第33話 昭和台中市~村上町通北側今昔:官舎と住宅地並ぶ村上町、旭町、末廣町

 日本時代の村上町通(三民路)北側は、通り沿い以外、まだほとんど街造りが進んでいません。柳川の整備も臺中病院と師範學校の間までしか行われておらず、その西側では完全に手つかず。町名の付く通りにしても旭町通は八丁目までなんとか伸びていますが、その北側の末廣町通は五丁目まで、川端町通は柳川の整備が終わった二丁目までが辛うじて完成しているだけです。


 大正橋通の西、村上町一、二丁目にまずあったのは臺灣總督府臺中病院。今では衛生福利部臺中醫院となり、敷地内には國立科技大學の圖書館も設けられて同大学の「民生校區」となっています。

 この病院は明治28年(1895年)に「臺灣民政支部診斷所」としてまず彰化に設置され、その後、台中に移転してきました。名称も幾度か変わり、「臺灣總督府臺中病院」となったのは明治31年(1898年)のことです。

 台中への移転当初は「臺中縣廰」の入居先である「元誠考堂」の傍、「巡政廳」の元庁舎を使用していました。当時は設備不足で重傷の患者は治療できず、野戦病院に転院させて凌いでいたといます。

 明治30年(1897年)に臺中縣廳舍の南側(後の臺中市役所辺り)に新病棟ができてそこへ移転、さらに明治33年(1900年)には、後に臺中駅の駅前となる辺りに新病院を建てて再移転するなど移転も繰り返され、今の場所に病院ができたのは、明治末の大水害を受けて新富町通と村上町通の整備が始まった後の大正元年(1921年)です。駅前にあった旧病院は大正7年(1918年)に廃止され、病院施設は一ヶ所にまとまりました。

 『綺譚花物語』の翌年、昭和12年(1937年)からは本館と第二病棟の建て替え工事が始まり、昭和14年(1939年)に完成しています。

 戦後は接収されて「臺灣省立臺中醫院」と名称が変わり、そこから変遷を経て2013 年に現在の名称となります。1955年には敷地の南半分ほどが売却されて看護学校となりました。この看護学校は後に科技大學の一部門として吸収合併され、今この場所は科技大學のキャンパス「民生校區」となっています。

 また病院側も1991年に本館のビル化工事が行われたのを皮切りに全ての施設が高層化されたため、梅澤捨次郎さんによる設計だった昭和の第二病棟など日本時代の建物は一切残っていません。


 この病院が村上町の北側及び旭町、末廣町のそれぞれ一、二丁目にあたります。大正橋通だった民權路を北上し、整備を終えた柳川に架かる平和橋を越えると、その先が川端町ですが、まだ丁目がなく、建物も非常に少ない場所でした。

 川端町は後回しにして、病院の西側、三丁目エリアに入ります。


 村上町通から一本北、旭町通(自治街東側の三、四、五丁目部分は、現在の大明街)三丁目の北側では昭和11年当時、大規模な工事が進行中でした。

 昭和12年(1937年)の3月にここでオープンしたのは「臺中鄰保館」。後壠子で出てきた台中靜和病院と同じく、台中慈惠院が運営する施設です。

 建物内には「社會事業圖書館」や「社會事業俱樂部」が設けられて、ここは台中に於ける民間社会事業の拠点となります。様々な集会や講習会に加えて健康診断や治療、出産補助、職業紹介が行われた他、敷地内には職員宿舎に加えて低収入者向けの簡易住宅も八棟建てられていました。さらに昭和13年(1938年)には和裁洋裁講習所も追加で建設されています。

 1300坪超の敷地を持つこの施設は、戦後になると1949年に「臺灣省立台中育幼院」となり、以降は国営施設としての歴史を歩むことになりました。1999年からは「兒童之家」と名称が変わり、現在では臺中病院と同じく衛生福利部の所属となっていますが、所在地は今も変わっていません。大明街に面した「慈暉大樓」というビルが、臺中鄰保館の現在の姿です。


 この施設の敷地は直角台形型。

 南は旭町通(大明街)、東側は二丁目と三丁目の境となる民生路に面した状態ですが、敷地西側がブロック内で斜めになっています。これは、日本時代にはこの部分に陸軍墓地があり、これを避けて建設する必要があったから。


