第34話 昭和台中市~川端町今昔:昭和のニュータウン

【川端町】

 さて、では村上町通を一丁目まで引き返し、大正橋通を北上して平和橋で柳川を越えた向こうの川端町エリアに入りましょう。

 日本時代の川端町で中心的な存在だったのは「臺灣總督府臺中師範學校」。

 今は國立臺中教育大學になっているこの学校の始まりは、明治32年(1899年)に彰化市の「彰化孔子廟」の建物を校舎として開校した「臺中師範學校」です。

 領台初期、台湾人児童に日本語教育を施す「公學校」と、今後日本から移住してくるだろう子供たちに初等教育を施す「小學校」の設置は急務でした。そして、当然教師も必要となります。

 日本人学生を教師に、台湾人学生を日本人教師の補佐を務める「訓導」に育成することで、日本語教育がスムーズに進められるようにしようという計画に基づいて、台北、彰化、台南の三ヶ所に師範學校が設置されました。しかし台湾での公學校設置は進まず、日本からの家族連れ移住も進まなかったため、教員資格を持った卒業生ばかりが過剰供給される事態となってしまいます。結局、明治35年(1902年)にいったん業務が停止され、「臺中師範學校」は台北の師範學校と共に廃校となりました。

 在籍中の生徒達は台南の師範學校に引き取られましたが、その生徒たちが卒業すると台南の学校も明治37年(1904年)に廃校となります。

 その後、大正7年(1918年)になると台北の師範學校が再設置され、台湾での初等教育を担う教師の育成が今度こそ本格的に始まりました。

 「臺灣總督府臺中師範學校」は大正12年(1923年)に、臺中市川端町に校舎と学生寮を設け、改めて開校します。

 戦後は「臺灣省立臺中師範學校」となり、幾度かの改名を経て2005年から「國立臺中教育大學」という現在の名称になりました。

 この大學の「行政大樓」は「臺灣總督府臺中師範學校」時代の昭和3年(1928年)に建設されたもの。この年の4月には大正橋通を挟んだ師範學校の東側に、梅ヶ枝町の項で紹介した「臺中師範學校附屬公學校(今の國立臺中教育大學附設實驗國民小學)」も設置されています。


 また、この春は二年後の秋に起こる霧社事件で命を落とすこととなるセデック族の「花岡一郎」さんが、優秀な成績で臺中師範學校を卒業した年でもありました。師範學校を卒業した台湾人は訓導として小學校や公學校に勤務できるはずですが、花岡一郎ことダッキス・ノーミンさんはなぜか巡査に任命されて故郷の警察分室で働くこととなり、原住民族の子供に日本語を教える「蕃童教育所」での教育しか任されませんでした。このことは村の期待の星だった彼本人だけでなく村人全体の失望を招き、後の事件へと繋がっていきます。霧社事件では、この任命を行ったとされる小笠原敬太郎さんも死亡しました。


 さらにこの年は「臺中師範學校事件」と呼ばれる学生運動が発生した年でもあります。

 師範學校にはその性格上、公學校教師を目指す台湾人学生が多く進学していました。しかし日本語教師を育成するのが目的のため、寮を含め校内では台湾語の使用が禁止されています。

 この年、台湾人生徒が寮で台湾語を使って会話していたところに、新任の舎監が通りかかりました。

 校則違反の台湾人学生にビンタを食らわせたこの舎監は、更にその翌日の朝礼で「台湾語は卑しい清国の言葉だ」「台湾語をしゃべる者は清国へ帰れ」という暴言を吐きます。「台湾人生徒が台湾語を話しているのを見掛けた日本人学生は自分に密告するように」と奨励までしたことで、ビンタの当事者ではなかった台湾人学生たちもこの舎監に激しい反発を覚えるようになります。

 最終的にこの舎監は台湾人学生たちに向かって謝罪させられ、学校を去っていきました。


 師範學校の南側、柳川のほとりには教員用の木造官舎が並んでいます。戦後、臺中師範學校が臺灣省立臺中師範學校となると、昭和3年に建てられたこの官舎もそのまま臺灣省立臺中師範學校の教員官舎として引き継がれました。

 臺灣省立臺中師範學校で働き始めた教師の一人が、林之助さん。12歳で日本に留学し、24歳で帝展入選を果たした日本画家の之助さんはこの時30歳になるかならないか。林家は祖父がやはり生員で、このため両親は之助さんにも学問の道へ進んでほしかったそうですが、之助さんは絵に才能と情熱を発揮します。

 つい「りんのすけ」さんと呼んでしまいたくなりますが、日本語読みするなら「りんしそ」さんが本来の読み方。ただし「りんのすけ」読みにも馴染みはあったのか、日本式名前への改名が推奨された日本時代末期には「林林之助」と名乗っていたそうです。

