第5話

「無防備に寝てちゃ駄目だよ」

「ふぇっ!」

 耳元で聞こえた声に慌てて目を覚ます。驚いて変な声が出ちゃったじゃないの。

 目の前には紫色の和服が揺れている。

 あたし、もしかして、乗られてる?

「おはよ。と言っても夜だけどね。きゃはっ」

「な、なん、何で乗ってるのよ?」

「あんまりにも無防備だったからね。声をかけて起きなかったらヤッとこうかと思ったけど?」

「おりて! 今すぐおりて!」

「そんなに怒らなくてもおりるよ。僕、自分より可愛くない子には興味無いんだ。ごめんね」

 もう何回目になるのかしら。この人、顔が良いだけで性格最悪。ただ腹が立つわ。殴りたい衝動に駆られるんだけど、虐待されてた経験のある人を殴ると、フラッシュバックで暴れそうだからできないのよね。

無理して明るく振る舞おうとしているところを見ると、ちょっと同情しちゃうし。

「さて、帰り道を案内するよ」

「部屋の外に、こやけちゃんはいない?」

「何でこやけが来てたことを知っているの?」

 あたし、自爆しちゃったかしら。そうよね。外に出るなって言われてたものね。そりゃあこんな聞きかたしたら、バレるわよね。大失敗よね。

「まあキミのことだから、僕の言う事も聞かずに部屋の外に出たんだろうけどね。心配しなくても神社にはいないよ。でも、これから先、こやけに見つかったらおしまいだね」

「おしまいって何なのよ?」

「こやけから『ご主人様』の話を聞いてないの? いつもウキウキしながら語ってくれるのに」

「聞いてないわ」

「そう。……こやけの主人は、雨の眷属で雨の末裔すえ――雨の神様の親戚なんだ。知らないことをなんでも知りたがるような子でね。キミのとっても弱い頭にもわかりやすいように言うと、ストーカーみたいな性格をしてるよ」

「どんな性格よそれ」

「会ってみればわかるよ。会ったら名前を奪われないように注意しないといけないけどね。操り人形にされたいなら別だけど……。それより、そろそろ出ない?」

 弐色さんは障子に手をかけながら言った。あたしが立ち上がると、すぐに歩き始めた。

 社務所から出る。空には月が浮かんでいた。あれは下弦の月って言うんだったかしら。おばあちゃんに昔教えてもらったことがある。でも、いまいち覚えていないのよね。空気が澄んでいて灯りも少ないからか星も綺麗に見えていた。

「ああ、そうだ。永心がこれをキミのおばあちゃんにって」

「お守り?」

「うん。永心とキミのおばあちゃんは知り合いみたいだよ。渡したらわかるってさ」

「わかったわ」

 紫の袋に白い蛇の刺繍の入ったお守りを受け取った。おばあちゃんが永心さんと知り合いってどういう……もう考えるのはよそう。

 あたし達は、カラスの声が不気味にこだまする森へ入っていく。

 夜の森は昼間とは全然景色が違って見えた。立入禁止の看板が血まみれにも見えるし、お地蔵さんも泣いていたような跡が残っている。そう見えただけで、よく見たら違うから大丈夫大丈夫。

 月明りの届かない道は、弐色さんが持っているランタンの灯りだけが頼り。

 急に立ち止まった弐色さんはあたしをじっと見て、言った。

「何でカラスが鳴いているかわかる?」

「何でなの?」

「僕らの居場所をこやけに教えているんだよ。きゃはっ」

「笑ってる場合じゃないでしょ!」

「僕はキミがどうなっても損も得もしないもの」

 上を向くと、カラスの群れがぐるぐる旋回飛行をしていた。こんなに木が多くて、暗いっていうのに何でわかるのかしら。あれ? カラスって鳥よね? 鳥なら夜は目が見えないはずなんだけど。

