第32話

 美しい鳴き声が人気のニホンカナリヤリュウは、急にひどく醜い唸り声を発し、牙を剥きだしにして久悠を睨みつけ、四つの足で不器用に岩場を乗り越えながら久悠へと向かってきた。それは今まで見たことのない表情であり行動だった。見慣れない男がいたから警戒しているのだろうか。いや、だとしたら近寄ってなどこない。それにこの竜は男に一瞥もくれていない。久悠を睨み、久悠に向かってきている。もしかして別の竜なのだろうか。しかし自分が飼っていた竜を自分が見紛うはずもない。一体どうして――

 ダンと銃声が響き、竜の頭部があらぬ方向を向いて血をまき散らした。竜の身体は倒れ、岩の上に転がった。振り返ると、男が銃を構え、銃筒からは煙が出ていた。

「なにするんだよ!」思わず久悠は怒鳴っていた。その怒号が山々で反射し、何度も反響して繰り返される。「なんで撃った! なんで殺した! 今、こいつは、おれのところに……!」

 溢れる涙を拭って、久悠は撃たれた竜の元へ向かおうとした。男はその久悠を太い片手一本で止め、今度は全く振り払えなかった。

「おれのところに、なんだ?」と男が聞く。

「おれのところに来ようとしてた!」

「ああ。それでなにをするつもりだったと思う?」

「おれはあいつを抱きしめたかった。だからあいつも」

「そんな様子だったか? 血走った目で、荒々しい牙で、鋭い爪で。あの勢いで飛び掛かってくる小型竜を、お前のこの細い身体は受け止めきれたのか?」

 久悠は男を睨みつけることしかできなかった。

「あの竜は飢えていた。周囲の食痕を見るに、この辺りのものはあらかた口に入れてみたのだろう。だが腹がそれを受け付けなかった。下痢や嘔吐の痕跡がそこかしこにあった。なんでもいいから腹を満たしたい。そんな時にお前が現れた」

「おれを喰おうとしてたってことかよ」

「そうだ」

 あまりにきっぱりと言い切られたので、久悠の怒りは戸惑いに切り替わった。

「そんなわけない。おれを見つけた時――」

「一瞬だが、いつもの表情をみせたな。それが竜だ。竜は過去をしっかり記憶している。あの竜は確かに一瞬、お前を思い出した。しかしこの三日という極限の環境での体験が、お前の記憶の上に生存本能が上塗りされた。結果、竜はお前を襲おうとした」

 男は久悠を連れて竜の元へ慎重に歩み寄った。もし銃弾が急所を撃ち抜いていなかった場合、最後の力を振り絞った反撃が予想されるらしい。大きな岩を乗り越えてその先を覗くと、かつての久悠の相棒が喉元から血を流して斃れていた。久悠は竜の名を叫んで駆け寄り、その亡骸に抱き着いた。止まらない涙を拭うことも忘れ、何度もごめんと謝った。しばらくして久悠が落ち着いたところで、男は今日の日付と竜討伐管理簿のナンバーを手持ちのホワイトボードに書いて竜の横に置き、古臭いスマートフォンで写真を撮った。

 山からの帰り道、男は久悠に語った。

「もしおれが竜を捨てて遭難した人間を見つけた場合、可能な限り、捨てられた竜を見せるようにしている。多くの場合、飼い主は自分の行為から目を背けたいと考える。だから多くの場合、その人間はおれの銃のスコープを覗かない。三日後の様子を見せてやるとも伝えるんだが、律儀に三日後に来たのはおまえがはじめてだった。お前は竜の最後の瞬間にまで、目を背けることをしなかった」

「目を背けるとか背けないとか、どうでもいい」と久悠は返した。「おれがあの竜を追い込んだ。おれがあの竜を不幸にさせた」

「そうだな。計画性のない竜の飼育はそれだけで罪だとおれは考えている。結果、人は竜を山や森に逃がす。そいつらは木の実はもちろん葉や皮、草や根っこ、それに落ち葉や石や砂に至るまで口にいれ、そのすべてで腹を壊し、恐怖心と孤独感の中、極限状態のまま飢えて死んでいく。そうなる前におれたち猟師に撃ち殺されることもあるが、そういった竜はむしろ運がいいと言えるかもしれない。竜は人との暮らしを覚えている。たとえ死に際に現れた人間が飼い主でなくても、竜はかつての温もりを思い出す。しかしそれは一瞬のことだ。竜は自分が捨てられたことも理解する。そのためすぐに思い出を恨みで塗り替えて、人間に襲い掛かってくる。だからおれが竜を殺す猟師としてしてやれることは、その温かい思い出に包まれた一瞬のうちに息の音を止めてやることだ。恨みを思い出す前に殺してやる。そのために、おれは猟師をやっている」

