第24話 二つの鎖
別世界みたいに穏やかだったみっきーの家から戻ると、家の中は重苦しい空気で澱んでいた。玄関にいてもテレビの音が聞こえる。コップをテーブルに置く音が乱暴で、今日も機嫌が悪いのだろうな、と思う。親父はまた昼間から飲んでいる。
俺は気配を殺しながら部屋に続く階段を上る。ベッドに横になると、疲労がどっとあふれ出てきた。楽しい時間と寝不足のツケだった。勉強をしなければならない、と理性では思っていても、意識はどんどん沈み込んでいく。
目を覚ますころには辺りは薄暗くなっていた。意識の外側でぼんやりと親父か何かの声を聞いた気がするが、よく覚えていない。夢だったのかもしれない。まだ曖昧な意識の中で、手探りで眼鏡を拾う。今日の夜もバイトで埋めていた。適当に身支度を済ませ、物音を立てないように家から抜け出た。奈帆さんは今日も夕飯を作ってるんだろうなと思いながら、道中のコンビニでパンを買って、歩きながら食べた。十時ぎりぎりまでバイトをして、小腹が減ったのでまたパンを食いながら帰る。わざと遠回りをしたけれど、家の電気はついている。
玄関を開ける。テレビの音はしなかった。代わりに大きないびきが聞こえた。半ばうんざりしながら部屋に戻ろうとすると、奈帆さんが出てきた。
「ごはんは?」
「食ってきたから要らない」
そのまま立ち去ろうとする俺を、なおも奈帆さんが引き留める。
「少し、話しましょう。今ならお父さんも寝ているから」
「何を?」
話すことなんてない。少なくとも俺には。
「忙しいんだけど」
「すぐ終わるから」
奈帆さんは妙に頑なだった。頭上からは親父のいびきがまだ聞こえてきていた。少しならいいけど、と俺は露骨にだるそうな顔を作る。
ダイニングテーブルには一人分の料理がラップにかかったままになっていた。今ではほとんど何も言われないが、去年、高校受験のために塾に通い始めたばかりの頃、「飯は家族そろって食うのが普通だ」と親父はご乱心だった。母親が出て行ってもなお、逆に意固地になったように、親父は「普通の家族」に拘泥していた。
「お父さんとちゃんと話してあげて」と奈帆さんは言った。
「なんで?」
「なんでって……家族でしょう?」
この世の何よりもグロテスクな言葉だと思った。
「あの人に大人げない部分があるのはわかる。尚くんがお父さんを嫌いなのも、知ってる。でも、あの人だってあの人なりに尚くんを愛しているんだよ。それはわかってあげて」
嫌い、なんて軽薄な言葉でまとめないでほしかった。何を言っても「反抗期」だと処理されるのに似ていた。俺の感情は簡単でわかりやすい言葉にラベリングされる。それがどれだけ無神経なことか、この人にはきっとわからないのだろう。
「愛してる?」俺は思わず笑ってしまった。「何それ、あいつが言ったの?」
「あの人がここまであなたを育ててきた。苦しい中でも一生懸命養ってきた。それが何よりの証拠でしょう」
養っている。育てている。それだけで「愛している」ことになる。中学の修学旅行の時、小遣いがほしいと言ったら「金の無心だけは一人前だな」と札を投げられたのも、金食い虫だと聞えよがしに笑っていたことも、酔って真っ赤になった手で俺を殴ったことも、全部そこに還元されて、放免される。親というのは随分いいご身分らしい。
「あいつが愛してるのは『家族ごっこ』だけだろ」
単なる自己愛の延長だ。俺はそこに役者としてあてがわれているだけ。望み通りの演技をしなければ生意気だと激される。そこにあるのは「息子」としてのガワだけだ。俺である必要は何もない。
奈帆さんは言葉を探すようにしながら、黙っていた。
この人もまた役者の一人なのだということは、わかっている。俺が奈帆さんに強く当たってしまうのは、きっと、親父に強く当たれないことの裏返しで、それは間違いなく俺の稚拙さだった。俺は幼稚で、けれどこうする以外に何もできない、バカで無力な子供だった。
「……たった二年、我慢すればいいだけだよ」
「長いよ。二年は」
もっとも、高校を卒業したところで、繋がりを絶てる保証はどこにもないのだけれど。
「あの人は、悲しいけど、もう変われないと思う。だったら、尚くんが大人にならなきゃ。――尚くんは頭がいいんだから、うまく機嫌をとることくらいできるでしょう?」
「こんな時だけ都合よく持ち上げてくんなよ」
悲しそうな奈帆さんを置き去りにしたまま、俺は椅子を引いた。ドアを開ける所作が乱暴になりかけて、どうにか理性で抑えた。持て余した怒りが胸の中でぐちゃぐちゃに暴れた。
それでもあいつと同じにだけは死んでもなりたくなかった。
いいことはそう長くは続かない。けれど、悪いことはどこまでも連鎖する。それもきっとこの世の不文律なのだろう。
登校日、俺は職員室に呼び出された。呼ばれた先には担任と、副担任の小山がいた。
「お前、アルバイトしてるらしいな」と開口一番に小山が言った。副担任の癖して小山は担任より居直っていて、担任はどこかいたたまれなそうにこちらを見ていた。
「お前、うちがアルバイト禁止だってわかってるよな。学生の本分は勉強だろ。学業に集中しろ」
学業以外するなって言うなら部活はどうなるんだよ。気持ちはどんどん白けていく。
小山は感情をむき出しにこちらを睨む。広い額の上の方まで真っ赤になっていた。
