◆旅行⑧◆

長かったはずの旅行期間。

だけど、楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、気付けば明日は帰る日になった。

この数日の間で美桜は組の人間にも大分慣れたらしく、旅行初日のあの引きつった表情が嘘みたいに自然な笑顔を見せるようになった。

楽しそうに笑う美桜を見る度に俺は、今回美桜と旅行に来ることができた事に感謝せずにはいられなかった。

それに、組の人間やその家族たちも美桜を“身内”として受け入れてくれていることにも……。

組の人間と美桜が打ち解けてくれる事を俺は素直に嬉しいと思う。

血は繋がってねぇーけど俺にとって“家族同然”の人間に、自分がなによりも大切に想っている存在の美桜を認めてもらうのは幸せな事。

プールの中ででかい浮き輪に掴まりプカプカと浮いている美桜の周りにはたくさんのガキが集まっている。

楽しそうな笑い声が響いていて、それをプールサイドで眺めている大人達も、ガキ達に負けないくらいの笑顔を浮かべている。

「美桜お姉ちゃん!!」

「なぁに?くるみちゃん」

「あとでくるみが持ってきた美味しいクッキーあげるね!!」

「本当!?じゃあ、私も美味しいチョコ持ってきてるからくるみちゃんにあげるね」

「やった!!楽しみだな!!」

「うん、私も楽しみ!!」

旅行初日。

美桜にライバル宣言をしたくるみ。

そのくるみとも美桜はいつ間にか仲良くなっていた。

幼い子供と接した事がないらしい美桜。

初めは恐る恐るって感じでガキ達に接していた。

どちらかと言えばガキたちの元気の良さに押され気味で……。

『あっ!!さっき、蓮兄ちゃんとチュウしてたお姉ちゃんだ!!』

ガキの言葉に美桜は顔を真っ赤に染めてアタフタしてた。

そんな美桜を助けたのは意外にもくるみだった。

「あれはチュウじゃなくて挨拶だし!!」

くるみの言葉にそれまで大騒ぎだったガキたちは一瞬にして静まり返った。

そんな静けさの中、くるみは

「外国の人は挨拶の時にもチュウをするんだよ」

どや顔で言い放った。

くるみの断言は、ガキ達を説得するには充分だったらしく

『へぇ~!!』

『そうなんだ~!!』

ガキたちの興味は、俺とキスをした美桜から挨拶でキスをする外人へと代わった。

それから、ガキたちの間では挨拶代わりにキスをするという妙な習慣が流行りだしてしまったけど、結果的には美桜はくるみに助けてもらった事に変わりはなく

「くるみちゃん、ありがとう」

美桜に礼を言われたくるみは一瞬怪訝そうな表情を浮かべたけど

礼を言われた事に悪い気はしなかったようで

「・・別に」

素っ気ない言葉とは裏腹に、どことなく嬉しそうにしていた。

くるみは美桜を助けようと思った訳ではなく、みんなが俺と美桜が『キスをした』と騒ぐのが嫌だっただけ。

その事実に気付いていないのは、恐らく美桜だけでそんなやり取りを見ていた大人達はみんな苦笑していた。

それから、くるみが美桜の傍にいる時間が長くなっていった。

『美桜お姉ちゃん!!』

もともと人懐っこいくるみ。

そんなくるみが美桜も可愛いらしく、2人は急速に仲良くなっていった。

楽しそうな美桜をサングラス越しに眺めていると、何かに気付いたように美桜がふと俺の方に視線を向けた。

俺と視線が重なった瞬間、美桜はにっこりと微笑んだ。

その表情に俺の心臓は大きく高鳴った。

きっと、どんなに長い時間を一緒に過ごしていても変わらないと思う。

何年一緒にいても変わらないと思う。

何日後でも

何ヶ月後でも

何年後でも

何十年後でも

俺は美桜の微笑みひとつでこんな風に満ち足りた幸せな気分になることができるんだろう。

自分でも顔が緩んでるのが解った瞬間、肩甲骨辺りに衝撃を感じた。その衝撃と共に

「ちょっとあんた、鼻の下が伸びてるわよ」

聞こえてきた声に、俺は大きな溜め息を吐いた。

「・・痛ぇ……」

「は?なにが?」

