第14話 家族

「はぁっ……はぁっ……なん、ふんっ!?」


『ちょうど十分過ぎた!!』


「くっそ!」


 歩いて二十分となれば、二キロ半くらいの距離がある。


 スピードを保って走ればなんとか間に合わなくもないかもしれないが、今の私にはひとつだけ重大な問題があった。


 足を傷つけられているのである。


 八尋に切られた位置はちょうど甲の上、足首あたりだ。


 足を地面につけるたびに革靴がぐりぐりと傷口をえぐり、激しい痛みが私を苛む。


 十数年間、一度も顔を見たことすらない娘のためにここまでする必要があるのか。


 もう投げ出してしまえと心のどこかでなにかが囁く。


 報われると決まったわけでもないのに、と……。


「そんなわけ……あるかっ」


 ああそうだ。


 私は自分に何らかの利益があるから走っているのではない。


 褒められたくて痛みを我慢しているのでもない。


 娘を……家族を救いたいから、何事もなく健やかに生きていてほしいから走っているのだ。


「娘なんだよ……! 私の大事な子どもなんだよ……!」


 汚されてたまるか。


 壊されてたまるか。


 私の生きた証なんだから……!!


『令次!! 商店街はまだ見えないっ!?』


「――――っ」


 激痛で朦朧としていた意識が現実に引き戻される。


 筒を覗いているのかと思うほど狭くなっていた視界が、パァッと広がった。


「…………! ある!!」


『もうすぐ曲がるとこだろ! 気をつけろよなっ!!』


 叱咤が心地いい。


 私のことも、美海のことも、初美は心配してくれているのだと伝わってくる。


 ほんの数時間前に顔を合わせ、同じ目的のために会話していただけなのに、最初に感じた嫌悪感はこれっぽっちも残っていなかった。


「そう、か……はっ……ありがとうっ」


 これが、家族なのだろうか。


 一度壊れてしまったから、私には家族のあるべき形というものが分からない。


 けれど、この心地よさを美海とも分かち合いたいと思わずにはいられなかった。


「初海」


『なんだよ』


「そういえば、お互い……はぁっ……名前で、呼んでるな」


 思い返せば私は八尋のいたところで初海と呼んだのが最初のはずだ。


 苗字を呼べば、八尋と初海の両方が設楽なのだから区別がつけられないため必要に駆られてではあったが、なんとなくそのまま呼び慣れてしまったように思う。


『まあ、そういえば?』


 このまま初海とも仲良く出来るだろうか。


 母親を裏切ってまで美海を助けようとするほど懐いているのだから、美海だって憎からず思っているはずだ。


 なら、子育てを続けられないであろう八尋からこの娘を引き取ってもいいかもしれない。


 恐らくそれが初海のためにもなるだろう。


「終わったら、話がある」


『そういう死亡フラグみたいなこと言うなよなぁ。不安になるじゃん』


「ははっ」


 私しかいない寂しい家に、子どもがふたりも出来る。


 家族が帰ってくる。


 それは、とても楽しそうな気がした。


「――――見つけたっ」


 指定されたラブホテルの前で待ちぼうけている男性が居た。


 遠めから見たところ年齢は50代前半くらいで、かなりでっぷりとお腹が出ている。


 雰囲気からして粘着質そうな感じがした。


「美海はどこだ……」


『居ないの?』


 息を整えながら遠巻きに見て確認する。


 姿が見えるのは男だけで、本当にTなのか確証が持てない。


『突撃して聞いちゃえばいいんじゃない?』


「知らんふりされたら終わりだ」


 となれば、手段はやはりひとつしかなかった。


「初海」


『……なんだよ』


 一瞬の沈黙があった時点で嫌な気はしたのだろう。


 それで正解だ。


「絶対やらないと言わせた後にすまない。電話をかけてくれ」


『うあぁぁぁぁ~……だよなぁぁぁぁ……』


 一番不自然なく確実に確認する方法である。


 初海もそのことが良く分かっているから嫌だと言えないのだろう。


『うぅ……分かったよぉ……』


「ありがとう。今夜は寿司頼むから我慢してくれ」


『は!? なにそれ神かよ』


「現金すぎるだろ……」


 一瞬で声に張りが戻り、すこし呆れてしまった。


 まあ、あの環境なのだから、寿司なんてほとんど食べたことがないのだろう。


 嫌な思い出をいい思い出で上書きできるのなら、それもいいかもしれない。


「じゃあ、やるぞ」


 慣れたくはない手順を繰り返し、スマホを鏡合わせにする。


 それを左手に持った状態で、なるべく平静を装って歩き出した。


「――取った!」


 ラブホテルの前に居た男性が、ポケットからスマホを取り出して耳に当てる。


 ほどなくして粘着質な声が聞こえて来た。


『あ、もしもし初海ちゃんかな?』


 これで確定だ。


 男はTで間違いない。


