第40話 地下

 申し開きを終えるまで、俺は生きた心地がしなかった。 

「そうか、急に空気が軽くなったのは、『先生』がいなくなったからなんだ」

 みっきーは何か腑に落ちた様子。「阿久津くんにそんな特技があったとはねえ」という声は、すっかり元の調子に戻っている。一方でまひろは、どこか苦々しげに周囲を見渡す。

「代わりに、その辺のヤツは狂暴になった感じがするけど……気が尖ってるっていうの?」

 その結果が、身体中を刺した、あの責めるような眼差しだろうか。

 この場の支配者たる「先生」が消えれば、重石のなくなった風船みたいに、ここにいる奴らも昇華されるのかと思っていた。しかし、現に彼らはここに残り続け、しかも存在感を強めている。「先生」が消えてもなお彼らが消えないのは、大元にあるのがやはり「りつ子」だからか。本当の重石を解かなければ、この場所は浄化されえない。

 ふと、さっきまで見えていた人影がいなくなっていることに気が付く。「どうしたの?」怪訝そうに訊くまひろに、「この部屋、何人いる?」と尋ねると、「二人」とすぐさま返答が来る。「お母さんと子供かなあ……それがどうかした?」

「いや……」

 頭を打ったからだろうか。元の状態に戻っている?

 叩いて直るとか。家電か。

 ただ見えないだけならまだよかった。一度見えていたものが見えなくなるのは、あることを感覚的に理解していた分、どことなく嫌な感じだ。姿は見えないのに、そこに潜んでいる。けれどどこに潜んでいるのかはもう見えない。

 胸の内でわだかまるものを振り払うように、俺はひとつ、咳払いをする。煤で喉がイガイガする。

「二人はどのくらいここを探索してた?」

「つってもあくつと変わんないと思うよー、一階から三階までとりあえず見て回ったけど」

 このホテルは渡部邸の跡地だったという話だ。りつ子に繋がる場所が開いているとしたら、ここが一番有力なのは違いないが……。

 このホテルはざっと見たところ六階建てだ。探索をするとしたらあとは四階から上か。

「とりあえず上の階、行くかー……?」

 また階段を上るのは面倒だな、とげんなりしかけた時。

「いや、たぶん必要ない」

 みっきーがやけにきっぱりと言った。

「はえ? なんで?」

 まひろが目をぱちくりさせる。

「りつ子のところに繋がってる……それってたぶん、あの子のいた屋敷に繋がっているってことなんだよね?」

「まあ、そう考えるのが妥当だろうな」

「普通の家はだいたい二階建てか、大きくても三階建てでしょう? だったら、ここより上には入り口はないんじゃないかな」

 確かにそうだ。渡部邸が四階建て以上の大豪邸だった可能性もなくはないが、常識的に考えれば多分ない。……こんな状況で「常識」なんて言葉を持ち出すのもアレだけれど。

「でもさ、一階から三階まで、それっぽいのはなんもなかったじゃん? 誰かさんを探して色んなとこ見たけどさあ」

 ……悪かったって。

 俺は少し肩をすくませる。

「待てよ、じゃあいったいどこに――」

 言って、はたと気が付く。

 ホテルの中。四階より上を除いて、まだ足を踏み込んでいない場所。

「――地下か」

 みっきーが神妙な顔で頷いた。

 あの家には地下があった。カメラマンの男が死んだ場所。――それから、りつ子が閉じ込められていた場所だ。



 こぉん、と足音が響く。

 地下は温度が低い。半袖では心もとない寒さだった。首元を抜ける冷気が、一段と濃い。

 手元は懐中電灯が一つ。壁に括りつけてあったのを拝借した。持ち手の部分が軽く溶けていたが、電灯部分の煤を拭えばかろうじて光源になった。とはいえ、細い光は頼りなく、足元より少し先を照らすので精一杯だ。

 地下には倉庫があるようだった。ワイン等の物資、非常用の食糧や毛布が備蓄されている。ここにも人が逃げ込んできたのだろうか。折り重なるように倒れている人がいる、とまひろは言った。小さい子供と、それを抱き込むように倒れている母親、二人を腕で包もうとする父親。まひろが指さした先は、俺には素っ気ないコンクリートの壁しか見えない。黒ずんだ影だけはうっすらと目視できる。

 他にも黒い影がある。客の中に従業員らしい奴が倒れているらしい。姿は比較的きれいだが、喉をかきむしるように死んでいる、と。火を恐れて一か八か雪崩れ込んできたのだろう。

 姿ははっきりと見えなくても、狭い地下には濃い人の気配が充満している。あるいは、悲鳴の余韻のようなもの。音にもならない声が反響して、不確かに、けれどあちこちから聞こえる。

 ――……助けてくれえッ……

 唐突に、声がした。鉄扉が拳で叩かれる音。背後から聞こえる。叩かれているのは一階に繋がるドアだ。

 ――……開けてくれ、もう、火が……

 音と悲鳴がどんどん重なって、膨らんでいく。ドアを乱打する力任せな音は、必死さの体現のようで。

「無視」

 露骨にそわそわしだしたまひろに釘を刺す。

「無理っ!」

「まひろ!」

 掴もうとした手が、宙を泳ぐ。倉庫の外に飛び出したまひろは、「あれ?」とその場で立ち尽くした。

「声、しない……」

 まひろは恐る恐る戻ってくる。倉庫に踏み入れた途端、びくりと身を小さくする。

「入ると聞こえる……」 

「なんだそれ……」

 これがあそこで死んだ人間なものなら、そんな中途半端なことがあるだろうか?

