◆旅行⑤◆

不機嫌な顔で俺を睨む美桜を必死で宥めて、やっと笑顔が戻った美桜に胸を撫で降ろしたのも束の間……

「あっ!!大変!!」

突然、美桜が大きな声を出した。

「どうした?」

尋ねた俺に、美桜は焦った表情で言った。

「綾さんがプールで待っててくれてるんだった!!」

……一体、何事かと思えば……。

「……別に待たせておけばいいじゃん」

「ダメだよ!!」

「あ?」

「『一緒にたくさん遊ぼうね。』ってこの前から約束してたんだから!!」

「は?そんな約束なんて聞いてねぇーし」

「うん、これは綾さんとの約束だから蓮さんには言ってないもん」

「……」

「早く水着に着替えてプールに行かないと!!えっと……荷物……荷物……」

「いや、美桜ちょっと待て」

俺は膝の上から降りようとした美桜の腰を掴んだ。

「なに?」

不思議そうに首を傾げている美桜。

「お前は俺とプールで遊ぶんだろ?」

ううん、私は綾さんと遊ぶ」

「はぁ?」

「だから、綾さんと約束してるって言ってるじゃん」

「……却下」

「え!?なんで、蓮さんが却下するの!?」

「俺がお前と遊びてぇーからに決まってんじゃん」

「……」

「……」

「……蓮さん」

「うん?」

「その意見が却下なんだけど……」

「あ?」

「私は綾さんと遊ぶから蓮さんはあの子と遊べばいいじゃん」

「あの子?」

「うん、くるみちゃん」

「くるみ?」

「そう、くるみちゃんは蓮さんの彼女なんでしょ?」

「は?」

「知らなかった。蓮さんにあんなに可愛らしい彼女がいたなんて」

「……」

「だから、蓮さんは私の事なんて気にせずにくるみちゃんと思う存分楽しんでください!!」

「……」

「さて、私は早く着替えないと……水着はどこかな?」

呆然とする俺を他所に、美桜は俺の膝を飛び降り、パタパタと隣の部屋へ消えて行った。

……もしかして……。

……今のは、ヤキモチか?

……いや、まさかな?

美桜がヤキモチなんて妬くはずがねぇ。

だって、くるみはまだ全然ガキで……。

くるみが生まれた時から、俺はくるみを知っていて、妹みたいな存在。

くるみも俺を兄貴みたいなもんだって思っててすげぇ懐いてくれてはいるけど……。

くるみと俺の間にある“好き”はもちろん恋愛感情の“好き”じゃなくて……いや、恋愛感情の“好き”だったらかなりヤベェだろ?

ただでさえ俺と美桜が付き合い始めた時、ケンに『犯罪だ!!』とか『お前はロリコンだったのか?』とか散々言われたのに……。

……はっきりと言って俺にそんな趣味はねぇ……。

たまたま惚れた女が、俺より大分年下だったって話で……。

だから、断じてくるみに対する“好き”も妹的なくるみが好きなだけ。

美桜だって分かってるはずだよな?

……って事は、やっぱりヤキモチなんかじゃねぇーな。

……そうだよな……。

美桜がヤキモチを妬くような理由なんてなんもねぇーし。

……。

……。

……いや、ちょっと待て!!

……あいつ、敬語になってなかったか?

俺は少しだけ記憶を辿って美桜が言い放った言葉を探した。

……。

……。

……確か……。

『だから、蓮さんは私の事なんて気にせずにくるみちゃんと思う存分楽しんでください!!』

……だったよな?

