第五章 屋敷

第39話 ホテル

 津波のような疲労が、突然、身体に落ちてきた。

 重力が戻る。先ほどまでの反動なのか、ひどく身体がだるかった。プールから上がった時みたいだ。

 張り付いていた瞼を開けた途端、ごろん、と目の前に何かが落ちていた。押しつぶされる。ぐえっ、と思わず声が出る。押し返した手に、ごわごわとした毛並みが触れた。着ぐるみの頭だ。

 着ぐるみの中には何もない。

 抜け殻になった着ぐるみは、力を失って、椅子の上に崩れ落ちている。

 きぃー、と金属の軋む音がした。見ると、観覧車のドアが五センチほどの隙間を開けて、ゆらゆらと動いていた。窓の外の景色は地上にほど近い。ゴンドラはあとはもう上るだけのところまで下りていた。ふわ、と上昇する感覚。俺は慌てる。

 もたもたしていてはもう一周する羽目になる。降りたいのに、熊の頭が邪魔だ。なんでこんなでかいんだよ。押しのけながらドアの前に出て、ねじり出る形で、俺は外に飛び降りた。心の準備をする前に着地がきた。じん、と足の裏が痺れる。

 はーーーっ、と嘘みたいに深い溜息が出た。

 顔を上げると、たくさんの真っ黒な目が、俺を凝視していた。

 うわ……。

 どいつもこいつも目が虚ろで、ぽっかりと、穴が開いているみたいで。

 油断すると、闇の深さに気力を吸い込まれそうになる。

「なんなんだよ、もう」

 毒づかずにはいられなかった。目標のホテルを探している間も、そこに向かって進む間も、視線は俺のことを刺し続ける。歩調は自然と駆け足になる。ぶつかりそうになるたびに、例の寒気がぞくぞくと身体を這い上がる。襲ってくるわけでもないのがなおさら気味が悪い。

 こりゃまひろもビビるよなあ……。

 人の群れをかき分けながら走る。よく見ると、地面に真っ赤な文字が書いてあった。たった二文字。執拗なまでに繰り返されている。

『返せ』『返せ』『返せ』『返せ』

 俺が何をしたってんだよ。たった一人、あの世に送っただけだろ。

 てかあの世ってなんなんだ。ここはそもそもどこなんだ。この世、と同じとは思えない。じゃああの世? ならあいつはどこに行ったわけ? ここがあの世だったら俺は死んでいることにならないか?

 息はすぐに切れる。顎が上がりそうになる。「先生」の言っていたことが本当なら、悠長にしている時間はない。気持ちは先走るのに、身体が思うように動かない。

 その間も視線がじっとりとまとわりつく。そういえば、目的地のホテルも、窓から大勢が見下ろしてるなんて話があったような……。

 見上げると、案の定、大量の顔が窓枠にびっしりと張り付いていた。遊園地の照明にほの白く照らされて、ぼうっと浮かんだ顔が、鈴なりになっている。

 ――俺、今からあそこに行くんだよな……。

 気力を削がれる、とはこのことだ。

「先生」は「ホテル」と言い残しただけで、ホテルのどこかまでは教えてくれなかった。ということは、りつ子への接触を試みるためには、あの廃墟の中をうろつかなければならない。

 嫌だなあ……。

 早くたどり着きたいけれど、一生たどり着いてほしくない気もする。

 正面までくると、建物は思っていたよりも大きかった。外壁も内装も焼けて、入り口からでも凄惨さが伺えた。ぼこぼこと爛れて、ところどころがべろんと剥がれている。剥がれた部分はコンクリートの色がむき出しになっていた。なんだか焼けた人の皮膚を思い起こさせる。

 ここに本当に糸口があるのだろうか。尻込みしそうになる自分を、どうにか奮い立たせる。

 外からも煤のにおいはしていたが、中に入るといっそう焦げ臭かった。一階はフロントになっているらしい。カウンターと、焼き切れた電話線。ラウンジらしきものもあるが、ソファは原型を留めないほど焼け崩れてしまっている。高い天井まで真っ黒だった。やはり、建物全体が火傷を負っているみたいだ。なんだか痛々しい光景だった。

 悲鳴の残滓のようなものが、まだそこかしこに残っている。

 その中に、不自然な響き方をする声があった。朧気に残っている思念とは違う。遠いけれどはっきりと生気を持った声。物理的に反響する声だ。誰かと喋り合うような――

 まさか。

 頼りない、うっすらとした希望に、思わず縋りそうになる。

 一階をぐるりと見渡す。フロントの横には、園内のスナックコーナーよりも立派なレストランがある。テーブルと椅子の残骸と、焼け残った布切れが落ちている。テーブルクロスだろうか。窓はことごとくガラスが割れ、破片が散乱している。上質な布のカーテンもずたずたに焼け焦げている。

 頭上で憚るような足音がする。

 エントランスを抜けた先に、エレベーター。使う気にはなれない。その横にある鉄扉を開けると、従業員用らしき階段があった。

 金属の階段は足音が不安なほど響く。黒い人型がうずくまったまま床に落ちていた。ゲームだったら今にも動き出しそうな具合だ。呼吸を止めながら横を通った。

 二階より上のフロアは客室のようだ。皮膚病にかかった肌みたいにボロボロなじゅうたんを踏みしめる。人の気配は二階ではなさそうだ。客室を覗いても、それらしき人影はない。――客か、従業員だったものはうようよいたが。