「そのデカい手で叩かれたら痛ぇだろーが」

「なに言ってるの?別に私の手はデカくないわよ」

「……いや、充分デカいし……」

「そうかしら?」

綾さんは不思議そうな表情で自分の手を眺めた。

「で?」

「は?」

「何か用事じゃねぇーのかよ?」

「用事……あっ!!そうだった!!危なかったわ。もう少しで忘れるところだった」

「……いや、あんた完全に忘れてただろ?」

「……」

「……」

「今日の夜のことなんだけど……」

……おいおい……

なんでコイツはサラっと真顔で俺の話を流したんだ?

ここは、俺も軽く流さないといけないのか?

それとも、ツッコんだ方がいいのか?

俺は、綾さんの内心を探ろうとした。

マジマジと眺めた綾さんの表情は、いたって涼しげな表情。

……間違いねぇ。

コイツは、シレっと自分の非を誤魔化そうとしてる。

ここは激しくツッコもうかと思ったけど、それすらも面倒だと感じた俺は

「今日の夜がどうしたんだ?」

軽く流す事にした。

「今日が旅行最後の夜だからみんなで大騒ぎしようって話になったんだけど……」

「……っていうか大騒ぎなら毎日してんじゃねぇーか」

「まぁ、そうなんだけど」

「・・で?それがどうしたんだ?」

「響さんが聞いてこいって言うのよ」

「なにを?」

「蓮達も宴会に参加するのか、それとも……」

「それとも?」

「2人で過ごすのか?って」

「2人?」

「うん、美桜ちゃんとあんたの事よ」

「……」

「……」

「そんなの美桜と2人ですごすに決まってんじゃねぇーか」

「……やっぱりね……」

綾さんは大きな溜め息を吐いた。

なんだ?

このリアクションは?

なんで俺がため息を吐かれないといけねぇーんだ?

なんか可笑しい事でも言ったか?

てか、すげぇ睨まれてるんだけど。

「……じゃない……」

「は?」

綾さんの言葉が聞き取れなかった俺はもう一度聞き直そうとした。

……でも、それが大きな間違いだった。

ここは何も聞こえてないフリをするべきだったんだ。

「独り占めしないでよ!!」

「独り占め?」

「あんたは旅行から帰っても美桜ちゃんといつも一緒にいれるじゃない!!」

「……」

「だからせめて旅行中くらいは美桜ちゃんを私と響さんに譲ってくれてもいいじゃない!!」

……なるほどな……。

ようやく親父の質問の意味と綾さんの態度の理由が分かった。

今度は俺が大きな溜め息を吐く番だった。

「……譲る訳ねぇーじゃん……」

「は?」

「俺が美桜を人に譲る訳ねぇーだろーが」

「は!?」

「それに旅行から帰っても俺は美桜とずっと一緒にいれるわけじゃねぇ」

「はぁ!?」

「美桜は学校があるし、俺も仕事がある」

「……」

「だから貴重な2人の時間を邪魔すんじゃねぇーよ」

「……」

「だいたい、あんたはこの旅行中ずっと美桜にベッタリくっ付いてたじゃねぇ」

「……」

「人がちょっと目を離した隙に何度もホテルから連れだそうとしてたくせに……」

「……うっ……」

「頼むから最後の夜くらい美桜とゆっくりさせてくれ」

俺がそう言っても、綾さんは納得できないようで

「で……でも!!」

「なんだよ?」

「今、美桜ちゃんは夏休みじゃない」

俺を睨みながらそう言い放った。

「あぁ、だから美桜といる時間は俺よりあんたの方が長いだろ?」

「それは……そうだけど……」

綾さんの声は段々小さくなっていき、最後の方は聞き取れないくらいだった。

ガックリと肩を落としている綾さんは俺の目から見てもテンションが急降下しているのは一目瞭然で……。

そんな綾さんを見ていると無性に気の毒に思えてきた。

「別にいいじゃねぇーか。美桜が夏休みの間はほぼ毎日一緒にいれるんだから」

そんなフォローの言葉を口にしてしまった。

……まったく。

なんで俺が綾さんを励ましてやらなきゃいけねぇーんだよ。

だいたい、親父はなんで綾さんを経由したりしたんた?