……。

……。

……普通に敬語になってるじゃねぇーか……。

これは美桜の癖の1つ。

俺に対して美桜が敬語になる時は、嘘をついている時や、動揺している時だったりする。

きっと今回の敬語も……。

もしかしたら、俺の自惚れかもしれない。

だけど、美桜が言い放った言葉の真意は……。

俺はソファから腰を上げ美桜が消えた部屋に向かった。

開け放たれたドアから部屋の中を覗くと、美桜は広げたキャリーケースの前に座り込んでいた。

手に水着を握りしめている美桜はボンヤリと何かを考えているようだった。

そんな美桜を見て俺は確信した。

……危ねぇ。

見逃すところだった。

美桜が言い放った言葉の真意はその言葉とは真逆のはず……。

『気にしないで』欲しいじゃなくて……『気にして』欲しいだ。

俺は声を掛けずに美桜に近付いた。

俺に気付いていないらしい美桜が大きな溜め息を漏らした。

「……美桜」

俺は美桜の小さな身体を背中から抱きしめた。

「……蓮さん!?」

美桜の身体が驚いたように大きく揺れた。

「考え事か?」

「えっ?ううん……」

「まだ、具合が悪いんじゃねぇーのか?」

「もう、全然大丈夫だよ」

「そうか?」

「……うん」

「なぁ、美桜」

「うん?」

「お前も一緒に遊ぶか?」

「えっ?」

「くるみや俺と一緒に遊ぶか?」

「……」

「美桜?」

「……いいの?」

「ん?」

「……私も一緒に遊んでいいの?」

顔だけ振り返った美桜の表情はどこか不安げだった。

「当たり前だ」

「でも、くるみちゃんは蓮さんと遊びたいんじゃ……」

「んな事ねぇーよ」

「本当?」

「あぁ」

美桜の表情がパッと輝いた。

「……じゃあ、綾さんも一緒にみんなで遊びたいな」

「あぁ、分かった」

俺が頷くと美桜はにっこりと笑った。

「もう1つ聞きてぇー事があるんだけど……」

「聞きたい事?なに?」

「さっきのは“ヤキモチ”か?」

「さっきの?」

「『くるみちゃんと2人で思う存分楽しんで下さい!!』って、さっき言っただろ?それって“ヤキモチ”か?」

「うん、そうだよ」

「は?」

「えっ?」

「……」

「……?」

「……否定とかしねぇーのか?」

「否定?なんで?」

はっきりと断言した美桜に俺の方が驚いた。

「……いや……なんでって言われても……」

「……?蓮さんったら、変なの」

美桜が俺の腕の中でクスクスと笑いを零した。

……変?

俺がか?

「……ヤキモチなのか?」

確認するように再び尋ねた俺に

「うん、さっきのは私のヤキモチだよ」

美桜ははっきりとそう言い放った。

「そ……そうか……ヤキモチか……」

美桜がそう言うんだからきっとそうなんだろうけど……。

……なんかモヤモヤする……。

「ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「なんでそんなに不思議そうな顔してるの?」

「不思議そうな顔?俺がか?」

「うん、“信じられない”って表情をしてる」

「……まぁ、信じられねぇって言えばそうだけど……」

「……?」

「お前がヤキモチを妬く事が信じられねぇ」

「そう?」

「あぁ」

「……私だってヤキモチを妬く事くらいあるし……」

そう呟くように言った美桜の声はとても小さかった。

美桜の言葉がよく聞き取れなかった俺はもう一度聞き直そうとした。「……美桜?」

「蓮さんの事が好きだから、私だってヤキモチを妬く事はあるんだよ」

美桜の言葉に俺は固まった。

……今、美桜は『好きだから』って言ったか?

好き?

俺の事がか?

