第10話 やるべきことはたったひとつ

 ついに、約束の土曜日がやってきてしまった。


 今日は少女からの連絡がある日であり、同時に彼女が誰とも知れない輩に売りつけられる日でもある。


 当然、私にとって陰鬱な日であった。


 布団に潜り込んだまま、あまり物が置かれていない自室の壁かけ時計を見て時間を確認する。


「……朝。九時、か……」 


 まだ、九時。


 どのくらいで少女の試練が終わるのかは分からないが、一緒にランチして終わり、なんてことはないだろう。


 体の関係もあるのだから、夜までかかるのではないだろうか。


 あと、十二時間近くかそれ以上もかかる。


「……はぁ……」


 長すぎる。


 これでも目が覚めてから二時間しか経っていないのだ。


 なのに最低でもあと五倍の時間が必要。


 こんな気持ちで丸一日いるだなんて、耐えられる気がしなかった。


「一番辛いのはあの娘なのに……」


 傍に居たい。


 何をするわけでもなく、ただ彼女の隣に居たい。


 いや、彼女が笑って居られるだけで十分だ。


 それこそが一番の望みであるべきなのだ。


 でも、それでも私は……。


「はぁ…………」


 何度目になるか分からないほどのため息をつく。


 時計の秒針は、まだ一周すらしていなかった。






――ピンポーン。


 まどろみを揺蕩っていた意識が現に引き戻される。


 悩み悩んで、結局どうしようもなくて、ずっと悶々としていたらいつの間にか眠りかけていたらしい。


「……くっそ」


 毒づきながら時計を見れば、まだ午前十一時前である。


 出来れば眠りの世界で時間が経つのを待っていたかった。


――ピンポン。


 再び階下から来客を告げるチャイムが鳴り響く。


 しかし、今は酷く体が重くてベッドから出るのすら億劫だ。


 わざわざ一階まで降りていく気なんてサラサラなかった。


――ピンポンピンポン。


 しつこい。


「……通販は頼んでないからセールスか何かかね。どうせ用事があるならまた来るだろ」


 うんざりしつつ掛け布団を頭からかぶって籠城を決め込む。


 だが。


――ピンポンピンポンピンポンピンポン。


  来客主は諦めが悪く、更なる連打で以って神経を攻め立てて来た。


「――あーもうっ! 誰だいったい!!」


 たまらず布団を放り投げると、ダンっと床を音が出るほど強く踏みしめた。


 当然のように居留守なのはバレてしまい、連打はさらに激しくなる。


 それほど急ぐ用事でもあるのだろうか。


 無ければ警察のひとつでも呼んでやるつもりで寝間着の下だけジーンズに履き替え、枕元に置いてあったスマホを掴む。


 他人を出迎えるのにふさわしい格好とは言い難かったが、腹が立っていた私が気にするはずもなかった。


「はいはい、今出ますっ」


 足音をドスドスと立てながら階段を下りる。


 もう私が下りてきていることには気づいているだろうに、未だチャイムを鳴らし続けているのはもう嫌がらせとしか思えなかった。


「なんですかっ」


 ドアを思いきり開いて招かれざる客人へとやや大きめの声をぶつけた。


 瞬間――。


「居るならもっと早く出て来いよ、タカネレイジ!!」


 それ以上の怒声が返って来た。


 すっかり忘れていたのだ、


 チャイムを連打するような人間は、よほどの非常識な存在か、よほど急いでいるかのどちらかなことを。


美海みうねえが大変なのになにしてんだよ! あんたの娘だろ!!」


「は? だ、誰……?」


 怒鳴り返してきた人物は、一言で言えば不良と言われるような恰好をした少女だ。


 茶色く染めた髪の毛をポニーテールにしている。


 性格をそのまま表しているかのごとくつり目で、口元からは八重歯が覗いていた。


 学校の制服らしきブレザーを腰に巻いて、ワイシャツは二の腕あたりまでまくり上げている。


 スカートの丈が異様に短い気がするが、恥ずかしくはないのだろうか。


 だが、そういう派手めの恰好をしている割には、アクセサリーの類は全く見えなかった。


「美しい海と書いて美海! 覚えてないとは言わせないからな!!」


「もちろん覚えているが……」


 目の前の少女が、美海?


