第31話 昭和台中市~新富町今昔:台中市の台所

【新富町】

 新富町通は現在の三民路二段。

 三民路一段である村上町通と、三民路二段である新富町通の開通工事は、前述の通り明治43年(1910年)と44年(1911年)の二年連続大水害を受けて計画されたもの。臺灣省城では城壁の外だったこの辺りは、日本時代が始まって城壁が撤去された後も、どちらかというと郊外の扱いでした。清代以前の街並みが既にできてしまっていて手出しがしにくいことと、駅が南側にできたことで駅から官庁街までの整備が先になり、この辺りは後回しになっていたのが理由です。

 しかし、この大水害で、そんなことも言っていられなくなりました。

 明治43年の大水害は、9月1日の大暴風によってもたらされます。台中市は、東から南東に山岳地、北に高台、西に台地の大肚山、南西に彰化の山岳地、という盆地地形のため、台風被害はそれほどひどくはないのが通例ですが、この時の雨は異例でした。

 夕方六時頃からの土砂降りは日付が変わっても止まず、午前三時には下水が溢れ始めます。町の南側を流れる綠川傍の新盛橋周辺は、元々沼地だったのを埋め立てた土地で、しかもその工事は明治41年(1908年)の縦貫鐵道開通式典のために行われたばかりで地盤はそれほどしっかりしていませんでした。この年8月の雨ですでに地盤が崩壊していたのを修理しきれずにいたこの辺りでは土砂流出が起こり、増水した綠川が容赦なく河岸を削り取っていきます。

 北側を流れる柳川は、この時点では全く整備が行われていない自然のままの曲がりくねった川です。柳川からも水が溢れ始め、これが東大墩集落を襲いました。下水は既に能力の限界を越えていましたが、雨はなおも容赦なく降り続けます。この水害時、臺灣新聞社の社屋は「新町」と呼ばれた新富町一丁目辺りにありましたが、比較的洪水被害の少なかったここですら、六センチほど床上浸水しています。臺中公園に近い東大墩集落の中心地は更に水位が高く、日干し土煉瓦の家屋が一軒、吸湿能力の限界を迎えて倒壊し、使用人が一名圧死する被害が出ました。また、歩行が不自由な纏足女性が避難途中に水に足を取られ亡くなるケースも出たようです。


 そして明治44年には8月27、28日、8月31日、9月1日と連続の暴風雨がさらなる被害をもたらしました。

 もはや待ったなしなこの状況下で道路と河川の整備計画が打ち出され、初期からの日本人街である新町のど真ん中をも容赦なく貫く予定線が引かれて、村上町通と新富町通の工事は始まったのでした。

 なお、柳町通(興中街)もこの時にできた道で、更にその北側では柳川の北側流路の整備が行われ、川向こうの初音町、若松町へ遊郭が移転しています。また、臺中公園横の公園路、櫻橋通(臺灣大道)、刑務所横の林森路の拡幅もこの時に始まりました。

 しかし清時代の東大墩集落の通りは、日本時代の道に寸断されつつも、実は路地として今も残っています。新富町ではそれらの道も見ていこうと思います。


 新富町通一丁目の手前、大正橋通(民權路)沿いでは、錦町との境である民族路121巷を過ぎて民權路118巷の手前、日本時代には新富町一丁目64番地だった場所が看板建築長屋の三分割利用。屋根部分の装飾が右端の一棟にしか残っていないのでわかりにくいですが、元は三軒とも同じデザインです。窓の形と、右端の一棟に残る屋根の装飾を見ると、戸袋のある和風看板建築寄りではあるものの、デザイン的にはもう少し洋風に仕上げた感じだったかなと。路地から見ると、背後の建物は和風長屋店舗だったとわかります。

