◆旅行④◆

◆◆◆◆◆

「……さん……」

「……」

「……蓮さん……」

「……」

「蓮さん?」

「……」

「蓮さん!!」

「……ん?」

「どうしたの?蓮さんも具合が悪いの?」

心配そうに俺の顔を覗き込んでくる美桜。

俺はそんな美桜の頭に手を伸ばした。

「別になんともないぞ?」

「……でも……」

美桜は不安そうに俺を見つめている。

どうやら俺の心配をしてくれているらしい美桜。

美桜のその優しさが俺は嬉しかった。

「ちょっと思い出してた」

「思い出してた?何を?」

「ガキの頃の事」

「ガキの頃って……蓮さんが子どもの頃?」

「あぁ……俺はガキの頃、刺青は彫るもんじゃなくて大人になったら自然と身体に浮き上がってくるもんだと思ってたんだ」

「……えっ?浮き上がる?」

「あぁ、今、思えばバカなガキだったんだよな」

「……」

「でもさ、そう思うくらい刺青は俺にとって身近なもんだったんだよな」

「……うん」

「なんか、その頃の事を思い出してた」

「そうなんだ」

「あぁ」

俺の隣に座っていた美桜が急に立ち上がった。

……なんだ?

「美桜?どうした?」

「……急にそこに座りたくなった」

美桜が指差したのは俺の膝の上だった。

「あぁ、どうぞ」

俺が膝の上に置いていた手を避けると、美桜が俺の膝の上に座った。膝の上に感じる心地いい重み。

美桜が愛用している香水の匂いが鼻を掠める。

「う~ん、違うなぁ」

美桜が小さな声で呟いた。

「違う?なにが?」

「これじゃないみたい」

「あぁ、だからなにが?」

俺の質問に答える事なく、再び立ち上がった美桜は

「……多分、こっちの方が……」

ブツブツと独り言らしき言葉を呟きながら向きを変えて膝の上に座った。

さっきは俺に背中を向けていたけど、今度は向かい合った状態で膝の上に座った。

俺の首に腕をまわした美桜が

「うん、こっちの方がいい感じ」

満足したように頷いた。

……。

……おい、おい……。

まだ、真っ昼間だぞ?

この体勢はやべぇーんじゃねぇーか?

これは、なんか挑発してんのか?

俺もつい反射的に美桜の背中に腕をまわしてしまったけど……。

この密着具合がまたやべぇーし……。

……。

……てか、いい感じってなにがいい感じなんだ?

「ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「なにかあった?」

「なにか?」

「なにかあったから思い出したんじゃないの?」

……。

……いつもはかなり天然な感じの美桜。

だけどたまに驚く程、鋭い時がある。

「なにかあったって程じゃねぇーけど……」

「……けど?」

「久々に親父の背中を見た所為だな」

「お父さんの背中?」

「あぁ」

「……お父さんの背中……」

「美桜?」

「……お父さんの……」

「おい、どうした?」

「あっ!!思い出した!!」

「は?何を?」

「お父さんの背中!!」

「親父の背中がどうしたんだ?」

「刺青!!」

「刺青?」

「私、さっきお父さんの刺青を見た!!」

「さっき?」

「うん、倒れる寸前に見たの」

……あぁ……。

そう言えば上半身裸の親父が登場したのは美桜が倒れる寸前だったな。

「……そうか」

またしても、さっきの記憶が蘇り俺は自己嫌悪に陥った。

「うん、お父さんの背中にある刺青は初めて見た」

「初めて?」

「うん、初めて」

……そうだったか?