 陸軍墓地がこの場所に設けられたのは明治39年(1906年)の年末。干城町の駐屯地が整備されたのと同時期です。

 この時点ではまだ臺中病院もなく、村上町通すら開通していません。

 墓地という性格上か、四辺が正確に東西南北を向いているため、台中市の街路から見ると斜めになっていますが、整備された当初は全く問題がなかったはずです。


 しかしそれから30年余りが経って村上町通以北の人口が増え始めると、この墓地は徐々に邪魔な存在となってきました。三丁目と四丁目の境である四維街は、村上公學校の敷地北端までで途切れていますが、この道を延伸して柳川のほとりまで到達させる都市計画がこの頃には登場しています。

 この場合、四維街は陸軍墓地のど真ん中を容赦なく突っ切ることとなるため、陸軍墓地の移転は必須でした。

 また、南側の村上公學校も生徒数が膨れ上がって敷地は北に拡大され、陸軍墓地にぶつかっています。

 昭和12年(1937年)の暮れには旭町消費市場が五丁目に設けられ、この地域の人口は今後もますます増えると想定される昭和台中市にとってこの陸軍墓地は、移転させたいが社会情勢的にうっかり移転を計画できない、目の上のたん瘤のような存在だったのではないでしょうか。


 しかし、終戦を迎え日本時代が終わると、そんなしがらみはなくなります。台中歴史地図を見ると、1960年には既に墓地の敷地内にも民家が建てられていました。その後、四維街の北進延伸工事と、それに伴う村上公學校裏手での大明街の若干の延伸工事、そして墓地裏手の樂群街(日本時代の末廣町通)の直線化工事が行われ、地図の上から陸軍墓地の地形は消えていきました。しかし四維街を北進し、大明街の旭町通三丁目部分とのT字路を過ぎると、道の左右にはまだ何軒か、四維街に対し斜めに建てられている民家が見受けられます。これらがこの陸軍墓地の名残りです。

 なお、遺骨はどうやら他の日本人墓地の遺骨と同じく、新高町の北にある寶覺寺に安置されている模様。


 さて、墓地の南側、村上町通四、五丁目部分に建っていたのが村上公學校。

 明治29年(1896年)に「臺中國語傳習所」として成立したこの日本語教育機関は、その後、台中周辺各地に分教場を設けていきます。

 明治31年(1898年)には六年制となって「臺中公學校」に改称。明治33年(1900年)には女生徒の入学を受けて女子部も誕生しました。

 その後、大正7年(1918年)に男子部女子部に別れることになり、女子部が幸女子公學校として独立、そして昭和7年(1932年)からは臺中公學校自体も「臺中市村上公學校」と改称します。

 戦後は「臺中市忠孝國民學校」となり、1968年から「臺中市西區忠孝國民小學」という今の名前に変わりました。


 日本時代から敷地が北側へ向けて拡大していったことで、旭町通である大明街も、この学校の裏手部分では北側に半ブロックほどずれた状態になっています。

 これは学校ができ、敷地が北へと膨張していった後で旭町通が整備されたため。敷地北東の角部は陸軍墓地とぶつかったために長年斜めに欠けたような状態でしたが、戦後の四維街延伸工事の際に、この部分の大明街もルートが変更され、道、敷地共に真っ直ぐな状態になっています。


 四維街を北進して陸軍墓地を抜けると、日本時代は末廣町通だった樂群街にぶつかります。この道を西側の四丁目方向へ折れると、臺中文學館。

 日本時代、ここの住所は末廣町四丁目1番地。臺中文學館の建物は警察官用の官舎でした。村上町通南側の警察署からやや離れたここは、あまり階級の高くはない警官たち用だったらしく、建物は完全独立型ではなく長屋形式になっています。


 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、小説家志望の自称「ニート」な阿貓と大学院生の羅蜜容が虎爺探訪の合間に立ち寄った「文學館」がここ。

 修復が完了し公開されている建物は全部で五棟ですが、敷地西側の路地、樂群街46巷を歩くと他にも日本家屋が見え、また五丁目との境になる自立街沿いの四丁目側(やはり日本時代は末廣町四丁目1番地だった場所)は「台中文學公園」となっていますが、この公園内には「NMU幸卉文學咖啡」という日本家屋カフェが店を構えています。


 自立街の西側、末廣町五丁目にあるのは臺中市第五市場。

 旭町消費市場としてこの市場が設けられたのは昭和12年(1937年)の12月。臺中病院の建て替えに、臺中鄰保館の新築工事、そしてこの市場と、昭和12年の村上町通北側は建設ラッシュです。

