40. 理由
どうして来てしまったの。
彼の姿を見た瞬間、深い安堵と重い悲しみが同時に押し寄せる。伯父は朔夜に向かって、ぱん、ぱん、手を打った。
「うわあ、本当に一人で来たのかい。随分早く来たようだけれど、
伯父の言葉を受けて突っかかってこようとする朔夜を、鳥打帽の二人が素早く押さえつける。伯父は私の方へ歩み寄ると、お下げ髪を強く引っ張った。
「いてっ」
「おお、いやだいやだ。桔梗は賤民の出だったが、そんな風には言わなかったよ。『汚れた血』とか、そんなことよりも、その人そのものの気品が一番重要だ。やはり君に朔夜は似合わない」
反射的に「人の髪を引っ張ってねちねち喋る奴が気品を語るな」と言いそうになったが、踏みとどまる。
鳥打帽に両方から腕を押さえつけられている朔夜は、振りほどこうともがきながら伯父に声を上げる。
「手を離せ。お望み通り、親にも知らせず、一人で地下鉄道に乗ってここまで来てやったんだ。彼女を開放しろ」
髪を持つ手が緩む。見上げると、伯父は口元だけ微笑みの形を作り、朔夜を凝視していた。
「伯父様に向かってなんて酷い口のきき方だろう。父親の影響かな。昔、あれだけお仕置きをしたのに、懲りていないのかなあ」
その言葉を聞いた朔夜の表情に、明らかな動揺が走った。伯父を睨み続けてはいるが、瞳の光が失せ、電球の光の下でもわかるほどに顔色が変わる。
朔夜を捕らえている鳥打帽たちも荒んだ笑みを浮かべた。
「桔梗は私が先に見つけて、先に愛したんだよ。それなのに、あの男は私の気持ちを知りながら桔梗に言い寄って。そのくせ愛情も与えずに捨てたんだ。汚い男。朔夜にはあの男の血が流れている。だからどんなに桔梗そっくりの綺麗な顔でも、中身は汚いんだよ」
つかつかと朔夜に歩み寄る。くっつきそうな程に顔を近寄せ、朔夜の頬に指を這わせる。ここから伯父の顔は見えないが、首を振って抵抗する朔夜の姿を見ているうちに、恐怖よりも寒さよりも怒りで体が熱くなった。
助けなきゃと、なんとか動こうとする。だが脚を縛られていなくても、この状態では立ち上がれず、ただ虚しく床を蹴り椅子を揺らすしかなかった。
「もう逃がさないよ。私は欲しいものはなんでも手に入れた。父の遺産だって相続したし、鴻グループ総帥の地位だって手に入れた。だけど桔梗だけは二度と手に入らない。桔梗はどこかに消えてしまった。あの男のせいで。だから朔夜はお仕置きを受けないといけない。あの男の犯した罪を、命ある限り償い続けなければならない。毎日毎日、私のもとで、ずっと苦しみ許しを請い続けなければ――」
「おいジジイ!」
私の怒声が倉庫内に響く。伯父が眉をひそめて振り返った。
「あんた、べらべらよく喋る割には、支離滅裂で何が言いたいのか伝わんないんだよ。だいたいさあ、さっき、朔夜は『私を解放しろ』って言ったでしょうが。その答えが気品がどうとかって、答えになっていないじゃん。その後も同じような内容を繰り返し繰り返し。ねえ、あんた人の上に立って指示する立場なんでしょ。だったら要点押さえてわかりやすく話さなきゃだめじゃん」
無意味な因縁をつけてでも、とにかく今、朔夜へのねちねち攻撃を逸らさなければ。鳥打帽やほかの男たちは色めきだち、伯父が眉を吊り上げて歯をむき出した。
「この、小娘が」
「要はさ、『鴻グループは弟から奪えたけれど、桔梗さんが奪われっぱなしなのが気に食わない。朔夜は顔が桔梗さんに似ているから、私程度の女と交際したら嫌だ。だけど弟の血が入っているから好きじゃない。だから叶わなかった恋の八つ当たりに、朔夜をいじめ倒してやる、ってことだよね」
おそらく、伯父にはもっと複雑な感情があるのだろう。その、長い年月をかけて堆積した感情のひとつひとつは、伯父自身も処理しきれていないのかもしれない。
けれども今、起きていることは、結局これだけのことなのではないか、と思う。
そして十五年前のあの誘拐も、後継ぎ問題というのは名目で、根底にあったのは同じものだったのではないか。
望夢君ではなく朔夜が誘拐されたのは、きっと「長男だから」ではなく「朔夜だから」。
「や、や、八つ当たり、だと」
伯父が声を震わせた。
「瑠奈、お願いだ、もうやめてくれ。俺は大丈夫だから」
「小娘め、なまじ知恵があるからと生意気な。お前に何がわかる」
私に駆け寄った伯父に襟元を強く掴まれた。もがいて床を蹴った勢いで、椅子ががたがたと揺れる。
「ぽっと出のくせに。女のくせに。お前など」
「うっわ!」
つい出てしまった声に続けて、思いつくまま叫んだ言葉に、思わず自分が驚いた。
「唾、
伯父も一瞬、驚いたのだろう。襟元を掴む手が緩む。その隙に床を蹴り、ほんのわずかに距離を作った。
「な……この……」
伯父が拳を大きく振り上げる。私は咄嗟に、唯一大きく動く脚を思いきり蹴り上げた。
足を防護するため、つま先に鉄板の入った作業靴が、伯父の脚の間に勢いよくめり込む。
耳をつんざくような悲鳴を上げながら、伯父が床をのたうち回った。
「瑠奈っ!」
隙をついて朔夜が私のもとへ走ってきた。鳥打帽たちが伯父のもとへ駆け寄る。朔夜は私の後ろに回り、束縛をほどこうとしていた。
「朔夜、私はいいから逃げなよ」
「ごめん、こんな目に遭わせて。今ほどくから」
「そんな、危ないよ、一人で」
「いや」
そこで彼は、すっと耳元に顔を寄せて囁いた。
「俺は言われた通り『親に』知らせず、『一人で地下鉄道に乗って』来た。だが『ここに来たのが一人』じゃないよ」
その言葉を言い終わらないうちに、倉庫の外が騒がしくなった。鳥打帽以外の男たちが扉を開ける。
すると外の音が夜風と共にくっきりと流れ込んできた。
扉の外で倒れている何人かの男。
うめき声、弱々しい怒声。
それらを押さえて中に入ってきたのは。
「ふざけた真似すんじゃねえよ、このド腐れ外道どもがあ!」
地の底から湧きあがるような低い声で叫び、太い鉄パイプを大きく振る。扉を開けた男が、刃物を取り出し何かを叫びながら突っかかったが、再び振られた鉄パイプをもろに受けて倒れこんだ。
倒れた男を踏みつけ、慇懃に頭を下げる。
「遅くなりまして申し訳ないことでございます。匂い消しや馬車の手配で手間取ってしまいました」
中に入ってきたのは。
門番のお仕着せを着、白い息を吐いて鉄パイプを構えた麻田さんと、金色の大きな狼だった。
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