二人目……(四)【罪と自虐の暮相】


 ――夕の刻、黄昏の町の片隅……。

 音の割れたチャイムが響き渡り、帰路につく子供達が賑やかに声を弾ませる。駆け出し遠ざかる足音と共に、伸びる小さな影達は地面ににじむ。

 チャイムに混ざり始めたノイズが子供達から声と足音をさらってしまえば、周囲は一変。焼き付けられたよう、置き去りにされたよう、地に残された幾つもの影が不気味に伸びて行くだけ……。


 チャイムとして用いられている童謡は、昔から親しまれてきた懐郷の旋律であり。しかし歌詞に込められた言葉の意味をけば、道草を食う子供へ帰路に着くのを急かすような詞の内容は転じて、古くからの伝承、悍ましいモノを鎮める為のものでもあると。民家脇に立つ名所、詩碑しひの解説にある。


 そんな童謡の旋律チャイムを耳にして、

対岸で伸びては薄れ消える影を見送り、


「――ぅあ……ァ……?」


 用水路を眺めていた“少女”が声を発した。


 彼女はそれまでの物憂げな顔、放心しているような顔のままでゆっくりと開口。一度は心付いた声を出すも、びくりと一度大きく肩を跳ねさせ、よろめいて目前にある柵を掴む。そうして弱々しく掴んだ柵にすがり付き、呆然。不規則な呼吸で全身をガタガタと震わせ、口の端から泡を吹いてしまう。


「……ぁ……ァ」


 白目を剥き、低くうめき。死人のよう顔色を蒼白にしたところで、全身が痙攣けいれん。じんわりと下着が湿り出してしまい、両のももに水の筋が流れ始めて、ソックスまで濡れが及び、ついには決壊したよう股内から小水の滝を作った。なのに自身の下腹部から放たれる水分を止めようとせず……できずに。形容できないほど歪めた顔で一層に震えるだけ。


 じょろじょろと、チャイムに混じる水音。

少女の瞳から一筋分だけ涙が溢れる。


「……ぅ……ぁ、あ」


 日没間近の夕焼けでセピア色に染まったアスファルトに湯気の立つ水溜まりができていた。

 震えが止まらない手でスカートを押さえ、粗相そそうによる下腹部の解放感に息を吐いて、吐いた以上に息を深々と吸い。またびくりと肩を跳ねさせると白目を剥いていた瞳を正面に戻し、彼女はようやっと感情の灯りを取り戻した様子で――。


「あァ……あ、あ。な、んで……?」


 ――はたして、それは幸か不幸か。

男だった少女は、どうやら心が壊れないで持ちこたえたらしい。そう彼女は持ち堪えてしまったのだ。幸か不幸かはともかくとして、地獄の一丁目に。


 いっそのこともう精神が壊れてしまった方が楽だったのかも知れない。本人が自覚しているかは定かではないが、心魂からきしほころび、声にできない悲鳴をあげているというのに。ともすればもう本来の荒々しい人格には戻れないというまでに。なんせ自身の『喪失』という体験を経てしまったのだから。今日まで生きてきた中ではとても経験したことない、普通に生きていても経験しようがない、濃厚な死の体験。その苦痛と恐怖を味わってしまったのだから。


 沈黙、沈黙。沈黙の後、


 喉に手を当て「私、生きて、るの?」と。

自身の生存を知り。また、そこが呼吸のできる環境であると遅れて認識したらしく。彼女は目を見開いて大口を開くと淀んだ肺の空気を入れ替える。そうしなければ死んでしまうというほどに必死な形相を浮かべて、息を深く大きく吸って、吐いて、吸って吸って吸って……。肺が膨れて痛むのもいとわず。あえぐよう息を吸い続け、続けて続けて、


「――んぐ。ひぃ……ぁ、ぁ……ぅッ!!

んっ……あ、ごホッ!! げほっ!!」


 そうして呼吸器の限界が訪れた。

四つん這いの体勢となって、下を向く。


 激しく咳き込み、むせて少量の胃液を戻す。

また咳き込み、嘔吐し。がくんと膝の力が抜けて足元の水溜まりに尻もちを付いてしまい。まばたきを繰り返し、額を抑えて、弱々しい声。


「わ、私……。いや、違ぇ、オレ……は。

確か……くそが。車にはねられて、そんで。

この水路に落とされて、溺れた、んだ。よな?」


 頭髪を掻きむしり、愛らしい顔を手で覆う。


「いいや、オレ……生きてンじゃねぇか。

死んだ。んなわけがねェ……んなわけがよォ」


 唇を噛んで噛んで。血が流れ。ハッとした顔で薄ら笑いを浮かべ、血走った目で声をあげた。


「アハハ……そうだ。あぁ……そうだァッ!

ありゃ、オレじゃねぇ。夢だ、幻覚だッ!

