第19話 ホワイトビーナス

「あれ? 俺どうしたんだっけ?」


 自分が何かやわらかいものの上に寝ていると気づいた俺は、上体を起こした。


「うわわ……」


 なんだか、くらくらする。

 めまいがひどい。


 それでも状況を把握しようと辺りを見回した。

 白い布が垂れ下げられていて、その先の様子はわからない。


 ただ、ここがどこなのかは察した。


「保健室か」


 カーテンに染み込む陽光の色からすると、まだ午前中か午後の始めだろう。

 いったいなんだってこんな場所で寝てたのか。

 思い出せない。


 と、俺がベッドの上で身じろぎしたので、ぎしっと金属音が鳴った。

 ひと気のない保健室では、空気を揺らすように感じられて、なんだかいけないことをした気分だ。


 すると音を聞きつけたのか、何者かによってカーテンが開かれた。


「あ、起きた?」


 学校指定の制服。

 人形のように彫りの深い顔立ち。

 セミロングの黒髪が、保健室の白といい具合にコントラストを成している。

 そんな女の子が立っている。


「養護教諭が席を外してたから、代わりに私が残ってるんだけど、体調はどう?」

「あんまよくねえ……」

「どんなふうに?」

「頭がくらくらする」


 女の子は考え込むように顎へ手を乗せる。


「ちょっと怖いわね。早く先生が戻ってきてくれるといいんだけど」

「俺、やばいの?」

「私もその場を見たわけじゃないんだけど」

「?」


 彼女は手で髪の毛をいじりながら。


「直立不動のまま後ろにぶっ倒れたそうよ。後頭部を打ってるのかも」

「……」

「音楽の授業中だったんだけど、私からは見えない位置だったから」

「……そう言えば音に酔ったような記憶があるな」


 思っていた以上に危なそうな状態だった。

 俺はベッドを這って彼女に寄って。


「脳にダメージがあるとかそんなんか?」

「わからないわよ。だから早く先生に戻ってきてほしいのよ」

「……やべえ吐き気もしてきた」

「ちょっ、待ちなさい! ええっとバケツバケツ!」


 げろげろ……、俺は吐いた。吐ききった。胃は空っぽ。もうでねえ。

 これは本格的にやばいかも。

 どんどん症状がひどくなる……。

 彼女に肩を貸してもらって、再び横になった。


「うう……」

「もうちょっとこらえて! ああ、こんな時に限ってなんで私ひとりなの!」


 そう言えば聞いてなかった。


「き、きみはいったい……」

「接点なかったものね。私はあなたと同じクラスの保健委員よ」

「ははは、頼もしい……」

「頭は絶対に揺らさないで? おとなしくしているのよ、いい!?」

「う、ういー……」


 俺は答えるも、出てきた声は弱々しかった。

 頭痛がひどい。


 あれ? 彼女の声が聞こえなくなった。

 ――俺、死ぬのか?

 ぞわり。悪寒が背を走った。


「な、なあ、そこにいるのか?」


 返答はない。


「いるなら返事してくれよ」


 やはり返答はない。


「ははは……見捨てられちまったか」


 死にたくない。死にたくねえなあ。

 もう諦めかけたその時。


「先生つれてきた! もう養護教諭を待ってる状態じゃないわ!」


 朦朧もうろうとした意識のなかで聞こえてきたのは、彼女の声だった。

 死の淵に落ちそうな気分だっただけに、その声は女神のもののように聞こえて。

 尊さすら感じられた。


「先生! 救急車あとどれくらい!?」

「10分もあれば着くそうだ!」

「後遺症が残らないといいんだけど……」

「そんなにまずいのか? 先生にはよくわからんのだが」

「おそらく脳挫傷です! 症状からして出血ではなく腫れかと!」

「さすが医者志望だな」


 女の子と先生の会話がぼんやりと頭に入る。

 理解している、とは言いがたい。俺はいま、相当やばい状態のようだ。自覚した。

 こんなところで高校生活は終わっちまうのか?

 まだ青春らしい青春もしていないのに……。


 俺は救急車に乗せられ、彼女と先生に付き添われながら、病院へと担ぎ込まれた。

 幸いなのかどうかわからないが、外科手術をするほどではなかったらしい。

 座薬をぶち込まれて一晩の入院。


 症状が落ち着き、意識がはっきりしてきた頃には、そばに例の女の子がいた。

 どうやら夜通しで傍にいてくれたようだ。

 病室の時計を見ると、もう朝だった。


 寝かされていたベッドから、上体を起こす。

 彼女の肩にかけられていたブランケットがずれている。

 俺は、ずれ落ちそうになっていた布を、元に戻してあげた。


 なぜ彼女がここまで尽くしてくれたのか、俺にはわからない。

 でも、たとえどんな後遺症が残ったとしても恨むことはないし、むしろ感謝する。


「……むにゃむにゃ……。私の前では誰も死なせないんだから……」


 ――もう、か。

 彼女の言葉の真意を、俺はいつか問いただしてみたいと思った。

 彼女によって拾った命だとも言えるのだから。

 俺たちは命を通して助けられた者と助けた者の立場でつながったのだ。


 ちゅんちゅん。

 すずめだろうか。

 小鳥の鳴き声がこんなにも美しいと感じたのは、これが初めてだった……。

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