「じゃあ、もしさっき、おれが飛び出さなければ」

「ああ。あのニホンカナリヤリュウがお前の存在に気付き、再開を喜んだ一瞬があった。その一瞬のうちに殺せていたら、あの竜の最後は幸せであり穏やかだったかもしれない」

「最後の救いすら、おれはあいつから奪ってしまったってことか」

 男は答えずに山を下り続けたが、その背中は肯定を意味しているように久悠には思えた。

「おれも竜の猟師になりたい」

 久悠は呟いた。軽いトラッキングの疲れの中で出た軽率な、しかし率直な思いだった。

「あんたから色々教わりたい。人間社会の中での竜の在り方、生き方、そして死に方。そういったことをしっかり考えて、重んじて、目を背けずに引き金を引ける人間になりたい」

「お前は竜猟師には向いていないな」と男が断じる。その言葉に俯いた久悠だったが、続く「おれと同じだ」という男の自虐混じりの言葉に、久悠は顔を上げた。翌日から、久悠は男に連れられて山籠もりを開始した。同時に狩猟免許と銃所持のための各種講習の受講も開始し、そのために久悠は大学を休校し、やがて退学することになる。夫婦熱の冷めた久悠の両親はこの間にお互いに別のパートナーを作っており、ある意味円満に離婚をした。

 久悠がライフル銃を持てたのは、男と出会ってからちょうど一年経つ頃だった。

「今はすぐにライフル銃が持てるのか」と男は久悠の免許証をみて呟いた。「おれが猟師になった頃は、先にショットガンを持って経験を積んでから出ないと所持の許可が下りなかったんだ。これも竜が生まれてからの変化だな」

「あんたは時代に疎すぎる。いい加減スマホから紋白端末タトゥに乗り換えた方がいい」

「気が向いたらな」

 男は一笑し、久悠の先を歩いて山の奥へと向かった。

 それから久悠と男は何度も山や森に足を運び、数年の歳月の間、久悠は男から竜狩猟のイロハを叩き込まれた。

「単純に竜を追いかけようとするな。駆け引きをしろ」

 ある時、男は久悠にそう語っていた。

「おれたちは竜の命を奪う仕事をしている。対象の竜を殺してホワイトボードと一緒に写真に撮り、それを提出するだけで金になる仕事だ。だからそれだけにのめり込んでしまうと、おれたちは大切なものを忘れてしまうことになる。竜という生き物の命を感じて、森や山で必死に生きている竜のことを想像するんだ。なにを食べても空腹が満たされない絶望感。夜のとばりの恐怖心。鬱蒼と生い茂る木々の片隅に身を埋めて、どうして自分がこんな目に遭っているのかと困惑し、それでも生きようと竜たちはもがいている。人の足音がして、一瞬だけ期待をするが、すぐに人間という生き物の非道さを思い出す。ここは隠れてやり過ごそうと竜は考える。しばらくして、今度は鹿の足音がして、植物がダメなら動物を食べてみるのはどうかと竜は思い至る。竜が狩りをはじめようと体勢を整える中、カチッとライフルのボルトをセットする音が鳴る。〝なんだろう〟と顔をあげると、なぜかそこに人間がいた。やっぱり人間が迎えに来てくれたのか。その姿に飼い主の面影を見る。だがその時にはもう、竜は死んでいる。そういう猟がおれの理想だ」

「駆け引き……」

「竜という命との駆け引きだ。生きていることに敬意を払うということだ」

 銃を構える男の姿が白い景色の中に映っている。

 そして久悠が男から独立する日、彼はフィンベアを久悠に手渡した。

「こいつを使ってみろ。おれには少し小さくてな。すぐに欠けケラレが出てしまう。お前に託す」

 そうして手に取った古い骨董品のようなライフル銃は、驚くほど久悠の身体にマッチした。

 駆け引きをしろ。命の駆け引きを――

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