第36話 36話 理不尽な要求(※注意)

 


 泥船よりマシなオンボロ小舟を漕いで遠ざかるラフレーズを追い掛けるヒンメル。何処を見ても真っ暗闇な世界はラフレーズだけに光りを当て道を示していた。お前が進むべき道はそこしかないのだと言っているようで。

 幼い体のヒンメルはひたすら小舟を漕いでラフレーズを追い掛け続けた。泣きそうな声で呼んでもラフレーズは背を向いたまま歩くだけで、1度たりとも後ろを振り返らない。



「ラフレーズ……! ラフレーズ……っ!!」



 ラフレーズだけしか映らなかった周りに光景が浮かんでいく。

 手作りクッキーをヒンメルに食べてもらおうと期待するラフレーズに、毒見係が口にしない物は食べないと拒むヒンメルの光景。事前にヒンメル専属の毒見係が確認を済ませていると安全を伝えてもヒンメルは勉強の邪魔だとラフレーズを追い返した。

 よく知っている光景だ。問題集と向き合ったまま、消え入りそうな声で退室をしたラフレーズを1度も見なかった。勉強を続行させても思うままに手が動かず、従者にラフレーズが気になっているのだと指摘され、渋々ペンを置いて部屋を出た。聞けばラフレーズはまだ王城にいると言う。ヒンメルに冷たく断られて傷付いているのだと従者に諭される。専属の毒見係が味の確認を済ませているなら、食べてはならない理由はどこにもない。今更になって少しでも仲良くしようと歩み寄ってくれたラフレーズの気持ちを無駄にしたと知り、強い後悔の念に駆られた。ラフレーズがいると教えられた部屋へ近付くと楽し気な声が届く。

 こっそりと室内を覗き見たら、満面の笑みでクッキーを食べるベリーシュ伯爵を見上げているラフレーズがいた。父親に似ず、母親に似たらしいラフレーズはとても愛らしい少女で尊敬する父が美味しそうにクッキーを食べる姿を見て彼女自身も大喜びしていた。

 怪訝な声で殿下と従者に呼ばれ、勉強の続きとだけと言って部屋に戻った。慌て、元の道に戻りましょうと止める従者の言葉に耳を貸さず、部屋に戻ったヒンメルはかなり苛立った。

 父親に食べてもらえてあんなに喜ぶなら態々持って来るな、と。



「違う、違う、違うんだ……!!」



 次に映ったのは初めて夜会に出席した日。

 レースとリボンを程好く組み合わせ、露出を最低限に抑えた空色のドレスは華奢なラフレーズの魅力を大いに引き立たせ、ドレスに合わせて贈られた花の髪飾りもストロベリーブロンどの髪とピッタリだった。なのに、迎えに行ったヒンメルはずっと口を閉ざし不機嫌なまま。冷たい瞳を温かくする方法を彼自身、どうすれば良いか分からなくなっていた。会場に着き、ファーストダンスを踊ってもヒンメルの態度は変わらなかった。そんな相手にずっと愛想よく振る舞えと言う方が無理で……ラフレーズもずっと硬い表情のままで終わった。たった一言、ドレスが似合っているとか、夜会に一緒に参加出来て嬉しいとか、気の利いた言葉を掛けていたらマシだったのものを。ヒンメルはこの後にも参加したパーティー等でラフレーズをエスコートするも最初の夜会と同じ態度のままになってしまった。

 ヒンメルの側を離れ、親しい友人や身内に見せるありのままの姿を見ているだけで言い様のない苛立ちを抱えた。自分に向けられないのはヒンメル自身の自業自得なのに。


 更に次はメーラと腕を組んで学院内を歩ているとラフレーズに鉢合わせた時。傷付いた表情を見せ、節度ある振る舞いを求めるラフレーズが嫉妬していると暗い喜びが湧き上がった。実際は嫉妬よりも、傷付いている気持ちが大きかったのに。



