第六章 駆け引き

第31話

「久悠ちゃん。久しぶりね」

「どうも。喫茶竜、閉店したんですね」

「知らなかったの? 二、三日前のことよ。ウェルメさんから直接連絡が来て、突然店を閉めることになったって。どうしたのって聞いてみても、理由は一つも話さなかったのよ。久悠ちゃんはなにか聞いてなかったの?」

「いえ」久悠はゆっくりと首を横に振る。

 女性は久悠を気にかけて他にもなにか言おうとしたが、ミドリがしきりにリードを引っ張るため、久悠は竜の散歩を優先してあげてほしいと伝えた。

 再び一人になり、久悠は合鍵を使って扉を開けた。まだ鍵が使えてよかったと少しだけホッとする。店内に入ると、重い木の椅子がテーブルにひっくり返されて乗せられていて、外よりも暗く、そして冷たい雰囲気だった。二階に上がり久悠の部屋の前に行くと、便箋が一つ、ドアノブの上に乗せられていた。ウェルメが好きそうな青い花柄の便箋だった。封を開け、中の手紙を取り出す。

『久悠ちゃんへ』と書かれた手紙は、今では珍しい手書き文字だった。『突然お店が閉まっていてびっくりしたでしょう? ごめんね。久悠ちゃんが大変な状況だっていうのは知っていたのだけれど、こちらも同じくらい大変なことが起こってしまっていて、お店を維持することが難しくなってしまいました。部屋はもう少しの間であれば使ってもらって構わないけれど、そう遠くないうちに引っ越しをお願いします。勝手にごめんね。少しですが、転居費用の足しにしてください。またいつか直接会うことができた時に、事情を説明するね』

 手紙の一部に光彩バーコードが描かれていて、それが網膜の中で反射すると、久悠にクレジットがチャージされた。手紙には少しと書かれていたが、その額は久悠の年収とそう大差ない大きな額だった。添えられた文章によると、久悠の散歩代行ボランティアを所定の時給に換算した場合に支払われる額だという。それにしては多すぎるなと思いながらも、久悠は懐かしの自分の部屋に足を踏み入れた。デスクと一体型の多機能ベッドが、三畳ほどの部屋の大半を占めている。空いたスペースには椅子が置かれていて、壁には古い竜討伐管理簿が貼り付けられたままになっていた。シェルターに移る前に片付けたので部屋に物は少なかったが、それでも、どこか窮屈に感じられる。ベッドによじ登って横になると、僅かにウェルメと同じ芳香剤の匂いがした。洗ってくれていたようだ。

 すべて、失ってしまったな。

 深い深呼吸かため息か。久悠は白い天井を見つめながら思っていた。どこかの時点までは順調のはずだった。それがいつの間にか一転して、リュウも、レクトアも、銃も失ってしまっていた。この部屋も、要は自分が立ち退かなければウェルメはこの建物を売却することができないのだろう。早めに出ていかなければ、きっと迷惑がかかる。かといってシェルターにはすでに迷惑をかけてしまっているので戻るわけにはいかない。住む場所も失ってしまったのだ。

 おれはこれからなにをして生きていけばいいのだろう。どこで生きていけばいいのだろう。過去にも似たようなことがあったことを久悠は思い出していた。


  *


 山の中腹の開けた岩場の影に、フィンベア338口径マグナムを構えた男がいた。男は銃を岩場に固定すると、自分の後ろにいた久悠を手招き、スコープを覗かせた。

「え。なにも見えないけど」と、まだ学生だった久悠は言った。「スコープの中は真っ暗だ」

 すると男は答えた。

欠けケラレだ。真っ直ぐスコープを覗いていないと同心円に欠けケラレが出る。この欠けケラレが出ているうちは正確な射撃はできないし、こいつは頭を少し動かした程度では消えてくれない。きちんと姿勢を正し、適切に銃を構えて肩付けと頬付けをし、射線を合わせて真っ直ぐスコープを覗くんだ」

 その男はまるで熊のような大男だった。けれどタールスタングのような不快さはない。男は久悠の身体を掴んで強引に姿勢を直すと、再びスコープを覗くよう指示した。

 スコープの先から光が入った。一匹の竜が見える。緑色の鱗が太陽の光を反射して輝いている。まだ半月状の欠けケラレはあるが、反対側の山の斜面を歩く小さなニホンカナリヤリュウが映っていた。

