第5話 最後に。

 次の日の朝、僕が教室に入ると特に変わった様子はなかった。別に誰も昨日夜に誰かが侵入したかと疑うことも、教室が昨日よりきれいになってるんじゃないかってことも誰も何も言うことはなかった。その本人である僕らもそのことを何も言わずにいつも通りの学校生活を過ごした。


 今日なにか新しいことがあったとすれば桜菜さんはこの近くのパン屋で働いているのを知ったことだろう。音海さんとそんな話をしているのを聞いてしまった。別に僕がそこに行くとかは多分ないんだろうけど、そのことが今日1日(と言っても今日は学校が午前のみだけど)頭の端っこの方にそのことがあった。


 それで今日であの質問から3日目。そういえば昨日、明日の分は少し早く送るって返信が来ていたな。


 帰りは李希たちと駅の近くのマックで昼を食べた(昨日のお詫びとして僕と海也はビックマックセットを奢ってもらった)。


 家に帰った途端、桜菜さんからまるで僕が家に帰るのを待っていたかのようにLINEが来た。


 その最後の質問を見た瞬間。僕の目が大きく開いたような感じがした。見たこともない景色を見たかのように。

 

『最後の質問。

 

 君は好きな人いる? それは誰?』


 手が震えた。痙攣してるかのように。スマホをうまく握れない。これ、本当に、書いていいんだろうか、君だと。


 僕はゆっくりと震える手で文字を打ち込んでいく。君の名前を。あの時助けてくれた君の名前を。君の優しさで僕は君を好きになった。


 ここまで来るのに時間がどれだけ経っただろうか。何回も時計の秒針の音を聞いた気がする。最後の文字まで打ち終えたところで急に画面がプツリと真っ白になった。


 ――えっ?


 真っ白……? 僕は今、寝てる? 僕の頭が真っ白に? いや、違う――まさか通信障害? 


 僕の予想が当たったらしくテレビではその通信障害のニュースが報道されていた。


 この質問に、どう……。


 あ! たしか、桜菜さんは、パン屋で働いている!


 僕はもう一目散に家を出て、桜菜さんのいるパン屋へ走っていく。誰かに背中を強く押されているかのようにスピードが加速していく。僕のところだけスポットライト――太陽が特に強く当たっているような感じがする。


 でも、僕が直接質問に答えたところで、何かずっと開かなかった箱が開くとかみたいになんか、起こるんだろうか。そんなのはわからない。


 だけど、こういう質問の答えは直接答えるからいいんじゃないだろうか。


 あと、少しで君が――。


 国道から少し外れた、周りに家が立ち並ぶところにそのパン屋は昔からあるような面影を残しながらそこにあった。


 手動の扉を開けると鈴の音がチリンチリンと鳴る。


 そこには桜菜さんが待っていた――なんてことではなく、レジにいる桜菜さんとお客さんのような50代くらいの女の人が激しく揉めていた。


「なんで、この店が繁盛してるのに、私の店はお客さんが来てくれないのよ!」


「いや、そちらのパン屋も美味しいですよ……」


「なによ! 開店当初はこっちのパン屋のほうが賑わってたのに、それにこっちのほうが美味しいはずよ」


「……」


 桜菜さんは女の人の勢いに負けて体を縮めるようにしていた。自分ではもう対処できないかのように。ただ助けを待っているかのように……。手を差し伸べてほしいかのように。たしか、この女の人は……、この近くのパン屋の……。


「あの……」


 僕は心に硬い鉄の塊を入れたあと、その女の人に声をかけた。


「なに!」


 女の人は睨むように僕を見たあと、僕が吹き飛ばされるんじゃないかと思うほど強い口調でそう言った。


「お客さん、来てほしいなら、方法があります」


「えっ?」

 

 その女の人の声の大きさが一段階下がった。僕は小さく心のなかで深呼吸したあとに続ける。


「貴方の店のパンも食べたこともあります。美味しいと思います。でも、少し味が開店したときより変わってると思います。でも、味は美味しいです」


「……」


「何が足りないのかって――」


 何が足りないのか……。


「――人って慣れてくると大切なものを忘れてしまうことがあるんです。だから貴方は大切な何かを忘れてしまったんだと思います」


「大切な、何か……」


 その人はさっきのような口調なんかではなく、僕に優しくそう尋ねるように聞いてきた。


「はい」


 僕はただうんとうなずく。体がそよ風で満たされているそんな感じがした。


「たしかに、そうかも知れない。最初私は食べる人のことを一番考えてた、でも段々と美味しければいいと思う様になってたかも。ありがとう、そして店員さんごめんなさい。高校生に当たっちゃったね。今度うちの店来て、たくさんあげるから」


 女の人は僕の方を向いて大切なものを忘れちゃったって言ったあとに、桜菜さんに深く心から謝っていた。それは僕にも十分わかった。その人はこの店をあとにした。


「大希くん、かっこよかったよ」


「そんなことないよ――」


 正直言ってさっきのことなのにもう記憶がない。でも、何か伝わったということは心に刻まれている。僕がすごいなんてことない。だって……。


「――君があの日『優しさはどんなときも忘れちゃいけない』って言ってくれたからそれで」


 あの僕が怪我をした日、桜菜が言ってくれた言葉。この言葉は僕にとっては宝物。もう一生忘れることなんかできないと思う。


「そうなの……」


「で、質問の答え……。スマホ、通信障害起きてしまったみたいで……」


 これから僕にはやらなきゃいけないことがある。そう、君にこれを言う。


「その前に、少しこっち来て……」


 桜菜さんはそう言って店の端っこの方に僕を案内した。


「これ……」


 桜菜さんが指したところには僕の一番好きなパンのクロワッサンがあった。でも、ただのクロワッサンではない。


「これ、『あたたかい雪』っていう名前のクロワッサンなんだ」


 そのクロワッサンにはホワイトチョコだろうか、それらしきものがイルミネーションのように美しくかかっていた。


「えっ?」


「これ、私が考えたの、学校とかでも考えてたんだけど……。これはあの日君が私のことを『桜菜さんは大丈夫なの?』っていって優しくさすってくれた。そこからそう思い付いたんだ」

 

 僕は覚えてないけど、そういうことを言って、そうしたのかもしれない。だいたい今までのことがわかった。クロワッサンが好きと答えて喜んでいたのも、昨日見たあの紙に書いてあることも……。


「あの、それで最後の質問の意味は?」


「まだわからないの?」


 えっ、そんなわかるわけないじゃん。そんな知恵の輪だってすぐに解けないんだから。


「君と同じ感情だよ」


「えっ!?」


 僕は急に季節が変わってしまったかのように驚いてしまった。わかっているのか、僕の感情? 君を好きだっていう。


「私の彼氏になってくれませんか?」


「僕の彼女になってください」


「もちろん」


「はい。じゃあ、あとでこれ食べよう。君は好きな人に好きなもの食べてほしいんでしょ」


「そうだね」


 ――桜菜さんの考案した名前の通り、そのパンはあたたかい雪だった。






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あたたかい雪 友川創希 @20060629

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