 民權路118巷は、清時代の道の一部。昭和8年(1933年)の火災保険地図では奥が斜めに南下し、榮橋通(民族路)へ通じていました。よく見ると今も道の奥の建物は斜めに建っていて、その頃の様子が窺えます。南側の民族路121巷は日本時代にはまだ車も通れないような細道でしたが、ブロックの真ん中を貫き町境でもあったこの道が戦後に拡幅されたことで、北側の旧道は役目を失い、消えていきました。

 新富町通との交差点角地の南側にはモダニズム看板建築長屋が一軒残り、その隣、交差点角地の建物もよく見ると寄棟角地店舗の魔改造物件のような。この辺りは新富町一丁目62番地にあたります。

 新富町通の北側では、民權路152巷までが新富町でしたが、柳町との境になるこのあたりは日本時代にはまだ小川と路地が入り組んでいた地帯で、当時の建物は全く残っていません。


 新富町一丁目に入ると、まず北側の角地には真言宗醍醐派臺中布教所がありました。真言宗の台中市進出は昭和以降。具体的にいつ設けられたという記録はないようですが、昭和10年末に作成された職業地図には記載されています。

 新富町通一丁目北側の三民路二段3號は、閩南式モダニズム看板建築が二分割利用され、その後、西側がビルに建て替えられた物件。ここは新富町一丁目28番地だった場所。その東隣の新富町一丁目25番地では和風店舗建築が三民路二段5號と7號として二分割利用されたうえで、全面をパネルで覆われる魔改造を受けています。

 南側では角地の恐らく寄棟角地店舗の魔改造だと思われる建物からペンシルビル一棟を置いて、三民路二段6號から五棟分が和風店舗建築。新富町一丁目31番地だった場所です。

 その先の三民路二段18巷を過ぎた南側角地の20號(新富町一丁目33番地)がモダニズム三階建て。その東側四軒分(新富町一丁目34番地)もモダニズム看板建築長屋の四分割利用。三民路二段18巷は日本時代にはなかった路地でした。当時のこの街は南北を結ぶ路地が全体的に少なかったようです。

 榮橋通(民族路)との交差点手前、北側の角地は新富町派出所のあった場所。戦後も1970年代まではここに交番が設置されていたようですが、今はありません。


 榮橋通沿いでは、通りを渡った二丁目側で、新富町二丁目21番地だった南側角地が、その南側の民族路140號まで含めて寄棟角地店舗を分割利用している魔改造物件。民族路140號もその隣も、ぼろぼろになった二階の南京下見が見て取れます。角地のドリンク店部分、新富町二丁目に入った電気店の三民路二段40號部分はそれぞれパネルなどで覆われていますが、恐らく下は同じ木造の和風な寄棟角地店舗がそこまで続いているはず。

 新富町二丁目20番地だった北側角地も、恐らく同じ寄棟角地店舗がやはり分割利用され魔改造されている状態。北側はビル一棟を置いて、新富町二丁目2番地だった和風店舗建築が民族路150號と154號として二分割利用され、どちらも魔改造を受けています。

 榮橋通では民族路巷までが新富町でした。


 新富町二丁目に入ると、北側角地の東隣の三民路二段35 號が、これも角地と同じ建物だったのを分割利用し、三、四階を増築した状態のようです。三丁目との境になる新盛橋通(中山路)の手前では、南側角地の建物が日本時代の三階建てモダニズムビル。丸窓や八角形窓を部分的に取り入れるなど、遊び心のあるデザインです。ここは新富町二丁目34番地だった場所。

 この建物の手前、新富町二丁目32番地には、二軒の病院がありました。今では「七福弘邦大厦」というビルになっている場所です。國友良茂医師が開業した國友醫院は産婦人科で、戦後は李祐吉外科醫院となりました。戦後の住所は三民路二段48巷で、これはこのビルの左手にある路地です。路地の入口にはその頃の建物の名残りのような、半分になった煉瓦のアーチが。もう一つの病院は内科の照山醫院。國友醫院は12室、照山醫院は8室の病室を備えていました。


