第4話 文字が読めないバグを発見しました。修正パッチはいつ出ますか?

 アリアは、教師から渡されたテキストに目を落とした瞬間に驚愕して目を見開いた。

 テキストの表紙には、文字らしき記号が並んでいた。


 「え、嘘でしょ!?」


 驚きのあまり、ポツリと言葉が零れた。

 もしかしてと思い、アリアは恐る恐る表紙を捲って中を見た。

 そこには、全く見たこともない異世界の文字がページいっぱいに並んでいた。

 アリアは、ただ呆然とページに目を落としていた。そして、自分の中に漠然とした恐怖が浮かんできた。その恐怖がだんだんとアリアの中で形を成してきた。

 アリアは、恐怖から身体に震えが走り、呼吸が乱れ始めた。目に涙が溢れ、視界が滲んでいく。

 はっ、はっ、はっ、激しく短い呼吸が続き息苦しさを感じ始めるアリア。


 「く、苦しい」


 苦しさから胸を押え、頭を伏せる。

 バッドエンド即ち自らの死の恐怖がアリアを襲う。そして、アリアの頭の中で自身の最悪が勝手に想像されていく。

 貴族の特権で学園に入ったが、文字が読めないことで授業についていけず、成績が振るわない。成績不振で学園を退学になってしまう。両親からこんな面汚しはいらないと勘当され放り出されてしまう。アリアに恨みを持った人達に殺されてしまう。または、捕まって、人身売買をされて、男の人達に・・・、そして、精神的に殺されてしまう。そして、そして・・・。

 アリアの最悪に対する想像は止まることなく頭の中に浮かび続ける。

 アリアの突然の異変に教師は、驚き慌てて呼びかける。


 「お嬢様、大丈夫でございますか。しっかりしてください」


 何度かアリアに呼びかけたが、様子は変わることなく身体を震わせ苦しそうな息づかいを続けていた。

 教師は呼びかけるだけでは駄目だと考え、先ほどよりも大きな声で呼びかけると同時にアリアの身体を揺さぶった。


 「お嬢様、アリアお嬢様、しっかりしてください」


 しかし、それでもアリアの震えは止まらず、涙を流しながら苦しんでいた。そして、正面から見た顔は涙で濡れていて、涙を流す目は赤くなってしまっていた。更に、虚ろな視線で口からぶつぶつとバッドエンドが・・・と呟いていた。

 そのアリアの異常な姿を見た教師は、覚悟を決め最後の手段を取る。


 「失礼します」


 一度詫びを入れる。

 パンッ。

 乾いた音と共にアリアの頬を張った。

 アリアは、頬に痛みと衝撃を感じた。そして、無意識に手で頬をさすると涙で滲んだ視界で教師を見た。

 自分に意識を向けられたことに気付いた教師は、再びアリアに呼びかけた。


 「アリアお嬢様、大丈夫でございますか。意識をしっかりとお持ちになってください」


 頬に感じた痛みと教師の呼びかけに呆然としていたアリアの意識がだんだんとはっきりしてくる。


 「あれ、俺は一体?」


 まだ少し頭が混乱しているアリアは、視線を周りに向ける。

 視界に見知らぬ部屋と眼鏡を掛けた性格がきつそうな50代ぐらいの女性の姿が目に入った。


 「お嬢様、私のことがお分かりになりますか?」


 そのように問いかけられたアリアは、目の前の女性の事を思い出そうと頭を働かせる。そして、今まで頭に掛かっていた霧が突如晴れた。

 アリアの脳裏に今までの錯乱した自分自身のみっともない姿が思い起こされる。


 (あーーーー!!)


 心の中で絶叫を上げる。

 そして、アリアは頭を抱えて机に突っ伏した。

 脳裏に浮かぶのは、文字が読めないぐらいで、バッドエンドの恐怖に駆られ、涙を流してみっともなく錯乱した自分自身の姿。


 (恥ずかしいーーーー!!)