……いや、もし美桜が俺以外の奴を好きとか言ったら、絶対に許せねぇーけど……。

……てか、今すぐそいつを見つけ出して大暴れする自信もあるけど……。幸いな事に美桜が口にした名前は俺の名前だった。

美桜は顔を真っ赤に染めていた。

「……ねぇ、蓮さん」

「えっ?」

「人に“好き”って言葉で伝えるのはすごく恥ずかしいね」

「そ……そうか?」

「……うん、恥ずかしい……」

美桜はそう言って俯いた。

そんな美桜がとても愛おしく感じる。

「……俺は嬉しいけど?」

「えっ?」

「美桜が言葉で気持ちを伝えてくれてすげぇ嬉しい」

「……そうなの?」

「あぁ」

「……そっか、嬉しいんだ」

独り言のように呟いた美桜が

「……じゃあ、たまに言う……」

小さな声で言葉を紡いだ。

「ん?」

「蓮さんが嬉しいなら気持ちを言葉にする」

「……美桜」

「……でも、恥ずかしいからたまににする……」

「あぁ」

たまにでも全然いい。

こうして美桜が気持ちを言葉にしてくれるだけで、俺が感じていた漠然とした不安が一瞬で吹き飛んだ。

きっと俺が感じていた不安の原因はこれだったんだ。

美桜の本当の気持ち。

繁華街で美桜を見つけて先に惚れたのは俺。

美桜の境遇から一緒に住み始めて、一緒にいる時間は長くなったけど、俺の不安はデカくなるばかりだった。

それは、心の中でこの想いが俺の一方的な想いのような気がしていたからかもしれない。

美桜が俺と一緒にいるのはもしかしたら仕方なくなのかもしれない。美桜が俺と一緒に住んでいるのは俺が強引に施設を退所させてしまったから。

美桜が俺の傍にいるのは愛情があるからじゃなくて恩を感じているから。

最初は小さな不安が時間を追う毎にひねくれた考えを俺にもたらした。

だから、俺は美桜の近くにいる男に過剰に反応していたのかもしれない。

それは、俺の独占欲が強いってのもあるかもしれねぇーけど。

そいつに美桜を取られるかもしれねぇ不安があったからで……。

……結局、美桜の言葉ひとつでこんなにも嬉しくなる俺は、自分が思う以上に単純な男だったらしい。

心が軽くなった俺に

「本当にたまにしか言わないからね!!」

美桜が念を押す。

「あぁ」

「……もう!!なんか顔が熱い!!」

頬を真っ赤に染めた美桜がとても可愛くて、俺はその頬に唇を寄せた。

◆◆◆◆◆

「大変!!綾さんが待ちくたびれちゃってるかもしれない!!」

大きな声を出す美桜は、どうしても綾さんの事が気になるらしく

「早く着替えなきゃ!!」

俺の腕をすり抜けた。

「……だから待たせておけばいいじゃん……」

溜め息混じりに言った俺は

「だから、ダメなんだってば!!」

叱られてしまった。

俺を叱った美桜は水着を手にしたまま慌ただしく動き回り、背中を俺に向けたまま徐に着ていたワンピースを脱ぎ始めた。

どうやら、焦りすぎて俺の存在すら忘れてしまっているらしい……。

……ここは自分の存在をアピールした方がいいのか?

それともこのまま美桜の着替えシーンを眺めててもいいのか?