 新富町通二丁目の南で錦町との境になっていた路地、中山路175巷は清時代の東大墩に於けるメインストリートの一部。本来は一丁目部分と臺中病院の敷地を斜めに貫き、柳川のほとりを通って公館集落の裏手を通って南屯へ向かう道でしたが、大正元年(1912年)に臺中病院が今の場所で建てられてからは行く手を塞がれます。一丁目部分の斜めの道も終戦後の数年間で失われましたが、この道沿いの新富町一丁目51番地には広島県出身の畳屋さんが宮崎茂商店を構えていました。昭和には既に裏通りとなってしまっていましたが、このお店の創業は明治30年(1897年)。まだ新富町通がなくこの路地がメインストリートだった時代に一等地に構えたはずの店が、立ち退き対象などにならずに取り残された結果、いつの間にやら裏路地に建っていることになってしまった、そういう店でした。


 中山路175巷を進んでいくと、新盛橋通(中山路)に出る直前の北側、中山路175巷2號と4號の部分は閩南式煉瓦モダニズム看板長屋の二分割利用で、4號がかなり魔改造を受けている状態。ここは日本時代の新富町二丁目85番地にあたります。その先、新盛橋通との北側角地は洋風木造二階長屋で、三分割利用されている状態。角地側の中山路177號が全面を覆う魔改造を受け、真ん中の179號は当初の姿を留めた状態、北側の181號はベランダを設け三階を増築しています。ここは新富町二丁目86、89番地だった場所。その北側もモダニズム看板建築で、正面には丸に吉の字が入っています。新富町二丁目88、89番地だったこの建物がなんという店だったのかは残念ながらわかりません。

 新富町二丁目側ではそこから数軒北側の中山路195號がバロック看板建築の魔改造。その北側は同じ形のバロック看板建築三連棟で、一番南側の197號が魔改造されていますが、199號、201號は当初の姿を割と留めています。ここは195號と合わせて新富町二丁目36番地。

 そのまた北の中山路205號と207號は、新富町二丁目35番地にあった林寫真館の右側半分を二分割利用している物件。林寫真館の店舗は大正6年(1917年)に建てられた木造の洋風二階建てで、建設当時は右手の角地の建物はまだなく、今はビルで隠れている側面の壁に大きく「林寫真館」と書かれていました。残っている側の二階部分が当時はスタジオで、窓は大きく開けるよう、この部屋のものだけが戸袋を備えた和風の引違いになっています。屋根には天窓も設けられていました。

 そしてよく見ると、左側で魔改造されている三階建ての201號、203號も実は木造。これって亭仔脚の部分を中二階までアップさせて上に三階を増築した林寫真館左側半分の成れの果てなのでは? 林寫真館の創業者は林草さん。1881年生まれの林草さんは、日本時代が始まったばかりの14歳の時、「森本寫真館」の店主だった荻野さんと知り合います。そこから森本寫真館でカメラマン修行を始めた林草さんは、明治34年(1901年)に荻野さんが帰国することになると、その写真館の建物を受け継ぎ、「林寫真館」を開業、そして大正6年に、築20年以上の写真館を新たな建物へと建て直したのでした。

 林草さんは戦後の1953年に交通事故で亡くなってしまいましたが、「林照相館」と名を変えた写真館はその子供たちによって受け継がれます。中でも四男の林權助さんは父の助手を務める傍ら、写真のカラー化技術の研究を行い、台湾に於ける初期カラー写真作品を多く残した人物。また妻である吳足美さんが日本留学してメイク技術を学んできたこともあり、夫妻は台湾の結婚記念写真文化の礎も築きました。今もなお、三民路沿いは結婚写真用の大規模な撮影スタジオが無数に並ぶ場所。台湾の結婚式でお馴染のこの文化は今はなきこの写真館から始まったのです。


