◆旅行⑨◆

◆◆◆◆◆

「蓮さん」

「うん?」

夜の海を思う存分満喫した俺と美桜は、砂浜に2人並んで座りタバコをくわえていた。

「“家族旅行”楽しかったね」

俺はその言葉に美桜に視線を向けた。

美桜は、寄せては帰す波を見つめている。

淡い月明かりに照らされたその横顔から俺は視線を逸らせなくなった。

儚さの中にある凛とした美しさ。

幼さと色気が混在するその表情。

楽しそうな笑顔の中に寂しさが垣間見える。

美桜の表情には相反する二つのモノが含まれている。

俺は手に持っていてタバコを近くにあった灰皿に投げ捨てると、隣にいる美桜の身体に手を伸ばした。

そしてその小さな身体を自分の膝の上に乗せた。

「蓮さん?」

美桜は驚いたように声をあげた。

「ん?」

「どうしたの?」

「……ちょっと……」

「ちょっと?」

俺は膝の上にあるその小さな身体に腕を絡め抱きしめた。

「……不安になった」

「不安?」

「あぁ」

「なんで?」

「しっかり捕まえておかないとどこかに行ってしまいそうで……」

「それって私が?」

「あぁ」

俺が小さな声で答えると、美桜は俺の膝の上でモソモソと動き始めた。

そして俺の方に身体の正面を向けると、その小さな両手を俺の後頭部にまわし抱きしめた。

美桜に抱きしめられ俺の視界は真っ暗になった。

真っ暗闇の中、聞こえるのは寄せては帰す波の音と美桜の鼓動だけ。そして感じるのは美桜の少しだけ低い体温。

こんなに暑いのに美桜の身体はひんやりとしていて心地いい。

「私はどこにも行かないよ」

すぐ傍で響く美桜の声。

「……」

「約束したでしょ?“ずっと傍にいる”って……」

俺の頭を優しく撫でる小さな手。

「そうだな」

「うん、だから……」

「ん?」

「不安になんてならないで」

俺は美桜の前ではいつも強くありたいと思っている。

どんな事があっても美桜を守りたいって。

でも実際のところ俺は弱い。

突然、根拠のない不安に襲われたりする。

いつか美桜が俺の前からいなくなるんじゃねぇーかって。

いつか美桜の傍にいれる男は俺じゃなくなるんじゃねぇーかって。

いつか美桜が俺の手を放してしまうんじゃねぇーかって。

そんな漠然とした想いが不安へと変わってしまう。

美桜への想いが募れば募るほど……。

美桜との距離が縮まれば縮まるほど……。

その不安は大きくなって俺を襲う。

いつも堂々としていたいのに……。

いつも強く在りたいのに……。

その願いとは裏腹に俺は不安に押し潰されそうになってしまう。

こんな俺を美桜はどう思うんだろうか?

