びろォ! 詫びろクソ女がァ! その後に、ここのことを喋ったりもできねェように、その身体に怖い思いさせてやれば従順にでもなるかァ?』


「――嫌ぁ! 嫌だ! やだ、やだッ!!

嫌ッ、止めてッ! 止めて下さいよぉッ!!」


 彼女わたしの口は塞がれる。


『あァ? 詫びろツっただろがァッ!!

口の減らねェクソ女だなァ! 詫びの一つも言えねェのかよ! もういい。殺ろしてやるよ。そいで……かして、埋めてやらァ。オレは遠くに逃げるからよォ。さよならだァ、クソ女ァ!』


 抵抗されたことで、青筋を立て喚く男。

残酷な宣言をし、実際に行動に移すつもりか?


 みしみし、ぼきり。抵抗する彼女わたしの腕の、肘の関節からの音だった。塞がれた口が自由になって、あり得ない方向に折り曲げられた肘から先を見てしまい。遅れてきた激痛で、


 「――腕……んぐ、が! ァ……ガァ……!! 

が……ガ、あ!! ……ン……かハ」


 悲鳴……は出なかった。


 悲鳴を出す前に、絞首をされて。

 彼女わたしの首に、男の太い指が掛けられてしまい。

 ぎりぎりと握力が増していき気道が塞がれる。

 彼女わたしの意識は、苦しみと恐怖の暗闇に沈んだ。




 ◆◆◆




 ――夕暮れ、黄昏れ、逢魔刻。

 童謡の旋律チャイムが最後の節を終え、ぴたりと止んだところ……から、いったいどれだけの時間が経過したのだろうか。まだ、今はまだ無事だ。そう、まだ無事だ、無事なのだ。今回は、今回こそは、まだ無事でいられている。チャイムが鳴り始め、鳴り止み。鳴り始め、鳴り止み。また鳴り始め、鳴り止み。再び鳴り始め、鳴り止み。更に鳴り始め、鳴り止み。改めてまた鳴り始め、鳴り止んでしまい――。


 ――鳴り止んでしまう頃に、来る。

決まって『奴』が――あの男が来てしまう……。


 ――男に首を締められ意識を失い。

心付けば、彼女はチャイムの旋律を聞きながら用水路を眺めていた。尋常ならざる苦痛と恐怖、心魂から軋んで綻んで、でも精神が完全に壊れてしまうところまではいかず。壊れかけたまま生かされ、その『生かされる』代わりに何かが薄れる焦燥と、何か取り返しのつかない『大きな過ちを犯してしまったのでは』という正体のわからない葛藤。本来はもう再起不能なまで追い詰められていた筈の自己は、壊れたり破れたままでは許されず、否応なく縫い合わされて歪に戻されるような嫌なイメージに襲われる。

 焦燥や葛藤、その他の様々な胸騒ぎを拒否してみれば『死』への苦痛と恐怖が希薄になり。また、死んでしまう『夢』から覚めたのか、いやでも、どこまでが『夢?』だったのだろうと……散漫な意識に疑問符を浮かべ、夕焼けの空に尋ねた。

 そのうちチャイムが鳴り止み、視界の端。彼女が居る用水路に沿って伸びる一車線の細い道を蛇行しながら、それなりの速度で向かってくる危なげな運転の乗用車が現れて。車は彼女と接触し、彼女は車に引き摺られて――意識を失った。


 ――チャイムが止み、苦痛と恐怖が訪れる。

男が乗ったあの車が現れて、時に轢かれ。時に引き摺られ。時に衝突で潰され。時たま車を避ける事ができたなら、その時は車から降りてきた男によって襲われる。殴られ、蹴られ、首を絞められ。

 何度も何度も繰り返し、その度に彼女は元の場所で元の状態で心付く。そこに縫い付けられ、そこに縫い合わされ。縫い返し、縫い直し、縫い込まれ。もう先には進まない、救いも無い反覆リプレイ。物語の登場人物にでもなってしまったかのように。

 次のチャイムを聞いているうちに、苦痛と恐怖と自己が希薄となり。チャイムが止めばまた訪れ。


「逃げれば、逃げれば……助かる。

はぁはぁ……もう私は、死ななくていい」


 だから。繰り返した幾度々のうちで、早々に自己を取り戻すことができ、遠くに『逃げる』という選択ができた今回は、偶然が重なった奇跡だ。

 先程まで紅色に染まった陽光が、退廃的に寂れたビル群の合間から周囲を照らしていた。そこは過去の事故で廃墟ばかりとなった街の路地裏迷路。もう直に真っ暗になり。複雑に入り組んだ地形と、代わり映えしない景色、他に人の気も無くて。きっと彼女わたしは自分が何処に居るのかさえ見失う。


「私は……逃げる……にげるんですよ!