 三丁目側は中山路192巷を越えると新富町になります。若干ライトを意識した感じのアールデコ的な装飾を持つ臺中市第二信用合作社の二階建てビルは、恐らく新富町三丁目26番地にあった有限責任臺中協賛信用組合の今の姿。

 新富町通を越えると、三丁目側はまるごと新富町市場。二丁目側では新富町二丁目12番地だった角地の北側の一角にあたる中山路217號と219號が閩南式モダニズム看板建築の二分割利用で、その先に数棟並ぶビルの内、235號~245號までの部分が日本時代は新富町二丁目6番地で山中龜次郎さんが経営する料亭の富貴亭があったところ。

 火災保険地図を見ると相当広大な料亭だったらしいこの富貴亭の名前は、この辺りにあった日本人街「富貴街」にちなんでいます。


 新富町通三丁目の北側全てを占める「新富町市場」は、市内に二番目に設けられた市場だったため「第二市場」と通称され、今ではそれが正式名称となっています。

 大正6年(1917年)11月の開場当時は中央の六角樓とそこから放射状に伸びている三つのアーケード棟のみが市場の建物で、周囲には露店が立ち並んでいる状態でした。その後、昭和12年(1937年)までに市場の東側に貸店舗棟が建てられ、昭和20年(1945年)までには西側と南側にも貸店舗棟が伸びて、北側以外を貸店舗棟が囲った形になります。

 元々東大墩集落では、錦町二丁目辺りに街道沿いのT字路があって(地図を見ると恐らく中山路175巷が途中で曲がる辺り)、そこが周辺の人々の食品市場でした。周辺の集落から売り物を担いできた人々が、道の真ん中に腰を下ろしてそのまま販売を始め、販売過程で出た生ごみをそのままどぶに捨てているこの「市場」は、領台当初に赴任してきたばかりの官僚たちから見ると衛生的にあり得ない状態だったらしく、仮設でいいから市場を作らねば、屋台でいいからなんとか全員収容して市場内で商売させねば、となって、台中市の消費市場は誕生します。

 この第二市場は日本時代に於いては「上質且つ高価な品を扱う日本人向け市場」でした。西側の富貴亭だけでなく、市場の裏手、臺灣大道一段403巷を挟んで背中合わせとなる柳町三丁目20番地にも「いろは料理店」があります。柳川の向こうの遊郭に対する仕出しの需要もあったでしょう。


 戦後、市場内には守り神として關帝様と媽祖様を祀る「建武德宮」が建立され、貸店舗棟も今はかなり魔改造が施されて今に至っています。「小庭找茶台中第二市場店」というカフェがこの貸店舗棟部分にはあるので、ここから建物内部の様子を窺えるかも知れません。


 新富町通三丁目の南側では、新盛橋通との角が新富町三丁目33番地だった「カフェーバンザイ」。割と大きな建物だったようですが、この部分は今、角地がトタン建物、その東側は戦後に建てられたのだろう間口の小さな三階建てビルで、当時の面影はありません。トタン部分はその下に木造建物の気配がなくもないのですが、大きなカフェーが入っていた建物らしいかと言われると、そんなモダンな雰囲気は全然感じられない気がします。

 その東、駐車場から三民路二段74巷までの間は新富町三丁目3番地で、曾池さんの営む大正3年(1914年)創業の大森材木商行が広々とした店を構えていました。

 櫻橋通(臺灣大道)手前の角地部分は、二階建てのモダニズム建築をカーテンウォールで囲った状態のように見えなくもありません。ここは新富町三丁目8番地の一角になります。

 新富町通三丁目の南側では、臺灣大道一段299巷が昔の街道だった路地。櫻橋通へ向かって歩いていくと、南側の臺灣大道一段299巷5號が閩南式モダニズム看板建築で、その左右は和風看板建築の魔改造です。三軒とも錦町三丁目42、46番地あたり。

