第14話 勿忘草

 随分とぐねぐねと廊下を歩かせてくれる。階段を上ってみたり、かと思えば降りてみたり。猫の方が歩調が速く、俺たちはたびたび置いて行かれたが、その度に猫は少し先で立ち止まって尻尾を揺らしていた。まるで待っているみたいに。

 どのくらいぐるぐるしただろうか。いい加減疲れてきたなと思った頃合いで、猫の姿が消えた。

 一年C組――俺たちの教室の前に戻っていた。

 戸はきっちり閉められている。なじみのある場所のはずなのに、入るのにどうも躊躇してしまう。いかにも誘われて来てしまった感じが、余計にそうさせるのかもしれない。

 誘うように、中から鈴の音がする。

 固唾をのんで、俺は思い切って扉に手をかける。こういうのは静電気やなんかと同じだ。思い切って一気に行った方がいい。

 扉を開けた瞬間、甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 教室一面が何かで埋めつくされている。青い、何か。

 ――花だ。

 視覚と嗅覚が結びつく。

 床が見えないほどの青い花。

 教室に入る。足の踏み場がない。少し歩くだけで、足元の花がかき分けられて揺れる。においがふわっと強くなる。

 花畑みたいだ。身体から緊張が抜ける。現実離れしてはいるものの、ちょっと綺麗で、幻想的だった。

 花を手に取ると、まだ水分が残っている感じがした。甘いにおいの発生源はこれで間違いなさそうだ。小ぶりな花が可愛らしい。

「勿忘草だ……」

 みっきーの声が、どこか張りつめている。「わかるんだ。さすが山育ち」というまひろは、対照的にのほほんとしていた。単純な奴。

「阿久津くん。勿忘草の花言葉、知ってる?」

 急に水を向けられ、少しばかり狼狽する。

 花言葉、ってやたら聞くけど、他人が勝手につけたものにそんな価値があるもんかね。過去に姉が楽しそうに語るのを見て、そんな風に思った記憶がある。レタスの花言葉が「牛乳」だと聞いた時は唖然としたものだ。

 勿忘草。――なんだっけ。有名だったような気がする。少し考えこんで、はたと思い出す。

 勿忘、の部分は書き下すと「忘れる勿かれ」だろうか。あるいは「な忘れそ」。どちらにしろ意味は同じだ。

 勿忘草の花言葉。確か――

「――私を忘れないで」

 ぞ、と怖気が走った。みっきーが深刻そうに頷く。

「うっわ」まひろが顔をしかめる。「とんだメンヘラだな、みっきーに憑いてんの」

 汚らしいものを落とすように、まひろが花びらを払い落とそうとする。

 まひろの言葉にはまったくの同感だった。さっきは綺麗だとさえ思った大量の花が、途端に奇異な、不気味なものに見えてくる。

 あ、と取りこぼすような声がした。みっきーが教室の外を見て固まっている。視線を追いかけると、俺もぎょっとせずにはいられなかった。

『忘れるな』

『忘れるな』

『忘れるな』

 ――廊下の壁を埋め尽くす、大量の文字。

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