 別の意味で涙を流し、身体を震わせるアリア。

 一瞬正気に戻ったように見えたアリアが、また頭を伏せて身体を震わせていることに心配になった教師が再び呼びかける。


 「しっかりしてください、お嬢様。いかがなさったのですか?」


 アリアは呼びかけられていることに気付き、顔を上げると心配そうに自分を見つめる教師の顔が目に入った。


 「心配をかけてしまってごめんなさい。先ほどの自分の姿を思い出してしまい、あまりの見苦しさに思わず恥じ入ってしまいました」


 アリアは、羞恥心でうっすら赤く染まった顔に苦笑を浮かべて答えた。

 それを聞いた教師は、ほっと胸を撫で下ろした。そして、先ほどの無礼を謝罪しようと口を開こうとするが、それよりも早くアリアが感謝と謝罪の言葉を口にした。


 「先生、先ほどはわたくしを正気に戻してくださり、ありがとうございます。わたくしは、愚かなことに疲れから悪夢のような恐ろしいことに囚われてしまい、あのような醜い姿を晒してしまいました。本当にわたくしを正気に戻してくださり、ありがとうございます。そして、貴重な先生の授業の時間を無駄にしてしまい申し訳あしません」


 アリアは、感謝と謝罪の念から机から立ち上がり教師へと深々と頭を下げた。

 教師はすぐにアリアに頭を上げるようにお願いすると同時に、先ほどの自らの行いを謝罪する。


 「お嬢様、すぐにお顔をお上げください。私のような一介の教師に頭を下げる必要などありません。それに、頭を下げなければならないのは私の方です。教師とありながら生徒に手を上げるなどあってはならないことです。本当に申し訳ございませんでした」


 床に頭をつけて深く謝罪する。更に、謝罪の言葉が続く。


 「今日限りでお嬢様の教師を辞めさせていただきます。そして、この罪を自らの命を持って償おうと思います。どうかお嬢様、この私に自害でもなんでもお申し付けください」


 教師はおもむろにどこからともなく小刀を取り出すと、自らの喉に突き付けた。


 「さぁお嬢様、どうぞ、一思いにお申し付けください!!」


 アリアは、それに慌てふためき心の中で叫ぶ。


 (やめてーーー!!そこまでしなくていいから。私の部屋が事故部屋になっちゃうから)


 アリアは、急いで教師を止める。


 「落ち着いてください。何もそこまでしなくてもいいですから」

 「いえ、お嬢様、私は教師として超えてはならない線を越えてしまいました。ですので、そのけじめを付けなければなりません。さぁ、お嬢様、一思いに仰ってください」


 小刀を握る手に力を込めると、覚悟の決まった視線でアリアを見つめる。

 揺るぎない覚悟を見せられたアリアは、その覚悟に応えるべく自身も覚悟を決める。


 「分かりました。それでは、あなたに命じます。今すぐに、自分の命を無駄にするような愚かな行為をお止めなさい。そして、これからもわたくしに勉強を教えてください」


 アリアは厳かな雰囲気で命じた後、フッと雰囲気を和らげ微笑みを浮かべて優しく教師にお願いした。


 「しかし、お嬢様、私は」

 「いいのです。先程の事を悔やむ必要などありません。先生がわたくしを叩いてくださらなければ、わたくしは今のように正気を取り戻すことができたでしょうか。いいえ、きっと恐怖に気が狂っていたかもしれません。ほら、見てください、先生。わたくしは、もう元気そのものです」

 「それでも、生徒に手を上げるなど」


 小刀を手が震えるほど握りしめ激しい口調で自身を責める。

 そして、教職に携わる者として自身に立てた誓いを破ってしまった己を激しく責め、悔しさに身体を震わせる。

 アリアは、そこまで教師としての矜持を強く持つこの教師に感動を覚えた。それと同時にここまで生徒思いの教師に勉強を教わりたいとも強く思った。


 「先生、先ほども言った通り、わたくしはぜんぜん気にもしていませんし、怒ってもいません。あれは、本気で生徒を救おうとした立派な行為です。なにも責めることはありません」


 アリアは、一度教師に視線を向け、また自分を責める言葉を口にしようとした教師に、微笑みかけ、アリアの口の前で人差し指を立て軽く口を押える。


 「責められるとしたら、こんなにも先生を苦しませてしまったわたくし自身です。わたくしが恐怖に囚われ、錯乱しなければ先生が手を上げることもなかった。全ては、心の弱いわたくしが原因です」


 一拍置き、続きを話す


 「先程の平手打ちは、そんな心の弱いわたくしへの戒めとお考え下さい。わたくしもあのような醜い姿を見せてしまった自分自身への戒めと考えます。更に、心の弱いわたくしへの先生からの愛ある喝であり鼓舞であるとも考えます」


 ここまで話して、アリアは自分の話していることがめちゃくちゃなことに気付いた。


 (自分への戒めってなんだ?愛ある鼓舞って何?俺は、何を話しているんだ?普通に正気に戻そうとして叩かれただけなのに、何話しているんだ、俺?)