 日本時代、この路地の北側には鰻の寝床な閩南式街屋がずらっと並んでいたらしく、新富町との境目は、それらの建物の裏手をなぞっていく形になっていました。


 櫻橋通沿いでは新富町通との三丁目側交差点手前、南側角地の手前の建物が、よく見ると二階建てのモダニズム看板建築だったのを、左右共にタイルコーティングした状態で二分割利用。二階部分の窓は上げ下げ窓だったのをスライド窓に変え、その際に上の方は壁にしています。右側の建物はこの時に窓を拡大。更に左側は三階を、右側は三、四階を増築している状態。ここも新富町三丁目8番地の一角です。

 新富町通を越えると、新富町四丁目側で臺灣大道一段370號から坂神長崎蛋糕の手前までがずらりと閩南式モダニズム看板建築長屋の分割利用で、これは新富町四丁目7、15、16番地だったあたり。


 市場と向き合うカステラ店「坂神長崎蛋糕」の店舗は、ちょうど新富町と柳町の境目あたりに位置します。店舗の北側から先が柳町と考えていいでしょう。

 この店も『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』に登場する、楊双子先生お勧めの台中の味。「台中の懐かしの洋菓子と言えばここ」に加え「全台湾で一番美味しいカステラ」とまで書いてあり、描写もめちゃくちゃ美味しそうなこのカステラを買うには、お店に行って直接並ぶか、お店に行って予約して近所で焼き上がりを待つか、の二通りの方法しかないとのこと。カステラを予約してからこの辺りを見学して回るのがいいかも知れません。

 なお、このカステラは「長崎蛋糕」の文字でわかる通り、あのポルトガル伝来の長崎のかすていらであって、台湾カステラではありません。台湾では日本時代には「カステラ」として伝わり、戦後は改めて「長崎蛋糕(長崎ケーキ)」の名称で導入されたそうです。そして「蜂蜜蛋糕」という呼び名もあって、これはカステラの中でも材料に蜂蜜を加えた独特なカステラを指すそう。

 ……「蜂蜜蛋糕」は普通にはちみつケーキだと思っていて、『北城百畫帖』で明湖ちゃんが焼いているのを「はちみつケーキ」としていたんですが、あれ、「はちみつカステラ」にしておくべきだったんだろうか?


 気を取り直して櫻橋通を渡り、新富町四丁目に入りましょう。

 新富町通四丁目沿い、南側角地の二階建ては、恐らくモダニズム看板建築の魔改造で、背後の実際の建物は和風寄棟角地店舗。新富町四丁目55番地だった場所です。

 その東隣の三軒は閩南式モダニズム看板建築長屋で、ここは新富町四丁目58番地。

 続いて建つ「耶穌救主總堂」は、日本時代には「臺中天主堂」。

 彰化の羅厝天主堂主任司祭だったドミニコ会士マヌエル・プラット師が大正3年(1914年)に台中市内で土地を購入し、竹で小屋状の教会を建てたのが始まりです。この教会は翌年には煉瓦造の二階建てに拡大し、更に翌年の大正5年(1916年)にゴシック式の初代聖堂が完成しました。

 戦後の1951年に台中使徒州が設置されると信徒が増加したことから、1956年に現聖堂の建設が計画されます。翌年着工した現聖堂は1958年に完成し、今に至っています。


 一方、新富町通四丁目の北側を見ると、三民路二段119巷の手前が閩南式モダニズム看板建築五連棟で、西側の二軒だけがパネルで前面を追う魔改造状態になっています。

 ここは新富町四丁目42から44番地。42番地には昭和5年(1930年)に「新彬醫院」が開業します。

 院長である陳新彬医師は總督府醫學專門學校卒業後、總督府醫學校熱帶醫學專攻科に進学。そこを卒業後は更に東京帝大に留学し、産婦人科、生理学、内科を学んで博士号も獲得して帰台した内科医でした。