 いや、違う。


 この娘は言っていた。


 美海ねえ、と。


 だったら心当たりがあった。


「君は……いや、君の母親の名前は、まさか斎藤さいとう八尋やひろかい?」


「そう! 今は苗字が変わって設楽だけど」


「やっぱり……」


 なら、答えはひとつしかなかった。


 目の前の少女は、私の元妻が浮気した時にできた子どもだ。


 そう認識した途端、スッと頭から血が引いていくのが自分でも分かった。


「……申し訳ないが、あまり君と君の母親とは関わり合いになりたくない」


「――っ! このクソジジイ……」


 捨て台詞は聞かなかったことにする。


「が、美海は別だ。話を聞かせてくれ」


「…………はぁ~っ」


 不良少女はガックリとその場に座り込むと、これ見よがしに盛大なため息をつく。


 ついでに「先にそう言えよ、クソが」なんて独り言も聞こえてきたが、それもついでに聞かなかったことにしておいた。


「尋常ではないからね。話しにくいことなら中で聞いてもいい」


 本来この家は、私と八尋と美海の三人が生きて行くはずだった家だ。


 本人にはなんら罪がないとはいえ、その家に住めなくした相手の血が混じっている存在を招き入れたくはなかった。


「いや、時間がねえんだよ。早くしないと美海ねえが死んじゃうっ」


「――詳しく」


 私の唯一……いや、今はもう唯二の生きる理由となった存在だ。


 失われるのは、絶対に避けたい。


「よくは分からない。けど、何度か自殺未遂を起こしてて……」


「――くっ。自殺か」


 最近はよく自殺未遂と出くわすので気がめいりそうだ。


 外へ出にくいご時世故に、自殺者も増えていると聞く。


 それにしたって関わり過ぎだとは思うが。


「クソばばあに聞いたら、アンタが気にすることじゃないって何も教えてくれなくてさ。絶対、あれはあのババアが原因だって直感したんだ」


「八尋が原因……あり得るな」


 八尋が妻であった時は私の給料をいいことに、ずいぶんと派手な生活を送っていた。


 別れてからそれが収まったとも思えない。


 贅沢の味を一度知れば、戻ることは難しいのだ。


「んで、美海ねえは土曜が来てほしくないってずっと言ってたんだ。だからもう時間が無くて……」


「土曜……今日かっ。なんでもっと早く来てくれなかったんだっ」


「しょうがねえだろ! あんたの居場所を突き止めるのに時間がかかったんだよ!」


 聞けば嵩根令次という名前と美海のおぼろげな記憶だけを頼りに色んな場所を走り回ってこの家を探していたらしい。


 それならむしろ手遅れになる前に見つけてくれたことを感謝すべきだろう。


 よく見れば土曜日だというのに制服のままで、しかも所々が泥で汚れている。


 顔色だって若干青白くなっていて、今にも倒れそうだった。


「分かった、ありがとう。知らせてくれて感謝するよ」


 スマホを握っていた自分を褒めつつ、電話帳アプリを立ち上げて元妻の名前を探す。


 娘との面会を断られ続け、もう十年以上も自分からかけることはなかった電話番号を、久方ぶりにタップしようとして――。


「ダメだな……。今電話をしたら逃げられるかもしれない」


 電話では警告こそ出来ても相手の行動までは止められない。


 私がなにか気づいたことを察して、どこかに雲隠れされたら、それこそ一巻の終わりだった。


「アンタよく分かってるな。あのババァなら絶対に逃げる」


「…………」


 先ほどから何度かこの不良娘が八尋のことを罵倒している気がするのだが、なぜだろう。


「君……あ~、名前は?」


初海はつみ! 設楽初美!」


 二人目なのに『初』という漢字を入れる辺り、八尋の嫌味な考えが透けて見える。


 だが今はそんなことを気にしている暇はない。


「さっきから八尋のことをクソババアと呼んでいるみたいだけど、君は母親のことが嫌いなのか?」


「当たり前だろ。あんなクズ、そもそも母親と認めたくねえよ」


 初めてこの不良娘――初海と意見が合った気がする。


 いや、二つ目か。


 美海を助けたい一心も一致していた。


「分かった」


 一瞬、名も知らぬ少女の電話を優先すべきではないのかと心揺れる。


 だが、それはきっと少女も喜ばないだろう。


 家族のために体を売ろうとしている少女が、家族を見捨てることを由とするはずがなかった。


「とりあえず君が今住んでいる住所を教えてくれ」


 離婚調停でお世話になった弁護士あてのメールを作成し始める。


 自分の子どもに絶対的な嫌悪感を抱かれる母親。


 その時点で悪い可能性しか思い浮かばない。


 私がやるべきことはたったひとつ。


「なんでだよ」


「乗り込むに決まってるだろう」


 戦争、だ。

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