第20話 再会

 実際に合うのは何年振りだろうか。離婚したのは俺が小三の頃だから、ひょっとしたら七年近く経っているのか。年月が経っているだけに、記憶の中の姿よりはいくばくか年を重ねて見えたが、それでも印象は全く変わらない。怜悧な、どこか冷たいほど理性的な瞳と、痩せぎすの薄い肩と。髪をおろしただけの髪型もあの頃と同じだ。

 ただ、少しだけ、あの頃の尖った雰囲気は消えた気がする。情にほだされない母親と、情による結びつきを何より重んじるあの商店街は、致命的なほどに相性が悪かった。あの頃の母親には敵が多かった。表には出さないものの、表情は常にどこか張りつめていたし、周囲から説教に近い説得をされるほど、母親は頑なに無言の抵抗を貫いた。

 丸くなった、とでも言うのだろうか。今の母親には、あの頃のような棘がない。

 左手の指輪に思わず目が行ってしまう。

「伊東には席を外しておいてもらうわ。あなたとは単にクライアントという体で話しましょう。……その方があなたも気安いでしょう」

 淡々と話してはいるが、母親なりに気を遣っているのだろう。

「えっと……専門家、なの?」

 母親をなんて呼んでいいのかがわからなくて、俺は主語を使わずに尋ねる。あの頃はなんと呼んでいただろうか。お母さん? 母さん? どれも俺には距離が近すぎて、どこか気恥ずかしかった。

「伊東の中では、そういうことになっているみたいね。確かに、彼が手に負えないほどの事柄については、私が何度か対処をしたり、別の人を紹介したりしたことがある。……とだけ言っておく」

 そういう言い方をされると、確かに医者か何かのようだ。

「皮肉なものよね。家業を軽蔑して地元を出たのに。本職でないとはいえ、結局同じことをしている」

 母親は憂いげに遠くを見ていたが、すぐにまた俺に向き直った。

「さて、対処の話だけれど――伊東の話では、大元となるそれは随分遠くにいるらしいわね。確かに存在感があるのに、こちらのリーチにない感じだ、と彼は言っていた。本当ならお友達を直接お目にかかりたいところだけど、あいにく私には見る方の才はない。あなたもお友達を連れてくるのは気が進まなそうね」

 当たりだ。俺は曖昧に返事をする。個人的な家族の事情に巻き込むようで、みっきーをここに引っ張り出すのはどうにも気後れする。

「話を聞くに、それが一番近かったのは『学校』でのことかしら。周りに人がいない、出ることもできない、閉ざされた空間……あまり聞くことはない話だけど、もしかしたらそれのつくった境域の内側なのかもしれない。あなたが取れる方策は二つ」

 言って、母親はピースサインの形を作る。あまりにも似合っていない。

「一つ。お友達を伊東と私の前に連れてきて、何らかの対処を試みる」

「……もう一つは?」

「あなた自身が対処する」

 思いもよらない変化球だった。

「俺が?」

 呆けた顔をしている自覚はある。

「あなたが連れてくるのが間に合えばいいけどね。万が一もう一度領域に取り込まれれば、私たちに対処は不可能になる。そうなればあなた自身でどうにかするしかない」

 確かに、と思うところはある。あの時は何の気まぐれか戻ることができたけれど、次があったとして、同じように戻れる確証はない。一度あんな風になったら外部からの交渉は見込めない。

「思うに、領域の中はそれの内部と結合している。精神的に無防備、とでもいうのかしら。そういう存在の本質は精神そのものだから。接近さえ叶えば、むしろ確実かもしれないわね」

「対処……って言われても、どうすればいいわけ」

 あいにく俺はお経も祝詞も知らない。祓う、と言ったら、呪文を唱えてどうこうみたいな、そういう貧困なイメージしかない。

 俺がそう訴えると、母親は少し苦笑した。

「あなたがイメージしているのは除霊の方かしら。あれ相手では素人が生半可に行えることじゃないわね。プロならともかく、素人の形式的な儀式で祓える限度を超えている」

 いまいちピンとこない俺に、母親は順序立てて説明する。

 霊的なモノへの対処には除霊と浄霊の二つの手法がある。前者は強引に霊を吹き飛ばすようなものだそうで、儀式的ないわゆる「お祓い」や、霊能者たちがそれぞれに行う術のようなものを指す。こちらには強い相手ほど強い反発を伴う。自分という存在を消そうとするものに対する抵抗だ。反発ごと押さえつける実力があればまだしも、そうでなければ下手に手出しをすると事態は深刻化する。こちらは付け焼刃の素人には難しいだろう、とのこと。