俺は記憶を辿った。

……そう言われてみれば確かに美桜が親父の刺青を見るのは初めてかもしれねぇ……。

「ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「お父さんの背中にある刺青って鬼なの?」

「あれは“不動明王”だ」

「ふどうみょうおう?」

「あぁ、お前は“釈迦”って知ってるか?」

「しゃか?……もしかしてお釈迦様の事?」

「そう、それだ」

「あんまり詳しくは分からないけど……そのお釈迦様がどうしたの?」

「色んな説があるけど、不動明王は釈迦の化身なんだ」

「じゃあ、不動明王とお釈迦様は同じなの?」

「昔、釈迦は自分が悟りを開くまでは絶対に動かないと木の根に腰を下ろしたらしい」

「うん」

「でも、それを知った世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し掛けた」

「魔王が!?」

「あぁ、でも釈迦は超力を使って魔王達をやっつけたらしいんだが、不動明王はその時の釈迦らしい。」

「……なるほど……」

「まぁ、要はいつもは穏やかな釈迦もそういう普段とは間逆の一面を持ってんぞって話なんだけどな」

「本当に大変身だね」

「不動明王には別の説もある」

「別の説?」

「あぁ、不動明王は父親の愛情の象徴でもある」

「父親の……愛情?」

「不動明王ってすげぇ顔してんだろ?怒ってるって言うか……キレてるって言うか」

「うん」

「それは、釈迦の怒りの化身だから仕方ねぇーんだけど、瞳だけは違うんだよ」

「……?」

「険しく怒り溢れる表情の不動明王だけど瞳には慈しみと深い愛情が溢れているらしい」

「……」

「それが父親が子供に向ける愛情に似ているらしい」

「似ている?」

「俺もよく分かんねぇーけど、不動明王って見た目とかすげぇ恐いじゃん。お世辞にも“綺麗”とか“美しい”って言葉は似合わない。何をそんなにキレてんだ?って思うような顔をしてるし……。でも不動明王は、釈迦の化身だからその内面には愛情と慈しみが溢れている。それが理想の父親像らしい」