 もう何を話しているのか分からなくなったアリアは、話を締めくくるために続きを話す。


 「先生が生徒を大切に思っていることも教師としての立派な矜持をお持ちのこともわたくしは、深く理解できました。ですから、わたくしはそんな先生に勉強を教わりたいと心の底から強く思うのです。お願いですから、辞めるなどとおっしゃらずにこれからもわたくしの教師として勉強を教えてください」


 アリアは、教師の前に座ると小刀を握る手を上から強く握りしめ、まっすぐ教師の目を見つめる。

 その訴えが教師の心に届いたのか、小刀を握る手から力が抜けた。


 「分かりました、お嬢様」


 一言答えると、アリアに危ないから手を放すようにお願いし、小刀を鞄にしまった。

 アリアは、安堵しホッと一息吐いた。


 「見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ございませんでした」


 深く頭を下げる。


 「頭を上げてください、先生。先生は何も悪くはありません。むしろ、賞賛に値する素晴らしい行動であるとわたくしは思います。もし、先生がわたくしを正気に戻してくださらなければ、今のわたくしはここにはいません。ですから、先生の行為は賞賛されど非難されるいわれなど何一つありません」


 アリアは、教師に抱き着く。


 「お願いです。もう辞めるなどと言わないでください。わたくしは、もう誰も失いたくはないのです」


 アリアの身体が勝手に教師に抱き着き、最後の言葉が零れた。そして、瞳から再び涙が零れた。

 アリアは、自分の意思とは関係なく身体が動いたことに驚く。


 (何で身体が勝手に動くんだ。俺は、悪役令嬢に転生したはずで、この身体は俺の物のはず。どういうことだ!?)


 アリアが驚き混乱している間に、教師が口を開く。


 「落ち着いてください、お嬢様。分かりましたから、私は辞めずにお嬢様の教育係としてお傍にいますから、だから落ち着いてください」


 自分の胸で涙するアリアを落ち着かせようと優しく抱き、頭を撫でる。そして、あれ以降身体の自由を取り戻したアリアは、身体が勝手にしたこの状況をどうするかに頭を悩ましていた。

 先ほどまで感じていた身体の震えが止まったことに気付いた教師は、アリアに優しく声を掛けた。


 「落ち着きましたか、お嬢様」


 これ幸いとアリアは、教師から身体を離す。


 「ええ、もう大丈夫です」


 アリアは床から立ち上がり、勉強を再開するために机に向かおうとする。


 「アリアお嬢様、少々お待ちください」


 立ち上がろうとしたアリアを教師が呼び止めた。


 「お嬢様、もうお身体の具合は大丈夫ですか?」

 「ええ、本当にもう大丈夫ですよ」


 アリアは、今度こそは床から立ち上がり机に着く。


 「それでは先生、中断してしまっていた授業の再開をお願いいたします」


 教師に向かって頭を下げてから、机の上のテキストに目を落とす。

 そこには、やはり見たこともない文字が並んでいた。


 「お嬢様、本当にお身体の具合は大丈夫なのでございますか。無理をなさってはいませんか。お嬢様のお身体を考えて本日の授業はここまでで、よろしいのではありませんか」


 アリアを気遣う言葉を教師から受けたがアリアはここで引く気はなかった。

 改めてテキストに目を落とす、アリア。


 「いいえ、ここで止めるつもりはありません。わたくしは、まだまだ未熟でありもっと多くを学ばなければならないことを、今身を持って感じています」


 そう、本当にこの世界の多くの事を学ばなければならないとアリアはひしひしと感じていた。

 ここで止めてしまっては、先ほどの想像した最悪が現実になってしまう。だから、アリアは、ここで止めるわけにはいかない。一分、一秒でも早くこの世界の文字を覚え、学園に通った時に授業に付いていけるようにしなければならない。