『あ、は~い。近くまで着いたんですけどぉ、ちょっと分かんなくってぇ。すみませんけど手とかあげてもらっていいですかぁ?』


『もちろんだよぉ』


 当然のようにラブホテルの前に居る男も片手をちょこっと挙げた。


『これからそっちに行きますねぇ。そのまま待っててくださぁい』


『うんうん、ところでスマホはまだ借りてるのかな? だったら八尋ちゃんも来るのかな?』


『…………』


 息を吞む音が聞こえて来たのは、それだけ腹に据えかねているからだろう。


 もう会話をする必要などないのだが、バレてしまっては元も子もない。


 出来る限り気をひいてくれるとありがたいが……。


『よく分かりましたねぇ。保護者同伴で向かいますよぉ』


『そぉかぁ。姉妹丼だけじゃなくて親子丼も出来るのか。うれしいなぁ』


 なかなかうまいことを言う。


 確かに保護者はここに居る。


 母親ではなく父親だが。


 しかし、あまりにも能天気すぎる脳内ピンク男は、警察に連絡してカツ丼でも食わせてやった方が世のためじゃないかと思えて来る。


『ところでぇ、そちらはどうですかぁ?』


『こっち? もう準備万端でビンビンだよぉ。来たら即座にぶち込んであげるねぇ』


 初海とTが話している内に、私も十分近づくことが出来た。


 腕を伸ばせばTを捕獲できる。


 もうお芝居は無しだ。


「お前じゃない。今のは私に聞いたんだ、そうだろう?」


「なっ!? なんだね君は!!」


 戸惑っている内に、私はTのえんじ色をしたポロシャツの袖口を掴む。


「初海、なにか大声を出せ」


『クソ親父、きめえんだよ息すんなボケがっ!!』


 ためにためた鬱憤を初海が噴出させると、男の持ったスマホからも遅れて聞こえてくる。


 これで、絶対に言い逃れはできない。


「美海を返してもらおう。私はこの子たちの父親だ」


「ち――――っ」


 天国から地獄へ。


 Tの顔から一気に血の気が引いていく。


 そして、


「――っ!!」


 予想通り踵を返して走り出そうとするが、当然掴まれていては上手くいくはずもなかった。


 私はTを引き寄せると、額がぶつかりそうなくらい顔を近づける。


「娘を、返せ。そうしたら何もしない」


「は、はひ?」


 ドスの効いた声で脅しをかけると、先までの舐め腐った態度はなりを潜める。


 痙攣の発作でも起きたのかとおもうほど、全身をガタガタと震わせ、額に玉のような脂汗を浮かべた。


「それから、お前と初海の会話は録音してある。今後娘たちに近づくようなことがあれば、お前のことを警察にバラさせてもらう。いいな?」


「…………っ」


 本当に私が言っていることをきちんと理解して、正しく履行するかどうかは分からない。


 けれどこの場で争うつもりはなく、とにかく逃げ出したいのだろう。


 見つかった途端にここまでうろたえるようなことを始めからするなとは言いたかったが、私にTを更生させる義務はないため口をつぐんでおいた。


「じゃあ、娘はどこだ」


「こ、ここ、ここですっ」


 ラブホテルを指しながら鍵を手渡してくる。


 変なところに隠されていなくて本当に良かった。


「分かった。もうどこへでも行ってしまえ」


「あ、ありがとうございますっ」


 袖を手放した途端、Tは全速力でわき目もふらずに遁走を開始する。


 この様子だと、仲間が待ち構えているといった類のことはないだろう。


「ようやく、か……」


 深く、大きなため息をつく。


 スマホを確認すれば、十三時過ぎでしかない。


 初海が来てからわずか二時間半程度しか経っていないというのに、ここに辿り着くまで何日もかかった様な気がした。


『解決したんでしょ! はやくはやくっ』


「ああ」


 ズキズキと疼く足を引きずりながらラブホテルに入る。


 幸い受付では誰に見咎められることもなかった。


 キーに刻印されていた部屋に行くと、なんの問題もなく鍵は開き、電灯の点いていない真っ暗な部屋が現れた。


「美海。八尋は説得したから帰ろう。お前がこんなことをする必要はない」


 スイッチを入れると、天井に取り付けられた電灯が明滅を繰り返す。


「はい?」


  じれったいほど長く続いたように思える光の明滅が治まり、白い光が部屋の全てに降り注ぐ。


 当然、半裸に近い格好で待機させられていた少女にも。


「だれです……か……」


「――――つ」


 ああ、嘘だと言ってくれ。


 これが運命によって決められていたとしたら、なんて最悪なシナリオだ。


 これを用意した神が居るとしたら、なんて底意地の悪い神だろう。


 私は、きっと、一生をかけて怨む。


「……もしかして、おじさん?」


 絶対に。


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