 榮町の第一市場、新富町の第二市場、敷島町の第三市場、干城町の第四市場に続いて、五番目に作られたこの市場は、公學校裏手の旭町通(大明街)と末廣町通(樂群街)の間に位置していて、昭和13年(1938年)秋には市場の外周にも簡易店舗と飲食店が設けられました。

 この市場も第二市場などと同じく、建物のベースは日本時代のままです。


 そしてここには『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』に登場する楊双子先生お勧めの台中の味の一つも。市場外周の飲食店エリアの中、裏手にあたる末廣町通沿いの一角で1966年から営業している太空紅茶冰。

 アイスティーの販売店で、ストレートとミルクとレモン、そして「梅」があるとのこと。梅は台湾では非常にポピュラーな食材で、アイスクリームでも梅味があったりしますし、以前、台湾セブンイレブンのPBのお茶でも梅果汁入りのものが出ていました。爽やかなおいしさに加え、600㏄入りでお値段もさほど高くなく、ついでに台湾はセブンイレブンが非常に多いので街中であれば基本どこででも買えるため2014年の滞在時にはヘビロテし、日本でも売ればいいのにと思っていたんですが、そのあと製造終了してしまったようなので、ここの梅味飲んでみたい。

 またこの紅茶店はスタバ登場以前から、お客さんが容器を持参していれば割引、というスタバ方式を採用しているそうで、それと合わせて人気なのが、金魚すくいの時のような赤い紐で口を締めたビニール袋に紅茶を入れてもらうスタイルだそうです。


 市場の西側、五丁目と六丁目の境となる自治街と、市場裏手の末廣町通(樂群街)との交差点から更に柳川方向へ北上すると、五丁目側にマンションらしい建物の隣に張り付くようにして建っている、真ん中から真っ二つになった状態の入母屋屋根の平屋建て日本家屋があります。

 道に面して建っていた平入りの日本家屋が、戦後、二家族によって二分割利用されることになり、そのうちに南側半分に住んでいた家族が家を売るか何かしてその場所がマンションに建て替わった、その結果としてこの真っ二つの家が残りました。

 日本時代の住所は末廣町五丁目1番地だった場所に建つこの家の、残った北側半分は、今では台中の人気スポットの一つ、日本家屋リノベカフェの「解憂老宅」になっています。


 この自治街沿いではもう一ヶ所、市場の前の旭町通(大明街)とのT字路部分で市場側に目をやると、簓子下見の切妻が見えます。この建物も似たような経緯で東側だけがマンション化されたのでしょう。日本時代には旭町五丁目4番地2だった一角です。


 六丁目と七丁目の境になる林森路は、明治末期の大水害の後、拡幅工事が行われた道。村上町通の南側では地方法院と刑務所の間を通り線路を越えて老松町へと通じています。村上町通の北でも同じ道幅を保っていましたが、日本時代にはまだ末廣町通がいずれ伸びてくるだろう辺りの手前までしか到達していません。

 村上町通(三民路)からこの道を北上すると、六丁目側の最初の路地、林森路38巷との角地北側に建つのが、旭町六丁目17番地にあった「大屯郡守官舍」です。

 大屯郡役所と同じく、大屯郡守の官邸も大屯郡ではなく台中市内にありました。戦後は接収され、現在その所有権は台中市ではなく彰化縣政府にあるとのこと。

 未修復未開放のこの建物は、和洋折衷の文化住宅。

 そして林森路38巷を更に奥、東側へ進むと、大屯郡守官舍に隣接する旭町六丁目14番地6だっただろう林森路38巷1號にも、日本家屋をリフォームしたギャラリー「印 原創版畫 私人日式展場」があります。また、その更に左隣、大全街11巷を挟んだ東側の大全街11巷3號もやはり日本家屋です(日本時代はここも旭町六丁目14-6番地)。


 林森路を更に北上すると、旭町通だった「大全街」との角にも日本家屋が。

 旭町通の現在の名称は、村上公學校の東側と裏手にあたる三~五丁目では「大明街」ですが、村上公學校西側の自治街を過ぎた六丁目以降は「大全街」となります。

 この大全街と林森路との角地のやはり六丁目側。日本時代は旭町六丁目15番地だった場所に建つ日本家屋は「悲歡歲月人文茶館」。

 この建物については「日本時代の大正13年(1924年)に建てられ、家主は日本人の教授で米の研究をしていた」というエピソードが伝わっています。

 日本時代に米の研究をしていた日本人教授というと真っ先に思いつくのが蓬莱米の父と呼ばれる磯永吉教授。しかし磯教授が台中にいた時期、台中の農業試驗場は新高町の臺中一中傍にありました。