 中途半端に焼け残ったベッド。黒いゴミクズになって落ちている机。ただの箱になったテレビ。溶けかかったガラスの灰皿が、出火の激しさを思わせる。

 二階を探し回っている間も、足音めいた音が聞こえた。「……でさぁ」「……よね」聞こえる声も輪郭がはっきりしてくる。

 俺はまた階段を上る。やけに長く感じるのは、体力を消耗しているからか。途中で息が切れそうになる。しばらく手すりを伝って上っていたが、ふと見た掌が真っ黒になっていた。ズボンで煤を拭って、重たい足を無理やり引き上げる。

 慎重に人の気配を辿る。息を殺して、足音を立てないように歩を進める。途中、廊下で何かと目が合って、危うく声が出そうになった。虚ろな目がじっと俺を見ている。傍らに金属のワゴン。服装からしても、従業員のようだ。

 ある部屋の近くに来た時、話し声は一番明瞭に聞こえた。

「あくつ、こんなとこいんのかなあ……」

「でも、他のところは一通り探したし」

「一人で帰っちゃったんじゃないのぉ?」

 いくばくか疲れてはいるが、間違いない。まひろとみっきーの声だった。

 隙間からそっと中を覗く。みっきーの黒い頭と、頬に煤のついたまひろが見える。……ついでにその奥に何人か、小さいのと大きいのもいる。

 よかった。安堵で肩の力が抜け、自分の身体が思っていたより強張っていたことに気づく。

 彼らと俺とはやっぱり、同じ場所でも違う空間にいたのだろう。「先生」がいなくなったから、そのねじれが解消されたのだろうか?

「ここ、やなんだよなー……常になんか見られてる感じするしさぁ」

 ぎょっとして、すぐに顔を引っ込める。……まだバレてはいない、か?

 不意にいたずら心が芽生えた。俺は扉にそろそろと近づく。二人はまだ部屋の中で何やら話し込んでいる。こちらに注意は向いていない。

「……わっ」

「うわあぁぁぁっ!?」

 想像以上に驚かれて、こっちまで心臓に悪かった。

 壁際まで退いたまひろはぜえぜえと肩で息をしている。

「阿久津くん……!」

 ばあっとみっきーの表情が明るくなる。そんな嬉しそうな顔をされるとちょっと照れ臭い。へへ、と笑いそうになった時。

 胸にずどんと衝撃が来た。まひろが突進してきたのだった。俺のやわな体幹では受けきれず、そのまま後ろに体制が崩れた。ごん、と壁に思い切り頭をぶつけた。

「いっってえ……」

「今までどこにいたんだよ! どんだけ探し回ったと思ってんのっ!」

 ものすごい剣幕だ。ただでさえ尾を引く頭痛に、甲高い声が追い打ちをかける。

「どこ探してもいないしみっきーめっちゃ心配してたんだからね! そのくせ変な登場しやがってさぁ! 謝れ、バカ!」

「ごめんて……」

 まひろは胸元をぎゅうと握ってくる。圧迫された肋骨が痛い。バカ、バカと連呼する強い声が、少しずつ弱くなっていく。

「死んじゃったのかと思ったじゃん……」

 涙のいっぱいに満たされた瞳が、ふるふると振れる。

 ……こんなに心配させていたと思わなかった。

 涙をぬぐうなり、ふん、とまひろはそっぽを向いてしまう。

「ごめん」

 言葉は罪悪感に押し出された。「あの後俺もすぐに戻ったんだよ、けどこっちもいくら探しても見つからなかったんだ」言い訳じみたことを並べても、「あっそ」と不機嫌そうに一蹴される。目を合わせてもくれない。

「……悪かったと思ってる。色々、ひどいこと言った。ごめん」

「スタバの新作」

 不貞腐れたまま、まひろは素っ気なく言う。

「……おごってくれたら、許す」

 じろりと俺の見る目の端が、まだ赤い。

「わかったよ。帰ったら寄ろう」

「忘れたら殺す」

「わかったって」

 宥めるように言った時、だった。

「ねえ、本当に阿久津くん?」

 唐突にみっきーがとんでもないことを切り出した。「えっ」まひろが身を引く。ぎょっとしたような目でこちらを伺っている。

 みっきーの表情には柔和さも温度もない。ただじっとこちらを見つめている。試すように。普段にこにこしている分、妙な凄みがある。

 なぜ疑うのだろう。一瞬困惑したけれど、「先生」の存在を思い出して、悔しいが納得してしまった。あれは親父の姿に――俺が重ねただけではあるが――化けた。何かが俺を騙っている可能性は、みっきーの立場に立てば、確かに排除できない。ただ、そんなことを言われても、俺は自分を証明する手立てなどない。

 けどみっきーなら、俺が「俺」であることくらい、わかっていそうなものだ。だからこそ、じっと見つめられるとだんだんと不安になってくる。

 自分が生きているのかどうかすらも、疑われたら確信を持てない。

「冗談だよ」

 言って、みっきーはにこりと笑った。形だけは柔和な笑み。けどどこか、雰囲気が違う。――目が笑っていないのだ、と俺は気づく。

「ごめんね。僕もちょっといじわるしたくなっただけ」

「ちょっとー、みっきーまでびっくりさせんなよぉ」

 まひろは大げさに安堵したが、俺は全く安心できなかった。

「……怒ってる?」

「うん」

 彼はあっさりと答える。身の毛がよだつとはこのことだ。

「いや、あの……俺だって好きで行方をくらましたわけじゃないんすよ……本当にあの後すぐ戻ったんだって……どうやっても合流できなくなってたんだよ、あん時は」

「へえ、そう」

 静かな声がかえって不穏だった。いっそ怒鳴られでもした方が気が楽だった。今日一番の恐怖を俺は感じていた。

「それで?」

「大変申し訳ございませんでした……」


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