「理想の父親像?」

「あぁ、我が子が間違った事をしたらそれを叱るのは父親の役目。どんなに父親が恐ぇ顔して怒っていても心の中には深い愛情が溢れてるみたいな……」

「……なるほど……」

「まぁ、それは“今”の話じゃないけどな」

「どういう意味?」

「最近は、昔とは時代が違う」

「……?」

「最近は、家庭の中で威厳を持っている父親って少ないだろ?」

「うん……そうかもしれない」

「だから、不動明王が理想の父親像ってのも今はあまり通用する話じゃねぇーのかもしれねぇーな。」

「うん……でも……」

「ん?」

「お父さんにはピッタリの刺青だと思う」

「そうか?」

「うん。お父さんにはピッタリだよ」

自信満々の美桜に俺は首を傾げた。

「お父さんは理想のお父さんだよ」

「理想の父親?親父が?」

「うん!!私はお父さんって存在がどんなものかよく分からないんだけど……」

「あぁ」

「もし、お父さんが私の本当のお父さんだったらいいなぁって思う」

そう言って笑った美桜。

その笑顔はどこか寂しそうだった。

美桜には父親がいない。

……と言っても美桜が今ここにいるって事はきっとこの世のどこかにはいるはずだ。

多分、生きているはず。

でも、もしかしたら死んでいるかもしれない。

病気とか不慮の事故とか……。

居所が分からないから安否の確認も難しい。

もし、個人を特定出来たら……。

美桜の父親が誰かという事だけでも分かっていたら居場所を調べたり安否確認が出来る。

だけど、それすらも分からない状態。

美桜の母親でさえも分からない事実を俺が調べる事は難しい。

それでも、生きている確率の方が高い。

もし、生きていたとしても父親は美桜の存在を知らない。

自分の子供が今、生きている事はもちろんその誕生さえも知らないんだ。

「……親父が……」

寂しそうに微笑む美桜の背中を撫でながら俺は口を開いた。

「……?」

「お前がそんな事を言ってたら親父が泣くぞ」

「えっ!?お父さんが泣くの!?」

美桜の瞳が驚いたように大きく見開いた。

「あぁ」

「何でお父さんが泣いちゃうの!?しかも、私の所為で!?」

かなり焦った様子の美桜。

そんな美桜に俺は真実を告げた。

「親父はもうお前の事を本当の娘だと思ってる」

「……」

「お前は気付かねぇーか?」

「……?」

「いつもはかっこつけてるけど、お前と一緒にいる時は鼻の下が伸びてんだよ。」

「……」

「毎週、学校が休みの時は顔を見せてんのに、週末が近くなると禁断症状が出たりもする」

「禁断症状?」

「お前の顔を見たくなるらしい」

「……」

「それにお前が元気にしてるか気になって仕方がないらしい」

「……」

「こっちがボケてんじゃねぇーのかって心配になるくらい1日に何度も『美桜さんは元気にしてるか?』って聞いてきたりする」

「……」

「しかも、たまにとかじゃなくて毎日だぞ?呆れるのを通り越して心配になるだろ?」

「……うん」

クスクスと笑いを零す美桜を見て俺は胸を撫で下ろした。

「今回のこの旅行だって俺が参加しようがしまいが大した問題じゃねぇーけどお前には絶対に参加して欲しかったらしい」

「……」

「なんで親父がそんなにお前に参加して欲しいと思ったか分かるか?」

「なんで?」

美桜は俺にそう尋ねたけど……。

美桜はその答えを分かっているのかもしれない。

俺を見つめる美桜の瞳に涙が溜まっている。

「親父はお前を自分の家族だと思っているからだ」

……そう。

親父がどうしても美桜を旅行に参加させたかった理由。

それは、美桜が俺の彼女だからじゃなく、美桜を自分の家族だと思っているから。

だから、あんなにしつこく美桜の参加を聞いてきたんだ。

挙げ句の果てには、俺に脅しまでかけて……。

そんな親父を面倒くさいと思う事もあるけど、それ以上に俺は嬉しかったりもする。

美桜の瞳に溜まっていた涙が溢れ、頬を流れ落ちた。

この涙は悲しく寂しい涙じゃなくて

嬉しい涙。

そう分かった俺は美桜を胸に抱きしめた。

美桜が悲しく寂しさの所為で流す涙を見るのは俺も辛いけど、美桜が嬉しくて流す涙を見るのは嫌じゃない。

心にたくさんの傷を負っている美桜にとって泣く事は必要な事。

出逢ってすぐの頃は、感情を隠そうとしていた。

『なにを考えているのか分からない』

美桜が周りの人間に言われ続けてきた言葉。

それは、美桜が自分の感情を隠してきた結果だった。

そうする事で自分を守ろうとしていたんだ。

これ以上、悲しく辛い思いをしない為に美桜は全ての感情を捨てた。喜ぶ事も……。

怒る事も……。

悲しむ事も……。

楽しむ事も……。

感情を無くす事で美桜は傷だらけの心を守ろうとしたんだ。

……だけど……。

それは、過去の美桜。

現在【いま】の美桜は

嬉しい事があったら喜び

自分で納得出来ない事があったら怒り

悲しい事があったら涙を流し

楽しい時には心から笑う。

美桜にとって素直に感情を表に出す事は俺達が考えるよりも難しい事だった。

