第9話 別れの口づけは涙の味がして

「……あっ!」


「――っと。大丈夫かい?」


 ラブホテルを出た直後、小さな段差で足をもつれさせた少女を抱きとめる。


「んふっ。実はまだ少し腰が抜けちゃってるんです」


「じゃあタクシーで送るよ。夜も遅いし」


 すでに時計の針は二十時を回っている。


 平日に学生が居ていい時間ではない。


 特に私のように年の離れた男性が隣にいれば、警官だって見逃してはくれないだろう。


「そっちの方がダメですよ。母に見つかったら大変なことになります」


「…………」


 忘れていた彼女の痛みを思い返す。


 私は少女の力になれたのだろうか。


 こんな、一時の快楽で心を麻痺させただけでしかないのに。


「そんな顔しないでくださいよ」


 指摘されるほど酷いかおをしていただろうか。


 憐れみを向けるのは、逆に彼女を傷つけてしまう。


 ほんの少しの時間、体を重ね合わせた関係でしかないけれど、それは分かる。


 少女は私からなにも受け取ろうとはしない。


 あくまでも対等な関係を望んでいるのだ。


「私は君から貰ってばかりだな、ありがとう」


「……このまま駅まで支えててください」


 少女は私の腕に体重をあずけたまま小首を傾げ、「ね」と言いながら笑ってみせる。


 笑顔の仮面の下に、寂しさを隠して。


 気丈に振る舞う少女を思うのならば、私もそれに見合った態度を取らねばならないだろう。


 そう思考を切り替えて、表情を作ろうとした矢先。


「あ~っ」


 なんて少女が頓狂な声をあげる。


 しかも、少し嬉しそうな感情が混じっていた。


「おじさん、また興奮してるんですか~? 顔、真っ赤ですよ」


「うぉっ」


 思わず顔を撫でまわすがそれで顔色が変わるわけでもない。

 