 一方浄霊の方はというと、こちらは霊に道を示し、自ら天上に導く、という類のものらしい。死を受け入れさせたり、この世への強い執着を手放させる。そうなれば彼らは自然と浄化する。……そっちの方がよっぽど難しそうだけどな、と俺は思う。「そうね、難しいわ」と母親は素っ気ない。

「相手が理性を完全に失ってはいなくて、適切な対話ができれば、可能ではある。大元が人間でさえあればね。ただ、彼らとの対話にはそれなりの素質が要るのは確か。前提として意思疎通できる必要がある。あとはコミュニケーション能力かしら」

 それを言われると俺にはますます自信がなくなる。

「要するに説得ってこと?」

「説得、というと語弊があるわね。説得を使う人もいるけれど、それも反発のリスクは伴う。頭ごなしに説得されるとますます意固地になる……そういうのと同じ」

 母親が言うと説得力がある。

「イメージとしては、彼らは道を見失っているの。行くべき場所があるのに、どの方向に進めばいいのかわからずに戸惑っている。時には自分の境界や居場所すら曖昧になっている。まず必要なのは、彼ら自身が何者なのかをはっきりと知覚させること」

 彼らは時に強い錯乱状態にあったり、自他の境界線が曖昧になっていることがある。まず必要なのは混乱を解き、平静を取り戻させること。彼ら自身の輪郭を取り戻させること。道に迷ったときにまず必要なのが、一度冷静になり、現在地を特定することなのと同じように。

「それから、出口を示すこと。いわば彼らは捕らわれた状態にいる。現状を脱したくても出口が見つからない。出口が閉ざされたままでは光が差さない。それを開く。私はそれを、門を開く、と言っている」

 必要なのは想像力、と母親は言った。不思議な形に指を組み、胸の前に当てる。

「門を開くには心を開かせなければならない。誰でも話していると隙ができる。その隙の中にはその人の本質が見え隠れするの。本質を象りながら、一つ一つ錠を開けていく。その過程で、絶えず、門が開く様子を頭でイメージする。……大事なのは呼吸ね。深く息を吸って、深く吐きながら、心を空にする。瞑想に近いかしら。少し練習してみなさい」

 俺は見よう見まねで手を組んだ。

「目を閉じて」

 瞼を閉じる。暗闇が視界を覆う。

「深く呼吸をして。まず呼吸だけを意識する。鼻から吸って、口から吐く。音は出ないように、静かに。まっさらな状態になったら、門を開くイメージだけを浮かばせる。門扉が少しずつ開いて、光が差してくる……そんな様子を」

 心を空に……と言われても、これがなかなか難しい。些細な音や思考が邪魔をしてくる。衣擦れの音すら煩わしい。頭の中が静かになったと思っても、気を抜くと、俺は何をバカ真面目にやっているんだ、と我に返りそうになる。

「眉間、力入ってる。身体から力を抜いて」

 そう言われるほど身体がこわばる気がしてくる。まだまだね、と母親が苦笑した。目を開けると、光が驚くほどまぶしかった。

 俺はきっと苦い顔をしていたのだろう。「最初はそんなものよ」と母親はフォローにもつかないことを言う。

「私の血が流れているあなたなら、素質の部分はそんなに心配はない。大事なのは心を開かせることね。そのためにはタイミングをよく見計らうこと。焦ってはうまくいくものもうまくいかない。あまり出しゃばりすぎては向こうが引いてしまうから、相手の出方を見ながら慎重にことを進めないといけない」

「タイミングって?」

「その時になれば自ずとわかる」

 そんなことを言われてもな。俺は思いきりしかめっ面をする。

「そうとしか言えないの。ごめんね」と母親はあくまで淡々と言う。

「それから、もう一つ大切なこと。大前提として、相手についてよく知る必要がある」

 そして結局、話はもとの場所へと戻ってくる。

 俺たちに降りかかっているものは何か。大元になっている存在――渡部りつ子は、何者なのか。


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