感情を持つ事でまた傷つくかもしれないという恐怖感があったに違いない。

その恐怖感を乗り越えたから美桜は今、自分の感情を正直に表せるようになった。

美桜は一歩ずつ、自分のペースで前に進んでいる。

俺に出来るのはそんな美桜の全てを受け入れいろんな感情を分け合い、必死で前へ進もうとしている美桜の傍にいる事くらいだ。

しばらく、俺の胸に顔を埋めていた美桜がゆっくりと顔を上げた。

瞳は少しだけ赤く充血しているけど美桜の表情はスッキリとしたように見える。

俺と瞳が合うと美桜は少しだけ照れたような笑みを浮かべた。

「……蓮さん」

「うん?」

「……ごめんなさい……」

「なにを謝ってんだ?」

「……また……」

「ん?」

「蓮さんの洋服を涙で濡らしちゃった」

美桜が指差したのは、今まで顔を埋めていた俺の胸の辺りだった。

「……ごめんね」

申し訳なさそうに謝る美桜。

「別に謝る必要なんてねぇーよ」

「……でも……」

「このくらいの事でお前が楽になれるんなら、洋服ぐらいいくらでも濡らしてくれ」

「……蓮さん……」

「ん?」

はにかんだ笑みを浮かべながら

「ありがとう」

呟くように言った美桜に

「……おう」

俺の鼓動は高鳴った。

……きっと俺は、美桜の笑顔を守る為ならなんでも出来る気がする。

この笑顔一つで俺はこんなにも満たされる。

誰かの笑顔一つでこんなに胸が熱くなった事なんて美桜に出逢うまでは一度もなかった。

逆に涙一つでこんなに辛くなる事も……。

まるでそれが自分の事のように思えてしまうのは、きっと美桜が俺にとって自分以上に大切な存在だから……。

「……でも、お父さんは大変だね」

「大変?」

「手の掛かる子供がもう一人増えちゃって」

「もう一人って……なんかその日本語おかしくねぇーか?」

「そう?」

「あぁ、その言い方だとお前の他に手の掛かるガキがいるみたいじゃねぇーか」

「うん、そうだよ」

「あ?」

「お父さんには蓮さんっていう手の掛かる子供がいるじゃん」

……は?

俺が手の掛かるガキ?

「なに言ってんだ?俺は全然手なんて掛かってねぇーぞ」

「本当に?」

「あぁ」

「本当に本当?」

……。

そんなにしつこく聞かれると……。

「……微妙に手は掛かってるかもしれねぇーけど……」

「は?微妙に!?」

……。

……。

「……多少?」

「多少!?」

……。

……。

「……結構?」

「……」

美桜は何かを言いたそうな表情なのに無言で俺を見つめてくる。

至近距離にある美桜の瞳は明らかにこう言っていた。

「……かなり?」

俺にそう言わせた美桜は満足そうに

「でしょ?」

顔を輝かせた。

俺は美桜にはどうしても勝てないらしい。

結局、俺の惨敗は最初から決まっていたようで……。

「……俺って手の掛かるガキだったのか?」

「う~ん」

「……」

「蓮さんと綾さんが2人揃ったら最強だと思う」

……。

……。

……そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。

今までそんな事すら考えた事はなかったけど……。

綾さんと俺のやり取りを見ている時の親父って、いつも困ったような表情をしてねぇーか?

……俺って実は手の掛かるガキだったんだな……。

今まで知らないどころか気付きもしなかった事実に俺は小さな溜め息を吐き出した。

そんな俺を見て美桜はクスクスと笑いを零している。

「いいんじゃねぇ?」

「うん?」

「俺と綾さんの最強コンビで、親父も慣れてるだろうから美桜が1人増えるくらい親父はなんともねぇーんじゃねぇ?」

「……そうかな?」

「あぁ、それに……」

「うん?」

「親父のガキは俺だけじゃねぇーし」

「……えっ!?」

俺の言葉に美桜はすっと呆けた声を出した。

その声と表情で美桜がとんでもない勘違いをしている事が安易に想像出来た。

「えっと……それって……蓮さんには兄弟がいるって事?」

「あぁ、そうだけど?」

「……!!」

……美桜……。

お前って最高に……おもしれぇ!!

込み上げてくる笑いを必死で飲み込み真剣な表情で美桜の次の言葉を待っていると

「こ……こんな事、私なんかに話してもいいの!?」

「ん?いいんじゃねぇーか?別に隠すような話じゃねぇーし」

「えっ!?そ……そうなの!?」

「あぁ」

「そ……そうなんだ……あっ!!綾さんは……綾さんは知ってるのかな?」

「もちろん知ってる」

「えぇっ!?知ってるの!?」

「あぁ、だから別に隠すような事じゃねぇって」

「そ……そっか……知ってるんだ……」

「そいつらとも綾さんは仲良くやってるし」

「……さすが、綾さん。やっぱりすごい人だよね。私も見習わなきゃ!!……って、ちょっと待って!!」

「どうした?」

「蓮さん、さっき“そいつら”って言ったよね!?」

「あ?……あぁ、言ったけど……てか、美桜ちょっと近過ぎねぇーか?」

俺の膝に座っている美桜がどんどんその距離を縮めてくる。

「それって複数形だよね!?」

俺の話は耳に入ってねぇーんだな?

