第41話 座敷牢

 闇を抜けた先は、小さな部屋だった。

 涼しさにホッとしたのもつかの間、悪臭が鼻腔に刺さった。口元を手で覆う。

 黴や埃の漫然とした嫌なにおいとは別に、刺激臭がある。饐えたにおいだ。蛋白質が腐ったような、強い悪臭。

 部屋はひどく殺風景だった。床は畳だが、壁は石の質感がむき出しになっている。小さな採光窓はあるものの、光が届ききっていない四隅が暗い。畳は血を撒かれたみたいにムラになって、どす黒く汚れていた。その中にひときわ大きな染みがある。時折白い斑があるのを見るに、黴なのかもしれない。入り口のある一面には太い木の格子が渡され、木材にもまだらに黴が生えている。

 家具はない。代わりに、壁から垂れ下がる黒い鎖と、古めかしい、木製の便器のようなものが一つ。ひどいにおいはこれのせいだろうか?

 趣味が悪い。

 どうしてこんなものを建てたのだろう。

「ひどい……」

 みっきーが小さく独りごちた。険しい顔をしていた。この光景を憂いているようにも見えたし、その向こうに何かを見ているようにも見えた。

「すごく怖くて……悲しくて、寂しい感じ……そういうのが焼き付いてる」

「こんな部屋じゃなあ」

 あの悪夢の中で、りつ子は父親らしき男にどこかへと引きずられていた。あそこは嫌、と何度も懇願していた。それがきっとこの場所なのだろう。見るに、おそらくここは折檻部屋として置かれていた。悪さをしたか、叱られたか、りつ子は少なくとも一度はここに来たことがあった。

「……あの子は、ここで、初めて人を殺したんだ」

 言葉に反して、みっきーの口調はどこか淡々としていた。

 急に出てきた物騒な言葉に、俺とまひろは同時にみっきーのほうを向く。

「殺したって、誰を」

「お腹にいた、子供……」

 そのまま、少し咳き込んでしまう。心当たりは余るほどあった。何せここはハウスダストには事欠かない。顔色もひどかった。みっきーは半ば意地になったように、途切れ途切れに話をした。その間にも一度、ふらりとたたらを踏む。みっきーは石壁に力なくもたれかかる。

 あの子はお腹の中の子供をくびり殺した。そうすることでしか許されないのだと思っていたから。眉間に力を込め、曲がれ、と念じた。ぐしゃりと体の中で臓物がねじれた。腹の奥の胎児を殺し、身体から引きずり出した。気の遠くなりそうなほど、ものすごい痛みがした。

 麻酔もない強引な堕胎。それはきっと、内臓を引きずり出すのと変わらない。

「それであの子の中の何かが切れた」

 それは理性だったのか。それとも、人としての情だったのか。

「だから屋敷中の人を殺した?」

 古めかしい屋敷の中で、何人もの首や手足が飛ぶ。いつかみっきーが見た幻視を、俺は思い出していた。

 みっきーは小さくかぶりを振る。

「そんな力は残ってなかった。あの子の状態はひどい怪我を負ったのと同じだから……血が止まらなくて、遠くなりそうな意識の中で、あの子は、どうにか血の塊を掬って、捨てた。こぶし大ぐらいの……」

 それはつまり、こぶし大にまで育った胎児か。

 捨てた、とみっきーは言ったが、ならばどこに捨てたのか。心当たりは一か所しかない。

 視線を動かした刹那、おあぁぁぁあ、と獣のような声がした。猫の声に似ているが、少し違う。もう一度同じ声がする。赤ん坊の泣き声だ、と俺は気づく。どこかやわらかく、捉えどころがない。育った子供ならもっと刺さるような鋭い声を出す。これは新生児の泣き声だ。

 出どころは言うまでもない。木製の便器の中に、ぽっかりと開いた黒い闇。

 悪臭の正体はこれだ、と急に腑に落ちた。単に排泄物だけじゃない。

 胎児が腐ったにおいだ。

 おあぁぁぁあ、とまた声が聞こえる。

 ――バカな。

 まだ未熟なうちに殺された胎児は、産声を上げることもなく死んでいったはずだった。泣くことなんてできるはずがない。

 考え込む俺の傍らで、まひろが一点を見て固まっていた。

「どうした?」

「手が……」

 言葉少なに指をさした先。五本の指と掌が、格子戸の向こうに見えた。

 それは床の上に落ちている。最初からそこにあったのだろうか。しばらく様子を見たが、動く様子はない。慎重に近づいてみる。格子戸の形に象られた薄明かりが、血色のない手を青白く照らす。

 ごつごつとした骨ばった輪郭と、爪の形から、男のものであることはわかる。床を掴むようにひどく力んでいる。影になっているせいで、部屋からは腕の中ほどから先しか見えない。

 手から少し離れたところに、箱のような古めかしいカメラが落ちていた。

 嫌な予感がした。

 低い格子戸をくぐり、部屋から出る。懐中電灯で照らしてみると、手の先には、肘の先にあるはずのものがない。抉れて裂けた肉。むき出しになった骨。

 さらに光を傾ける。

 点々と続く血糊の先に、黒っぽい水たまり。その中に何かが倒れている。

 首を失った胴は、足があり得ない方向にねじ曲がっている。

 少し離れた場所に、宙を睨んだまま転がった頭がある。

「うわ……」

 これが例のバラバラ死体か。口の中に酸っぱいものがこみ上げる。

 腐食したような感じはない。比較的新しいのかもしれないが、それでも生気を無くしていることは一目でわかる。

 びた、と黒い液体が男の頬の上に落ちた。

 血糊があるのは何も床だけではなかった。よく目を凝らすと、壁も天井も黒っぽい飛沫で汚されていた。首から血が噴き出したのか。……首が切れた後しばらくは意識がある、という言葉を、嫌なタイミングで思い出す。

 もし本当なら、彼は自分の血が滴るのを死の直前に見たのか。

 背後ではまだ不気味な泣き声がしていた。呆然としている間に、二人が部屋からそろそろと出てきた。あれを一瞥するなり、さすがに二人とも青ざめていた。まひろが短い悲鳴を上げる。

「あれ、死体?……あそこ、通るの?」

 案の定まひろは言った。気持ちは痛いほどわかる。嫌が過ぎる。

「……まあ、行くしかないわな。ケリをつけるなら」

 あれの横を通らなければ階上には行けない。りつ子はここにはいない。上の階に行くしかないのは明白だった。気を奮い立たせて一歩踏み出すが、身体は自然とブレーキをかける。近づけば近づくほど、無造作に転がった首は威圧感を増す。

 水の中でも歩いているみたいに、足が重かった。口から胃が出てきそうだった。あれのすぐ横を通った時、ふと目をやった瞬間、目玉がぎろりとこちらを向いた。青白い眼球の上を小さなウジが這うのが見えた。

 びた、と粘っこい水音がした。靴の裏で液体が糸を引く。靴底は床に吸い付くようで、乾いた場所を踏んでいるはずなのに、しばらくはぺたぺたと濡れた音がした。


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