……やっぱりイヤだよな……。

小さな溜め息が口から零れ落ちそうになった時

「私の事なんかで不安になんてならないで……」

俺の耳に届いたのは小さな声だった。

「私の居場所は“ここ”だけなんだよ」

「……」

俺を包み込む細い腕。

「こんなに温かい場所は他にはない」

「……」

頭を優しく撫でる小さな手。

「……それに……」

「……?」

「蓮さんの傍から離れられないのは私の方だよ」

美桜のその言葉に俺は思わず顔をあげた。

淡い月明かりに照らされた美桜は少しだけ照れくさそうに微笑んでいた。

その微笑みに心の中にあった大きな不安の塊が溶けて行くような気がした。

なにかを言いたいのに、胸がいっぱいで適当な言葉が見つからなかった俺は、美桜の顔に手を伸ばし、淡いピンク色の頬に触れた。

その頬は柔らかく、そしてやっぱりひんやりとしていた。

頬に触れる手に絡み付く細い指。

その指が強く俺の手を握る。

「……美桜……」

「うん?」

伝えたい気持ちはたくさんあった。

でも、どんなに探してもその気持ちに合う言葉は見つからなかった。だから俺は

「……ありがとう」

その一言に全ての気持ちを込めた。

そして美桜も俺の気持ちを察したのか、嬉しそうにニッコリと笑みを浮かべて

「うん」

小さく頷いた。

最近ずっと感じていた不安は、美桜の笑顔と優しい手、そして言葉によって拭い去られた。

「ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「これからは不安になったらすぐに私に教えてね」

「あぁ」

俺が頷くと

「はい、おりこうさん!!」

そう言って美桜は俺の頭を撫でた。

その仕草はまるで大人が幼いガキを宥【なだ】めるみたいだった。

「……ガキ扱いかよ……」

普通ならガキ扱いなんてされたらムカつくはずなのに

「うん、この数日間で子供との接し方を習得したんだ」

嬉しそうな美桜に俺は思わず苦笑してしまった。

「小さな子供ってどう接していいか全然分からなかったから苦手だったんだけど……」

「あぁ」

「くるみちゃん達がたくさん一緒に遊んでくれたお陰ですっごく楽しかったの」

「そうか」

「うん!!」

「……で、ガキは好きになったのか?」

「大好き!!」

「良かったな」

「うん!!」

「俺もガキは好きなんだ」

「じゃあ、一緒だね」

「あぁ、これで決定だな」

「決定?なにが?」

美桜が不思議そうに首を傾げた。

そんな美桜の頭を撫でながら俺はニッコリと笑みを浮かべた。

「将来はガキがたくさんいる家庭にしような」

「子供がたくさん?」

「あぁ」

「それって誰と誰の家庭?」

「俺とお前」

「……って事は……」

「ん?」

「蓮さんがお父さんで私がお母さんになるって事?」

「あぁ」

「……じゃあ、私が子供をたくさん産むの?」

「残念ながら俺は産めねぇーからな」

「そ……そうだね」

「あぁ」

「……蓮さんがお父さんで……私がお母さん……」

ぶつぶつと小さな声で呟く美桜。

「……蓮さんが……」

「おい、美桜」

「……お父さんで……」

「美桜?」

「……私が……」

……ダメだ。

完全に自分の世界に浸っている。

どんなに声をかけてみても、どんなに手を美桜の目の前で振ってみても、美桜に反応はない。

「……お母さん……」

……仕方ねぇ。

美桜が戻ってくるまでしばらく待つか。

そう考えた俺はポケットからタバコを取り出し火を点けようとした。タバコの先端に火を近づけた瞬間

「……お母さん!?」

美桜がでけぇ声を出した。

その声のデカさに驚いた俺は危うく口にくわえているタバコを落としそうになった。

「蓮さん!!」

「ど……どうした?」

「お母さんって・・私がお母さんになるの!?」

「は?」

「……っていうか、私はお母さんになれるの!?」

「なれるっていうか……お前が子供を産んだら母親になるんじゃねぇーか。」

「そ……そうか……うん……そうだね」

「あぁ」

俺が頷くと美桜は何かを考えるような表情で俯いた。

……?

一体どうしたんだ?

美桜の言動が俺の心に引っ掛かった。

「美桜」

「うん?」

「どうした?」

「別になんでも……」

「なんでもない事はねぇーよな?」

俺は美桜の言葉を遮った。

“別になんでもない”美桜が言おうとした言葉。

でも、美桜の表情は全然その言葉には伴ってなかった。

明らかになにかを思い詰めているような表情だった。

俯いたのも、きっとその不安だらけの表情を俺に隠す為。

まったく、俺が気付かないとでも思ってんのか?

