第32話 昭和台中市~千歳町、壽町今昔:明治町通の裏町

 明治町通(自由路)の南側にあたり、大正橋通(民權路)と線路で囲まれている三角地帯が千歳町と壽町。

 真ん中の三、四丁目の全域を明治小學校の敷地が占めているため、町が東西にはっきりと分断され、大正橋通に近くそれなりに賑わいのあった一、二丁目と、地方法院の向かいにあって今も昔も法律家街である五、六丁目とでは全く異なった雰囲気を持つこの街には、日本時代の名残りがちらりほらりと埋もれています。


 まずこの街の目玉と言えば、太平林家の日本家屋の項でも紹介した、彰化銀行招待所。当時は千歳町通一丁目だった繼光街沿いに建つこの屋敷の敷地は、日本時代には丸々千歳町一丁目9番地でした。


 銀行の迎賓館であり、今でも広々とした庭に囲まれているこの建物の隣のブロック北側の明治町二丁目には、当時、臺灣銀行の臺中支店倶樂部と支店長用の社宅が建っています。大正橋通を越えた向こうの榮町通が商店街なのに対し、千歳町通は静かな通りだったと思われます。

 この迎賓館の横を通っている、一丁目と二丁目の境となる通り、居仁街を南へ向かうと、通りの東側、昔は千歳町一丁目17番地だった場所にも、こちらは平屋建ての民家が佇んでいます。


 居仁街を更に南へ向かうと、やはり左手に一軒の中華風のお寺が。

 お寺風なのはパッと見一階だけ、と思わせて、よく見ると上のマンションのような部分にも蓮の花が描かれたこのビルは「法華寺」。実は日本時代には榮町二丁目22番地に位置していた日蓮宗のお寺でした。

 日蓮宗は明治44年(1911年)に榮町で「臺中布教所(信受院)」を開設(大正2年説もあり)。昭和16年になると、市内の別の場所にそれぞれ構えられていた本門法華宗と顯本法華宗の布教所もこちらに統合されます。

 戦後、当時の住職が引き揚げ前に台湾人僧侶にこの寺院を引き継ぎ、その際に名称が「法華寺」と変わりました。その後、1994年に現在の場所に移転が決まり、1996年に竣工して今に至っています。当初の所在地は現在電気街のど真ん中になっているので、このために移転を決めたのかも知れません。

 開祖だった尼僧が来台の際に運んできたという十尺の鬼子母神像も、今なお祀られていることがグーグルマップの写真で見て取れます。


 今、法華寺が建っている場所の向かい、居仁街の西側の壽町二丁目2番地だった場所には日本時代、「常盤木旅館(常盤木ホテル)」という宿が建っていました。また壽町通だった建國路の線路寄りにも日本時代には家が並んでいましたが、戦後の道路拡幅と台灣鐵道高架化工事の影響でそれらは今では全てなくなっています。


 壽町にあった店舗名で判明しているのは他に、一丁目の大阪朝日新聞臺中通信所。ただし番地まではわかりません。

 台湾には臺灣日日新報や臺灣新聞社といったご当地新聞社もありましたが、実は日本の全国紙もよく売れていました。海外で暮らす日本人たちが「日本の国内ニュース」に寄せる関心は高く、たとえ輸送日数のせいで数日遅れであっても購読者数は少なくなかったのです。このため台湾の読者に向けても日本から大阪朝日新聞、讀賣新聞、毎日新聞が船便で送り届けられています。

 大阪朝日新聞は昭和8年(1933年)から大阪本社で台湾の読者向けに地方面「台湾版」の編集と印刷を開始し、昭和10年(1935年)1月25日に門司支局を九州支社に昇格させると、2月11日からはここで台湾版を含めた海外向け地方版の編集と印刷、そして九州と山口県向けに加えて門司港からの船便で発送する沖縄と海外向けの朝刊夕刊の印刷全てを行なうようになりました。

 なお、台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』の主人公の片方である荷舟が愛読していると単行本のおまけ漫画で明らかにされた吉川英治の「宮本武蔵」は、昭和10年の8月23日からの連載なので、昭和10年3月に卒業した荷舟がその前年に行われた修学旅行時に愛読していたというのは実はちょっとフライングだったりします。


 一方、千歳町一丁目には弁護士の土屋達太郎さんの事務所、臺灣中央興信所があり、地方法院相手の仕事をする人がこの辺りにも事務所を構えていたのだとわかります。もう一つ、何丁目かはわからないのですが救世軍臺中小隊というのも。

 台湾では日本救世軍が昭和3年(1928年)から活動を始めていましたが、戦後は主要メンバーの引き揚げに伴い全ての活動が停止します。その後、1964年にアメリカ軍人が活動再開を呼びかけたことで改めて台湾の救世軍が組織されました。

 戦前の救世軍と言えば、連想されるのは廃娼運動。この場所に事務所を構えていたのは、法律家との素早い連携のためや、初音町から逃げてきた女性が速やかに辿り着けるように考慮した結果だった可能性もあります。


 他に千歳町一丁目1番地には「カフェースズラン」がありました。ここには今も、ややレトロなデザインのビルがあって、レストランが入居しています。このビルは四階建てなので日本時代の民間建築ということはあり得ないのですが、敷地の場所がまったく同じなので、ひょっとすると戦後に入居した人がまたカフェーを始め、そのうちに老朽化した店舗をビルに建て直して、などということがあったのかも知れません。


 壽町は三丁目までで、三丁目は全て明治小學校の敷地なので、小學校の向こう側に五、六丁目があるのは千歳町のみ。

 この辺りは明治町六丁目の南側も含めて法律家街。弁護士事務所や司法書士事務所、公証人事務所、税理士事務所、行方不明児童の資料室などが並んでいるのですが、なぜかその中にカフェや洋菓子店、ベーカリーが混ざっています。食べ盛りの子供たちが小学生から高校生まで近くに揃っているからなのか、はたまたお世話になる法律家への手土産用なのか、打ち合わせ場所としての需要があるのか。とりあえずどこもなかなかに美味しそう。

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