「ねえ、もう夜だし暗いのに何であのカラス達はあたし達の姿が見えているの?」

「そんなくだらないことを考えているの? こやけが来ちゃうよ」

「それなら、笑ってないで何とかしてよ!」

「キミさ、人にモノを頼むんなら『お願いします』って言うべきだと僕は思うよ。幼稚園児でも言えるよ。なきせんせー」

「あーもう! お願いします!」

「よくできました」

 弐色さんは三日月を横倒しにしたような笑顔を浮かべると左腕を真っ直ぐ上にあげた。袖がずるりと肘まで落ちた。腕に刻まれた無数の傷が月明りでうっすら浮かんで見えた。

 何あれ……リストカット……? あんなにたくさん傷があるなんて……。

 届くことの無い月に向かって、コウモリが舞い上がったのは、あたしが腕を凝視した三秒後くらい。

 コウモリの群れはあっという間にカラス達を取り囲んで、次々落としてきた。

「落として大丈夫なの?」

「ちょっと気絶させただけだよ」

「そ、そう……。ねえ、貴方の腕――」

「……何でも良いでしょ」

 顔から笑顔が消えたかと思ったら、ふいっと向きを変えて歩き始めた。触れちゃいけない話題なのね。

 森の中は異様に静かになった。カラスが鳴かないだけでこんなに静かになるものなのね。風の音が不気味に鳴っている。遠くからハープのような音が聞こえてくる。誰かが弾いているのかしら? 妖精とか?

「ねえ、あとどれくらいで着くの?」

「この森は気まぐれだからね。気分で距離が変わるんだよ。今日は遠い気分みたいだね」

 気分で距離が変わる森ってどういうことなのよ。でも話した本人は真面目なように見えるし、今日は遠い気分みたい。遠い気分ってどんなのよ。

「ねえ、弐色さんって――」

「静かにして! ……こやけが近くまで来てる」

 だからって、あたしを木に押し付けないで欲しい。すごく美形のお兄さんに拘束されているって考えたら、とても得しているんだろうけど、残念ながら、全く嬉しくない。あと耳元で喋られるとゾワッとする。声に色気があるなんてもうこの人放っておいたら危ないんじゃないかしら。放ってなくても危ない感じがするし。

「あのー……いつまでこうしているの?」

「…………」

 無視? まさか無視されたの?

「ねえ、もう離れ――んんっ」

 え? え? ちょっと状態が理解できないんだけど?

 少女漫画やドラマなら「キャーッ!」ってなるかもしれないけど、この状況じゃまったくそんな感情にならない。何で昨日会ったばかりの人に唇を奪われなくちゃいけないの? しかも、あたしファーストキスなのよ? お父さんは数に含まないから、ファーストキスなのに、全くロマンチックでも何でもない。

「もう、静かにしてって言ってるのに喋らないでよ。ん? 何でそんな表情してるの? 僕にキスされてそんなに嬉しかった?」

「嬉しいわけないでしょうが!」

「えー? こんなに可愛くて格好良くて美しい僕の唇を堪能できたんだから、幸せだと思った方が良いよ。キスくらいでそんなに怒ることもないでしょ? 何なの? もっと深く、舌でも絡ませて欲しかったの?」

「違うわよ! ファーストキスだったのに!」

「ぎゃっ!」

 あ……叩いちゃった。

 思いっきり眼帯側から頬を叩いちゃった。でも、この人が悪いのよ。そうそう。自業自得。反撃が来るかと身構えたけど、そんな心配は余計だったみたい。それよりもっと面倒なことをしてしまったことにあたしは気付く。