『友人関係に口を出す権利は君にない』

『殿下っ、男女が腕を組むのは友人と言えるのですかっ』

『ラフレーズ、お前の気にし過ぎだ。用がないならこれで失礼する』

『殿下!』


「ああ……っ……あ、ああぁ~……!」



 客観的に見ていく光景はどれもこれもラフレーズとのやり直しは無理だ、諦めろと刺してくる。ラフレーズなら待っていてくれる、ラフレーズは自分を好きだから、と高を括った結果が全てを物語る。

 諦めないといけないのに小舟を漕ぐ手だけは止まらない。


 次々に見せられていく光景に異変が生じた。

 ラフレーズとどうやり直せば良いか、何をしたらいいか全く分からなくなったヒンメルの許に赤い髪を揺らしたメーラがやって来る。悩みを打ち明け、メーラに慰められる自分の姿に吐き気がした。

 ラフレーズを嫉視しているメーラが相談をされて大人しくしている筈はないのに、弱り切ったヒンメルの懺悔と悩みをメーラは最後まで聞き続けた。


 次もその次も、傷付き弱るヒンメルを励まし元気付けるのはメーラだった。


 暗闇の世界に唯一照らされていたラフレーズの姿は、今はもうどこにもない。




 〇●〇●〇●



 マリンの尋問、黒い大きな鳥の精霊の尋問。どれも早急に行うべき事。マリンは目を覚まし次第、精霊は集中治療を終え明確な意識が戻ってから。精霊の治療には時間を有する。深手を負っているのだ、精霊であろうと回復には時間が掛かる。精霊の集中治療は牛の精霊モリーとクイーンが担う。同じく深手を負ったクエールは暫くメリーくんと大人しくするとベリーシュ伯爵邸へ走って行った。体の心配はあったが走るのが好きなのだと言われるとラフレーズはそれ以上何も言わなかった。

 王太子の寝室に入り、未だ昏睡状態のヒンメルの手をそっと握った。顔色は依然悪いまま。命の危険はないと治癒を担当している魔術師に話されるも、意識が戻らないのであれば死んだと同然。

 気休めにしかならないがヒンメルの手から自分の魔力を流した。ラフレーズは此処にいると、貴方の目覚めを皆待っていると気持ちを込めて。

 するとヒンメルを握っている手に変化が起きた。微動だにもしなかったヒンメルの指が微かに動き、ラフレーズの手を握った。見ていた魔術師も驚きの声を上げ、そのまま魔力の注入を頼まれた。

 焦らず、慎重に、量は常に一定を心掛けて。逸る気持ちを落ち着かせ、一定を保ってヒンメルに魔力を注ぎ続けた。



「――殿下!!」



 たおやかな声が悲痛な叫びとなって寝室に響いた。驚いて顔だけを向けたら、息を切らしたメーラと側にい紫髪の美貌の男性が扉付近にいた。男性はメーラの父、トビアス=ファーヴァティ。強気な顔立ちはメーラとそっくりで、ヒンメルの側にいるラフレーズを敵視する目もメーラとそっくりだ。メーラがトビアスにそっくりと言ってもいい。



「ファーヴァティ公爵!? 関係者以外立ち入り禁止ですぞ! 速やかに退室を!」

「何を言う! 我が娘メーラはヒンメル殿下の恋人なんだぞ! 恋人の心配をするメーラの健気な気持ちを無碍にするつもりか!」



 治癒に当たる魔術師は許可なく入って来たメーラとトビアスを追い返せない。権力的にも立場的にも筆頭公爵家に属する2人が上で、魔術師が手を止めるとヒンメルの治療も止まってしまう。

 声だけで2人は止められなかった。



「退きなさいよ! 殿下の側は私が立つべき場所です!」



 ヒンメルの手を握る手を強引に引き剥がそうとメーラの手が強くラフレーズの手を引っ張った。回復の兆しが見えてきた今、メーラに邪魔をされて無駄にしたくない。全身に重力を掛け巨大な岩の重さと同等の重量に設定しメーラの妨害を防いだ。ビクともしないことに苛立ちを募らせたメーラに頬を叩かれた。



