第8話

 商店街を抜け、川沿いを走り、たどり着く。


それはもう風貌からまるっきり違っており、茶色基調の小さな外観が肌色がかった重厚な建物に変化していた。


差しにくかった鍵穴も、ガラガラと音を立てる引き戸も残っていない。


ただただ洗練された近代的にそびえ立つ要塞のような建物に、不思議と心が躍った。インターホンまで設置されている。


 恐る恐るドアを引く。


鍵はかかっていなかった。


冷静に考えれば、防犯面に重大な問題を抱えているが、反射的に嬉しかった。


時が経っても、風貌が変わっても、生き方は変わらないんだ。


だから、思い出もそこに居残り続ける。


家にそっと入り、玄関口に立つ。


ここから見えるだけの全貌を眺める。


畳はツヤツヤのフローリングに姿を変え、急すぎる階段は小気味よくカーブを折り混ぜながら上下層を紡いでいる。


昔の家によくある、特有の空気の重さがなくなっていて。


ただただ無機質な空間が広がっているようで、時代の変遷を垣間見たような不思議な気持ちになる。


新しいものを取り入れた、というよりは余分なものだけを剥ぎ取ったような、遊びの少ない空間で。


ここでばあちゃんは1人で生きていくって決めたんだな。


思い出がなくなったことよりも、そんなばあちゃんの一面を知らなかったこと。


それが何より悲しかった。


ずいぶんと削ぎ落としたんだな、と。


どれだけだったのかは分からない。


ひょっとすると、ものの数十秒程度だったのかもしれない。


だけど、僕はとても長い時間、じっと玄関に立っていた。そんな気がする。


そうやって立ち尽くしてしばらく。


目につかなかったものがくっきりとしてきて。


よく見ると、中庭のみかんの木は残っているし、変な形の食卓机も相変わらず中心部で幅を利かせている。


ホッとした気持ちで家に上がり込む。


ばあちゃんが僕に気付き、笑いながら「おかえりなさいませ」とおどけた。


いつもは決まって「いらっしゃい」と迎え入れるばあちゃんなのだ。


僕のこの不安な気持ちに気付いていたんだろうか。


きっと、きっとたまたまだとは思うが、もし本当にそうだったら大人ってのは大したもんだと思いがけず舌を巻いた。



 いつもの轟音が響く。


変わらない泥味が身体中を支配する。


この日の酸味は僕を少しだけ強くした。



 そして、家中を散策することにしてみた。


少年泥人間は、すっかり落ち着きを取り戻している。


階段の下に見慣れない納屋のようなスペースを見つける。


開けてみると、ばあちゃん家には決してそぐわない、パソコンが設置されていた。


まだうちの家にもないのに。


昔からばあちゃんはジャンルをいとわず勉強家で、年齢を感じさせない頼もしさがあった。


携帯代が高いとショップに行き、パケット使い放題の契約をしてくるくらいには先進的なばあちゃんだった。


 安心した僕は、また毎週ばあちゃん家に通うようになっていった。


8時頃までパソコンで遊び、夕飯を食べ、9時頃には家路に着く。


そんな日々を過ごしていった。


比較的クラスのみんなは携帯をすでに持っていて、夜もメールのやりとりなんかをしているらしい。


パソコンメールではあったが、この輪の中に入れたことがとにかく嬉しかった。


 そして、インターネットサーフィンをしている中で、一つのページに辿り着く。


意識的に検索したのか、偶然辿り着いたのか。


今となってはもうはっきりしないのだが、確か薄緑色を背景に、犬か何かの動物がゴソゴソと動いていたようなトップ画面だけは覚えている。


 かりそめにもパソコンを手に入れ世界が広がったようですっかり気が大きくなっていた僕は、同世代が多く集まりそうなページに入り、4,5人でやり取りをしてみた。


「こんにちは!あんまりこう言うのって慣れてないんだけど、宜しくね。」と丁寧に文字を打ってみる。


こういうのは最初が肝心だったりする。


たったこれだけの内容を何度も読み返して、ドキドキしながらエンターを押す。


ひょっとして、このチャット部屋に集まっている子たちはみんな元々知り合いで、内輪の話で盛り上がりながらよそ者を受け付けない人たちかも知れない。


とハッとする。


画面をじっと見ながら、誰か返事をしてくれよ、と祈るような気持ちでいる。何ともみっともない姿である。


別にどこの誰かもわからない人たちにたった一言の挨拶を無視されたとしても、僕の世界は何も変わらない。


