第38話 光

 先生、と俺は静かに呼びかける。

 不思議と心の中が静かだった。絶えず波立っていたものが、すっと凪いでいる。

「悲しくて寂しくて、救われたかったのは、あんたの方なんじゃないの?」

 これは恐ろしい怪物ではない。人の心を完全になくした狂人でもない。

 哀しいくらいにちっぽけな、一人の人間だ。

 居場所がない子を見つけるのが得意だった。それもきっと、鏡なのだろう。自分と同じものに近づきたいと思う、人の心なのだろう。

「……あの子は、優しい子だったんだ」

 声に涙が滲んでいる。驚いたことに、着ぐるみの無機質な目から、透明な雫が浮かんだ。毛並みを薄黒く汚しながら、ぼたぼたと垂れていく。

「心配だった……だから声をかけたんだ。あんなことをしようなんて、思ってなかったんだ、本当は……」

 そう、と俺は頷く。

「硬貨を動かして見せた時も、すごく喜んでくれた……いつも塞いでいたのにね、ぱあっと花の咲くような笑顔で……僕は初めて、人から認められた気がしたんだ……」

 初めて、という言葉に、どこか病的な物悲しさがあった。

 同情はしない。

「本当にあの子を想うなら、自由にしてやってくれないか。このままでは永遠に誰も救われない。――先生、あんたも」

 最初の威勢のよさが嘘のように、もこもこの身体はしょんぼりと縮んでしまっている。

「この檻にいつまでも居たって、新しく子供を巻き込んだって、何も解決しない」

「無理だよ……僕だけが縛っていたわけじゃない。僕は囚人なんだ。あの子に縛られている……あの子だって僕を支配しているんだ……」

「そう思うのは、あんたが支配に甘んじているからさ。あんたが執着を捨てればいい」

 彼らは精神そのものだ、と母親は言った。身体を縛められないのなら、本当の意味では、彼らには制約などないはずだ。

 彼はなおも躊躇している。怯えているのだ、と思う。さんざん人を弄んで、言葉を並べて、威嚇していたけれど、この男の本質はきっとそれだ。人間に、あらゆるものに対する怯え。

 だからたぶん、彼は「子供」を選んだのだろう。彼より弱い存在ならば、害することはないと考えた。それでも、心の底から彼の怯えを癒せるものはなかった。少女への罪悪感と、いつ来るとも知れない報復への恐怖は、常に心の中にあった。彼を縛っているのはりつ子ではなく、その感情だ。

「僕を消すのかい……」

「消すんじゃない。導くだけだよ」

 俺はうっすらと目を閉じる。指を組みなおす。

 観覧車はもう、復路の半分を過ぎている。

「目を閉じて」

 自分の声が一瞬、母親のものと重なった気がした。

 深く呼吸をする。

 あれに瞼はあるのだろうか? ふと浮かんだ雑念を、頭を振って落とす。

「僕がいなくなったら、あの子はどうなる……?」

「安心しろよ。すぐにそっちに送ってやる」

「無理だ……あそこは直接こことは繋がってないんだ。ここにあるけど、ここにはない」

 まるで言葉遊びだ。

 退路が閉じかける。りつ子に直接干渉できないなら、俺にできることもなくなる。

 ――あと少しなのに。

 手ごたえは感じていた。彼の心は、最初は何重にも鎖で繋がれ、錠が降りていた。少しずつ錠は解かれ、鎖は落ちた。あとはかんぬきを外すだけ。

 そのはずなのに。

「けど……」と蚊の鳴くような声がした。

「この場を支配していたのは僕だったから、僕が消えれば、あるいは……どこかに道が開くのかもしれない」

 彼はぼそぼそと呟き、はっと我に返ったように、

「でも、きっと短い間だけだ。確証も、ない……」

「確率はゼロじゃないんだろ?」

 ほんの小さな希望でも、十分だった。

 彼の心は、あと一歩のところまで揺らいでいる。

 疲れが汗となって額に浮かぶ。気力と体力の消耗が激しかった。エネルギーの粒子が指先を伝って、石に流れて出ていくような感覚。

 俺は腹の底に力をこめる。

「……俺が、りつ子を解放する」

 ――こいつの執着はまぎれもなくあの子自身だ。

 彼がぴくりと、身じろぎをしたのがわかった。

「……彼女は今よりも幸せになるだろうか?」

「さあ。けど、過去に囚われ続けるよりはずっとマシだろ」

 時間は前にしか流れないのだから。

 眉間に力が入っているのがわかる。眉間、力入ってる。母親の声を思い出して、ふっと力を抜く。それを境に、身体の中心と手を残して、全身から力が抜けていく。感覚が溶けていく。重力がなくなって、宙に浮かんでいるみたいだ。どことなく不安感がある。

 自由、とはきっとこういう感じなのだろう。思っているほどきらびやかでも、楽しくも、美しくもない。残酷なほど不安定で、孤独で、地に足が着かない。それを一人で全部背負うしかない。

 そうか、と唐突に腑に落ちる。だから人は、支配して、支配されたがるのか。自分を結びつけるものを必死に作ろうとして。

「過去に囚われるのは……」

 大切なのはイメージだ、と母親は言った。門扉を開けるイメージ。重い木の扉が、ぎぎ、とゆっくり開いていく。真っ白な光が差す。それを繰り返し、頭の中で思い浮かべる。

「すごく、つらかった……」

 かん、と軽やかな音がして、瞼の裏が真っ白になった。

「光が見える?」

 うん、と頼りなげな声が頷く。

「そこに向かって進めばいい。もう道は見えてる」

 ありがとう、という声が、心なしか遠い。

 ――……ホテル

 かすかな声。

 ――……あそこが、渡部邸のあった場所だから……

 声はだんだん小さくなって、

 消えた。


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