俺は俯いている美桜の顎に手を添え顔を上げさせた。

……やっぱりな……。

俺の予想は見事的中していた。

美桜は不安そうな表情を浮かべていた。

そして顔を上げ俺と目があった瞬間、慌てたように視線を逸らした。「……美桜。」

「な……なに?」

小さく答えたその声が微かに震えている。

「何を隠そうとしてんだ?」

「な……なにも隠してないよ」

そう言った美桜の言葉には動揺と焦りが含まれていた。

「なぁ、美桜」

俺は逸らされていた視線を再び重ね合わせた。

「なぁに?」

「何度言ったら分かるんだ?」

膝の上にある美桜の身体がピクッと動いた。

「な……なにが?」

「お前は俺に隠し事なんて出来ねぇーんだ」

「……」

「分かってるんだろ?」

「……うん」

「それなら言ってみろ。なにを不安に感じてるんだ?」

その言葉に俺の顔を見つめていた美桜が諦めたように小さな溜め息を零した。

それから、小さな声で言葉を紡ぎ始めた。

「……お母さん……」

「お母さん?」

「……うん」

その声は小さく弱々しいもので、響く波の音にかき消されてしまいそうだった。

だから俺は美桜の声に全神経を集中した。

「お母さんがどうした?」

「多分、私はお母さんにはなれないと思う」

「どうしてそう思うんだ?」

「……だって、私はお母さんがどういう存在なのか分からない……」

「……」

正直“しまった”と思った。

美桜にとって母親の話はデリケートな問題なのに……。

配慮が足りなかった。

「……っていうか、私みたいな人が母親だったら子供が可愛そうだよ」

無理矢理明るく振る舞おうとする姿がとても痛々しくて

「そんな事ねぇーよ」

俺は思わず声を荒げてしまった。

「ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「知ってる?」

「……?」

「虐待は繰り返されるんだって」

「繰り返される?どういう意味だ?」

「虐待を受けた子供は自分が親になった時、我が子も虐待してしまうんだって」

「……」

「だからきっと私も……ね?私なんか親にならない方がいいんだよ」

美桜が寂しそうな笑みを浮かべた。

確かに俺もそんな話を聞いた事がある。

……でも……

「100%じゃねぇーだろ?」

「えっ?」

「虐待を受けた人間が100%虐待を繰り返す訳じゃねぇーだろ?」

「……それはそうかもしれないけど……」

「なら、お前は大丈夫だ」

「大丈夫?なにが?」

「お前は自分のガキを虐待したりはしない。」

「……なっ!!」

月明かりに照らされた美桜の表情が変わったのが分かった。

だから俺はできる限り穏やかな声を出した。

「うん?」

美桜が自分の想いを言いやすいように……。

「……なんでそんな風に断言できるの!?そんなの分からないでしょ?それに実の母親に愛されなかった私に自分の子供を愛せるかも分からないのに……」

美桜の茶色い大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。

「……」

そんな美桜を俺はまっすぐに見つめていた。

「……愛し方も分からないのに……そんな母親なんて子供も嫌に決まってるじゃん!!」

その言葉を吐き出した瞬間、美桜の瞳に溜まっていた涙が溢れだした。

俺のTシャツを握り締める小さな手。

小刻みに震えている小さな身体。

必死に押し殺されている嗚咽。

俺は美桜の背中に両手をまわしてその小さな身体を自分の方に引き寄せた。

ゆっくりそして優しくその背中を撫でると、美桜は俺の胸に顔を埋め声をあげて泣き出した。

◆◆◆◆◆

美桜はしばらく泣き続けた。

心の中にある不安を全て吐き出すように……。

そんな時、俺にできる事と言えば小刻みに震える身体を抱き締め

背中を撫でてやる事ぐらい。

涙を無理に止める必要はない。

泣きたいなら思う存分泣いた方がいい。

泣いた方が心が楽になる。

そう思いつつも自分の無力さを痛感したりもする。

美桜の背中を撫でることしか出来ない自分の手に無力さを感じる。

美桜の涙を俺が全部引き受けられたらいいのに……。

美桜が涙を流す度にそう思わずにはいられない。

少しでも美桜のその悲しみが薄れるように……。