 そうこうしている間にも、半狂乱の断末魔が耳を引っ掻いてくる。

 ――……見殺しにすんのかよぉ……!

 ――……もうだめだ、火がっ……!

 扉を叩く音がヒステリックになる。耳を塞ぎたくなるような悲鳴。

「……この声は、ここにいる人たちの記憶なのかも」

 みっきーが口元を抑えながら、呟く。

 ――……ごめんなさい、ごめんなさい……

 すすり泣く女の声が、どこからともなく聞こえる。

「助かろうとして、ドアを閉め切ったんだ。けど……」

 火の手からは逃れたものの、蒸し焼きになったか。

 ではこれはきっと、彼らの罪の意識が見せる悪夢なのだろう。泣き声と悲鳴がめちゃくちゃに混ざっていく。どうにも辛気臭い気分にさせられる。

 俺は懐中電灯で部屋の隅から隅をなぞる。ほの白い光が丸の形に辺りを照らす。時折、ぼんやりと青黒い何かを、光が捉える。輪郭は曖昧だが、人影のようだ。落ちくぼんだ眼窩が吸い込まれそうに暗い。

 どこかに繋がっていそうなものは、舐めるように光を当てても、どこにも見当たらない。

「ここじゃなかったってこと……?」

「ううん。近い……と思う。大きな歪みがある……」

「みっきーの勘?」

 みっきーはどこかきまり悪そうに頷く。俺も異論はなかった。

「風がある……ってことは、どこかに通り道があるんだ。たぶんこの部屋だ」

 脱出口はどこかにあるはずだ。

 とはいえ、風上を探そうとしても、あちこち風向きが変わって辿れない。風も神経を研ぎ澄ませないと感じ取れないような微風だ。その上混沌とした声が頭の内側に響いて、集中を乱される。

 ――……助けて、誰か……――

 ――……ママぁ、怖いよお……――

 ――……大丈夫よ、煙は高いところにいくんだから……大丈夫……――

 ――……ごめんなさい、許して……――

 冷気に混じって、熱風が頬を撫でる。方向は別のところからだ。温度差が気持ち悪い。

「頭、痛い……」

 みっきーの声が辛そうだ。

「大丈夫?」

「うん……」

「……なあ、暑くなってないか、ここ」

 熱風の混ざる割合が増えている。焦げたにおいもしていた。火花の散る音が近い。

 酸素が薄い、気がする。

 懐中電灯の光が明滅する。

 どぉん、と頭上で振動と轟音がした。倉庫の入り口が閉まる。足元が揺れ、俺はバランスを崩しそうになる。ぱらぱらと何かが降ってくる。いくつもの細い悲鳴。絶叫に似た子供の泣き声。

 身体に伝わる熱はどんどん多くなっている。

 ガスのにおいが濃い。さっきのはガス管に引火した音か。

「まずいよ、ここ――」

「わかってる」

 このままじゃ最悪、俺たちも彼らと同じ道を辿る。

 焦りだけが煮えつくように強い。

 とりあえず外に出た方がいいことは確かだった。まひろがドアノブを握ろうとするや否や「あっつ!」と叫んだ。

「嘘でしょお……」

 空気の不純物はどんどん濃くなっていく。

 その時。喧騒の中に、ちりん、と鈴の音がした。

 不思議な音だった。これだけやかましく人の声であふれているのに、静かで澄んだ音は、まっすぐに耳に届いた。

 覚えのある音だ。……そうだ、「学校」で見たあの猫。

「阿久津くん」

 呼ぶ声に、咳が混ざる。

「ちょっと懐中電灯借りてもいい?」

「ああ……」

 手渡した懐中電灯を、みっきーはうろうろと彷徨わせる。光は不安定で落ち着かない。時折弱くなったり、光の線が霧散したり。単なる明滅とも違う。

 ある一点で、どくん、と光が収縮した。心臓の脈拍によく似た、奇妙な動き。

 そのまま光が消えてしまう。別の場所を照らすと、また光はまっすぐに壁に進む。

 接触の問題、には見えなかった。

「やっぱり。ここ、光が吸い込まれる……」

 ちりん。誘うように、もう一度音が響く。

 光も届かない澱んだ漆黒。その向こうで、小さな影がゆらりと動いた気がした。

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