気になるなら自分で聞きにくればいいじゃねぇーか。

間に綾さんなんか挟むからこんなに面倒くさくなるんだ。

……ん?

ちょっと待てよ……。

もしかして、これは親父の作戦だったりするのか?

……いやいや、そんなはずはねぇーよな?

親父がそんなこと……いや、あいつなら考えられる。

美桜と一緒にいる為なら手段を選ばない事もよくあるし……。

親父は悟ったんだ。

自分で直接聞きにきても俺に軽くあしらわれてしまう事を……。

だから、わざわざ綾さんを聞きにやったに違いねぇ。

……親父……。

マジで勘弁してくれ。

そう思いつつ俺は綾さんから視線を動かした。

多分……いや、絶対にアイツはこの近くにいるはずだ。

……。

……。

……ほらな……。

俺達がいる場所からプールを挟んで反対側に、俺は親父の姿を発見した。

組の中でも年配の幹部クラスのオッサン達に囲まれ談笑していた親父は、どうやら俺の視線を感じたらしく、視線をふとこっちに向けた。

その時、俺は見逃さなかった。

親父の視線が俺を捉えた瞬間、親父が何かを企んだような笑みを零したのを……。

そんな親父を見た俺は、今日いちばん大きな溜め息を吐いた。

親父や綾さんが美桜を可愛がってくれるのは確かに嬉しい。

この人達は誰にでもこんなに優しかったり興味を持つ訳じゃない。

親父もそして綾さんも人間の裏の部分をイヤってほど見てきた人だ。だからこそ、この人達が組関係以外の人間にこんなにも興味を持つことはとても珍しいことだ。

この人達がこんなに美桜に構いたがるのは、美桜が俺の女っていう理由だけじゃない。

……てか、もし俺の女が美桜じゃなかったら……。

もし俺が美桜以外の女と付き合っていたら、その女にこの人達が興味を示すことはなかったかもしれない。

綾さんは人に対する好き嫌いが異常なくらいにハッキリとしている。しかも、その好き嫌いを堂々と言動に表したりする。

そんな綾さんに比べると親父はソフトではあるけど

やっぱりこの人も人に対する好き嫌いはハッキリとしている。

いい歳だし、それなりに立場ってモノもあるから綾さんほど言動に表せねぇってのもあるんだろーけど

それでも俺から見れば一目瞭然だったりする。

そんな2人が美桜をこんなに可愛がってくれるのは正直、すげぇ嬉しいし感謝だってしてる。

でも、俺と美桜の時間を本気で邪魔しようとするのはどうなんだ?

綾さんが美桜に構いたくて仕方がねぇってのにはいい加減に慣れてきた。

一人っ子の綾さんにとってみれば、美桜は妹みたいなもんだろーし

可愛くて仕方がねぇーんだって最近は俺も思えるようになってきた。時と場合によってはガマンできねぇくらいムカつく時もあるけど……。

それでも綾さんはまだいいとして、問題は親父だ。

美桜を本当の娘みたいに思って可愛がってくれるのはありがたい。

でも最近では事ある毎に美桜を自分の傍に置いておこうと企んでやがる。

しかも、あらゆる手段を駆使して……。

だいたい、自分の息子の彼女にメロメロになりすぎじゃねぇーか?