……。

……。

悩んだ結果、俺は美桜を眺めておく事にした。

別にこの部屋にいるのは美桜と俺だけだし……。

他に人がいるんなら俺も速攻で美桜を止めるけど

今はその必要もない。

……って事で俺は美桜の行動に何もツッコむ事なく目の前で繰り広げられる光景を眺める事にした。

俺のそんな心の葛藤と達した結論に気付く様子もない美桜は、着ていたワンピースを脱ぎ捨てブラのホックに手をかけた。

そこで突然動きを止めた美桜が、恐る恐るといった様子で俺の方を振り返り、顔を引きつらせた。

「きゃっ!!」

短い悲鳴をあげ、その場にうずくまった美桜に

「どうした?」

俺はいたって冷静な声で尋ねてみた。

「な……なんで!?」

「ん?」

「なんでそこにいるの!?」

「は?俺はずっとここにいたけど?」

「それはそうだけど……でも!!私が着替えてるんだからちょっとだけ部屋を出ててくれてもよくない!?」

「は?なんで?」

「なんでって……」

「見てぇのに出て行く必要なんてねぇーじゃん」

「……なっ……」

「……てか、待ってるんじゃねぇーか?」

「待ってる?」

「綾さん」

「……あっ……」

「早く着替えて行った方がいいんじゃねぇーか?」

「う……うん!!」

「よし、俺も手伝ってやる」

「……ありがとう」

「あぁ」

俺の作戦勝ちだな。

そう思いながら手を伸ばそうとした瞬間

「……蓮さん」

「ん?」

「危うく蓮さんの作戦に載せられるとこだった……着替えは自分で出来るから」

「そうか?」

「うん」

俺は自分のつめの甘さを後悔しながら美桜から少し離れた所に再び腰を下ろした。

「……蓮さん」

「どうした?」

「……私、着替えようと思うんだけど……」

「あぁ、綾さんが待ってるから急ぐんだろ?」

「そうなの。すごく急いでるの」

「あぁ、知ってる」

「だったら、ちょっとだけ部屋を出ててくれたりとか……」

「無理だな」

「はい!?」

「俺は、ここで待ってるからお前は早く着替えろ」

「……じゃあ、少しだけ反対を向いててくれたりとか……」

「なんで?」

「『なんで?』って言われても……恥ずかしいから?」

「なんで疑問形なんだ?」

「あれ?なんでだろう?」

「……いや、それを聞いてんのは俺なんだけど……」

「……そうですよね……」

美桜は首を傾げて神妙な表情になった。

どうやら美桜は真剣に悩んでいるようで……。

そんな美桜に俺は苦笑した。

本当はこういうのはいけない事かもしれない。

これは明らかに意地悪の部類に入ってしまう行為で……。

もちろん、美桜に対して悪意がある訳じゃなくて

美桜の反応がおもしれぇーっていうか……。

付き合い始めてかなりの時間が経ってるし、毎日、風呂にも一緒に入ってそれなりの事もしてるっていうのに、美桜は相変わらず俺の前で服を脱ぐという行為が恥ずかしくて堪らないらしい。

いい加減慣れてもいいんじゃねぇーか?と思う反面、美桜のパニクった姿を見るのは嫌いじゃない。

「……ん~……」

頭を抱えて悩んでいる美桜はすでに悩むところを間違っている事にさえ気付いていない様子だったりする。

そんな美桜に吹き出しそうになった時、ポケットの中でケイタイの着信音が鳴り響いた。

取り出し、液晶を見るとそこには今親父と一緒にいるはずの綾さんの名前が出ていた。

俺はケイタイを手にしたまま相変わらず頭を抱えている美桜に声を掛けた。

「美桜」

「えっ?」

「ちょっと俺は隣の部屋で話してるから、その間に準備しとけよ?」

「へっ?」

拍子が抜けたような表情の美桜に着信音を響かせているケイタイを見せると

「う……うん」

美桜は頷いた。

「もし手伝って欲しいなら待っててもいいけど?」

「は!?……いや……本当に大丈夫だから……」

「そうか?」

「うん!!」

「じゃあ、俺が戻るまでに準備しとけよ?」

「うん、分かった!!」

大きく頷いた美桜を確認してから俺は隣の部屋へと移動した。

ソファに腰を下ろした俺はケイタイの通話ボタンを押し耳に当てた。「……はい」

『ちょっと蓮!?あんた何やってんのよ!?』

「あ?」

『あっ!!もしかして、美桜ちゃん、まだ体調が悪いの?』

「いや、もう大丈夫そうだ」

『本当?』

「あぁ、ついさっきまですげぇ悩んでたけど」

『は?悩んでた?』

「あぁ」

『……もしかして……』

「……?」

『あんた、また美桜ちゃんにエロい事してんじゃないでしょうね?』

「は?」

『だから美桜ちゃんが悩んでたんでしょ?』

「……」

『真っ昼間から何を考えてんのよ?』

「……」

『……このエロ魔神』

「……!!」

……エロ魔神!?

それは俺の事か?

……。

……。

確かに美桜が悩んでたのは俺が原因かもしれねぇーけど……。

あれは綾さんの言う“エロい事”には分類されねぇーんじゃねぇーか?

……。

……。

あぁ、そうだ。

あれはエロい事の中には入らない。

……って事で……。

「……別に俺は“エロい事”なんてしてねぇーよ」

『本当に?』

「あぁ」

『まぁ、いいわ。てか、私、待ってるんだけど……』

「……らしいな」

『は?あんた知ってたの?』

「あぁ、さっきから美桜が何度も『綾さんが待ってる!!』って連発してる」

『そうなの?』

「あぁ」

『じゃあ、なんで降りて来ないのよ?』

「あ?そんなの決まってんじゃねぇーか」

『……?』

「俺が美桜と2人でいてぇーからだよ」

『……はぁ!?』

「大体、誰の所為で親父から罰をくらったと思ってんだ?」

『……』

「……ったく、誰かさんが場所をわきまえずにキャンキャン喚き散らすから……」

『……』

「すぐに感情的になる癖はいい加減直した方がいいんじゃねぇーか」

『……さい……』

「あ?」

『うるさいわね!!私だってあんたと一緒に響さんから叱られたんだからもういいじゃない!!』

「……」

『大体、あんたが場所もわきまえず美桜ちゃんにキスなんてするから悪いんでしょ!?』

「……」

『あんたがそんな事しなかったら私が感情的にキャンキャン喚き散らす事も、響さんに叱られる事もなかったんじゃない!!』

……おい、おい……。

今度は逆ギレかよ?