 『台中市人物志』によると陳新彬医師はその後、エスカレートしていく皇民化に抗ったことで目を付けられ、身体が弱かったにもかかわらず昭和18年(1943年)に軍医としてフィリピンの野戦病院へ派遣されます。翌年、陳新彬医師はフィリピンで病死しました。


 三民路二段119巷は、反対側の角地の121號(新富町四丁目39番地)も閩南式アールデコ看板建築の魔改造です。

 そしてこの路地を入っていくと、東側に原大墩街王宅(中區第一任街長宅第)が。

 三民路二段119巷2號に位置するこの煉瓦造の三合院は、大正年間に完成。大正時代初期の新富町通開通など、このあたりの街造りが終わった後で改めて建築されたことになります。

 この家を建てたのは王對さんという人ですが、この王對さんのお父さんである王田さんは、日本時代が始まって間もない明治31年(1898年)に「臺中辨務署第一區街長」に任じられ、明治33年(1900年)からは引き続き「東大墩區街長」に任じられた人物でした。その王田さんもこの家で暮らしていたため、「中區第一任街長宅第」という通称がついています。


 新富町通四丁目の南、臺灣大道一段306巷は、かつての東大墩メインストリートの一部。ただし櫻橋通側の入口は日本時代に少し北へ移動され、三丁目を抜けてくる臺灣大道一段299巷と直接繋がる位置ではなくなりました。

 その北側の、錦町との境になる臺灣大道一段336巷。天天饅頭の屋台があるこの道も東大墩の昔の道でした。この道の西側は昭和11年にはもう住宅に埋もれてしまっています。

 臺灣大道一段336巷に入って割とすぐの北側に、アールデコ風の二階建て。これは臺中天主堂の手前にあった新富町四丁目58番地に建つ閩南式モダニズム看板建築長屋の裏手のあたり。

 その先、臺中天主堂の裏手あたりに、南の臺灣大道一段306巷へ繋がる路地があります。この路地の東側角地、新富町四丁目9番地2には、この時期の二階建て日本家屋では珍しい妻入りの建物が。


 新富町四丁目と五丁目の境となる干城橋通(成功路)沿いでは、四丁目側をだいぶ柳町方向へ進んだ成功路253號が閩南式バロック看板建築。ここは新富町四丁目24番地あたりで、この建物の北側はもう柳町です。

 反対の五丁目側では成功路268巷の手前までが新富町で、この路地手前の成功路266號の「大立禮品工藝社」が和風看板建築の魔改造。ここは新富町五丁目26番地の一角でした。


 新富町五丁目に入ると南側の角地、今は大きな下駄履きマンションになっている辺りが日本時代はまるごと新富町五丁目51番地。ここは昭和2年(1927年)創業の、周秋金さんによる秋金家具店があり、西洋家具と屋内装飾品が販売されています。

 それと向き合う北側の角地は、恐らく和風寄棟角地店舗の魔改造物件。ここは新富町五丁目26番地だった場所の一角。

 その先、三民路二段149巷の手前のビルは新富町五丁目23番地。潁川小兒科醫院(小児科内科レントゲン科)が日本時代にはここに建っていました。

 潁川小兒科醫院は陳彩龍医師が昭和11年(1936年)に開業し、『台中市概況』によると病室は6室。ただしこの時は病院は榮町一丁目19番地にあり、その後、昭和16年(1941年)までにここへ移転してきたようです。

 陳彩龍医師は臺北醫學專科學校を卒業後、慶應大學の醫學部に留学し、博士号を取得して帰台します。その後は臺中病院で働きながら潁川小兒科醫院を開業しました。

 陳彩龍医師の弟、陳水潭医師も豐原で「潁川醫院」を開業しています。さらに陳彩龍医師の息子、陳端堂医師も日本に留学し、戦後に帰台。台中醫院の外科主任となった陳端堂医師は、1959年に退職して穎川小兒科醫院の二代目院長になりました。なお、この一族は政界にも進出し、陳端堂医師は1973年から1977年まで台中市長を務めています。