……まったく、いい加減にしろよな。

そんなことを考えながら親父に視線を向けていると、親父は俺の考えを悟ったらしく苦笑いを浮かべた。

……このままじゃキリがねぇ。

そう思った俺は無言のままプールに近付くと

「美桜」

声を掛け手招きをした。

「どうしたの?蓮さん」」

首を傾げながらプールサイドに寄ってきた美桜。

俺は美桜に耳打ちをした。

「今日の夜は2人で海で遊ぼうぜ」

「うん、分かった」

俺の言葉を聞いた美桜はニッコリと微笑み頷いた。

そんな美桜を見て、俺が得意気な表情で綾さんと親父に視線を向けた事はいうまでもない。

◆◆◆◆◆

夕方から始まった旅行最終日の大宴会。

毎晩、宴会を繰り広げていたクセに今回もみんなのテンションは高かった。

飯を喰ってみんなの酒に少しだけ付き合った俺は頃合いを見計らって、美桜と一緒にこっそりと宴会場を抜け出した。

賑やかだった宴会場の声が大分小さくなった時、美桜が俺の顔を見上げた。

「ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「大丈夫なの?」

「なにが?」

「こっそり抜け出したりして……」

「全然、大丈夫だろ」

「本当に?」

「あぁ」

「あとで綾さんやお父さんに怒られたりしないの?」

「怒られる?」

「うん、せっかくみんなが盛り上がってたのに……」

「あれだけ盛り上がるまで付き合ってやったんだから十分だ」

「そうなの?」

「あぁ。それにあれだけ盛り上がってたら、俺達がいねぇことにも気付かねぇかもな」

「それもそうだね」

安心したように笑った美桜。

そんな美桜の頭を俺は撫でた。

「よし、じゃあ一旦部屋に戻るか」

「え?海で遊ぶんじゃないの?」

美桜は不思議そうに首を傾げた。

「あぁ、だから部屋で着替えてから行こうぜ」

「着替える?」

「持ってきてるんだろ?」

「なにを?」

「可愛い系の水着」

「うん、一応……っていうか、着てもいいの!?」

一瞬にして美桜の瞳は輝いた。

「着るために持ってきたんだろ?」

そんな美桜に俺は苦笑した。

「うん!!」

「でも、ひとつだけ条件がある」

「じ……条件!?」

俺の言葉に美桜は顔を引きつらせ、ゴクリと唾を飲んだ。

「あぁ、条件だ」

「そ……その条件というのは一体どんな?」

明らかに動揺している様子の美桜。

……こいつ、俺がまたとんでもない条件を出すと思ってんな……。

そう気付いた俺は込み上げてくる笑いを必死で押し殺した。

部屋から海まではちゃんと上着を着ろよ」

「へっ!?」

美桜のすっとぼけた声と気が抜けたような表情に、俺は自分の予想の正確さを確信した。

「ねぇ、蓮さん」

「どうした?」

「条件ってそれだけ?」

「そうだけど?」

「本当にそれだけ?」

「あぁ」

「なんだ、良かった」

美桜はホッとしたように呟いた。

「なにが良かったんだ?」

「なにがって……てっきりまたとんでもない条件を出されるじゃないかと思っちゃった」

「とんでもない?」

「……!!」

しまった!!って表情の美桜。

「とんでもない条件ってどんなのだ?」

「えっ!?……いや……あの……その……」

しどろもどろの美桜。

「……」

「だから……その……」

……ちょっと動揺しすぎじゃねぇーか?