 アリアは、教師をまっすぐ見つめる。

 はぁ、教師は一つ息を吐く。


 「アリアお嬢様分かりました。では、授業を再開いたします」

 「はい、よろしくお願いします」


 顔に笑みを浮かべる。


 「授業を再開する前に1つよろしいですか」

 「はい、どうかしましたか」


 小首を傾げるアリア。


 「それでは、お嬢様あちらをご覧ください」


 指示されたところに顔を向けると大きな姿見があった。

 鏡には涙や鼻水などでぐちゃぐちゃになった自分の顔が映っていた。


 「失礼します」


 一度詫びを入れるとバッグから取り出したハンカチでアリアの顔を優しく拭う。そして、今度はヘアーブラシを取り出すとぼさぼさになった髪を丁寧に梳いていく。


 「お嬢様、公爵家のご令嬢として常に身だしなみには気をお使いください。そして、このような姿を決して外ではお見せにならないように。いいですね、お嬢様!!」


 厳しい口調でアリアに注意を促しているが、アリアの正面の鏡に映る教師の顔には、微笑みが浮かんでいた。そこには、母が娘の髪を梳くような温かい雰囲気があった。

 アリアも笑みを浮かべて教師に答える。


 「そうですね、気を付けます」


 そして、身だしなみを整えてもらったアリアは再び授業に戻る。






 「それではお嬢様、テキストを開いてください。残りの時間いっぱいまで授業を続けますよ」


 そのように教師が言うと、アリアの傍で授業を再開する姿勢を取った。

 アリアは、そんなやる気に満ちた先ほどの姿とは異なる教師の姿を見られてうれしく思う反面、アリアの現状を知った時にどのような反応をされるかが怖かった。

 落胆されないだろうか、見放されないだろうかそのような不安が頭の中を埋め尽くしていく。

 それでも、自身のバッドエンドを回避するためには、学園入学前のこのような最初のうちに躓くわけにもいかなかった。

 アリアは、教師に伝える覚悟を決める。


 (よし、言うぞ!深呼吸を3回したら言うぞ)


 す~う、は~。す~う、は~。す~う、は~。


 (いけるぞ!さぁ、言うんだ俺。いや、まてまて。少し教師の様子を見てみよう)


 チラッと教師に顔を向ける。


 (よし、いけ俺!ちょっと待った。こういうのはタイミングが重要だ。心の中で10秒数えたらいくぞ!1、2、3、・・・。いや、後30秒必要か。1、2、3、・・・)


 教師の顔を見たら俯き、少し経ったらまた教師の顔を見て俯く、客観的に見ても怪しい挙動をくり返すアリア。

 教師はそのようなアリアを見て、何か自分に伝えたいことがあるのではと思い呼びかけてみた。


 「お嬢様?」

 「ひゃい!?」


 突然の呼びかけに身体がビクッと震え、口から奇妙な声が漏れた。


 「お嬢様、何か私に申したいことがあるのではありませんか?」


 問われたアリアは、数回教師と床に視線を動かした後、今度こそ覚悟を決める。


 (男、いや女は度胸だ)

 「あ、あ、あの先生。じ、じじ、実は」


 緊張で声が震える。

 教師は、何も言わず静かにアリアを見つめる。


 「先生、あの、本当に怒らないでくださいね」


 伏し目がちに伝えたいことを話していく。


 「わ、わわ、わた、わたた、わたくくしは、文字が分かりません!!忘れました!!ごめんなさい!!」


 上手い言い回しが思いつかなかったアリアは、最後に吹っ切れた直接的な言葉を発した。

 アリアは、怖くて顔を上げて教師を見られなかった。


 (アニメ、マンガの主人公みたいに切れる頭が俺にあればなぁ)


 アリアは、心の中で自分を愚痴りながら更に続きを話す。


 「先生、お願いです。俺、わたくしに一から文字の読み書きを教えてください。お願いします」


 教師の顔を一切見ないように、頭を下げてお願いする。


 「お嬢様、頭を上げてください。そのように畏まらないでください」


 そう言うと教師はアリアの顔が見える位置に移動し、アリアに届くようにゆっくり優しく話し出す。


「私は、お嬢様から勉強を教えてほしいとお願いされてうれしく思っております。やっとお嬢様のお役に立つことができる。教師として、自分の生徒から勉強を教えてほしいとお願いされて、断ることが出来るでしょうか。いや、私には出来ません。ですので、お嬢様はそのように怯えずに、分からないことがございましたら遠慮なく仰ってください。私が自分の持てる全ての知識を用いてお教えいたします」