……言ったそばから成長しねぇー女だな。

「……別にいいだろ?」

『なにがよ?』

「俺と美桜は堂々と公言して付き合ってんだ。付き合ってるんだからキスしようが抱きしめようが俺達の勝手じゃねぇーか」

『……あんた、全然反省してないわね?』

「反省?そんなもんする訳ねぇーじゃん」

『いい加減に……』

「俺がしてんのは、反省じゃなくて後悔だ」

『後悔?』

「美桜の体調の悪さに一番に気付いてやれなかった事だ」

『……蓮……』

「しかも、一番に気付いたのが親父ってとこも気に入らねぇ」

『……』

「まぁ、本当なら親父に礼を言うべきなのかもしれねぇーけどな」

『そうね』

「心配すんな。降りて行ったら自分がやるべき事はちゃんとするから」

『そう』

「……それから……」

『……?』

「俺に反省を求める前に自分達も反省した方がいいと思うぜ」

『は?』

「自分達だって年がら年中、チュウチュウしてんじゃねぇーか」

『えっ!?』

「しかも、それは今に始まった事じゃねぇ」

『れ……蓮?』

「思春期真っ盛りの息子の前でも堂々としてたじゃねぇーか」

『……!!』

言葉を失った綾さんに俺は勝利を確信した。

……よし!!

勝ったな。

「な?反省した方がいいだろ?」

『……だって私と響さんは夫婦だし……』

明らかに動揺しているらしい綾さんの声は珍しく弱々しくて小さい。「俺だって美桜と付き合ってんだ」

『夫婦と恋人は……』

「違うなんて言うなよ?」

『えっ!?』

「“人との繋がりは形式や世間体じゃなくてその人に対する想いが重要”なんじゃねぇーのか?」

『……うっ……』

綾さんは奇妙な声を発した後、再び言葉を失った。

この言葉を俺に教えてくれたのは、紛れもなく今奇妙な声を発した綾さんだった。

綾さんが親父と籍を入れて一緒に住み始めた頃、俺はケンと小さなモメ事を起こした。

今、考えると別に大した事じゃない。

だけど、その頃の俺にとってみたら心が折れてしまうような出来事だった。

飯も食えず、眠れない夜が続いたある日、綾さんが言った言葉。

“蓮、人との繋がりは形式や世間体じゃなくてその人に対する想いが重要なのよ。”