そうだ。そうに決まってやがる。じゃなきゃオレがここに居るわけがねぇんだッ! だろぉ?」


 彼、彼女の並外れた図太さというべきか。

そう思い込むことで、体験してしまった『喪失』の痛みと恐怖から逃避し、自己の精神を防衛することにしたようだ。もっともそれは苦し紛れ。壊れかけた精神状態だからこそ、半ば狂ってしまうことで自己を維持している瀬戸際せとぎわに過ぎなくて……。


「オレは……そうだァ、逃げるんだよッ!

逃げて……。そいで、あァ? クソッ……」


 ……彼女本人が自己を見失い始めてもいる。

本末転倒な状態は、愚昧滑稽な人間性の露呈か。

確固とした自我も、理念も、意義も、人並みの道徳さえも持たずに我侭身侭に生きてきたツケか。


 ――しかし、まるで関係は無い。関心も無い。

 これまで他人の身に対してそうだったように。

 本人の置かれた状態なんて織り込みはしない。

 咎を辿るのみの、独り歩きのかおは静かに迫る。


 今、宵闇への刻限。災いを鎮める童謡の旋律チャイムが最後の節を終え、ぴたりと止んだところ――。




 ◆◆◆




 乳房を揉み、下卑た笑いをしてみる。

いや、何も感じやしない。感情が冷めた。


「アハハ……はぁ、はぁ。チッ、クソッ。

自分の胸なんか弄ってよ、何が楽しいんだ?」


 尻もちをした体勢ままで、しばらくし。

荒れていた呼吸をやっと落ち着けてから、


「尻が、股も、足もだ……気持ち悪りぃ」


 スカートをまくりあげ、濡れた下半身を見る。

軽いアンモニア臭が彼女の鼻を掠めた。


 粗相で汚れた衣類を履いたまま、というのは気持ちが悪かったのか。近くに誰も居ないから『構わないだろう』と呟き、その場で濡れたソックスと下着を脱いで用水路へと投げ捨てる彼女。

 そうしてスカート内で丸出しの恥所。少女としての泌尿器が外気に晒され、舌打ち。気晴らしに恥所を手で弄ってやろうとするも。何故か自分自身の身体を汚す行為そのものに酷い嫌悪感けんおかんが湧き、男としての情欲もまったく昂らなかったので腹立たしげな表情をしただけに留まる。


 その時だった――。


 「あァ? クソッ、車かよ……」

 

 視界の端。今居る道路である、用水路に沿った一車線の細い道を蛇行だこうしながら、それなりの速度で向かってくる危なげな運転の乗用車が現れる。

 彼女は慌ててスカートの裾を押さえつけ、転落防止の柵に寄り、接近してくる車が通過するのを待とうとしたところで「ンがッ!!」少し前の苦痛と恐怖の感情が呼び起こされ、その原因となったのは「オイッあの車!? 私がさっきッはねられた車じゃねェかァッ?!」と。気が付いたとほぼ同時に、速度を落とさずに蛇行を強めた件の車。


「ヤベェぞ!!」


 このままだと、ぶつかる。現実ではないと逃避したばかりなのに、現実としてまた経験してしまう。死、死ぬ、死ぬんだ。このままだと。嫌だ、避けなければ!「――危ねェッ!!」彼女は本当に接触ギリギリのところで、避ける判断。用水路とは反対側に飛び退き転倒しつつ何とか車を回避できた。


 少女の身体をはねていたはずの車はフロントドアをガリガリと柵に擦り、急ハンドル。タイヤからスキール音を響かせて電柱に凄まじい勢いで突っ込んだ。


「…………ぁ」


 車のホイールカバーが外れ、転がる。

茫然とする彼女の近くまで転がり、倒れた。


「ハァ、ハァ……。ンだってんだ」


 激しい動悸に胸を押さえ、頭を掻く。

生きた心地もしないと、彼女は顔を歪めた。


「……ンだよ、オイ。死ぬとこじゃねェか!

ハァ……ざけんなよォオイッ、クソがッ!!」


 そう非のない被害者としての立場で叫ぶ。

 彼女がうつ伏せの体勢で車の方を伺えば、電柱が食い込んで開いたボンネット、ガラスやフレームの破片が辺りに飛び散り、歪んだ車体の運転席の扉がガタガタやらギリギリとした異音と共にゆっくり開かれようとしていて。

 数十秒は要して、なんとか人が脱出できる程まで扉が開いたか。フロント部分全体が大破し、ボンネットから煙を上げている車から男性的な運転手の影が緩徐な動作で降りてくる。そうして咄嗟の回避行動をしたせいで転倒して身体を打ち、まだ起き上がれてはいない彼女の方を向き、低くしゃがれた声で『ぶつぶつ』と譫言うわごとを発しながらフラフラと寄って来る運転手。


