第15話 首輪

 みっきーは突然力が抜けたように、すとんとその場に座り込む。ぶわりと花が宙に舞う。顔の上に花びらが落ちるが、身じろぎ一つしない。

「あ、ああ……」

 呼吸と一緒に声が漏れている。目は見開いたまま、一点を見ている。……いや、見ていない。焦点が合っていない。目は開いているけれど、目の前のものは見えていない。

 保健室の時と同じだ。

 ただならない様子だった。その上、肩をつかんでも、背中を叩いても、反応がない。

 途端、呼吸が喘鳴を帯びたものに変わった。ひゅう、と細く空気の抜けるような音と、摩擦を帯びた呼吸音。少しずつ、身体が丸まっていく。苦しそうで見るに堪えない。

「まずい」とまひろが声をあげた。「喘息の時の音だよ、これ」

 間を置かずみっきーは激しく咳込み始めた。喉が切れそうなほど、強く。息がうまく吸えていない。ヒステリックな呼吸音はどんどんひどくなる。溺れているみたいに。ただの喘息には見えなかった。――過呼吸?

「あくつ、なんか袋!」

 呆然としていた俺は、その声ではじかれたように立ち上がる。あたりを見渡して、くしゃくしゃになったビニール袋を、誰かの鞄の中に見つけた。

「こんなものしか……」

「早く!」

 走るごとに花が大きく舞い上がった。袋をひったくったまひろは、それを急いでみっきーの口元に当てる。袋は呼吸に合わせて膨らみ、しぼむ。

 どのくらいの時間がたっただろう。長いこと、まひろはみっきーの傍で袋をあてがい、背中をさすり続けていた。次第に呼吸が落ち着いてきて、意識がはっきりとし始める。大丈夫、ありがとう、と力なく身体を起こしたみっきーは、多少マシになってはいたが、まだ苦しそうだった。目に光があるのを見て少しだけ安心する。

 まひろはだらりと脱力する。

「よかったあ」

 うわあん、と泣きまねをしながら、まひろがみっきーに抱き着いた。「ありがとう」と穏やかに言って、みっきーがその頭を撫でる。立ちんぼうで役立たずだった俺は何も言えない。

「みっきーって喘息だったの? 言ってよお」

「喘息?」

 当の本人はきょとんとしている。「さっき発作出てたじゃん、過呼吸も来るしさあ」まひろは若干涙声だ。まさか本当に泣いたのか。

「小児喘息、だったのかな。聞いたことはある気がする。でも小さい頃の話だし、今までなんともなかったんだけど……」

 みっきーはどこか困惑した様子。まだ少し掠れ声だ。

 俺も驚いていた。喘息、っていうとなんだか病弱なイメージがあるが、みっきーは陸上部でバリバリ長距離を走っている。ただ、昔山に住んでいた、ということとは妙に符合した。小児喘息だったのなら、ひょっとしたら療養だったのかもしれない。

 ここの花粉がよくないのかも、とまひろが言うので、ふたたび俺たちは教室から出た。廊下の悪戯書きみたいな文字は忽然と消えていた。忘れるな、という文字は嫌でも忘れることができない。

 本調子でないみっきーは、そのまま壁沿いに腰を下ろす。ほんの数メートル歩いただけなのに、ひどく疲れているように見える。

 これだけのことが立て続けに起これば当然か。

「何を見た?」

「あくつ」まひろの咎めるような視線がびしりと当たる。

「見たんだろ、何か」

「……うん」

 みっきーの表情にどこか迷いがあった。あのパニック発作のような反応から察するに、さっきよりも派手なものを見た、とは推察できる。より多い情報量が流れてきたか、あるいは、もっとまがまがしいものを見たか。

「ごめん……あまりにも断片的で、まとまらないんだけど……」

 そこまで言って、息継ぎ。喘鳴がかすかに混じる。

「全部僕のせいなのかもしれない」

「何を言って……」

「今回のことじゃないよ。あの時――中学生の時、二人を殺したのは、もしかしたら僕なのかもしれない」

 え。

「それだけじゃない。両親も、もしかしたら、僕が手にかけたのかもしれない。――忘れるな、っていうのは、きっとそうなんだ」

「待ってよ、両親って、一緒に住んでるんじゃあ……」

「あの人たちは違うんだ。僕を引き取ってくれた人だから」

 ……話が見えない。

「……実の両親を僕は知らないんだ。四歳か五歳くらいの時までは、一緒に住んでいたらしいんだけど、何か事情があって、僕はじいちゃんに引き取られた。事情については大人たちは話してくれなかった。何か訊こうとしても、必死に話をそらそうとするんだ。そんなことは知らなくていい、って。でも、よくないことがあったのはわかってた。……あまり褒められた人たちじゃなかった、ってことも」

 周囲の大人たちはことごとく口を濁す。世話をしてくれていた祖父さんが倒れ、葬儀では当然、みっきーを誰が受け入れるか、という話になった。たまたま立ち聞きしてしまった話で、みっきーは不意に自分の出自を知った。そして、当時自分が保護された状態も。