 ならば後壠子に農業試驗場が移った後も台中で研究を続けていた「蓬莱米の母」末永仁さんかと思ったのですが、この方は奥さんとの死別後、子供を親戚に預けて単身来台している身の上で、このため常に官舎住まい。

 この家に住んでいたのが誰なのかは、結局わからないままです。


 一方、林森路を挟んで「悲歡歲月人文茶館」と向かい合う旭町七丁目5番地、大全街と林森路との西側角地には「臺中州農林課地方技師宿舍(林森路75號日式宿舍)」が大正11年(1922年)に完成していました。

 外観はかなり西洋的要素を取り入れている反面、中の居室は書院造の和洋折衷なこの官舎も、今は修復中で未開放。


 七丁目と八丁目の境は貴和街で、八丁目と九丁目の境は朝陽街。このどちらの道も日本時代には旭町通までしかありませんが、その延長線上を柳川のほとりまで進んだ末廣町八丁目1番地の区画には、今、上公館福德宮という廟があります。

 この廟の始まりは大正5年(1916年)。付近の住民が祠を建て、大きな石を福德正神様に見立てて拝み始めたのが起源です。その後、大正15年(1926年)頃から周辺の人口が増え始めると、柳川下流にあった公共井戸付近の土地が寄進されて廟が建つこととなり、拝まれていた石にも彫刻が施されて神像となりました。

 戦後、1959年8月7日に発生した大水害「八七水災」では廟も被害に遭い、救い出された福德正神様は信者宅へ安置されます。さらに翌年の1960年にも八一水災が起こって、廟の跡地は土砂に埋もれてしまったため、結局廟の再建は、水利組合から土地を借りて行うことになりました。こうして1966年に現在の場所で新たな廟が建ち、福德正神様が安置されます。

 この廟もまた、阿貓と蜜容が訪ねた可能性のある、日本時代の台中市にあった虎爺のいる廟の一つ。

 ただし1960年の地図を見ると、柳川の整備状況はまだ日本時代のままで、今、この廟がある辺りは柳川を越えた先、川端町側だったことになります。所在地が川端町だったとしても日本時代の台中市市域であることに変わりはありませんが、廟の位置は日本時代とは相当に変わっていると考えていいでしょう。


 朝陽街と村上町通の交差点の朝陽街沿い。村上町9丁目の1番地と2番地の一角だった場所に建つのは、修復中の「朝陽街日式宿舍群」。

 この建物はそれなりに魔改造が施されていたらしく、さらに建物がぼろぼろになっていたため、上に屋根をかぶせてガードしつつ魔改造部分を徹底的に除去する形で修復が進められています。


 この官舎の並び、村上町通に面した村上町九丁目2番地には日本時代、「協和商行」という建築材料の店がありました。

 林金峰さんが大正7年(1918年)に創業したこの店は、建築用金物や材木などを扱い、元々は駅前の橘町一丁目8番地にあったようです。しかし、村上町以北が徐々に建築ラッシュになる中、『臺灣人士鑑』によると居住地でもあったらしい村上町九丁目2番地にも店舗を設けました。

 昭和14年(1939年)時点では既に村上町店がメイン店舗になっていたらしく、昭和17年(1942年)には橘町店舗は撤退済みだったようです。

 昭和の村上町以北に於ける唯一の店舗情報が、この協和商行のもの。村上町通北側は住宅街ではありましたが、まだ商業地としては発展途上だったようです。


 村上町、旭町、末廣町はどれも九丁目まで。ここから西側は大字公館となりますが、その公館の柳川沿い、後壠子から伸びてくる五權路が柳川を渡ったところに、「橋頭福德祠」、橋のたもとの福德祠という通称を持つ「柳川東路二段福德祠」があります。

 これも阿貓と蜜容が訪ねただろう虎爺のいる廟。

 ここの土地公様は、元は「石敢當」。台湾の石敢當は沖縄の石敢當に比べるとやや日本の道祖神的な性格を持ち、耕作地と原野の境などに安置されているのが頻繁に見られるそうです。

 戦後の1975年にこの場所で廟の建立が始まり、1977年の完成後は付近の守り神として信仰を集めるようになりました。

 この少し前に、日本時代にやり残されていた川端町三丁目以西の柳川下流域流路改修工事がようやく着手され、自然のままに曲がりくねっていた柳川下流は、まず五權路との交差地点であるこの廟のあたりまでが直線化されます。

 その後、1993年には新たな廟への建て直し工事が始まり1994年に完成しました。

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