 アリアはゆっくりと顔を上げて教師の顔を見る。そこには、生徒に真剣に向き合う教師の顔があった。

 その顔を見た瞬間、アリアの中にあった不安がすっと消えていった。

 アリアの顔に本物の笑みが浮かぶ。そして、改めて教師にお願いする。


 「お願いします。わたくしに、文字を教えてください」


 教師は、そのお願いを快く引き受けた。


 「分かりました、お嬢様」






 「お嬢様、授業を再開する前に1つ注意がございます」

 「何かしら?」


 アリアは首を傾げる。


 「お嬢様は先ほど、俺と2度申されましたね」


 アリアの脳内にその時のことが思い浮かんできた。


 「お嬢様は、チェイサー家のご令嬢なのですよ。ご令嬢として、言葉遣いには十分に気を付けてください。俺などという一人称は金輪際使わないよう、いいですね?」

 「は、はい」


 有無を言わせない凄みを感じた、アリアはただ首を縦に振り返事を返した。

 返事を聞いた教師は、優しい声音で今日の授業内容を説明する。


 「それでは本日は、自分の名前の書き方を覚えましょうか」


 教師は、バッグから紙を取り出しアリアの名前を書いていく。

 書き終わるとアリアに見やすいように紙を置く。


 「これが、お嬢様の名前になります」


 そして、一文字ずつ説明していく。

 アリアは、うんうんと頷きながら自分の名前を真剣に覚えようとしていた。


 「それでは、今度はお嬢様ご自身で書いてみましょうか」


 バッグから白紙を取り出しアリアの前に置く。


 「さぁ、こちらの手本をよく見て書いて下さい」


 アリアは、ペンを持つと紙に自分の名前を書き始めた。教師が書いた手本をよく見て、同じようにゆっくり丁寧に目の前の紙に書いていく。途中、教師に何箇所か間違いを指摘されたが、その都度間違った箇所を書き直し自分の名前を書きあげていく。

 アリアの前には、初めてこの世界の文字で書いた自分の名前があった。手本と見比べると所々線が曲がりすぎていたり、短すぎていたりと不格好な文字であるが、アリア自身が初めて書いたこの世界の文字である。

 それを見つめるアリアの中に得も言われぬ感情が沸きあがってくる。それと同時に自然と顔に笑顔が弾けていた。


 「先生やりました。わたくしの名前です」


 笑顔を浮かべて弾んだ声で話すアリア。


 「ええ、お見事です。お嬢様」


 そのアリアの笑顔が何物に代えがたい最高の報酬であると教師は、アリアを見ながら思っていた。

 それから授業時間終了まで窓から見える山や、身近な川や湖、海などの簡単な単語を覚えていった。

 それからしばらく時間が経ったある時、ふと窓を見ると太陽が空の真上付近まで来ていた。

 教師もそれを確認したらしく、机の上の時計を確認してから口を開いた。


 「本日はここまでにしましょうか」


 アリアも時計を確認すると、時計の一番上の数字の上で短い針の上に長い針が重なろうとしていた。


 「はい。先生ありがとうございました」


 アリアが返事を返し、今日の授業はここまでとなった。

 二人が荷物を片付け終わった後、教師が次回の授業内容と注意をアリアに伝えた。


 「お嬢様、次回の授業ですが語学の基本的なテキストをお持ちしますので、そちらを行いましょうか。それと今日の授業の復習を必ず行ってくださいね。次回の初めに確認いたしますので、復習を怠ることがないようにお願いしますね、分かりましたかお嬢様」


 最後の部分を強調するように伝えると部屋から退出していった。

 アリアは表面的には微笑みを、内面的には苦笑いを浮かべながら教師を見送った。

 部屋に一人だけなったアリアは、ベッドにダイブし目を閉じた。





 部屋を出た教師は、廊下を進み屋敷の正面に向かって歩みを進めていた。

 あそこまで素直なアリアに会ったのはいつ以来になるだろうか、また真剣に授業を受けてくれたアリアに会ったのはいつ以来だろうか、そのような事を考えて歩いていると前方にメイド長のシオンの姿が見えた。


