第25話 獣
低空飛行を続けていた親父の機嫌は、オープンキャンパスの日に谷底まで下落した。
電話がかかってきたのには気づいていた。奈帆さんは二階で洗濯物を干している。応対したのは親父だった。余所行きの柔和な声が不気味だった。
「そうは言ってもねえ。好きなことをするなら自分でどうにかするってのが筋ってもんでしょう。……ええ、それはわかってますけどね、でも義務教育じゃないんですからねえ」
聞こえていないふりをしながら、俺は荷物の中身を改めていた。財布とスマホとパスケース。あとは筆記用具。最低限これさえあればなんとかなるだろう。頭の中で唱える声をわざと大きくしていた。それでも親父の声はたびたび耳に入ってきていた。
「おたくはちょっと過保護すぎませんかねえ。もう高校生なんだし、何もできないガキってわけじゃないでしょう。お金も自分で稼げるんですから。親がそこまでしてやる義理がありますかねえ……ははあ、高校生らしく? 自分の頃はバイトでもなんでもしながら親を手伝うのが普通でしたけどねえ……」
言い方は穏やかだったが、面白くなさそうなのが声に滲んでいる。電話はまだ続いている。今のうちに家を出てしまおうと、俺は足早に階段を下る。
靴紐を結んでいると、受話器の置かれる音がした。俺は思わず立ち上がる。
長い無音。のち、
ああああああぁぁ! という獣じみた咆哮が、鼓膜を貫いた。
床を踏み鳴らす音。開け放たれたドアが壁にぶつかって跳ね返る。
親父の怒気が目で見えるようだった。血管が浮き出るほどこぶしが強く握られていた。
瞳孔の開ききった目で、親父はしばらく俺を睨んでいた。目の前に異様な光景があるのに、俺の気分は不思議なほど凪いでいた。
さすがの俺も我慢の限界だ、と親父は静かに言った。
さすがの俺、とはなかなか気の利いたギャグだなと、ぼんやり思っているうちに、親父はずかずかと近づいてくる。
「おめえ何バカなことしてんだよ。おかげで説教されちったよ。どうしてくれんだ、てめえ」
太い腕が俺の襟をつかむ。こぶしが眼前に飛び込んでくる。
反射的に目を瞑ると同時に、強い衝撃と、眼鏡の落ちる音がした。
「恥かかせやがって。バレねえようにしろって言ったよなあ? それともなんだ? 先生に泣きついたのか? 情けねえ」
首元を握られたまま、背中をしたたかドアにぶつけた。
喉に手がかかる。手の温度が熱い。気道に指がめりこんでいく。鼻息が顔に当たる。俺の手は親父をはがそうとするが、親父の手は離れない。
おぼろげな視界の中でも、親父のまがまがしさははっきりと目に映る。
目の前にいるのは人間性を欠落させた動物だ。
「ふざけんじゃねえぞ」
振り落とされる。俺は無様に床に崩れる。咄嗟についた肘が削れる。
必死に息をする腹に、つま先が入った。
痛みはどこか他人事なほど遠い。
「どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって」
顔を庇った腕にも、腹にも、親父の足が飛んできた。
腕の隙間で奈帆さんの姿が見えた。奈帆さんは恐ろしげにこちらを眺めているだけだった。勝手に裏切られた気になって、煮えつくような憎しみと悲しみに襲われた。
助けて。
なんて、虫がよすぎるのだろう。俺はあの人の忠告を無視したのだから。
「出来損ないのグズがよお、てめえのためにいくらドブに捨てたと思ってんだ、一言ぐらい謝ってみろ」
親父の手が俺の髪を掴んで、引き揚げた。
頭皮がぎりぎりと剥がれそうに痛む。
ごめんなさい。小さい頃ならそう言って謝っていた。そう答えれば親父は満足したから。これ以上殴られずに済んだから。
今は殺されたって謝りたくなどなかった。
「離せよ」
俺はできるだけ淡々と言った。喉にはまだ塞がっているような感覚があった。咳き込みそうになる。
「待ち合わせに遅れる」
興がそがれたような顔をして、親父が手を離した。振りほどく所作の乱暴さが最後の八つ当たりだった。勝手にしろ。お前みたいな奴、どうせ社会でやっていけるわけねえんだからな。どこででも野垂れ死ね。そんな言葉とともに、親父の足音が遠ざかっていった。
俺は眼鏡を拾いあげ、ゆっくりと身体を起こした。鈍い痛みが今になってあちこちから襲ってきていた。眼鏡をかけ、皺になった襟元を正し、リュックを背負いなおす。
「尚くん、大丈――」
俺は玄関を出た。
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