第36話 解放された笑顔はずっと

「おらぁっ!! クソババア出てこい、ぶっ飛ばしてやる!!」


 突然玄関の方から怒声が聞こえてくる。


 この家でクソババアなんて汚い言葉を使うのは当然ひとりしか居ない。


「は、初海!?」


 思わぬ闖入者を前に、八尋どころか私や美海でさえも硬直してしまった。


 というか、硬直する暇だってなかった。


 ドスドスと足音を響かせながら初海は客間に向かって突進してくる。


 そして客間は、玄関から入ってすぐ隣の部屋だった。


「アタシが来たからにはもう大丈夫だからな!! 絶対、追い返してや――」


 ガラリとふすまが横にスライドし、金属バットを手にした初海が勢いよく室内に走りこんできてしまった。


 きっと初海は私たちを想って弁護士の家に逃げなかったのだろう。


 きっと私たちのためを思って助けに駆けつけてくれたのだろう。


 ありがたい。


 間違いなく初海は良い子だ。


 だが、そんな孝行者の初海を出迎えたのは…………。


「――ふんぎぇぇぇぇっ!?」


 私のケツだった。






 あのあと、八尋はこれ幸いとばかりに私たちから逃げ出した。


 美海によって完全に心を折られた今、以前のように私たちに関わって来ることはないだろう。


 ようやく美海は母親から解放されたのだ。


 しかし、良いことばかりでもなかった。


 しっかり身なりを整えた私と美海は、


「ほんっとうにすまんっ!」


「ごめんなさいっ!!」


 平身低頭、初海に向かって土下座をした。


 完全に私たちが悪い。


 平謝りしてもまだ足りないだろう。


 なにせ、多感な時期の少女にあんなものをみせてしまったのだから。


「…………ぐすっ」


 初海はというと、リビングの隅っこで壁に向かって体育座りをしている。


 何度か目を擦っているのは涙が出るほどショックが大きかったのだろう。


「せっかく助けにきてくれたのにあんなことしてて申し訳なかったと思ってる」


「あ、あのね? あれはあの人に一番わからせてやれるんじゃないかって思ったから私がしようって言ったの。本当にごめんね?」


「お詫びにできることならなんでもするから。ほら、欲しいモノとかあるだろう? なにか言ってみてくれ。な? な?」


「楽しんでやってたわけじゃ……いえ、楽しんではいたんだけど……」


 私と美海が同時に言い訳を並べ立てる。


 とにかく許してもらうために必死だった。


「…………いい」


「え!?」


「だから、もういいって言ってんの!」


 そんな私たちにいい加減我慢の限界に達したのか、初海は突然立ち上がると勢いよく振り向いて私たちを睨みつける。


 けれど彼女の顔は赤く、目に涙が光っていた。


「ふたりがそういう関係だったのは知ってたし! そ、そりゃあ色々したくなるのも気持ちは理解できるからっ!!」


「し、知ってたのか?」


「ここに来てわりと最初の方かな。深夜に目が覚めたんでゲーム機を取りに行ったら見ちゃったんだよっ」


「すまん……」


 一応、バレないように注意はしていたのだが、知られていたのなら私たちの配慮が足りなかったのだろう。


 このことについては反省しきりである。


「お父さん。やっぱり初海にはきちんと言っておいた方がよかったと思うの」


「いや、隠し事されてたのと見ちゃったのとは別問題だからっ。なんであんなんなっちゃったんだよっ! 美海ねえはもっと反省して!」


「ごめんなさい……」


 初海に怒鳴られて美海は一気にしゅんとなる。


 その後もいくつかの不満をぶつけられて、ようやく最年少者からのお小言は終わったのだった。


「……ところで初美は私たちの関係に何とも思わないんだな」


「ん? ああ、令次と美海ねえが父娘ってとこ?」


「そうだ」


 普通なら近親者同士が恋愛感情を抱くなんて気持ちが悪いと思うはずだ。


 実際、八尋はとんでもない嫌悪感を私たちに対して抱いていた。


 しかし、初海にそういった感情は全く見られない。


 普通のことであるかのように受け入れている節すらあった。


「まあ、アタシも最初はえぇっ? って思ったよ。だってお父さんでしょ? アタシもお父さんとって考えるとあり得ないし。……ってアタシお父さんの顔も知らないんだけどさ」


「…………」


 初海と血の繋がった父親は、居場所だけならばもう分かっている。


 けれど、初海は自分を見捨てた父親と会うことを拒絶したのだ。


 彼女の中では父親という存在そのものが必要ないものとして扱われているのかもしれない。


「でも、美海ねえが見たこともないほど幸せそうな顔してたんだよね」


「え……」


 ポリポリと指先で頬を掻く初海は、少しだけ悔しそうな表情を浮かべる。


「アタシとアパートで暮らしてた時は一度もしなかった嬉しそうな表情でさ……」


 初海は美海によく懐いていた。


 だからこそ、ずっと見せてこなかった表情を私には見せていたことに、複雑な感情を抱いたのだろう。


「……うん。じゃあ仕方ないのかなぁって……さ」


 でも、初海は優しい子だった。


 自らの感情より姉の幸せを願えるくらい懐の大きな娘だった。


「初海……!」


 感極まった美海が、立ち上がって初海に抱き着く。


 いや、抱き着こうとしたのだが……。


「ストーップ!」


 初海は即座に美海の顔面を掴んでアイアンクローをかます。


 初海の表情は、先ほどまでと打って変わって明らかな嫌悪に満ちていた。


「風呂入ってからにして! 頼むからっ!!」


「あー……」


 意外と潔癖なところがある少女に、事後そのままの美海が抱き着くのは色々と問題があって当然だった。


 まあ、嫌われているのではないのだから、そこは安心だ。


「あ、どうせ初海にバレたことだしお父さんも一緒に入る? 洗いっこしようよ」


「風呂場でナニすんの!? ナニするつもり!?」


「べ、別にしないからぁ」


「ふたりの関係は認めるけど自重はしてね!!」


 美海の笑顔は晴れやかだ。


 母親から解放され、初海に隠さなくてよくなったからだろう。


 ずっとこの笑顔を守っていきたい。


 父親として。


 恋人として。


 そう、思った。

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