少しでも美桜のその心が軽くなるように……。

それだけを願いつつ俺は美桜のその小さな背中を撫で続けていた。

さっきよりも月が少しだけ傾いた頃、美桜は俺の膝の上

でモソモソと動き始めた。

「……美桜」

穏やかな声でそう呼び掛けると恐る恐るって感じで上げられる顔。

泣き過ぎて真っ赤に染まったその瞳が痛々しい。

……でも、その表情はスッキリとしているように見えた。

頬に残る涙の跡。

俺はそれを指で拭った。

俺の顔を見上げていた美桜が小さな声を発した。

「……蓮さん……」

「ん?」

「……ありがとう……」

少しだけ照れくさそうに笑みを浮べた美桜。

美桜のその言葉と表情に俺は自分の顔が緩むのが分かった。

それと同時に胸を撫で下ろした。

『ごめんなさい』

美桜は今まで涙を流した後にはそう言っていた。

その言葉に含まれるのは

……迷惑を掛けてごめんなさい……。

……心配を掛けてごめんなさい……。

そんな美桜の想いが痛い位に伝わってくる言葉。

確かに、涙を流す美桜を俺が心配してないわけじゃない。

でも、それを俺が面倒くさいとか不快に思った事は1度もない。

それに迷惑だと思った事もない。

だから美桜は俺に謝る必要なんてねぇーのに……。

美桜は俺にしがみ付き泣いた後には必ず言っていた。

『ごめんなさい』

その言葉を聞く度に俺は寂しさを感じていた。

もっと頼って欲しい。

そんな想いを胸に抱いて……。

でも、今日美桜が口にした言葉は“ごめんなさい”じゃなくて“ありがとう”だった。

それが単純に嬉しかった。

……なんとなく美桜の役に立てたような気がして……。

ほんのりと心が温かくなった。

だけど俺は満足してはいけなかった。

まだ、解決しなければいけない問題がある。

それは美桜が感じている不安を取り除くこと。

全ての不安を取り除く事は無理かもしれねぇーけど……。

それでもゆっくりと話をする必要が俺と美桜にはあった。

“ずっと傍にいる”と約束しているから……。

もし美桜が“一生、子供は産まないしいらない”と断言するなら、俺はそれでも構わないと思う。

俺が望む事は、“美桜がずっと俺の傍にいる事”と“俺がずっと美桜の傍にいれる事”だけだ。

美桜の不安の原因が子供が嫌いだとかなら俺もそれは望まない。

でも、美桜が不安に思う原因は“子供”じゃなくて“自分が母親になれるかどうか”って事。

しかも、そういう不安を抱くって事は、美桜の中に“いつか自分が母親になる”という気持ちが少なからずあるからだと思う。

もし全くなければ不安を感じる事はないはず……。

だから俺はその不安を少しでも拭い去ってやりたいと心の底から思った。

照れくさそうに微笑む美桜の頭を撫でながら俺はゆっくりと口を開いた。

「美桜」

「うん?」

「お前は大丈夫だ」

「……」

「お前は人を愛せる」

「……えっ?」

「他人を愛せるんだから自分のガキを愛せない訳がねぇーだろ?」

「私が他人を愛せる?」

不思議そうに首を傾げた美桜。

その表情は信じられないって感じだった。

「あぁ、ちゃんと愛せてるだろ?」

「私が?」

「あぁ、俺が言うんだから間違いない。」

「……?」

「お前は俺を愛してるだろ?」

自意識過剰だと言われても仕方がない言葉。

それでも今の美桜にとって必要な言葉だった。

それを口にした俺だって正直、心臓が爆発しそうなくらいにドキドキしていた。

美桜がその言葉に同意するかも分からない言葉。

“好き”だとか“愛してる”なんて言葉を美桜は滅多に口にしない。

滅多にというか……。

殆ど……。

……いや、全く。

だからこそ、俺のその言葉に美桜がどんな反応を示すのか予想すら出来なかった。

それと同時にどんな反応を示すのか興味もあった。

だから俺は美桜のちょっとした表情の変化を見逃さないようにまっすぐに視線を向けていた。

そんな俺の顔を驚いた表情で見上げていた美桜が、次の瞬間、柔らかい笑みを浮べた。

「……そうだね。」

美桜がそんな答えを返すだなんて思ってもいなかった俺は

「……」

驚きの余り声すら発せなかった。

……えっと……。

この反応は、俺の言葉を肯定したって事でいい……のか?

美桜が俺の事を……愛してる!?