 「シオンさん、お疲れ様です」


 教師がシオンに挨拶をする。


 「お疲れ様です、アン先生。」


 それに気づき、シオンが返す。


 「今、お嬢様のお部屋までお迎えに上がろうと向かっていたところです。いつも通りに正面に馬車を回しておきました」

 「いつもありがとうございます。」

 「いえいえ、これも仕事の内ですのでお構いなく」


 シオンとアンはお屋敷の正面までの会話を交わしながら歩いていく。


 「本日はどうでしたか?」


 シオンが今日の授業についての質問をする。

 アンは今日の授業のことを脳裏に思い返しながら口を開く。


 「あのように素直なアリアお嬢様に会えたのはいつ以来でしょう。文句1つなく私の授業を受けてくださいました。更に私に勉強を教えてほしいとお願いされました。本当に本日の授業は教師冥利に尽きる素晴らしい時間でした」


 アンはほぅと息を吐き、満ち足りた表情を浮かべながら語る。

 それを聞きシオンは、驚愕し問い返す。


 「それは、本当ですか!?」

 「はい。本当の事ですよ、シオンさん」


 そう言われたシオンは、今朝のアリアの姿が頭に浮かんだ。


 「そうですか、やはりお嬢様は以前の様に素直で優しいお嬢様に戻られたのですね」


 顔に笑みを浮かべながら、今朝アリアに会ってからの事をアンに話す。


 「今朝のお部屋でお会いした時からいつものお嬢様とは違っていました。いつもでしたら冷たくあしらうところを、今日のお嬢様は私たち使用人を温かく労ってくださいました。そして、全てに絶望し諦めきってしまったようなご様子は一切なく、健気に一生懸命に頑張るお姿のお嬢様がそこにおりました」


 それを聞いたアンの脳裏に先ほどの真剣に文字を学ぶアリアの姿が浮かんだ。


 「確かに、お嬢様は変わられたのですね。いや、ご成長されたのですかね」


 二人がアリアについての話に熱中していると、いつの間にかにお屋敷の正面入り口に着いていた。

 二人はそのまま正面から外に出ると、アンは馬車に乗り込み、シオンはお見送りのために頭を下げていた。

 そして、馬車が出発する直前にアンが御者に声を掛け少し出発を後らせると、ドアを開けシオンに駆け寄ると言い忘れていたことを話す。


 「シオンさん、アリアお嬢様のご体調はいかがなのですか」

 「何かお嬢様にあったのですか」


 シオンは心配になって問い返す。


 「ええ、突然正気を失い錯乱し、小さくてほとんど聞き取れなかったのですがバッドエンドがなどと、うわごとを呟いておりました。更にお嬢様は文字が読めないご様子でした。お嬢様自身は文字を忘れてしまったと仰っておしましたが、私には文字そのものを知らないように見えました。シオンさん、お嬢様は本当にアレの暴走から回復成されたのですよね?」


 アリアを心配する言葉が口から零れる。


 「大丈夫であると私たちとアリアお嬢様のお父様とお母様はお考えになっています。それに、この国随一の魔法医が診てくださいました。お嬢様は完全に安定しているはずです」

 「そうですか、それならば良いのですが。私は、本当に驚きましたよ。ここまで、お嬢様がお変わりになられて。まるで、人が変わってしまったかのような感じがします」

 「私もそう思います。ですが、以前のお嬢様は、人を自分から遠ざけるために無理に冷酷な人物を演じているように感じられました。それが、今のお嬢様にはありません。自然体の年相応の女の子の様に見えます」


 1つ息を整えて続きを話す。


 「それに、今のお嬢様は見るからに危うい存在の様にも思われます。アン先生が先ほど見られたように、今朝もお嬢様は一時錯乱状態に陥っておりました。今のお嬢様を例えるなら水の上に張った氷の上を歩いている状態です。ご自身が歩いている氷にひびが入るとあのように恐怖心が起こり錯乱してしまうのでしょう。ひびだけであのように錯乱してしまうのです。もしも、氷が完全に割れて落ちてしまったら、お嬢様は壊れてしまうかもしれません」