「……」

「……えっと……あの……」

美桜の視線は宙を泳いでいた。

「お前が望むんなら“とんでもない条件”ってのを出してもいいんだぞ?」

「……ひぃっ!!だ……大丈夫です!!」

「そうか?」

「はい!!」

本当は、もう少し美桜をイジりたかったけど

美桜の瞳に微妙に涙が溜まっていたので俺はそれを諦めた。

◆◆◆◆◆

生温い風。

潮の香り。

響く波の音。

……そして……

「蓮さん!!誰もいないね!!」

低く響いている波の音を掻き消すかのように聞こえてくる美桜の楽しそうな声。

「あぁ」

俺はその声を傍で聞きながらタバコに火を点けた。

人口的な灯りで照らされている波打ち際。

そこで美桜は足首まで水に浸し

寄せては帰す波と戯れている。

「ねぇ、蓮さん!!」

それまで足元に向けられていた視線が俺へと向けられた。

「ん?どうした?」

「誰もいないから上着脱いでもいい?」

「あぁ」

俺が頷くと、美桜は嬉しそうな表情を浮かべ鎖骨辺りまできっちりと上げられていたファスナーを下ろした。

美桜の小さな身体を覆い隠していた上着がその役目を終えたかのようにスルリと脱がれる。

美桜は、その上着を砂浜に向かって投げた。

フワリと宙を舞ったそれは砂の上に音もなく落ちた。

どうやら美桜は数秒すらも波とは離れたくないらしい。

そう気付いた俺は砂の上に投げられているそれに近付き拾いあげ

近くにあった椅子の背もたれに掛けた。

「ありがとう、蓮さん!!」

いつもより楽しそうな弾んだ美桜の声に

「どういたしまして」

苦笑しながら答えた俺の視線は美桜の背中でとまった。

美桜の小さな背中。

幾度となく見たその小さな背中。

肩甲骨の下辺りまで伸びている髪の隙間に見えるのは無数にある火傷の傷。

傷と呼ぶには時間が経過し過ぎている筈なのに

痕と呼ぶには生々しさが残る。

どんなに時間が経っても決して治癒されることのない傷。

真っ白な肌に赤く残るそれ。

その傷を見る度に俺は怒りと悔しさ、そして胸を締め付けられるような感覚をおぼえる。

怒りと悔しさはこの傷痕を美桜の身体に刻み込んだ人間に向けるもの。

ずっと1人でこの傷を背負ってきた美桜の心境を思うと胸が締め付けられる。

「蓮さん!!」

美桜の声に俺は現実に引き戻された。

「ん?」

「早く一緒に遊ぼう!!」

「あぁ」

美桜に促された俺はくわえていたタバコを近くにあった灰皿に投げ捨てた。

それを見ていた美桜が再び口を開いた。

「早く!!」

「はい、はい」

「もう!!もっと急いで!!」

大きく膨らんだ美桜の頬。

「なんでそんなに焦ってるんだ?」

その頬に俺は触れた。

「だってもったいないじゃん!!」

俺の手に絡みつく美桜の細い指。

「もったいない?なにが?」

「時間だよ」

その指はヒンヤリとしていて心地いい。

「時間?」

「うん、せっかく2人で一緒に遊べるんだからたくさん遊ばないともったいないでしょ?」

俺は美桜の言葉に自分の顔が弛むのが分かった。

今が夜で良かった。

もし、これが真っ昼間だったら、俺はこの情けない顔を惜しげもなく曝す羽目になっていた。

「そうだな」

冷静さを装ってそう答えるのが精一杯だった。

「うん!!」

俺の異変に気付いてねぇーらしい美桜は無邪気な笑みを浮かべている。

「あっ!!そう言えば……」

美桜が突然、何かを思い出したように声をあげた。

「どうした?」

俺はそんな美桜の顔を覗き込んだ。

「蓮さんは……」

「ん?」

「今、反抗期なの?」

「はっ?」

美桜の言葉に俺は自分の耳を疑った。

「えっ?」

……多分、俺の聞き間違いだよな?

もしくは美桜が言い間違えたとか……。

だから俺はもう一度聞き直そうと思って美桜に尋ねた。

「……今、なんて言った?」

そんな俺に美桜は少々怪訝そうな瞳を向けながら答えた。

「蓮さんって今、反抗期なの?」

「反抗期?」

「そう、反抗期」

美桜は俺の顔を見上げて自信満々に頷いた。

どうやらさっきの言葉は俺の聞き間違いでも

美桜の言い間違いでもなかったらしい。

……反抗期……。

それってアレだよな?

中学生ぐらいの時に親に反発したくなるっていうあれだよな?

でも、そうだとすれば美桜の言葉の謎は深まるばかりで……。

てか、俺は中坊じゃねぇーし……。

もう、二十歳を過ぎて何年経ってると思ってるんだ?

しかも歳で言えば、俺じゃなくて美桜の方が反抗期の時期じゃねぇーか。

美桜の言葉に隠れた真意を俺は理解できずにいた。

無邪気な笑みを浮かべたまま俺の答えを待っている美桜とどう答えていいのかが分からない俺。

俺達の間には無言の静かな時間が流れた。

その沈黙を先に破ったのは俺だった。

美桜の質問の意味が全く分からない俺には、どうして美桜がそんな質問をしたのかその経緯から知る必要があった。

「なぁ、美桜」

「なぁに?蓮さん」

「なんでお前はそう思ったんだ?」

「違うよ」

「違う?」

「うん、私がそう思ったんじゃなくて、綾さんがそう言ってたの」

「は?綾さんが?」

「うん!!」

やっぱり無邪気な笑みを浮かべた美桜は楽しそうに頷いた。

そんな美桜の顔を見つめながら、俺は美桜の口から出た綾さんの名前に嫌な予感を感じていた。

「綾さんはなんて言ってたんだ?」

「蓮さんは今、反抗期の真っ最中なんだって」

「綾さんがそう言ってたのか?」

「うん」

「いつ?」

「さっきの宴会の時だよ」

……さっき?