……まぁ、いいけど。

……てか、俺的には最高な状況だけどな。

「あぁ」

答えながら俺は美桜の後頭部に手をまわした。

「それって、蓮さんの兄弟は1人だけじゃないって事だよね」

「あぁ」

首筋の白い肌に唇を寄せる。

「ち……ちなみに何人いるの?」

「……かなりの人数がいる」

首筋から鎖骨へと唇を滑らせる。

「かなり!?それは男の子?女の子?それとも、両方?」

「男ばっかりだ」

ラッキーな事に美桜が今日着ているのはワンピース。

背中のファスナーを下ろすと肩に掛かっている紐が腕に滑り落ちた。「みんな男の子なの!?」

「あぁ」

話に夢中になり過ぎている美桜は俺の行動に全く気付いてないらしく……。

「す……すごいね……」

意味不明な感動に浸っている。

「すごい?別にこの世界じゃ普通だ」

「普通!?」

「あぁ」

はだけたワンピースの隙間に舌を這わせようとした瞬間

「蓮さん!!」

俺は両頬を美桜の両手に挟まれた。

……ちっ……。

……あと少しだったのに……。

俺は顔を挟まれたまま視線だけを上げると

美桜は不機嫌な表情で俺を見下ろしていた。

「ど……どうした?」

……やべぇ。

ちょっと調子に乗り過ぎたか?

「普通なの!?」

「は?」

「蓮さん、言ったでしょ!?『この世界では普通だ』って……」

「あ?……あぁ」

「『この世界』って言うのは蓮さんやお父さんがいる世界って事だよね?」

「……まぁ、そうだな……」

「……普通なんだ……」

「は?」

「……」

「……?」

「……隠し子がいるのが普通なんだ……」

「か……隠し子?」

……やっぱりな。

美桜はとてつもなく素敵な勘違いをしている。

「……あれ?でも、別に隠してないから“隠し子”っていう表現は違うのかな?」

「……」

……おい、おい……。

気にするところを間違ってねぇーか?