 結局、物理的に修正するのは諦めて言い訳を必死に探すしかなかった。


「い、いやこれはだね……力を入れようと思って……」


「言い訳はいりませんっ」


 少女のせいにするわけではないが、彼女があまりに魅力的なのが原因だ。


 男なら誰だって彼女に近づくだけで赤面くらいしてしまうだろう。


「君がそれだけ魅力的なんだよ」


「ふふっ、そういうことにしといてあげます」


「ありがたき幸せ」


「うふふ、調子がいいですね」


 今わたしの顔はどんな表情を浮かべているのだろう。


 先ほどよりは、マシになっただろうか。






 少女と談笑しつつ歓楽街を抜ける。


 途中、まったく呼び止められなかったのは、彼女の歩き方が本当にぎこちなくて私が介助人だということが明らかだったからだろう。


「おじさん、ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」


「あ……」


 駅の入り口についた矢先、少女が私から離れて行く。


 私の右腕が、虚空を掴む。


 ぬくもりが無くなってしまったことで、この夢のような時間が終わってしまうのだとはっきり理解できてしまった。


「…………」


 明日からまた繰り返される日常に彼女が居ない。


 それだけで全てが色あせて見えるほどだ。


「おじさん。顔に出てますよ」


「ごめん。私はどうにも気が利かないね」


 君を失いたくないんだ。


 そんな臭いセリフがつい口から飛び出しそうになる。


 いい年した大人が何を勘違いしているのだろう。


 少女と私の人生が重なることは……もうない。


 それが現実なのだ。


「もう…………ホントですよ……」


 少女がため息をつくと、手のひらを上にして私の前に突き出してきた。


「連絡先」


「――はい?」


 意味が分からず、思わず私の方が間抜けな声をあげてしまった。


「もうっ。だから、連絡先を教えてくださいって言ってるんです」


 それでも私が呆然と立ち尽くしていると、少女はだんだんと不機嫌になり始めた。


 ぷくっと頬を膨らませ、唇の先をくちばしみたいに尖らせる。


「おじさん。私、言いましたよねっ」


 なにを、なんて聞き返したら更に怒られるのは目に見えていたため、「はぁ」と生返事でお茶を濁す。


「私が、私の意思で、好きな人としたいって」


「えっと……ま、まさか……」


 だんだんと話が飲み込めて来る。


 つまり、永遠の別れだなんて盛り上がっていたのは私ひとりで……。


「お、女の子の私から言わせないでください」


「……………………………………………………そうか、そうなんだ」


 顔から火が出そうなほど恥ずかしい。


 本当に辛いであろう少女の前で、いい年した大人の私が悲劇のヒロインぶっていたのだ。


 私はバカだ。


 超がいくつ付けても足りないくらいの超絶大バカだ。


「もう、にやけすぎですよぉ……」


「ごめん、本当に嬉しくて」


「や、やめてくださいっ」


 怒っている女子高生と、それを前にデレデレしている古ぼけたサラリーマンのおじさん。


 人目を引くほど奇異な組み合わせではなかったが、それでも通り際に視線を投げかけられる程度には目を引く存在だった。


「んんっ……ごめん」


 咳払いして、心を落ち着かせる。


 それでも頬は私の命令を聞かず、勝手に緩んでしまうのだが。


「えっと、じゃあ私の名刺を……」


「名刺ですか? それだと――あっ!!」


「どうかしたかい?」


 鋭い声を出して固まる少女に、一瞬だけ焦りを感じる。


「そういえば、名前を聞いてませんでしたね」


「……ああっ」


 私たちはかなり深い仲になったというのに、一番基本となるはずの自己紹介はしていなかったのだ。


 あまりにも順序が間違っている、なんとも間抜けな話だった。


「すまない、私は――」


 嵩根たかね令次れいじと自らの名を名乗ろうとしたところで、唇をそっと人差し指で塞がれる。


「面白いこと考えついちゃいました」


「ん?」


「自己紹介は、今度また会った時にするんです」


「それは……」


 面白いのだろうか。


 女の子の考えることはよく分からない。


「私が喜ぶ自己紹介を考えておいてくださいね。なんて言ったら、きっとおじさんはずっと私のこと考えていてくれるんじゃないかなって……」


「……なんていうか、ロマンチックだね」


 確かに、そんな難しいことを期待されたら私は四六時中この少女のことを考えてしまうだろう。


 そうして相手がずっと自分のことを考えていてくれるのなら――嬉しく感じるのは理解できた。


 すこし偏執的ではあるかもしれないが。


「嬉しい、分かってもらえました」


「――っ」


 パッと花が咲いたように明るい笑顔を浮かべられ、思わず可愛いなんて呟いてしまいそうになる。


 彼女自身の容姿もそうだが、この程度のことで喜んでくれる性格もまた可愛らしかった。


「と、とりあえず連絡先だね。メモ用紙に電話番号を書けばいいかな?」


 目の前で無邪気に笑う名前も知らない少女に惚れてしまいそうだ。


 いや、既に惚れていたかもしれない。


 青春時代に感じたあのときめきが、心臓を高鳴らせていたから。


「はい。私はスマホを持っていませんので」


「了解」


 仕事で使っている飾り気のないメモ用紙をビジネスバッグから取り出し、頭の片隅から引っ張り出した番号を書き記していく。


 そのついでに、財布の奥底に眠っていた古代の異物の存在も思い出した。


「そういえばもう使わなくなったテレフォンカードとか……いる?」


「……テレ、フォン……?」


「…………」


 これがジェネレーションギャップというものだろう。


 少女はまったく聞いたことがないとばかりに小首を傾げていた。


 ……自分が年寄りになったのだと自覚させられて、地味に傷ついてしまう。


「公衆電話専用のプリペイドカードみたいなものだよ」


「そんな便利なものがあるんですね。知りませんでした」


「昔はよく使ってたんだよ、昔は……」


「あっ」


 出来れば声は出さないでいて欲しかった。


 つい表情に出してしまうところといい、どうもこの娘と私は似ている所があるのかもしれない。


「…………これが私の電話番号だ」


「…………」


 察しがいい娘だから、私が漂わせた哀愁にも気づいてくれたらしい。


 メモ用紙と共に渡したテレフォンカードについては何も言わないでいてくれた。


「切符は私が買っても構わないかな?」


「自分で買えますよ。といいますかSUIKAを持ってます」


「なら良かった」


 やはり、少女は切符という少額なものですら受け取ろうとしなかった。


 あくまでも対等な存在として在りたいのだろう。


「…………」


「…………」


 しばらく沈黙が続く。


 別れがたいと想ってくれているのだろうか。


 私は、寂しかった。


「あの……」


「うん」


「……たぶん、今週の土曜日あたりに連絡すると思うので、また逢ってくれませんか?」


 切り出し方で、気付いた。


 その日が少女に初めて客があてがわれる日なのだろう。


 きっと辛い日になるはずだ。


 私が助けられるのならばなんだってしたい。


 したいけれど……出来はしないことを、私自身いちばんよく分かっている。


 だったらせめて。


「何日だろうが何時になろうと必ず会いに行くよ」


「ありがとうございます」


「どんな話でも聞くし、どんな願い事でも叶えるよ、絶対」


「……そんなこと約束したら、酷い目にあうかもしれませんよ」


「君がそんなことをするはずないし、例えされたとしてもそれで君が幸せになれるのなら本望だよ」


 少女の瞳をまっすぐ見据えて言い切る。


 これが私の偽らざる本心だ。


 少女になら私の人生全てをあたえたって後悔はない。


 もし本当に子どもが出来たのなら、私はその実本気で責任を取るつもりでいた。


「……おじさんってやっぱりいい人ですね」


「そう言ってもらえると嬉しいよ」


 私が先ほど少女自身から贈られた言葉を返すと、少女は嬉しそうに微笑むと――。


「んっ」


 私に口づけた。

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