 三民路二段149巷を過ぎると、光復路との交差点やや手前の新富町五丁目16番地9と10だった三民路二段161號と163號がアールデコ看板建築二分割利用で、東側の163號が三、四階を増築している状態。


 新富町通五丁目の南では、成功路248巷と成功路228巷が清時代の道。

 成功路228巷は途中のT字路手前の角地(錦町五丁目11番地の一角)に、閩南式モダニズム看板建築の魔改造。T字路部分の228巷では角を曲がった部分(ここも錦町五丁目11番地の一角)にも同じタイプの閩南式モダニズム看板建築があって、こちらは三階を増築済み。その先の東吳時計(錦町五丁目15番地の一角)も怪しい気がしますが、ストリートビューだとよく見えません。成功路228巷はこの先、本来ならば新富町6丁目の光復國小の敷地を斜めに突っ切り、新富町と柳町の七丁目も斜めに抜け、川を越えて大湖街に繋がっていましたが、大正8年(1919年)に光復國小の前身である「臺中第二尋常高等小學校」がこの場所に設けられたことで行く手を断ち切られます。

 新富町と錦町の境となる成功路248巷も、本来は光復路と新富町通の交差点へ向かって斜めに北上していましたが、日本時代に今のルートへ修正されました。


 六丁目との境となる光復路沿いでは新富町通の北側で、新富町五丁目14、15番地だった光復路163號が、和風店舗建築の魔改造。更にその先の路地手前の新富町五丁目11、12番地だった175號と177號がモダニズム看板建築の二分割魔改造です。


 新富町通六丁目では、南側が「新富尋常小學校(今は臺中市立光復國民小學)」。

 大正8年(1919年)に「臺中第二尋常高等小學校」として創立したこの学校は、「第一尋常高等小學校」だった明治小学校に間借りする形で授業を開始。新富町六丁目の校舎はその翌年に完成します。

 この学校の敷地は、元々は東大墩の街道が通っていた場所。そしてその街道沿いに、初音町へ移転した輔順將軍廟順天宮が建っていて、「馬舍公街」と呼ばれていた辺りでした。

 学校名は昭和7年(1932年)から「臺中州新富尋常小學校」と変わります。

 戦後は名称の変遷を経て、1968年から現在の名称である「臺中市立光復國民小學」に。当時の校舎は1992年から建て替えが進み、残念ながら現存しません。向かいにある臺中公園の敷地内に日本時代に設けられた運動場は、今ではこの学校の校外運動場となり、生徒たちが安全に移動できるよう地下通路で繋がっています。


 新富町通の北側では、光復路との交差点を渡って二軒目の三民路二段171號がモダニズム三階建て。ここは新富町六丁目21番地だった場所。その先、三民路二段183巷手前(新富町六丁目17、18番地)のモダニズム三階建ては恐らく戦後の建物ですが、三民路二段183巷に入るとこの建物の裏手が斜めになっているのがわかります。

 この裏手の三角地帯は日本時代には新富町六丁目16番地の婦人病院だった場所。三民路二段183巷の1~19號あたりまでの西側が全てこの病院の敷地でした。


 台中婦人病院は、貸座敷業者からの寄付によって明治39年(1906年)に「驅黴院」として誕生します。当初の位置は若干、後の新富町通に引っ掛かるあたりだったらしく、道路工事の際は一部が取り壊し対象になった模様。

 大正元年(1912年)の暴風で病室が倒壊したのを受けて現在の位置に病室を建築し、検黴所も併設します。この検黴所はその後、遊郭が初音町に移転したのを受けて大正4年(1915年)に初音町に新設移築されました。

 初音町の項で言及した「常盤町遊郭」は、錦町の三、四丁目辺りにあり、後の錦町通と新富町通の間にほぼ挟まっていました。恐らく天天饅頭の路地、臺灣大道一段336號を中心としてその南北に店が並んでいたと考えていいでしょう。