「……あっ!!」

「……?」

「……まさか……」

「……?」

「……蓮さんも……」

「あ?」

「私が知らないだけで蓮さんにも“隠し子”がいたりするの!?」

「はぁ?」

「だって普通なんでしょ!?」

「……」

……そんな“普通”がある訳ねぇーだろ……。

一夫一妻制のこの国で……。

いくら俺達が特殊な職業を営む世界にいるからって……。

まぁ、確かに本妻以外の女にガキを産ませる男がいない訳じゃない。だけど、それはこの世界に生きる男に限った事じゃない。

お堅い職種に就いててそうする男だっているし、逆にこの世界に生きていても1人の女だけに愛を捧げ続ける男もいる。

人それぞれに事情があり何が正しくて何が間違っているなんて第三者が言うべき事じゃない。

親父は間違いなく後者に当てはまる。

俺が知る限り、親父が愛情を注いだ女は2人だけ。

……お袋と綾さんだけ……。

それも2人同時にって訳じゃなくて、お袋が亡くなるまではお袋だけに……。

そして、綾さんに出逢ってからは綾さんだけに、親父はその愛情の全てを捧げてきた。

「……美桜」

「なに?」

「そりゃ、連ドラの見過ぎだ」

「えっ?」

「親父に俺以外のガキがいるってのはそういう意味じゃない」

「違うの?」

「あぁ、子供ってのは組員の事だ」

「は?組員って……蓮さんの組の人達って事?」

「あぁ、あのな、組員になるって事は、親父と義理の親子になるって事なんだ」

「……義理の親子?」

「そうだ。組の人間が家族同然って事は、建て前だけじゃなくて実質の事だ」

「……?」

「ちょっと難しいか?」

「……うん、かなり……」

首を傾げている美桜の頭の上にはたくさんの“?”マークが浮いている。

……まぁ、無理もねぇーか……。

「よし、美桜。ちょっと降りろ」

「うん」

俺の言葉に美桜は渋々と俺の膝から降りた。

俺はテーブルの上にあったメモ帳を引き寄せボールペンを手に取った。

身を乗り出して俺の手元を覗き込んでくる美桜。

俺はメモ帳におおざっぱな家の絵を書いた。

「あのな、これは“神宮組”だ」

「うん」

「俺達が所属する組ってのは1つの家庭みたいなもんなんだ」

「家庭?」

「あぁ。どの組にもトップには組長って肩書きの奴が存在する。ウチの組で言えば親父の事だ」

「うん」

「で、この組に入るなら組長とある契約を結ぶ事になる」

「契約?」

「その契約にはいろんな条件が含まれるんだけど、一番大きいのは親子になる事なんだ」

「……親子……」

「誰にでも実の親がいる。でも、この世界に入ったら組長を親だと思わないといけない」

「……」

「そして、組長も組員を自分の子供だと思ってそいつが一人前になるまで見守る義務を持つ」

「……」

「親は子の為に……そして子は親の為に……生きていくのがこの世界の本来の在り方なんだ」

「……そうなんだ」

「でも、組長と組員は本当の親子じゃないからもちろん、血の繋がりもない。だから、盃を交わすんだ」

「……盃?」

「あぁ、そっち系のDVDとか映画で見た事ないか?袴姿のオッサンが向かい合って酒を酌み交わす儀式みないなの」

「あっ、ある!!」

「あれは盃を交わしているんだ。この世界では盃を交わすって事は絶対的な約束を結ぶって事だ」

「なるほど」

「だから実質的に、組長にとって組員達は自分のガキみたいなもんなんだ」

「……そうなんだ。だから蓮さんの組の人達はお父さんの事を“親父”って呼ぶんだね」

「あぁ。組長だけじゃない」

「ん?」

「組長に嫁さんや彼女がいる場合はその人を母親だと思って尊敬の意を込めて“姐さん”って呼ぶんだ」

「……そうなの?」

「ウチの組で言えば綾さんがそうだな。ウチの組では“姐さん”って呼ぶけど“女将さん”って呼ぶ組もある」

「……そっか……」

「それに組員同士の間にも兄弟関係が存在する」

「兄弟?」

「組にいる年数や実力でその上下関係が決まるんだが、ある程度の地位になると弟分の面倒を見たりもする。組の奴が“兄貴”って呼ばれてるのを聞いた事ねぇーか?」

「ある!!」

「だろ?組ってのはひとつの家庭で、組長を含めた組員はひとつの家族みたいなモノなんだ」

「……そうだね」

「だから、親父にとって組員はみんな自分のガキなんだ」

「……なんか、いいなぁ。そういうの……」

「ん?」

「血が繋がってないのに家族だと思える人間関係ってすごい思う」

「そうだな。でも、それは裏を返せば心に寂しさを抱えてるって事なんだけどな」

「どういう意味?」

「この世界に入ってくる奴らはガキの頃、家庭環境に恵まれていなかった奴が多いんだ。例えば、両親と何らかの確執があって愛情を充分に与えてもらえなかったり、家族っていう存在に大きな憧れを持っていたり」

「……うん」

「みんながそうとは言えねぇーけどそういう奴が多いから成り立っているし、その規律を重んじるんだと思う」

「……うん」

「そういう上下関係を大切にしているのは俺達極道の人間だけじゃねぇ」

「……えっ?」

「ケンのチームを含めた繁華街にあるほとんどのチームがそうだ」

「あっ、そう言われてみれば……」

「多分、あれも心に寂しさを抱えているから強い仲間意識が生まれてそれで成り立ってるんだ」

「……そっか……」

「人は1人じゃ生きられない。家族っていう存在が在るから前に進めるし家庭って場所があるから疲れた心を癒やす事も出来る」

「……うん」

「だから、人はそれが偽物だと分かっていてもそれを求めるんだろうな」

「そうかもしれないね。……あっ!!」

「どうした?」

「やっぱり!!」

「ん?」

「あの刺青はお父さんにぴったりな気がする」

「……そうか?」

「うん!!……ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「お父さんも不動明王の話を知ってるの?」

「あぁ、この話は親父から聞いたんだ」

「そっか、刺青の絵にもちゃんと意味があるんだね」

「……意味?」

「うん、今まで刺青の絵ってその人の好みとかで決めるんだって思ってた」

「……なるほどな。まぁ、確かに絵柄を決める時は好みも重要だけど、それだけで決めたら絶対に後悔する」

「……そうなの?」

「あぁ、好みってモノは生きる環境や人間関係によって変わるもんなんだ。でも、刺青は一生もんだ。一度身体に彫ったらそれをキレイに消す事は難しい。その時はすげぇ好きな絵柄だったとしてもそれを死ぬまで好きだとは限らない」

