第37話 愛

「いじめられていたりつ子と自分を重ねた? だから助けてあげたかった?」

「……ああ。だから?」

「その結果が性虐待か?」

「違う! 虐待なんかじゃない。彼女はちゃんと受け入れてくれていたよ……僕たちは真剣に愛し合っていたんだ……」

 うっとりと語りやがって。あれがそんな風に見えていたのか。ロリコンクソ野郎。罵りたくなる衝動を押しとどめる。

 あの夢もどきは思い出したくもない。自分が――自分の身体でないにせよ――犯されるというのは胸糞が悪かった。端的に言って、最悪だった。

 たぶん、みっきーは保健室で同じものを見たのだろう。みっきーの受信の感度は俺よりずっとよかった。何せユウ先輩が言うところの「サイコメトリ」だ。俺がここに来て初めて「あれ」に触れたのは、ここがりつ子により近い場所だったからだろうか。

 あれはおそらく、救難信号だ。今もここに囚われているりつ子の。

「いや、と彼女は言っていなかった? そこに拒絶はなかったと?」

「だって、本当に嫌なら、彼女は僕を殺せたはずだろう?」

 さも当然のように彼は語る。

 あくまであれは合意の上だったと言い張るわけか。

 膨らんでいく嫌悪感に蓋をする。

 心を平静にしろ。感情に引っ張られるな。じゃなきゃ俺まで道を見失う羽目になる。

「愛し合っていたのなら、妊娠が発覚したとき、なぜ彼女は一人でぶたれた?」

 彼は沈黙する。

「あの後あんたは彼女の家に行った? 両親に頭を下げた?」

 無言。

 わかりきっていた。あるのは子供じみた自己愛だけ。欲望にかられ、無垢でよすがのない子供を求めた。堂々と胸を張って言えることではないと、彼はどこかで自覚している。嫁入りまで操を守るというのは当時の厳格な道徳だった。それを破り、たった一人で身ごもったりつ子がどんな風に扱われるか、彼は熟知していただろう。けれど彼はりつ子を守ろうとはしなかった。りつ子の両親に告白し、頭を下げるという、最低限の責任すら果たそうとしなかった。その後ろ暗さが、「愛し合っていた」と語らせる。盲目にさせる。

 なぜ彼が、執拗に罪悪感を煽ろうとするのか。それもまた鏡だ。

「あんたの行動は愛じゃない。単なる支配だ」

「じゃあ訊くけれど……支配じゃない愛が存在するのかい?」

 呆気にとられ、俺は言葉を失う。

 子供をあしらうように、くす、と彼は笑う。

「誰が何と言おうと僕の愛は本物だよ。今だって……これは全部彼女のためなんだ」

 ――尻尾を出した。

 身体に緊張感が走る。俺はゆっくりと息をする。腹膜の動きを意識しながら。

 渇きを満たすように、彼はべらべらとしゃべり続ける。

「そう。ここは彼女のための楽園なんだ。あの子はひどく寂しがっている。僕はあの子の眷属なんだ。僕は彼女のために身を尽くして、捧げてきたんだ。今まで、ずっと。ずっと! あの子のために――」

「子供を攫った?」

 言葉を遮られたことに、彼はいささか不機嫌そうにする。

 誰かのため、あなたのため。そういう言葉は支配の常套句だ。自分のためでしかない欲望を、簡単に、きれいなベールで包んでしまう。

 観覧車は頂点に達したらしい。ぐらり、とゴンドラが傾いで、一瞬の静止の後、ゆっくりと下り始める。足元で蠢く、おびただしい数の気配。

 これらすべてが、りつ子に捧げられた贄なのか。

「そうだよ。これを愛と言わずしてなんて言う?」

 自己満足。自己愛。自己陶酔。なんとでも名前はつけられる。

 つりそうな指を、もう一度握りなおす。

 石の透明な温度が、手の中に馴染んでいく。

「遊園地に溢れそうなほど『おともだち』を増やして、それであの子は満たされた?」

「うるさい!」

 途端、言いようのない負の感情の塊を、顔が受けた。

 固く爆ぜる音がして、ガラスの全面に同時にヒビが入る。

 この反応が答えなのだろう。

 悲しみや孤独感から他者を求めても、ここでは『観客』というラベルの中で均一化される。彼らは一体化し、境界を失う。過度に均一化されたもの――同化したものを、他者とは呼ばない。

 ただでさえここは、居場所のない、寂しい子供たちの巣だ。感情は満たされるばかりか、共鳴し合ってどんどん増幅していく。

「これはりつ子のためじゃない、あんたのための気休めなんだろう、先生」

 答えない。

「贖罪のつもりだったんだろう。あの子の渇きを満たせば、免罪されると」

 違う、と我に返ったような、不安げな声がする。

「僕は本当に、彼女を想って……」

 声と震えと連動するように、足元や壁が小刻みに振動する。

 みし、とガラスのヒビが大きくなる。

「だから訊いたんだ。それでりつ子は満足したかと」

「僕は……僕だって……仕方なかったんだ……僕なりにけじめをつけようとした……最後には首まで括って……けれど彼女は僕を許さなかった……」

 僕、僕、僕。

 この男の中にあるのは、徹頭徹尾、自分の姿だけだ。

「許さなかった? 『愛し合っていた』んだろ?」

「無論、愛していたからだ! 愛と憎しみは裏表だから……仕方ないんだ……彼女はまだ子供だから、きっと、僕を試そうとして……」

 そのまま彼は、きまり悪そうに口ごもる。

 欲望のはけ口にするときは「大人」同士の成熟した愛にように語り、都合の悪い感情は「子供だから」と未熟さのせいにする。

 どこまでも独善的だ。醜悪を通り越して、哀しいほどに。

「――なあ、先生。本当は自分でも気づいてるんだろ。自分が今、どんな支離滅裂なことを言っているか。自分があの子にどんな深い傷を与えたのか」

 それに蓋をし続けた末路が、この惨状だ。

 男は拗ねた子供のように押し黙っている。

「あの子があんたに懐いていたのは本当かもしれない。けどその愛を憎に裏返したのは、まぎれもなくあんたの行動だよ。立場からも力からも抵抗できない子供を、『先生』の立場を使って踏みにじった」

「違う……」

「違わない」

 俺は正面から彼を見据える。

「愛だなんだと言っても、『事実』はそうだろ。どんな言葉で捻じ曲げても」

 愛は時に、支配や暴力の免罪符として使われる。だから縋りたくなるのだろう。愛というきれいな響きの言葉で、覆い隠したくなるのだろう。――だけどそれが免罪されることは、絶対にない。誰かの心身を傷つけた事実は、そんな言葉では消えない。

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