第15話 告白は赤く

 思えば、気付ける要素はいくらでもあった。


 妹が居る。


 親が浮気の果てに離婚。


 自殺未遂。


 母親が援助交際を強要した。


 しかも同じ土曜日に。


 ひとつひとつは他人でもあり得るだろう。


 けれどここまで重なっていることは確率的にあり得ない。


 あり得ないのに気づかなかったのは、無意識に私が否定したかったからだろう。


 私が、血のつながった娘を、抱いてしまった、なんてことを。


「おじさん、ですか? え、なんでここに?」


 名も知らぬ少女……いや、名前だけ知っていた少女。美海。


「それにさっきのってどういう意味ですか?」


 美海は体に巻いたシーツを引き上げて胸元を隠しながら私の元へ歩み寄ってくる。


 まだ彼女は私を実の父とは知らず、体を重ねたことのある『名も知らぬおじさん』としてしか認識していないのだ。


「……君の妹、初海に助けを求められたんだ」


「初海っ!?」


 結局、私はその事実を言い出せなかった。


「今電話が繋がっている」


 スマホを差し出すと、意外なことに美海は顔をくしゃくしゃにして助けを乞う様な瞳を向けて来る。


『美海ねえ!? ねえ、美海ねえ!! 大丈夫なの?』


「…………」


 知られたくなかった。


 美海の瞳は、そう語っていた。


「初海。美海は無事だ。ただ、ちょっと今はショックで言葉が出ないみたいだから、家に帰ってからゆっくり話そう」


 仕方なくスマホを引っ込め、当たり障りのない言い訳を口にする。


『なんだよ、それ。一言だけでもダメなの?』


「……なんとなく話したくないって時、初海にもあるだろ。家に帰ったら大丈夫になれるから、少しだけ待ってあげてくれないか?」


『……わかった』


 不満はあるが、美海を傷つけたいわけではない。


 渋々といった様子で初海は提案を受け入れてくれたのだった。


 それから二、三やり取りをして電話を切る。


 家にある物はなんでも使ってよいと言い含めておいたので、多少は気もまぎれるだろう。


「よし、と」


「ありがとうございます。その……」


 美海は暗い顔で俯いている。


 これからどうすればいいのかが全く分からなくて、不安に押しつぶされてしまいそうなのだろう。


「とりあえず私の家に行こうか。初海も居るし、そこでなら君たちのことを守れるはずだ」


 八尋から、なんて具体的な固有名詞は飲み込んでおく。


 曲がりなりにも彼女たちの母親だ。


 初海は大丈夫だろうが、繊細で優しく一度も母親への敵意を口にしていない美海は違うかもしれなかった。


「そんなに優しくされたら、いろいろ勘違いしちゃいますよ……」


「…………」


 私が美海を助ける理由は簡単だ。


 父親だから。それだけ。


 だが、それを知る前に私が美海を抱いてしまったことで、簡単には言い出せなくなっていた。


「……それじゃあ出ようか」


「はい……――っ!? おじさん足っ!!」


「ん?」


 ズキズキと痛むので自覚はあったが、きちんと見る暇はなかったから気づいていなかったのだ。


 まさか、溢れ出した血が足首からスネまでを真っ赤に染めあげ、床にまで血の跡を残していたなんて。


「ああ、さすがに掃除しないとまずいかな」


「そうじゃないですよ! 傷の手当て……ああもう、お風呂場に来てください。いえ、支えますから行きましょう!」


「み、見た目ほど酷いケガじゃないんだよ」


「いいから黙っていてくださいっ」


 シーツを裸身に巻いただけの美海が……血のつながった愛娘が、無防備にも私に抱き着いて支えてくれる。


 きめ細かく吸い付くような肌。


 触れた物をどこまでも沈めて行くほど柔らかい胸。


 しっとりと濡れた長くて艶やかな黒髪。


 吸い込むと頭がくらくらしてしまう甘い体臭。


 意識してはいけないと理性がいくら口を酸っぱくして説いたところで本能は聞く耳を持たなかった。


「意外と強引なところがあるよね」


「こんなことしか、お返しできないんですから」


 そのまま風呂場へと連行され、小さなプラスチック製の腰かけに座らされる。


 ……いわゆるスケベ椅子なんて俗に言われる代物なため、なんとも居たたまれない。


「脱がしますよ。痛かったら言ってください」


「ああ」


 美海が靴を脱がし、靴下に手をかける。


 これから襲いかかって来るであろう衝撃に備えて、私は歯を食いしばった。