 後に「臺灣膠彩畫の父」と呼ばれる之助さんは臺中師範學校で美術の教師として働くのと並行して、美術教科書の編纂にも携わります。そんな之助さんの住居兼アトリエとなったのが、学校によって割り振られたこの木造官舎の一室でした。

 なお戦後、台湾では「日本画」という呼称に対して論争が沸き起こり、西洋画を「油彩画」と技法で呼ぶのと同様に、日本画も「膠彩畫」と技法で呼ぶことで決着しています。

 2006年に林之助さんは退官し、子供たちとともにアメリカへ移住します。林之助さんと60年間を共にしたこの官舎は國立臺中教育大學の管理下に戻り、その翌年「林之助畫室」として文化資産に登録されました。

 林之助さんは2008年にアメリカで死去。その後、2013年から建物の修復が始まります。

 左右対称の完全分離型二世帯住宅だったこの官舎は、林之助さんの住んでいた側の増築部分はそのままに、反対側は日本時代の姿に修復し、遺品となった画材などを運び込んで2015年に「林之助紀念館」としてオープンしました。

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、小説家志望の自称「ニート」な阿貓と大学院生の羅蜜容が虎爺探訪の合間に立ち寄った「紀念館」はここを指しています。


 そして、楊双子先生の別作品『臺灣漫遊錄』の中で、昭和13年(1938年)に台中を訪れたヒロイン「青山千鶴子」が「臺中州日新會」の高田夫人に手配してもらって暮らし、『臺灣漫遊錄』の原稿も書く家、川端町の柳川ほとりにあり、周りはほぼ田んぼに囲まれている小さな日本家屋「臺中柳川小屋」のモデルもまたこの建物。

 近々日本語版も出る予定があるという『臺灣漫遊錄』には、青山千鶴子が描いた臺中柳川小屋の間取り図も載っているので、川端町を訪れる際にはこっちも要チェックです。


 さて、師範學校北側には後壠子ニュータウンが日本時代の終了間際に誕生しますが、実は師範學校西側にも小さなニュータウンが昭和9年(1934年)に誕生していました。

 台中市営の賃貸住宅は、新高町ともう一ヶ所、ここに設けられています。木造平屋建ての住宅は、こちらには二十戸建築されました。

 今の道でいうと、柳川を渡って南側から伸びてくる民生路と自立街、そして北側を忠仁街、南側を五廊街で囲まれたブロックで、この区画を五つに分けている四本の路地、五廊街2巷、4巷、8巷、18巷、も日本時代からのものです。

 昭和のバス路線図によると「昭和村」と呼ばれていたこの住宅地。ストリートビューで辿ってみると、五廊街と五廊街2巷のT字路東側の角の一軒、忠仁街と五廊街2巷のT字路東側の角の一軒、そして五廊街8巷中ほどの東側の一軒が、どうやら日本時代の家屋のままのように見えます。

 ただし米軍地図を見ると、家の数は二十軒を越えているので、昭和9年から20年までの間に増築された模様。今残っているのは昭和20年段階で建っていただろう家屋なので、昭和11年にもあったかどうかはわかりません。


 日本時代が終わるまでに実施された柳川の河川整備は、師範學校と臺中病院の間部分まで。そこより西側ではまだ整備がされず、柳川は自然のままに蛇行しています。このためここから先では、その場所が日本時代には柳川南の末廣町だったのか、それとも柳川北の川端町だったのか、の区分はかなり曖昧に。そんなエリアの中、当時も柳川の北側に位置し、川端町の一角だったはずの場所に、『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』にも登場する、楊双子先生お勧めの台中の味がもう一軒。

 林森路を北上し、柳川を越えて二つ目の交差点、五廊街を東へ曲がったところにある「松哥拉仔麵」は「拉仔麵(らあめん)」店。ただし日本人が思う「ラーメン」とはかなり違っていて、汁は少なく麺もスパゲティくらいの太さはありそうです。

 「台中人の朝ごはんは焼きそば」というのは以前、とある台湾漫画で見たことがあったんですが、その「焼きそば」とは縁日屋台のソース焼きそばでも、中華料理店のあんかけ焼きそばでも、上海風の醤油焼きそばでもなく、実はこの「拉仔麵」を指しているとのこと。蒸し麺に茹でもやしをトッピングし魯肉飯風なタレを掛けた「炒めていない麺料理」なので、日本人が思う「焼きそば」ともかなり乖離しています。

 『開動了! 老台中』には、昭和台中市の大字地域も全て含む「戦後台中市」エリアに散らばる美味しいものが色々載っています。そして市場の傍の場合は、そのご近所の「敢えて章タイトルとしては取り上げていない美味しいもの」も色々と名前が挙げてあるので、台中へ行く際は是非参考にしてください。そして、この本の翻訳のニーズはございませんか?

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台湾漫画を旅しよう~台中市編~ 黒木夏兒(くろきなつこ) @heier

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