この言葉に俺は救われ

この言葉があったからケンと俺の関係は今でも続いている。

それに、この言葉のお陰で綾さんと俺との距離が縮まったのも事実で……。

この言葉は俺の価値観に大きな影響を与えている。

これまでも

今も

そして、これから先も

俺が他人と関わり続ける限りこの言葉は、俺の心の中に存在し続ける。

「……気持ち悪ぃ声出してんじゃねぇーよ……」

『は?全然気持ち悪くないでしょ!?』

「……いや、充分気持ち悪ぃし……」

『……』

「100歩譲ったとしても、気持ち悪くないって言うのは親父くらいだ」

『……』

「……残念だったな」

『……相変わらず生意気なんだから』

「そうか?」

『……生意気なうえに記憶力だけはいいんだから』

「お陰様で」

『でも、よく覚えてたわね。危うく言った私が忘れそうになってたわ』

「それって老化現象じゃねぇーのか?」

『……調子に乗ってると手加減なしで蹴るわよ?』

「……」

『……まぁ、それは冗談だけど。確かに一番大切なのは形式や世間体じゃなくて“想い”よね』

「だよな?だったら俺の美桜に対する想いはあんたが親父に抱く想いに負けてねぇーと思うけど?」

『……そうね』

「なんなら、今からここで語ってみてもいいぞ」

『……それだけは、マジで勘弁してよ』

綾さんはウンザリした声を出した。

「遠慮してんじゃねぇーよ」

『遠慮なんかじゃなくて本当に聞きたくないのよ。なんで、人のノロケ話なんか聞かないといけないのよ?』

「自分は話すじゃねぇーか」

『聞くのはイヤだけど、話すのは好きなの』

「……」

『……?』

「……どこまでも自己中な女だな……」

『あら、ありがとう』

「……全然、褒めてねぇーし……」

『あっ!!そんな事より早く美桜ちゃんをここに連れて来てよ』

「……ったく。仕方ねぇーな」

『3分ね!!』

「あ?」

『あと3分で降りて来なかったら部屋に殴り込むから』

「は?殴り込む!?」

『あっ、間違った。殴り込むじゃなくて、乗り込むだったわ。じゃあ、待ってるからよろしく』

綾さんは言いたい事だけ言うと電話を切った。

……。

……。

綾さんは『間違った』って言ってたけど……。

この部屋に乗り込んで来た時点で、文句らしき言葉を喚きながら手が出るんじゃねぇーのか?

……って事は『殴り込む』で合ってんじゃねぇーか。

それで、殴られるのは間違いなく俺で……。

……いや、ちょっと待てよ?

今日は殴られるんじゃなくて、蹴られるような気がする。

……。

……。

まぁ、殴られるのも蹴られるのも大して変わんねぇーけどな。

「……蓮さん?」

「うん?」

声のした方を振り返ると部屋のドアの隙間から美桜が顔だけを覗かせていた。

「お話はもう終わったの?」

「あぁ」

手招きをすると美桜はペタペタとスリッパの音を響かせながら俺の元へとやってきた。

「準備は出来たのか?」

「うん!!バッチリ!!」

満面の笑みを浮かべた美桜はさっきまでのワンピース姿から水着へと着替えを済ませていた。

……とは言っても、俺が水着だけで人前に出さない事を嫌ってほど理解している美桜は、ビキニの上にショートパンツを履き長袖のパーカーを羽織っていた。

「お仕事の電話だったの?」

「いや、綾さんだ」

「綾さん!?」

「どうやら待ちくたびれたらしい」

「やっぱり!?」

「あぁ」

「だから、早く行こうって……蓮さん……」

「ん?」

「何やってんの?」

「これってファスナー下げ過ぎじゃねぇーか?」

「は?」

「うん。どう見ても下げ過ぎだ」

俺は美桜が着ているパーカーのファスナーに手を伸ばすと

「れ……蓮さん!?」

挙動不審気味な美桜は軽くシカトして、勢い良くファスナーを上げた。

「うん、これでいい」

満足な俺と

「……」

不満感丸出しの美桜。

「どうした?」

「……これって上げ過ぎじゃない?」

「そんな事ねぇーよ。日焼けしたらどうすんだ?」

「日焼け?」

「もし、日焼けしたらすげぇ痛ぇぞ」

「……痛いの?」

「あぁ、今日の夜、風呂に入れなくなるくらいにな」

「えっ!?そんなに!?」

「当たり前だ。夏の日差しを甘くみちゃダメだ」

「そ……そうなんだ……」

「だから、絶対に途中でファスナーを下ろしたりするなよ?」

「う……うん。分かった」

真剣な表情で頷いた美桜に微妙な罪悪感を感じながらも俺は胸を撫で下ろした。

俺がファスナーをキッチリ上げたのにはもちろん“日焼け”という理由も含まれていたが、一番の理由は“見えそうで見えない感じ”だったから。

きっとと言うか……絶対に美桜は知らないと思うけど、がっつりと見えているよりも、見えそうで見えない方が男の視線を集めたりする。もちろん、がっつり見えていても俺はファスナーを上げたけど、さっきのファスナーの位置も完全にアウトで……。

要は、キッチリ上げないとセーフラインに達する事はない。

もし、この理由を正直に美桜に話したところで、美桜が素直に聞くはずもなく、『これが一番可愛く見えるの!!』とか『誰も私を見たりする訳ないじゃん!!』とか持論や根拠のない言葉を言うのは確実だ。

それなら、“日焼け”という理由だけを口にするのが適当な手段に違いない。

「よし、そろそろ行くか?」

美桜に隙がない事をチェックした俺はソファから腰を上げた。

「うん!!」

大きく頷いた美桜が俺の腕に細い腕を絡ませた。


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