「あの竜を狙ってるのか?」久悠は恐る恐る聞いた。「あれは今さっきおれが捨てた竜だ」

「竜を捨てに山に入り、そして遭難したんだろう。最近はみんなそうだ」

「あんた、竜猟師だろ」

「そうだ。おれは普段からこの山で捨てられた竜を殺して過ごしている」

「あの竜も殺すのか」

「あの竜は殺さない」

 男の言葉に久悠はホッとしたが、それは一瞬のことだった。

「あの竜を殺しても、今はまだ一銭にもならないからな。ACMSが発行する竜討伐管理簿に当該個体と思われる竜が掲載されないと、どんなに竜を殺しても金にはならない。逆に言えば、竜討伐管理簿にあの竜と思われる情報が出てくれば、おれは容赦なくあいつを撃つ」

 久悠はまだ竜を捨てたばかりだ。このことがACMSに知られるのは時間の問題だろう。ACMSが野生竜の存在を知る手段はいくつかあるが、中でも最もオードソックスなものが目撃情報だ。早ければ今日にでもこの男が野生竜の目撃情報をACMSに提供するだろう。野生化した竜は人を襲う危険があるため早急な討伐が求められているが、討伐よりも先に目撃情報を提供し管理簿に当該竜の情報を載せなければ猟として認められず、賞金がもらえないどころか銃の不法使用の疑いがかけられる。

「どうして竜を殺すんだ」

 恨みのこもった声で久悠は聞いた。つまりこの男は明日にでもあの竜を殺すと言っているのだ。久悠がこれまで大切に育て、愛情を注ぎ、同じ時間を過ごしてきた竜を、この男は平気な顔をして銃で撃ち殺そうとしている。

 ところが男は、「どうして竜を捨てた」と、逆に男は質問を返してきた。

「おれは金になるから竜を撃つ。金になるということは需要があるということだ。竜の皮や肉に価値があるわけじゃない。その存在が消えること自体に金が発生する。野生竜はそれだけ人間社会にとって有害な存在ということだ。お前はそんな有害な竜を生み出した。おれはそれを駆除するが、お前はどうして生み出した」

「有害なんかじゃない」苦しい口調で言い返す久悠。「あいつはいい奴だ。おれと心が通じてる。でもおれの今の経済力じゃ飼ってやることができないんだ。里親を探したりブリーダーの所を訪ねたりしてみたけどダメだった。だから捨てるしかなかった。でも、あいつは人なんか襲うわけない。この森でなんとか生き延びてほしいと思ってる」

 両拳に力を込めて言う久悠だったが、その力の根源は怒りであり、その怒りの矛先は自分だった。なんて勝手なことを言っているのだろうと自覚するに十分な自分の言葉だった。

「お前は」男はゆっくりと切り出す。「さっきまで遭難していたな。どんな気持ちだった」

「……心細かった。孤独で、妙に寒気がして、陽が傾きはじめて、このまま夜になったら気が狂うんじゃないかと思った」

「あの竜も同じ心境だろう」

 胸が詰まりそうだった。今すぐあいつの元に駆け寄って抱き上げて家に帰りたい。今ならまだ間に合うだろう。でも、それもいつまで続けられるだろうか。そのつっかえが、久悠の足を地面に重く繋ぎ止めていた。

「また三日後にこの山に来い。そしたらあの竜に合わせてやる。他の猟師に討伐されていなければの話だが」

 男は名乗らなかった。そのため久悠も名乗らなかった。この日、久悠は男に導かれ、陽が沈みきる前に里に戻ることができた。

 三日後、久悠は迷っていたが、自宅に竜がいない喪失感もあり男に会いに行くことにした。待ち合わせ場所を特に決めておらず連絡先も知らないため、山を訪れた久悠が再び遭難したように辺りを彷徨っていると、やがて男が現れ久悠に近寄ってきた。どうして居場所がわかったのか聞いてみたが、周囲の音を聞いたのだという要領の得ない言葉が返ってきた。

 岩肌の多い山で、男は一時間ほどで先の竜を見つけ出した。竜のやせ細った姿を見て、久悠は一目で涙を流した。強い罪悪感に駆られ、山に捨てたのはやはり間違いだったと思いなおした。三日前に行動に移せなかったことを酷く後悔し、今からでも遅くないはずだと竜の元へと向かおうとした。しかしその久悠を男が止めた。

「やめておけ」

「どうして」

「死ぬぞ」

 言っている意味がわからなかった。久悠は男の手を振り払い、竜に向かった。

 久悠の足音に気付いた竜が顔を上げ、久悠を見つける。

〝久悠みつけた〟

 いつものあの表情で、久悠と目が合った。

 けれど、それは一瞬のことだった。

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