第33話

 久悠はハッと目を覚ました。喫茶竜の二階、久悠の自室の白い天井がある。夢を見ていたようだった。竜猟師の男の記憶。古い思い出だ。あの男は今、どうしているだろうか。久しぶりに会いに行ってみようか。しかしこんな体たらくの自分を見せてもがっかりするだけだろう。

 薄れていく夢の余韻に浸っていた久悠だったが、その感覚はすぐ臨戦態勢に切り替わった。久悠は、なにか物音を感じて目を覚ましていた。陽が昇らない早朝の街中で、時折、半浮遊自動車がカーテン越しに青白い光を輝かせながら店の前の道を通り過ぎていく。息を殺して聞き耳を立てていると、部屋の外でコツリコツリと音がした。人の足音――それも忍ばせている足音だ。マイナや他の住人はすでに引っ越しを済ませているようだったが、忘れ物でも取りに来たのだろうか。あるいはウェルメ? しかしこの時間に、それも足音を忍ばせる必要はあるだろうか。だったら泥棒か。考えられる線だった。閉店してだれもいないと思われる建物に入ってきた空き巣かもしれない。久悠は素早く警察に連絡し小声で情報を伝え、音を立てずにベッドから降り、部屋の戸のすぐ横で壁に張り付いて様子を探った。足音は一つ。カチャと隣の部屋の戸を開ける音がした。しかしおそらくその部屋は空っぽだったので、足音は次いで久悠の部屋の前に来る。久悠の心臓の音がドッドと大きくなっている。目の前にあるノブがゆっくり回り、スッと戸が開き、人が入ってきた。暗闇の中、久悠は咄嗟にその人影に飛び掛かった。部屋の外で半浮遊自動車の光が流れ、相手が男であること、光を反射する鋭利な刃物を持っていることが分かった。相手の関節を捩じり、落とした刃物を遠くへ蹴飛ばし、身体を地面に押さえつける。

「ぐっ」と男が声を漏らした。「ウェルメか?」

 男はなぜそう久悠に問いかけたのだろう。ただの空き巣ではなさそうだった。

「だれだ、お前」と久悠が聞く。

「お前こそだれだ。ウェルメはどこに行った」

 久悠は男の関節をさらに締め上げた。

「わかった、答える」と男は簡単に降参した。「おれはあの女と取り引きしていた商社の人間だ。喫茶店やバーの経営に必要なものを卸していた。それが突然店を閉めやがって、こっちもとんだとばっちりだ。まだ回収してない代金が大量に残ってるんだ。それを回収するためにウェルメと連絡を取りたいんだが、音信不通で困ってる。この時間なら家にいるかと思ってきてみたんだ」

「嘘だな。少なくともナイフを持って忍び込む理由にはならない」

 久悠がそう断じて力を込め、本当のことを言えと圧をかける。すると男は笑い出した。

「なにがおかしい」

「いや、なんでもない」そして男は横顔を見せ、余裕の表情で久悠に言った。「取引しないか? ウェルメの居場所を教えてくれたら、お前は見逃してやる」

 半浮遊自動車の光が通り過ぎる。男の瞳は白かった。顔の骨格は細めで、やや老いていた。

「見逃す? 立場が逆じゃないか?」

「いや、そうでもない」男が手首を回し、コキッと音を鳴らした。「締め上げが甘いな。こんな拘束、おれは簡単に抜けられる。力もおれの方が強いだろう。武術の心得もあるが、お前はどうやらなさそうだ。それにしてはおれの不意を突いてよくこの状況にまで持ち込んだと思うが、相手が悪かった」

「答えろ。お前はだれだ。なんでウェルメを探している」

 しかし久悠が言い終わると同時に、床に押さえつけられていた男の身体とその上に乗る久悠の重心がぐわんと歪み、久悠の手から男の腕が抜け、ひっくり返り、気付けば久悠はあおむけの状態で床に寝転がり、男は片手で久悠の首を鷲掴みにしていた。

「言っただろ。ウェルメの取り引き相手だ。そのウェルメが大事な商品を抱えて逃げだしたから探している」そして男は手に力を込めて久悠の首を徐々に絞めつつ、問いかける。「ウェルメがどこにいるか知っているか? 教えてくれたらおれはすぐにこの手を離して闇に消えよう。だがそうでなければお前を殺す。ここで人が死ねば騒ぎになる。建物を所有しているウェルメを警察が探す。それはつまりおれの味方が増えるってことだ。おれはどちらでも構わない。ウェルメを探し出せればそれでいい」

 男の力は強く、最小限の拘束で久悠のあらゆる抵抗に対応していた。恐ろしいほど効率的な技術。久悠は男に自分と近しいものを感じ取った。久悠は竜の殺し屋だ。男は、人の殺し屋だ。

「ウェルメのことは知らない。久々にここに帰ってきたらもうこんな状態だった」

「隠しても、お前にはなんの得もないんだがな」

「それにはおれも同意する。選択肢が殺される道しかないと知ってショックを受けているところだ」

「じゃあ抜け道を教えてやろうか。一緒にウェルメを探すか?」

「ありがたい話だが、事情がわからない状態で恩人は売れない」

「そうか。じゃあ死んでもらうしかない」

 男が力を込め、久悠の首が締まる。息ができないというその前に、血管が塞がれて気が遠くなる。死を予感させる漠然とした確信が久悠の頭の隅に生まれ、男の顔がぼやけはじめたところで、外から青と赤の強い光がカーテンを貫いて部屋の中を照らし出した。警察だ。思っていたよりも早かった。そんな光景の変化に男の重心が僅かに動揺し、久悠はその隙を見逃さず男の身体を膝で打った。首から手が離れ、久悠は咳き込みながら立ち上がる。頭がくらっとして視界が揺れる。血の気が引いて倒れそうになる。男は久悠の頭部めがけ蹴りを放つが、ちょうど久悠は立ち眩みのため片膝をつき、男の攻撃が躱される。

「運がいいな。いや、おれのミスか」

 男はそう呟くと、フッと姿を消した。入れ替わるように銃を構えた警察官が素早く久悠の部屋へと入ってきた。部屋に明かりが灯り、警官の一人が久悠に声をかける。

 久悠の意識は朦朧としていた。さながら生と死の狭間にでもいるかのようだ。

「駆け引きをしろ。命の駆け引きを」

 夢で聞いた言葉が、久悠の頭の中で繰り返されていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る