「――ぐっ」


 出来る限り傷口を触らないように気を付けてくれているのは分かる。


 けれど、刺すような痛みが足を駆け上ってきて、思わず呻いてしまった。


「ごめんなさいっ。でもあと少しですから」


「分かってる。続けて」


 どうやら何度も刺された上に走ったものだから、刻まれた皮膚片と靴下が絡まってしまったらしい。


 ひとりで手当てなど確実に出来なかったであろうから、美海にやってもらえるのはとてもありがたかった。


「ん――っしょ」


 靴下を破り捨て、患部をぬるいお湯で洗う。


 最後に折りたたんだティッシュを傷口に押し当てて止血をする。


 道具がないのにかなり手際良く処置を施してくれて、すこし感心してしまった。


 何もない環境で育ったからこそ身に着いたスキルかもしれない。


「ありがとう。思いのほか楽になったよ」


「まだですっ。右ひじにも血が付いてるじゃないですか」


「ああ、これはそんなに大したことないよ。痛みも感じないし」


 これは嘘ではない。


 物を切るカッターナイフで刺してきたものだから、刃が折れて大した被害を受けなかったのだ。


 運がいいというよりは八尋がバカなのだろう。


「……目の横にも傷がありますしっ」


 私の顔が小さな手で挟まれる。


 気付けば正面には涙で目を潤ませた美海の顔があった。


「もう……こんなにボロボロになってまで私を助けようとしてくれたんですか?」


「おとぎ話の王子様みたいに、もっとスマートに出来ればよかったんだけどね」


 泥臭く掴み合ったり、嘘をついたり脅したり。


 やったことは正義の味方ですらなく、小悪党の域だ。


 まったくもってみっともないが、こちとらなんの力もないただの父親なのだから仕方なかった。


「王子様よりかっこいいですよ」


「それは――」


 嬉しいねと、最後まで言うことはできなかった。


 何故なら、口を美海の唇で塞がれたからだ。


 実の娘からの口づけ。


 本来は絶対に拒絶しなければならない行為。


 けれどあまりにも心地よくて、心が満たされて、つい受け入れてしまう。


 私自身を見てくれる少女の想いが、ただ嬉しかった。


「……はふっ」


 美海のぬくもりが離れて行く。


 もっとしていたい。


 彼女の熱が欲しい。


 私の中で持つべきでない欲望ねがいが渦を巻いていた。


「やっぱり私、おじさんとのキスが好きみたいです」


 美海がチロリと舌を出して赤い唇を湿らせる。


 その様があまりにも性的で、つい顔を背けそうになるが、


「ふふっ、だめで~す」


 美海が許してはくれなかった。


「……おじさん。もう一度、いいですか?」


 甘く、蠱惑的な囁きに、私の意識は堕ちてしまいそうになる。


 だが、それは出来ない。


「だめ、だ……」


「え?」


 残った理性を総動員して美海から体を引き剥がす。


 ショックを受けている美海の様子は見ているのも辛かった。


 このまま美海におぼれていたい。


 父娘おやこだという秘密を明かさず、ズルズルと関係を続けられたらどれだけの快楽を得られるだろう。


「ダメなんだよ……!」


 でも、ダメだ。


 それは、出来ない。


 何故ならそれでは美海が幸せになれないからだ。


 私は父親だ。


 美海の幸福を願う、たった一人の肉親だ。


 不幸にはできない。


 未来を奪うことは……できない。


「わ、私は本当におじさんのことが好きなんですよ……?」


 声を震わせ、涙を浮かべながら美海が告白してくる。


 そこに、嘘や下心はない。


 最初の出会いの頃にあったような、諦めだってない。


 純粋に私のことを愛してくれている。


 でも、それは本当に男女の間で交わされているものと同じだろうか。


 親に対して持つ愛情を、勘違いはしていないだろうか。


「私も好きだ。愛しているよ」


「だったら――」


「だからダメなんだ!!」


 もう駄目だ、限界だ。


 言わなければならない。


 娘だと知っていながらなお私は美海の口づけを受け入れてしまった。


 これ以上は、美海が余計に傷つくだけだ。


「……私は、君の父親なんだ。血の繋がった、たったひとりの」


 だから私は真実を告白した。

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