「うん」

「だから、彫るか彫らないかもだけど何を彫るかもよく考える必要がある。刺青の絵柄ひとつひとつに意味があるし、どうしてその絵柄を彫りたいのかを考える必要があるんだ」

「うん」

真剣な表情で頷く美桜。

もし、美桜の決意が変わらなければ近い将来、美桜の背中には刺青が彫られる。

その時に後悔だけはして欲しくない。

“過去”という壁を乗り越える為に決意した事に誇りを持って欲しい。

「……もしかしたら……」

「うん?」

「……あっ!!これは、私の想像なんだけど……」

「なんだ?言ってみろ」

「……お父さんはお父さんになる為に不動明王を彫ったんじゃないかな?」

「親父が親父になる為?」

「うん!!」

「それはどういう意味だ?」

「えっと……どう言ったらいいのかな……」

「……」

何かを考えるように黙り込んだ美桜。

俺は美桜が言葉を発するのを待っていた。

……昔、親父に“不動明王”を彫った理由を聞いた事がある。

その時、親父は不動明王にまつわる話は教えてくれたけど、それを彫った理由は教えてくれなかった。

ずっと抱いていた疑問。

美桜の言葉を聞けば疑問の謎が解けるような気がした。

「お父さんにはたくさんの子供がいるでしょ?」

「あぁ」

「その人達は家族の愛情に飢えてる人が多い」

「あぁ」

「だから、お父さんはその人達に父親の愛情っていうのを与えてあげたかったんじゃないかな」

「なるほどな」

「上手く言えないんだけどお父さんの決意みたいな……」

美桜が言いたい事は俺にもなんとなく伝わってきた。

「多分、それは蓮さんの為でもあるんだよ」

「俺の?」

「うん!!いつか……お父さんが引退しちゃったらその後を受け継ぐのは蓮さんでしょ?」

「あぁ、多分な」

「その時、蓮さんがみんなの父親役が出来るようにお父さんは蓮さんに“理想の父親像”っていうのを教えたかったんじゃないのかな?」

「……そうかもしれねぇーな」

「私ね……倒れる寸前にお父さんの背中を見たんだけど、その時不動明王の眼から視線が逸らせなかったの」

「……?」

「なんかね、あの眼がとても優しく見えたの」

「優しく?」

「おかしいでしょ?思いっきり睨んでるのに優しく見えるなんて……でも、その優しい感じがお父さんの瞳に似てるなって思ったの」

「そうか」

「うん」

「刺青ってさ、それを彫った人間に大きな影響を与えるらしい」

「えっ?」

「刺青は身体に彫った時点で魂を持つんだ」

「……?」

「例えば、同じ彫り師が2人の人間に同じ絵柄の刺青を彫るとするだろ?」

「うん」

「それでも、その2つの刺青は微妙に違う」

「そうなの?」

「あぁ、同じ彫り師に頼んだとしてもその刺青は世界にひとつだけ。個人の肌の色や質感で墨の色が微妙に変わってくるし、絵自体もそいつの骨格や体型で違ってくるから同じものはない」

「……ひとつだけ……」

「そうだ。で、その刺青は彫って時間が経てば経つほど身体に馴染んでその人間にとって身体の一部になっていくんだ」

「どういう意味?」

「ん~、例えばある日、目が悪くなった事に気付いて眼鏡を掛けるとするだろ?最初は慣れねぇ眼鏡に違和感を感じても時間が経てばその違和感もなくなる」

「うん」

「それと一緒で刺青も彫ってすぐは違和感があるけど時間が経てば違和感なんてなくなる」

「うん」

「下手すりゃ生まれた時から身体にあったんじゃねぇーかって思うような時だってある」

「へぇ、そうなんだ」

「実際に彫ってる奴はそう思っていても刺青を彫ってない奴からしたら・・ましてや刺青に興味のねぇー奴からしたらその行為自体理解出来ねぇーだろ?自分の身体に針を刺して痛みに耐えてまで絵を描くなんて……」

「そうかもしれないね」

「だけど、そうまでして彫るって事はそれだけ刺青に対してなんらかの思い入れがあるって事で……要はその思い入れが大きければ大きいほど精神的にも大きな影響を与えるんだ。もし、親父が不動明王に自分の理想を重ねていたら……そうなりたいと強く願っていたら・・なんらかの影響を受けててお前が似ていると思っても別におかしくはない」