 弐色さんはぺったり座り込んで震えている。ぐずっぐずって、聞こえるから泣いているのかもしれない。座られると顔がはっきり見えない。

「弐色さん。その、弐色さんが悪いんだけど……叩いたのはあたしが悪かったわ。ごめんなさい。でもね、弐色さんが悪いからね」

「このまま真っ直ぐ行けば帰れるよ。知らないけど」

「え」

「僕もう案内する気無くなったから、この先は自分で行きなよ」

「最後まで責任持ちなさいよ!」

「ぎゃっ!」

 あ……うっかりまた叩いちゃった。

 ぺちって頭を叩いちゃったわ。あたしってこんなに手が出ちゃうタイプだったかしら。喧嘩なんて今まで弟としかしたことなかったし、園児にだって手をあげたことなかったし。これは当たり前なんだけど。

「どうせ僕は不要いらない子なんだ。忌み子なんだ」

「あたしが悪かったわ。謝るわ、ごめんなさい」

「僕は誰にも愛されないし、好かれないんだ」

「それは知らないけど、ごめんなさいってば」

「……キミなら、僕を愛してくれる? 好いてくれる?」

 いきなり手を強く引かれて抱き締められた。この人本当に顔が良いだけで――なんだかよくわからない!

 白檀の香りを強く感じる。そういえば、あの部屋にも、お香の壺っていうのかわからないけど、壺みたいなものが置いてあったわ、煙が出ていなかったから何も思わなかったけど、白檀のお香だったのかしら。

いやいや、今はそんなこと考えている場合じゃないのよ。

「弐色さん、あの――」

「冗談だよ」

「は?」

「さて、そろそろこやけも遠くに行っただろうから、進もっか」

「はい?」

 すーっと、離れて、すーっとあたしの横を通っていった。

 今のは何だったのよ。けろりとした表情をして。演技だったようには見えなかったけど、何だったの?

 この人について考えるのも面倒になってきたわ。あたしは無言で後をついて歩く。紫色の和服がふわふわ揺れている。まるで蝶々が飛んでようだわ。

 やがて、戻り橋に辿り着いた。やっと帰れるわ。

「ありがとう。じゃあ、あたしは――」

「菜季! 待て!」

「っ!」

 踏み出そうとしたあたしの身体はピタリと止まる。

 弐色さんはあたしの横に来て、真っ直ぐに橋の方を向いた。

「どうせ、いるんでしょ?」

「いるって何がいるの?」

「もったいぶらないで出ておいでよ。夜だしキミの大嫌いな太陽光は無いでしょ。綺麗な下弦の月が浮かんでいるんだから、観賞しに寄っておいで」

 あたしの質問には答えず、弐色さんは橋の向こう側に話し続ける。でも、橋に人影は無い。

 いったい誰に話しかけているのかしら? あたしには見えない何かがいるとか?

 弐色さんは首を傾げた後、あたしの前で星を描いて何か呟いた。何かしら?

「アレのことだから先回りしてると思ったんだけど……いないようだから、このまま橋を渡って大丈夫だよ。おまじないもしておいたから」

「あ、ありがとう」

「ああ、そうそう。この橋を渡りきるまで息を止めてね。この前はまだ明るかったから大丈夫だったけど、今回はそうもいかないよ。僕がおまじないしたし、お守りもあるからそれなりには耐えられるとは思うけど……決まりには従ってもらわないとね。何処にでも決まりってものはあるもの。郷に入っては郷に従えって、昔からよく言うでしょ」

「息をしたらどうなるの?」

「息の根が止まるかもね。それと、橋を渡り切るまで絶対に振り向いちゃ駄目だからね。それじゃあ、バイバーイ!」

 弐色さんはあたしの背を押して、橋へ送り出した。

 あたしは咄嗟に息を止めて、早歩きで進む。色々な人とすれちがう。さっきまで橋の上に人影なんて一つも無かったのに。もうそろそろ橋の終わり。

 その時、あたしの足元を見知った顔が通り過ぎた。

「タケちゃん!」

 うっかり声を出してしまった。でもまだ振り向いてないからセーフ……? すぐに橋を渡り切る。いつもの森の景色だ。良かった。セーフよね。

「見ぃつけた」

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