だけど、やっぱり除け者にされてしまうとショックを受けるだろうし、そんな無様な僕の姿を知る人間が世界に数人いるという事実だけで十分恥ずかしい気持ちになる。


ほんの数秒前までワクワクした気持ちで慣れないキーボードに置いていた手は、気付くと膝の上にある。


手のひらをぐっと握りながら。


肩には随分力も入っている。


そして、身を乗り出すように画面を見つめる。


そんな心配をよそに「こん」という2文字が返ってきた。


これは多分「こんにちは」を短縮した業界用語だと思った。


きっと、このサイトによく顔を出し、こういったやり取りにもうんと慣れていて、儚い出会いにいちいち感動することもないんだと瞬時に悟る。


なにせこっちが何度も見返してドキドキして入力した言葉をたった2文字であっさりと返してくるくらいだ。


きっと、流れるように繰り返す出会いと別れを経験しているんだろう。


それでいて、たった1人の挨拶に返事をしてくれる。


住んでいる場所も、年も、何も知らない。


分からないことだらけだけど、多分この「RYOTA」ってのは良い人で、こういう気配りが現実世界でも役立っていて、人前に自分からは出なくても、きっと自然と人が集まってくるような器用な人なんだろうと妄想した。


もし逆の立場だったとして、僕は「RYOTA」に同じように声をかけてあげられたんだろうか。


 みんなもRYOTAに続いて、挨拶をしてくれた。


自分の住んでいる場所だったり、年齢だったりを話したり聞いたりした。


僕を入れて4人が男、1人が女の子だった。


10分くらいが経ち、1人が退出し、入れ替わるように新しい人が入ってきた。


一度挨拶のお作法を経験している僕は、まっさきに「こんにちは!よろしく!」と威勢よく送信した。


すると、新入りはそっけなく「よろ」と2文字を打ち込むと同時に何やら違うサイトのURLを貼ってきた。


さては「よろしく」のことだなと状況を理解しつつも、知らない言葉が出てくるたびに先輩と出くわしたような気持ちになる。


それにしても、この世界では2文字のやりとりが流行っているんだろうかと新たな疑問が生まれた。


ただ、これは僕のポリシーというか、趣味趣向の範疇を超えるような高尚なものではないが、略語はあまり好きじゃなかったりする。


言葉が軽くなる気がするのだ。


流石にコンビニエンスストアとは言わない。


だが、ファミマと耳にするたびに語感の悪さが気になってしまう。


まして、びくドンなど問題外だ。


だから、居心地のいいこの空間において、略語を使わない人間がイケてないとされる世界ではないことを願った。



 先程の新入り先輩のURLをクリックしてみた。


当時、インターネット上で自分のプロフィール、これも彼らはプロフと読んでいた、を作ることが流行っていたらしく、いちいち聞かなくても趣味や年齢などを公開する便利なシステムがあった。


追いかけるように、みんなが同じようなサイトの載ったURLを投稿する。


ついさっきまで、根掘り葉掘り聞いてみたり、ベラベラと自己紹介を続けていた自分と、それに付き合ってくれていた仲間の気持ちを考えると、僕はまた恥ずかしくなった。


たくさん貼られたURLを順番に見ていこうと思ったが、まずは「京香」のページを見てみることにした。


口数、というかチャット数の少ない、おとなしそうな女の子だった。


インターネット初心者の僕からすると、自分でホームページまで作るみんなを先輩どころか大人のように感じてしまい、少し気後れする。


知らない言葉もいっぱい知ってるし。


そんな大人な彼らが満を辞して繰り出してきたURLをクリックしてみる。


他人の秘密に踏み込むようなこの感覚はとても痛快だった。


クリックすると、「京香の部屋」という大きなタイトルが浮かび、その下には写真が貼ってある。

   

とびきりの美人ではないかも知れない。


けれど、可愛い顔だった。


ウキウキする気持ちで読み進めていくと、京香も僕と同じ中学3年生だということが分かった。


住んでいるところはとても遠いところだった。


けど、この子と仲良くなってみたい。





 この判断が正しかったのか、間違っていたのか。


 その答えは、今になっても、まだ出ていない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る