 開花樓、日清樓、梅月、小泉、萬梅(明治34年から稲福と改名)、浪華、八千代、太田(明治34年から稲本と改名)、新遊(明治34年から一力)、八幡、末廣、千代菊、高砂、武蔵野、といった店名の貸座敷があり、かなりの店が昭和になっても営業を継続していたとわかります。


 『台中市史』には患者の内分けも乗っていますが、それによると、台湾人患者はいっさいいませんでした。これは初音町遊郭にいた台湾人女性が藝妲であり、藝妲は「芸は売るが体は売らない」が基本の存在だったためだと思われます。

 日本でも本来芸者はそういうものであって娼妓とは別物なのですが、この時代の日本では不特定多数相手に売春を行なう二枚鑑札までは行かなくとも、パトロンとして旦那を持つケースが多く、「芸は売るが体は売らない」を貫く芸者の存在は極めて限られたものとなっていました。このため日本では大半の花街で、芸者の性病検査は当たり前のこととなっていましたが、藝妲の世界には性交渉を前提としたパトロンが存在しません。

 これは日本に於いては芸者の旦那となって高価なお座敷着などの世話をすることが、普通に別宅を構えて妾を囲うよりも金の掛かる道楽であり財力の誇示であった一方、中華世界に於いては纏足と同じ理屈で、恋人関係にある女性を働かせている男性はむしろ甲斐性なしと見做されるからです。

 このため藝妲に対して性病検査を行うというのは大変な侮辱であり、杓子定規に藝妲の世界へも性病検査を持ち込もうとした警察に対しては相当な反発があったようです。

 台湾人芸者である藝妲の育成方法も日本とは若干違い、「お母さん」が貧家の娘を「養女」として買い取って芸を教え、自分の稼ぎが乏しくなると「娘」のマネジメントをして「娘」の稼ぎで食べていく、というサイクルです。

 「娘」を名妓として育てることは「お母さん」にとって必須の課題であり、藝妲達は清時代の女性としては珍しく識字率の高い詩才にも長けた存在として、知識人である高官の宴席に侍って通用するレベルの教養人となっていきます。

 日本時代に於ける藝妲は一種のアイドルであり、女流詩人として名を馳せた他、レコードデビューを果たした例もありました。

 しかしその一方で、日本時代にはダンスホールやカフェーといった新たな水商売が台湾にも多々流入し、藝妲は廃れていきます。


 新富町にだけは七丁目があります。六丁目と七丁目の境となるのは公園路。この道沿いでは、当時新富町六丁目6番地だったあたりの公園路37號の建物が、恐らく閩南式二階建て看板建築に、巨大看板を装着した状態でしょう。

 新富町七丁目では、臺中公園と七丁目の間を通る新富町通七丁目(三民路三段)が戦後になって大拡幅され、これによって七丁目の通り沿いの土地がかなり削り取られたため、日本時代の建物はほぼ残っていません。公園路との角地だった新富町七丁目4、5、6番地あたりには和風寄棟角地店舗があったようですが、これも分割利用され、拡幅工事の影響もあって一部はビルに建て替え済みです。

 日本時代にこのブロックを斜めに貫いていた路地は、大湖街に続くかつての街道だった三民路三段7巷。

 拡幅工事によって南東の入り口部分が削られただけでなく、ブロック中央を南北に貫く、より利便性の高い三民路三段29巷などが開通し、そもそもこの道自体も街道としての意義を失ったことにより、徐々にその中央部ではルートが改変されていきます。

 ただし、中央部以外ではまだかつての道が残っています。車が通れないためストリートビューでは路地内部の様子を確認できませんが、徒歩で辿ることは可能なので、光復國小の敷地から続いていたかつての道に思いを馳せつつ歩いてみるのもいいかもしれません。

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