「うん、そうだね」

親父がどうして背中に不動明王を背負ったのか……。

その理由は分からない。

もし、俺がもう一度その理由を親父に尋ねたとしてもきっと親父は教えてはくれないと思う。

俺が自分の背中に桜を彫っている理由を尋ねられても、照れ臭くて正直に言えないように親父も自分の決意を俺に話すのは照れ臭いはず。

だけど、もし美桜が言ったような理由で親父が不動明王を彫ったとしたら、親父はその決意に忠実に生きていると俺は思う。

直接は照れ臭くて絶対に言えねぇーけど……。

親父は俺にとって理想の父親だ。

今までその背中を見て生きてきた。

これからも俺はその背中を見ながら生きていく。

俺がいつかその背中を見る事を止め、親父の背中を追い越す日がくると思う。

もし、そうなったとしても……。

俺の目標が変わる事はない。

これまでも……。

そして、これからも……。

父親としても

仕事上の先輩としても

同じ男としても

親父は俺の理想であり目標だ。

それは永遠に変わらない。

俺は、改めてその事に気付かせてくれた美桜に手を伸ばした。

その小さな身体を抱き上げ再び自分の膝の上に座らせた。

こんなに小さいのに……。

こんなに軽いのに……。

この世に生を受けて生きてきた時間だって俺より全然短いのに……。

美桜は俺に色々な事を教えてくれる。

俺が『いつも傍にいてお前を守る』とかカッコ良く言ってるけど……。本当は美桜が俺の傍にいてくれるから、俺は前に進めているのかもしれない。

「ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「蓮さんはどうして龍と桜を彫ったの?」

「あ?」

「意味があるんでしょ?」

……確かに意味はある。

でも、それを言うのは……。

俺が背負っている“龍”に込めた想いを美桜に話すのはまだいい。

だが、“桜”に込めた想いを話すのは……。

……すげぇ、恥ずかしいんですけど……。

俺が“桜”を彫ろうと決意したのは、美桜と出逢ったから。

あの頃は、繁華街で悲しい気な瞳に人の波を映していた美桜を自分が守りたいと思っていた。

名前すら知らなかった俺が美桜に持ったイメージは“桜の花みたいな女”だった。

俺がそんなイメージを女に抱く事自体が自分でも信じられなかった。

でも、深夜の繁華街で一人佇む美桜は、本当に“桜の花”みたいだった。

小さくて

儚げで

弱そうで

触れたらすぐに壊れてしまいそうな女。

そんな女だったのに、俺にとって美桜の存在感はとても大きかった。一度、視線を向けると逸らす事が難しく、真夏だろうが真冬だろうが俺はその姿を一目見たくて、あの場所に通っていた。

俺が桜の花を彫ったのはちょうどその頃だった。

背中一面にデカデカと彫っていた龍の周りに咲き誇る桜。

それは、俺の決意と覚悟の表れだった。

今、美桜が俺の膝の上にいてその小さな身体を抱きしめられるのは決して当たり前の事じゃない。

俺が美桜の傍にいられるのはたくさんの人間が力を貸してくれたから。

その事はこの先、俺が死ぬまで忘れてはいけないこと。

だから俺は自分の背中を見る度に思い出す。

あの時、自分自身に誓った美桜に対する想いと決意。

そして、俺に力を貸してくれた奴らの優しさと温かい気持ちを……。

「……好きだから……」

「好き?」

「あぁ」

「好きって龍と桜が?」

「いや……まぁ……その……」

「……?」

「……いつか、ちゃんと話す……」

「は?」

「……時が来たらちゃんと話すから……今は聞かないでくれ」

「えっ?いつかっていつ?」

「いつかは……いつかだ」

「はぁ?全然意味が分からない!!」

プリプリと怒りを露わにする美桜に俺は苦笑いを浮かべるしかなくて……。

……いつか、きっと……。

俺があの日自分自身に誓った事に自信を持って達成出来てるって思えたら、その時は美桜に話そう。

俺が刺青に込めた想いを……。


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