「窓という窓に内側から板が打ち付けてあって、ぴったりと施錠もされた家の中で、僕は発見されたらしいんだ。両親の死体の中で。……柱に犬用の首輪で繋がれて」

 ごくり、と唾を呑んでしまう。

 子供を鎖でつなぐ親――確かにとても褒められたもんじゃない。

 そして、死体。

「両親の死体の状態もそうだけど、僕の状態もひどかったみたいだ。何日も食事もお風呂もできていなくて、体中に蠅がたかってたって」

 首輪で繋がれていた、ってことは、きっと排泄だってままならなかっただろう。おまけに夏のことだったらしい。家の中には死体……あまりしたくない想像が膨らんでしまう。

「忌々しい子供だ、ってもっぱらの評判だったみたい。さっきまですっかり忘れてたんだけど。……なんでだろう」

「あんまりひどい光景だったんで、無意識に忘れようとしてたのかもよ」

「かもしれない」

 僕がさっき見たのは、その時の景色なんだ。みっきーはやけに静かに言った。

「正確に言えば、両親が死ぬときからの……。真っ暗な部屋にいたんだ。光源は板の隙間から漏れる太陽の光だけで、身体も自由に動かせなくて。お腹もすいていて、不安で、心細くて泣くんだけど、助けてもらえないんだ。あの子がこうなったのは自業自得だから。こうしないといけない。仕方ない。そんな風に女の人が言ってた。男の人が反発するんだけど、女の人がヒステリックに何か叫んで黙らせちゃう。――お母さんとお父さん、だったのかな」

 ひもじい、寂しい、悲しい、つらい。みっきーは感情に頭を満たされて、はち切れそうなほど胸が痛くなった。おまけに全身が痒くて、痛い。特に首のあたりが、汗か何かでかぶれているのか、痒くてたまらない。

 扉も窓も塞がれて、堅牢に内側から閉ざされた家。誰も助けになど来てくれない。絶望の中で次に見たのは、突然上がる絶叫と、血しぶき。ごとり、と何かが落ちる音。

 落ちたのは人間の腕だった。ぎぎぎ、と無理に身体がひねられている。嫌、嫌ぁあ、どうして! 喚く声。ばき、と骨がひしゃげる音。絶え間なく聞こえていた甲高い悲鳴が、獣の吠えるような濁った声に変わり、ごごっ、げぼっ、と泡の混ざった音になって……止む。鈍い音を立てて落ちた首がこちらを向く。

 嫌だ、と思っているのに、二人の人間は目の前で引きちぎられていく。子供が弄ぶみたいに。人形でもバラバラにするみたいに。血がはじける。飛沫が頬に触れる。胴だけになった身体が細かく痙攣する。温かいものが足の下に流れていく。血なのか、失禁なのか、もうわからない。怖い、という錯乱した感覚だけが残る。

 それから彼の意識は途切れる。見つかったのは数日後だった。夏のことで、閉め切られた室内はすっかり蒸されていた。息のできないほどの凄まじい臭気があたりに満ちていた。傍には正真正銘の腐乱死体。腐って、虫に食い荒らされた死体は、黒々と変色している。蠅が耳の中に入る音に、彼はかろうじて頭を振る。絶食と脱水で意識は混濁していた。

 ドアが強引に破られる音。次いで、急に視界に光が差した。うっ、と誰かが息を詰まらせる。吐き気をこらえるような声。そこから彼は保護された。

「……ひどい話だな」

 胸やけがしそうだ。

 そして、確かに似ている。例の中学生の死に方に。

 当時は内側から完全に閉ざされており、人が入った形跡もなかった。中にいたのは幼児だったみっきーだけだが、彼はひどい衰弱状態にあった。警察は当然、彼には犯行は不可能だと断定したわけだが、あの状況で唯一生き残ったみっきーは、「気味が悪い子」と親戚中に囁かれることになる。気の毒に思ってみっきーを引き取ったという叔父夫婦が、親切で優しい人だったというのだけが救いだ。親戚の中には「あの子が祟った」とまで言う人もいたらしい。「きっとあの子が殺したのだ」と。

 だからって、自分の仕業だというのは早計過ぎる気がした。どう考えてもこれは人間業ではない。

「僕もあれを見るまではそう思ってたんだよ。何しろ小さい子供だったし、いろいろ言う人はいたけど、そんなわけないって。けど……いざ思い出してみたら、僕はあのときつらくてたまらなくて、こんなつらい思いをさせるものすべてが憎くて――死んでしまえって、思ったのかもしれない。それに……」

 みっきーは頭をぐしゃりと抱える。息がまた少し荒くなっている。

「手ごたえがある感じがしたんだ。曲がれ、って、念じて、まるで自分の手で折ってるみたいに、手の中に感触があって。それがすごく生々しい。中学の時も、無意識に、そうしてたのかなって、僕……」

 どんどん憔悴していく。雲行きが怪しい。

「はい、ストップ」

 俺は手をぱんと叩いた。みっきーだけでなく、まひろまでもが肩をすくめた。

「そっちに呑まれんな。お前はたぶん、感覚を混同してる」

「どゆこと?」まひろが遮ろうとする。

「断片的だ、まとまらないと言ってた割には、話がつながりすぎてないか? 他にもごちゃまぜに色々見たんだろ。他人の過去の記憶が混じってた。違うか?」

 みっきーがおずおずと頷く。

「……同じような映像だった。目の前で人がバラバラになる。背景だけ、古いお屋敷みたいなところで……暗いのも、気持ちがすごくつらいのも同じ。泣きそうなくらい、胸が張り裂けそうに苦しくて。自分のと、サブリミナルみたいに、チカチカ交互に見えた」

「じゃあ、ちぎったの、そいつかもしれないじゃん」

 前にもみっきーは、他人の感覚まで自分のものみたいに体験していた。今回は、視覚的にも感覚的にも似た二つの記憶が同時に流れ込んだ。目まぐるしく何かを見せられているうちに、二つの境目が曖昧になる。誰かの感じていた感覚が、あたかも自分が体験したもののような気がしてくる。

「安心しろよ。お前とそいつは違うの。別の人間なの」

「でも……」

 みっきーはしばらく手元を睨んでいたが、やがてふうと息をついた。だめだね、と。

「ありがとう。少し落ち着いた」

 少し心配な感じはしたけれど、みっきーがかすかに笑顔を見せたので、俺もまひろもひとまず胸をなでおろした。



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