 立ちこめる煙と夕陽の逆光によって、倒れる彼女からは運転手の姿がはっきりとしない。すぐ至近距離までやって来たが……そこからは何もせず立っているだけ。何かしているとすれば、絶えず『ぶつぶつ、ぼそぼそ』譫言を発し続けているのみ。事故を起こしてしまい、放心でもしているのか……そう思いきや。奇妙だ。運転手は意味不能な言葉の合間合間に『へらへら』と汚い笑いを含ませているのだ。


 悪びれもせず。ぶつぶつ、ぶつぶつ。

へらへらへらへら。ぼそぼそ、ぼそぼそ。へらへらへらへら。とてつもなく気味が悪い。一体何だコイツはと。理性が飛ぶまで酒でも飲んでいるか、あるいは妙な薬でもやっているのか。どちらにしろ確かなのは『まともな人間ではない』ということ。こんな“クズ”の事故に巻き込まれた被害者が『じぶん』であることがとてつもない不条理で理不尽だと思い。たまらず、


「ふざけんじゃねェよ! ふざけんなクソォ!

こんのォッテメェッ!! クソ野郎がよォ!! ゴミみてェな運転しやがって、ふざけんなァ!! 人のことあのまま引き殺す気かッてんだよッ!!

詫びろ、詫びやがれやァこのクソ野郎がァ!!」


 彼女はよく姿も確認しないうちに、瞬間的に頭に血が上り、激昂。起立し、相手に食って掛かった。


「さっきからよォ、聞こえねェぞォ!

詫びくらいできねェのかクソ野郎がァ!」


 少女としての細腕で相手の胸元を掴む。

やり返されれば、されるがままになっていただろうが……そうはならなかったので図に乗る彼女。


「オイ反応しろよ、クソ野郎ッ!!」


『アハハ……わかったかよ……クソ女……。

あァ……し……し知らね……えな……。

よくある事件……どうしたって……アハハ』


 本当に何だ、コイツは?


 対しての相手からの台詞は、支離滅裂。

要領を得ず、会話にすらなっていない。


「ふざけんなよ……マジ狂ってんのか!?

テメェはよォ、何ほざいてんだァ?!」


『し、し……知らね……アハハ。

冷たくなって……アハハ……発見だ』


 コイツは何を、言っている?


「……ヤベェ奴か? ヤベェ奴だ!

本格的に狂ってやがんじゃねェか!!」


 相手の顔を視認。虚ろな目の中年男だ。

どこかで見た覚えのあるような気に障る顔の。

 そうして『ぼそぼそ、ぶつぶつ』と、男の発していた言葉がやっと聞き取ることができた。まぁ聞き取れたところで、まるで意味不明であることに変わりはなかったが。いいや、加害者のその男がほぼほぼ狂っているということが判明はしたか?

 ガタイが良い中年男は、とても正気だとは言い難い様子で。ただし、やり返してはこない。食って掛かるも体格の差に一瞬は臆した彼女に、緩んだ顔で気持ち悪くニヤついて返しただけ。「やり返してはこねェのか?」と彼女が胸元を掴み身体を揺さぶっても、頬を叩こうとも、脇腹や手足を殴ろうとも男はやはりヘラヘラとまるで意に介したりはしなかった。


『オイ……それ死んだのかよ……アハハ」

だから……なんなんだよ……アハハ……。

オレには関係ねぇ……関係ねぇだろ』


 他人の命を何とも思っていないような言動。

コイツは救いようがない、クズ男だっ!!


「『関係ねぇ』じゃねェよ、このォ!!

クソッ!! このクズ野郎がァ!!」


 耐え兼ねた彼女は、そこで言ってしまう。

言われた際には、必ず相手を半殺しにまで痛め付けてきた。二重の意味で自分自身に致命の一言を。


『――クズ……だとォ?』


 言われ。少女に……言われてしまい。

目を見開き、青筋を立て。声を震わせ反応した男。


「……ようやく反応したのかァテメェ!!

そうだ。クズ野郎以外のなんなんだ、あァ?」


 とはいえ。やり返されないだろうと高を括り、より強めた喧嘩腰で食って掛かってしまう彼女。


 男は『……ッ!』表情を豹変させ、そんな彼女を正面から捕まえた。体格差で少女の華奢な身体に腕を回し、無理矢理に羽交い締めにする。そうして髪を引っ張り頭を殴り、首を絞め、体重をかけて、ろくな抵抗をさせないまま力任せに地面に押し倒した。

 倒した後は、身体の上から覆い被さり。男はガタイの良さを利用して彼女の身を拘束してしまう。


「ンぐッ――ッ!!」


『クズって言ったなァ、言っただろォ!

ほざくんじゃねェぞ、調子乗んなやァ!!

オマエみてぇな、何の苦労もなさそうなクソ女がオレをクズ扱いして良いわけねェんだァ!!』


「――ンがッ!?」


 タガが外れてしまったか、激昂する男。

唾を撒き散らし、目を血走らせて喚き叫ぶ。

それで済まさずに何度も彼女を殴りつけた。

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