「蓮さん?」

「えっ?」

「どうしたの?」

「は?」

「なんか顔が赤いよ」

「そ……そうか?」

「うん、真っ赤だよ」

そう言った美桜の手が俺の頬に伸びてくる。

「き……気の所為じゃねぇーか?」

「そう、なんかほっぺたも熱い様な……」

「あぁ……あれだ、さっき飲んだ日本酒の所為だ」

「そうなの?」

「そうだ」

「そっか……」

「それより美桜」

「うん?」

「さっきの話の続きなんだけど……お前が愛してる奴って……」

躊躇いがちに聞いた俺の質問に

「ん?蓮さんだよ」

美桜は何の躊躇いもなく答えた。

照れる事もなく余りにもはっきりと答えた美桜に

「は!?」

またしても驚いてしまったのは俺の方で……。

「え!?なに!?」

美桜を動揺させてしまった。

これ以上醜態を晒したくないと思った俺は

「……いや……なんでもない」

冷静さを装ってそう口にするのが精一杯だった。

そんな俺に

「変な蓮さん。どうしたの?珍しく酔っちゃったの?」

美桜はまだ赤みの残る瞳でクスクスと笑いを零す。

その瞳を見て俺は気付いた。

……今は浮かれてる場合じゃねぇ……。

「……大丈夫だ」

咳払いをひとつして、なんとか落ち着きを取り戻した俺は本題に入る事にした。

「美桜」

「なぁに?」

「お前は俺の事を愛してるんだよな?」

「うん」

やっぱり美桜は躊躇いもなく頷いた。

「……だったら大丈夫だ。お前はちゃんと母親になれる」

「でも……」

「ん?」

「蓮さんと子供は違うと思う」

「あぁ」

「蓮さんの事は大好きだけど……自分の子供を大好きだと思えるかも分からない。それに……」

「なんだ?言ってみろ」

「……母親って何をすればいいの?」

不安そうに俺を見つめる美桜。

美桜は真剣にその答えを求めていた。

俺はそんな美桜の頭に手を伸ばした。

そしてゆっくりとその頭を撫でた。

「ガキが望む事をしてやればいいんじゃねぇーか?」

「子供が望む事?」

「あぁ」

俺が頷くと美桜は何かを考えるように宙に視線を向けた。

「その答えはお前がいちばんよく知ってるだろ?」

「私が?」

「あぁ」

「……?」

「優しく背中を撫でて欲しい」

「……」

「不安な時には抱き寄せて欲しい」

「……」

「優しい瞳で見つめて欲しい」

「……」

「『愛してる』って言って欲しい」

「……!!」

それは美桜が実の母親にして欲しかった事。

……あの日……

美桜が繁華街で数年振りに母親と再会した日。

涙ながらに話してくれた事だった。

でもそれはどんなに願っても叶わなかった。

「……蓮さん、私が言った事覚えていてくれたんだね」

驚いたように、でもどことなく嬉しそうに見える美桜。

「当たり前だ。お前の言葉を俺が忘れるはずねぇーだろ。」

「……ありがとう……」

美桜は再び涙の溜まった瞳を細めて微笑んだ。

「お前は誰よりも分かってるんだ」

「……分かってる?」

「あぁ。子供の気持ちを……」

「……」

「それから子供が母親に強く求めるモノを……」

「……」

「母親から虐待を受ける子供の気持ちも……」

「……」

「お前は誰よりも分かってる」

「……」

「お前が過去に体験した事は今は辛いだけの経験かもしれない」

「……」

「でもな、その経験はお前が親になった時に必ず役に立つはずだ」

「……役に立つ?」

「あぁ」

「……じゃあ、私の過去は無駄じゃなかったのかな?」

「当たり前だ。どんな過去だって無駄なものなんかねぇーんだ」

「……そっか……」

美桜は満足そうにニッコリと微笑んだ。

そんな美桜の頬を撫でながら俺は口を開いた。

「もし、お前が母親になって自分のガキにどう接していいのか分からなかったら……」

「分からなかったら?」

「その時は強く抱きしめてやれ」

「抱きしめる?」

「あぁ、それがいちばんの愛情表現だ」

「……愛情表現……」

「なぁ美桜、子供がいちばん好きなのって誰か知ってるか?」

少しだけ何かを考えた美桜が小さく頷いた。

「……うん、お母さん……」

「だよな。その母親から抱きしめてもらえる事が子供にとっていちばん幸せで安心出来る事なんだ」

「……そうだね……」

「子供の世話や躾を最初から完璧にやれる奴なんていねぇ」

「……うん……」

「誰でも失敗したり悩んだりを繰り返しながら親になっていく」

「……うん……」

「ガキが成長するように親だって少しずつ成長していくんだ」

「……うん……」

「だから不安がる必要なんてねぇーよ」

「そうだね」

「……それに……」

「……?」

「お前が親になる時は俺が傍にいるんだ」

「うん」

「前に進めなくなったら俺に頼ればいいじゃん」

俺のその言葉に

「うん、そうする」

美桜の表情がふんわりと綻んだ。

そして美桜のその表情を見た俺もまた自然と笑顔になった。

美桜が“母親”になるのはまだまだ未来【さき】のこと。

今日のことで美桜の不安がどれだけ軽くなったのか俺には分からない。

もしかしたらその不安は美桜が過去の壁を乗り越えるまではなくならないのかもしれない。

それでも、美桜のスッキリとした表情は俺の心をも軽くしてくれた。

生温い風が俺達の頬を撫で、波の音がこだまする中俺は美桜のその小さな身体を強く抱き締めていた。


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