「ファーヴァティ公爵令嬢! 何をしているのです!」

「ラフレーズ様が悪いのでしょう! 退きなさいよ! ヒンメル殿下の側は私がいるべき場所よ! 殿下に嫌われてるくせにいつまで婚約者気取りでいるのよ!!」

「っ、いいえ!! 決して殿下の側は離れません!」



 また頬を叩かれた。同じ場所を叩かれ真っ赤に染まっている。

 騒ぎを聞き付け、人が来るもファーヴァティ公爵とその令嬢だと知ると皆躊躇してしまう。



「私は魔術師の方と殿下の治癒に当たっています! 殿下が目覚めるまで決してこの手を離しません!」

「なら代わりなさい。ラフレーズ様に出来て私に出来ない筈がないわ!」

「治癒は普通の魔術と違い、魔力操作と相手の魔力の流れを読み取る能力に長けていなければ使用が困難です。魔術が苦手なメーラ様にお任せできません」



 言った直後、顔に受けた衝撃はメーラの平手打ちより何倍も強く、痛みの度合いも違った。魔術師が大きな悲鳴を上げた。全身に重力を掛けていなければ、華奢なラフレーズは遠くへ吹っ飛んでいた。



「伯爵家如きの娘が我が娘を愚弄するか。忠臣と名高いベリーシュ伯爵の娘が聞いて呆れるな!」



 鏡を見ずとも頬が大きく腫れ上がっているとは感覚で知れる。鼻から温かい物を感じ、吹き出したメーラが「まあ! みっともないわね、鼻血なんて」と笑った。おぞましい者を見る目で治癒に当たる魔術師が非難の声を上げた。



「王太子殿下を治癒するラフレーズ嬢になんてことを……!!」

「俺は筆頭公爵家ファーヴァティ公爵だぞ! メーラは俺の娘! 伯爵家風情が公爵家に楯突いたんだ。相応の報いを受けさせて何が悪い。さあ、ラフレーズ嬢、早くそこを退け」

「絶対に退きません」



 ヒンメルが悪夢に落ちた原因に自分も含まれている筈。何より、最低な言葉を感情のまま吐き出したまま、永遠にお別れとなるのはラフレーズは望んでいない。誰に何を言われようが、されようがヒンメルの目覚めを待つと決めた。

 苛立ちを募らせたトビアスが腕を振り上げる前に、またメーラが頬を打ってきた。罵倒されようが殴られようがラフレーズは絶対に退かない強い意思で2人を睨んだ。



「はあ、はあ、嫌われていると知っているくせに何故退かないの!? 大体ラフレーズ様だって、ホーエンハイム閣下と恋人になったのなら、最初からヒンメル殿下を好きじゃなかったんでしょう!?」

「何も知らないメーラ様が私の何を知っているというのです! メーラ様やファーヴァティ公爵様にどれだけ殴られようが殿下の治療を止めるつもりは一切ありません!!」



 メーラの肩を掴んで下がらせたトビアスが勢いよく腕を振り上げた。

 時。



「………………何をしている」



 宙に浮いたままのトビアスの腕が有り得ない方向に折れた。

 部屋中に駆け巡る罅、隙間から洩れる殺気に溢れた魔力。

 室内全体に掛けられた重量。

 絶叫を上げるトビアスが蹲ろうが、ラフレーズの父シトロンは戦場に立つ騎士さながらの威圧でトビアスと大袈裟に震えるメーラに静かな口調で問うた。



「もう1度聞きましょう。

 ファーヴァティ公爵、ファーヴァティ公爵令嬢。

 私の娘に何をしているのでしょう」



 敵将との対峙でも滅多に出さないシトロンの激怒は、治癒の手を止めたくない魔術師と自分が怒られている訳でもないラフレーズにこの場から逃げ出したい気持ちにさせた。




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