逃げて……。それで、別の人生を……?」


 でもそれでいい。暗闇に紛れて、逃げ続けて。

朝を迎えて、災難が過ぎれば……自由なのだ。普通の少女として、普通の日常が過ごせるのだ。

 思考をしつつ、曲がった先は、行き止まり。

 背負っていたカバンの紐が、崩れた壁より飛び出たパイプに引っ掛かり。彼女わたしは勢いを殺せずに埃っぽい地面へと身体を投げ出してしまう――。


「……――っ!!」


 下手な受け身をして腹部を打ち、ぐっと呻く。


 痛みに涙目となって、暫く伏せていると。


 居る筈のない人の気配。微かな囁き。


 ぶつぶつ、ぼそぼそ。へらへら。


 彼女わたしは身体を強張らせる。


 錯乱。恐慌。戦慄。


 こうなれば、


「私は、いやッ……ふざけんじゃねぇ!

くそぉ! 何様だよクソが! やってやる!」


 パイプを杖にし起き上がり、意を決す。

 彼女に残った彼としての最後の自己で。

 蹴って壁からパイプを引き抜き、握る。

 

 確実に接近する気配。ぶつぶつ、ぼそぼそ。

彼女は通路のかどに身を潜める。へらへら笑い声。

数秒、十数秒、数十秒。ぼそぼそ、ぶつぶつ。

パイプを振り上げて待つ。へらへら笑いの主を。

頃合いを計り、あと少し、もう少し。ここだ。

かどから見えた男の頭に、鉄パイプを振り降ろす。


『アハハ、アハハ、アハハハ!!』


 頭に衝撃を受け倒れ、のたうちながら笑う男。

気持ちが悪い。同じ人間とは思えない存在。


「あぁァ!! うあぁ!!

こいつ、こいつぅ!! うおぉぉ!!」


 倒れた男が起きる前に、殴る。叩く。打つ。

抵抗なんてさせない。これは正当な防衛だ。コイツの因果応報だ。彼女じぶんがどれだけ、どれほどまでオマエに苦しめられたことか。思い知れ。その報いを受けさせてやる。こんなクズは、存在しているだけで他人の害になる、生きていてはいけない。成敗してやると。彼女は、男が頭から血液を流し、痙攣し、血の気が失せて、完全に動かなくなるまで全身全霊で殴打し続けた……。


 その後。少女の手より血濡れのパイプが離れ、我に返った彼女はとても怯えた声で呟く。

 

「あれ。この人、誰……ですか……?

血を、いっぱい流して……これ、は?」


 突然に遭遇した彼女にとっての非現実。

赤色の水溜まりに横たわり、白目を剥き、泡を吹いている『知らない男』なんてものを発見してしまったら。普通の少女として当然の反応。とても当然の……反応。彼女は違和感も抱けずに、顔の無い“ありふれた”一人の少女と成っていた。


 遠くで彼女の様子を伺っていた三毛猫は、心底に憐れなものを観てしまったとばかりに鳴き声を残し。墨色の深まった古和紙を咥え、何処かへと去る。

 彼女は男が絶命してると知ると、悲鳴を上げ。うずくまってから大声で泣き出してしまう。周囲の輪郭は霧霞に包まれ曖昧になり。全ては後の祭り。廃墟街もろとも宵の闇に完全に取り込まれた様子。


 咎身は逃げる事を放棄し、顔も合わさず、人としてのおの辿貌これまでみそいだのだ。愚かしくも身削みそぎを行ってしまった。それすなわち、彼女になった彼だった……もう誰でもない何者かが望みの対価にして支払った代償であり。人としての自己はもとより、それ以外も全てを自失。罪に綴じ込まれた永遠の黄昏で、忌譚の一部として結ばれたが故の末路――。


 ――次のチャイムが鳴り始める……。

彼女は宵闇の禍町、日毎ひごろの夕頃に誰彼から逃げ続けるだけの怪異の一つと成り果てたのだ。

 

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