俺は記憶を辿った。

……。

……。

……そう言えば……。

俺が組の奴等と飲んでる時、綾さんは美桜と2人で楽しそうになにかを話してたな。

……間違いねぇ。

多分、その時だ。

俺は溜め息を零した。

油断してた。

昼間の件もあったし、今日の夜は美桜を独占できるって余裕もあったから、いつもは警戒する綾さんの言動を俺は見逃してしまっていた。

……ったく、あの女……。

一体、今度はどんな企みがあって美桜にそんな話を吹き込んだんだ?

そんな事を考えていると

「綾さんはそれが嬉しいらしいよ」

またしても美桜が理解不能な言葉を口にした。

「は?嬉しい?」

……嬉しいって……。

俺が反抗期なのが綾さんは嬉しいのか?

今、俺はかなり怪訝そうな顔をしているはずだ。

自分でもそれが分かるくらいなのに……。

そんな俺の顔を見上げる美桜はやっぱりどことなく楽しそうで……。

再び訪れた沈黙。

訝【いぶか】しさが拭いきれない俺と、そんな俺をニコニコと笑顔で眺める美桜。

俺達2人の間には明らかに温度差があった。

その沈黙を今度は美桜が破った。

「最近、蓮さんは人間になったらしいよ」

「……!?」

「……?」

「は?人間になった?俺が?」

「うん!!」

「……ちょっと待て、美桜」

「うん?」

「とりあえず、少し落ち着こうぜ。」

「えっ?私は全然落ち着いてるけど?」

……確かに美桜は落ち着いている。

むしろ動揺が隠せてねぇーのは俺の方だ。

そう気付いた俺は再びポケットに手を突っ込むと、タバコの箱を取り出した。

箱を開け、タバコを1本銜えるとその先端に火を点した。

その瞬間、口の中に広がる苦味を含んだ煙。

俺はその煙を大きく吸い込んだ。

その煙のお陰でいつもの自分を取り戻した俺は美桜の顔に視線を戻した。

「それも綾さんが言ったのか?」

「ううん、それはお父さんが言ってた」

は?

今度は親父かよ?