 その話を聞ききアリアの姿を思い浮かべてみると、確かにと思えた。


 「シオンさんのおっしゃる通りだと思われます。私たち大人が、しっかりとお嬢様を支えていかなければなりませんね」

 「そうですね。私も、お嬢様付きのメイドとしてこれからも精一杯支えて行こうと思っております。それでは、アン先生次回の授業もよろしくお願いします」

 「こちらこそよろしくお願いします」


 アンを乗せた馬車が屋敷の正門から遠ざかっていく。

 シオンは馬車が見えなくなるまで見送っていた。






 しばらくベッドに寝そべっていたアリアが、ゆっくりと上体を起こしベッドの上に座った。


 「さて、転生して半日が過ぎたけど・・・。だめだ、なんかしっくりこないな」


 ベッドに座っている自分の姿を見てみる。


 「やば、靴履いたままベッドに上っちまってるよ」


 そして、靴を脱ぐためにベッドの縁に座った。

 靴に手をかけた時、ふと先ほどの教師に見つかって怒られたことが脳裏に浮かんだ。

 手を止めて、部屋の外の音を探る。


 「よし、誰もいないな」


 確認が終わり、靴と靴下を脱ぎ放り捨てる。

 そして、ベッドの上に今度は裸足で胡坐をかいて座る。


 「ふう、やっぱり考え事をするときはこの格好でしょ!」


 傍から見た、シオンにも怒られそうなワンピースの裾がめくれ上がるのも気にせず胡坐をかくアリア。


 「さて、転生して半日経つけど、お屋敷の人達との関係もずいぶん改善できたかな」


 アリアは、この半日に会った屋敷で働く人たちの事を思い浮かべる。


 「メイド長のシオンさんが一番安心できるかな。転生して最初にあったのもあるけど、一番世話を焼いてくれた人だしな」


 アリアに転生して最初に会った時のことを思い出す。


 「うん、本当にシオンさんがいなかったら、どうなっていたことか」


 転生して最初にやらかしてしまったバッドエンドを助けてもらったこと、混乱してどうしていいか分からない自分を優しく慰めてくれたことなどが頭に浮かんでくる。


 「でも、まだ一人この悪役令嬢を絶対に許していなさそうな料理長がいたな。俺は、何もしていないのに突然怒られたな」


 朝食の時に初めて会った料理長のことを思い出してみる。

 ただ、アニメやマンガなどで料理人と仲良くなるシーンで、よくある料理の事についてお礼を述べようと思って呼んでもらったのに、仲良くなるどころか逆に怒られたことがアリアの脳裏に浮かんだ。


 「もうすぐ昼食か。まだ怒ってるかな。ああ、お腹が痛くなってきた。気が重くなるな」


 アリアは少し憂鬱な気分になった。

 それでも頭を振り、憂鬱さを追い出すとさっきまで受けていた授業の事を思い出す。


 「まさか、文字が読めない、書けないとは思わなかった」


 アリアは、テキストを見て文字が読めないことを知った瞬間に本当に詰んだと思い錯乱してしまった恥ずかしい自分を思い出した。


 「今思い出しても恥ずかしいな」


 アリアの顔が赤くなる。


 「でも、本当にいい先生で良かった」


 文字の読み書きができないことを話しても怒らずに、名前の書き方や他にも簡単な文字を教えてくれた教師に感謝する。


 「礼儀作法は厳しかったけどな」


 教師に初めて会った時に胡坐をかいていたことを怒られて、次は言葉使いで怒られたことを思い出す。


 「これで、文字の読み書きができない問題は解決できた」


 そう言葉にすると心の中にあった不安が消えていった。

 それと同時に、アリアの気分も爽やかに晴れていった。


 「なんか、ホッとしたらトイレに行きたくなってきたな」


 億劫にベッドの縁に移動して、放り投げた靴下と靴を取ろうと体を屈めた瞬間、更に強い尿意がアリアを襲った。


 「!?」


 もう靴下を履く余裕がなくなったアリアは、急いで靴につま先だけを突っ込むとドアに向かって走り出し、廊下へと飛び出していった。


 (やばい、漏れるーーー!)

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