「今のところ学業に障りはないし、それなりの結果は出してる方だと思いますけど」
半ば当てつけに、俺はできる限り感情を殺して言った。
「話をそらすな」
小山が机を叩いて、職員室中の視線が俺に向く。
都合の悪い答えは「話をそらす」か。誰かさんによく似ている。
幸か不幸か、こういう奴を相手にするのは慣れている。一番効果的なのは、自分を乖離させることだ。徹底的に状況を俯瞰する。気休めでしかないが、他人事だと思えば多少は楽になる。それが「ナメている」と不興を買うこともあるが、追従していると思われるよりずっといい。
バイトは今すぐやめろ、と小山は言った。校則に例外はないとか、ちょっと成績がいいだけで認めてもらえると思うなとか、周りの生徒が真似をしたらどうするとか、なんだかんだとまくしたててはいたが、結局は学校の体裁や外聞を気にしているのが透けていた。名門私立には逆立ちしても勝てない自称進学校は、真面目さ堅実さを美徳として持ち上げる。それはつまり、生徒を校則で締め上げて従順にしつけることだった。バイトへの制限はもちろん、制服や靴下の丈や髪の色から鞄の色まで厳密に決めて、わが校は統率の取れた質のいい集団ですとのたまう。彼らにとって「厳しい校則」は半ばアイデンティティだ。女子なんかは下着の色まで決められているから気の毒だと思う。
「無理です」
きっぱりと俺が言うと、小山はいかがわしいことでも言われたように目を見開き、口をわなわなと震わせた。
「ふざけるな!」
「だったら先生がお金を工面してくれるんですか? バイト辞めたら俺、受験も進学もできませんけど」
「親御さんに頼めないの?」
担任が見かねたように口を挟む。「そうだ。頭ぐらい下げたらどうだ」と、小山も生き生きと便乗してくる。
「高校生ならバイトくらいしろってのが親の教育方針です。うち、貧乏なんで」
今時そんな親がいるか、と小山は鼻で笑う。
いるんだけど、と思いながら、俺は黙っている。
もっと深刻な例があると知っていてもなお「貧乏」を持ち出した俺は卑怯だ。けれど、知らないものをなかったことにしようとするこいつよりはマシだと思った。子供の貧困ってあんなに話題になってたのに、知らないんですか? 先生のくせに。そんな言葉が喉まで出かかった。
「それでも、ちゃんとお願いしてみたらいいじゃない。子供がかわいくない親なんかいないんだから。一度お話してみたら?」
まっとうな人間ほど親に性善説を当てはめたがる。
「話が通じるような親ならはじめからバイトなんてしてません」
「親をそんな風に言うのはよくないよ」
……これだから嫌なんだ、学校は。
おためごかしな言葉。恩の押し売り。うすら寒いきれいごと。彼らの描く健全な世界は、どこもかしこもそんな欺瞞で満たされている。
「校則も守れないような奴が社会で何の役に立つんだ」
大きな独り言だと思って俺は無視する。
「そんなにバイトがしたいなら、うちじゃなくバイトができるような学校にでも行ったらどうだ」
バイトができるような学校、に明らかに侮蔑の色が乗っていた。
厳格さと偏差値主義に傾倒するあまり、この学校の教師の少なくない数が、そこから外れた場所を露骨に侮る向きがある。
「学校やめろってことですか?」
「そんなことは言ってないだろ!」
小山先生、と担任が小山を取り押さえる。「阿久津くんも、冷静になって」となぜかこちらまでたしなめられる。最初から冷静なつもりなんだけど。
そもそも俺に選択肢なんかなかった。定期代がもったいないから自転車で通える範囲にしろと言ったのは親父だった。その範囲で、塾的にも実績になり、無償で通い続ける条件にかなう公立はここしかなかった。
それでも大人は、自分が選んだ学校だろと言う。だから無条件に服従をしろ、というニュアンスが、背後には暗に含まれている。
結局はこれも鎖だ。大人になりきれていないから、どこまでも飼われて、繋がれる。
「内申に傷がつきたくなかったら、とにかく辞めろ。いいな」
小山は有無を言わさず話を終わらせ、どかどかと職員室を出ていった。担任は困ったように眉をよせ、どこか共犯者めいた様子で、俺に苦笑してみせた。
「……どれだけ大変でも、ルールはルールだから」
小さな子供に言い聞かせるような口調だった。
「このままだと推薦も厳しくなるよ」
「一般で受ける予定なんで別にいいです」
「……強情だねえ」
今は奨学金とかもたくさんあるから、と担任はその手の書類を俺に山ほど持たせた。とにかく一度話をしてみて。きっとわかってくれるから。担任の言葉はどこまでも上滑りしていた。ことを荒立てたくないのだろう。同情するような眼差しが癪だった。何か察していそうなものだけれど、担任はそれ以上何も言わなかった。
親父は奨学金の書類を一目見ただけで破った。やたらカラフルなパンフレットも一緒に引き裂かれ、場違いに明るい色が床にひらひらと落ちた。こんなのは借金と同じだ。他人の金で学校に通おうなんて甘えてる。俺に恥をかかせるな。うちが貧乏だと喧伝するような情けない真似をするな。激昂した親父はそのまま紙の束を俺に投げつけた。俺は淡々と散らかった紙片を拾って、捨てた。
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