「それはいつの話だ?」

「旅行の初日に私が倒れてお父さんが看病してくれたでしょ?」

「あぁ」

「あの時にお父さんと少しだけお話をしたの。その時だよ」

「なるほどな……で、俺は人間じゃなかったのか?」

「へ?」

「……?」

「……」

「……」

「あっ!!違う!!」

「……?」

「お父さんが言ったのは“人間になった”んじゃなくて“人間らしくなった”だった」

「人間らしく?」

「うん、お父さんも嬉しそうだったよ」

「なぁ、美桜」

「うん?」

「それってどういう意味なんだ?」

「喜怒哀楽が分かるようになったんだって」

「喜怒哀楽?」

「そう。前は、蓮さんが怒ってるのか喜んでるのか哀しんでるのか楽しんでるのか分かりづらかったんだって」

「……」

「でも、最近はそういう感情を顔に出すようになったんだって」

「……そうなのか?」

「そうらしいよ」

「……そうか……自分ではよく分からねぇーな」

「自分では分かりづらいかもね」

「あぁ」

「でもね、お父さんはそれが嬉しいんだよ」

「嬉しい?」

「うん!!とっても嬉しそうだった」

そう話す美桜はそれがまるで自分の事のように嬉しそうだった。

あの日。

親父が美桜にどんな話をしたかは分からない。

でも、美桜の言葉から過去の俺の話をした事は分かった。

……俺がいない間に一体なんの話をしたんだか……。

そう思ったりもしたけど、親父が話した相手は美桜だから

……まぁ、いいか……。

俺はそう納得することにした。

「親父の『人間らしくなった』の意味は分かった。綾さんの『反抗期』はどういう意味なんだ?」

「どういう意味って・・そのままの意味だよ」

「そのまま?」

「うん。ほら中学生ぐらいの子が親に反抗するアレだよ。蓮さん、知らないの?」

「……いや……“反抗期”って言葉の意味は知ってるけど……」

「けど?」

「どう考えても俺が今、反抗期だったらおかしいだろ?」

「そう?なんで?」

美桜は不思議そうに首を傾げた。

「なんでって……俺はもう二十歳を過ぎてるんだぞ?」

「うん、そうだね」

「だろ?だから、俺が反抗期なわけねぇーじゃん」

「まぁ、歳だけで考えればそうかもしれないけど……」

「……?」

「蓮さんは中学生の時、とっても“いい子”だったんだって」

「は?俺が?」

「うん。綾さんがそう言ってた」

「・・んなはずねぇーだろ」

俺は美桜の言葉に鼻で笑った。

どう考えても俺が“いい子”だったはずがねぇ。

百歩譲っても“いい子”って単語が当てはまるのは小学生くらいまでだ。

……中坊になってからはケン達とつるんではケンカばかりしてたし、酒やタバコを覚えたのだってちょうどその頃だ。

どう考えてみても俺はいい子なんかじゃなかった。

「綾さんは蓮さんが中学生になるちょっと前から準備してたらしいよ」

「準備?なんの?」

「“反抗期の子供との接し方”っていう本を読んで勉強してたんだって」

「……」

「準備万端で待ってたのに蓮さんには反抗期がなかったらしくて」

「……」

「それがちょっぴり寂しかったんだって」

「寂しい?」

「なんかね、綾さんは蓮さんの本当のお母さんじゃないから蓮さんは遠慮して反抗とかできないんじゃないかなって思ったらしいの」

「……」

「それが綾さんはちょっぴり寂しかったし蓮さんにも悪いなぁって思ってたんだって」

「……」

「でも、『最近は私にも反抗してくれるようになったのよ。』って嬉しそうに話してくれたんだよ」

初めて聞く綾さんの心境の話。

あの人は強い女だから、絶対に自分の悩みや弱さを人に見せようとはしない。

唯一、全てを曝けだせるのは多分親父だけ……。

だから俺も知らなかったし気付きもしなかった。

あの頃、綾さんがそんな悩みを抱いていた事を……。

美桜の言葉に俺は無意識の内にあの頃の記憶を辿っていた。

確かにあの頃は綾さんに対して遠慮ってもんが全く無かったと言ったら嘘になるのかもしれない。

だからって別に親父が綾さんと再婚する事や俺の母親になるのが嫌だった訳じゃない。

むしろ、なんでもハキハキ言って、二面性なんてもんが全くない綾さんには好感を持っていた。

でも、どう接していいのか分からなかったのも事実で……。

そんな俺に対して遠慮なんて全くなくズカズカと入ってくる綾さん。そのお陰で今の関係が築けたのかもしれない。

それに俺に反抗期が無かった訳じゃねぇ。

あの頃の俺は自分なりの強い考えを持っていて、それに反していれば相手が誰であろうと反発していた。

ただ綾さんに対してそういう態度を取らなかったのは、あの人の言動には当時の俺からみてもきちんと筋が通っていたからだ。

そんな綾さんに対して反抗なんてする必要はなかった。

ただそれだけの事。

「あっ!!蓮さん!!」

俺は美桜の焦ったような声に我にかえった。

「どうした?」

「今の話を聞いたことは内緒だからね!!」

「内緒?なんで?」

「綾さんとの秘密なの」

「秘密?」

「うん、そう」

「それは却下だな」

「えっ!?」

「綾さんとの秘密ってとこが気に入らねぇ」

「はっ!?」

「お前が秘密を共有していいのは俺だけだよな?」

「はい!?」

動揺しまくりの美桜。

俺は苦笑しながら美桜の額にキスを落とした。

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