第30話 昭和台中市~錦町今昔:本島人エリート街

【錦町】

 ここからは寶町の北隣となる錦町。

 臺中郵便局裏手の錦町通(平等街)一丁目に入る前に、大正橋通(民權路)沿いで新富町方向へ目をやると、ぼろぼろのバロック看板建築が見えます。ここは日本時代には錦町一丁目3番地だった場所で、その北側のビルは、「塩田旅館」跡地。

 日本時代初期に台湾へ渡った人々の三大ビジネスは、飲食店、雑貨店、旅館。もちろん入れ替わりも激しく、例えば鐵道開通式の際に来賓を受け入れた旅館五つの内、昭和11年にも残っているのは二軒だけという状態なのですが、台中市のこのエリアは日本時代を通じ、更に戦後も含めて長らく臺中駅前と並ぶ旅館のメッカであり続けました。


 錦町一丁目に入ると、郵便局裏手を過ぎてすぐに北側へ向かう路地、三民路二段18巷があります。錦町通一丁目沿いではこの路地との角地の一軒先の部分が閩南式の看板建築を魔改造したもの。本来は角地部分も同じ形式の建物だったのでしょうが、そちらは取り壊されています。日本時代は錦町一丁目16か17番地だったあたりです。その東側、通り中ほどから少し東側へ寄った15番地には、大正6年(1917年)に長野県出身の犀川彪さんが創業した書店「犀川善光堂」と、やはり書籍を扱う池ヶ谷栄吉さんの店がありました。犀川さんの店は他に和紙洋紙の販売と印刷も行い、池ヶ谷さんの店は文具も扱っています。二軒の書店がうまく分業できていたようです。


 二丁目との境となる榮橋通(民族路)との交差点へ向かう途中、目に飛び込んでくるのは榮橋通の手前、北側の角地に聳える大きな木。実はこここそが楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』最重要聖地の一つ。


 同作の主人公である小説家志望の自称「ニート」な阿貓と大学院生の羅蜜容がお茶していたあのカフェ。ステンドグラスに出窓、丸テーブルにフリルのカーテン!

 この素敵な店はいったい何処なのかを知るべく、漫画内で描かれている看板(当初は鹿角巷の看板かなと思った)や、窓の外の景色をヒントにしつつ、台中市の古民家リノベ(だと思っていたのですが、実はこの前提自体が間違っている)なカフェ情報を調べまくったのですが遂にわからずじまい。一応、ここかなという候補はあったものの、内部の写真や窓の外の景色を見るとなんか違う感じなのです。市内の幾つかのお店を組み合わせて生み出された架空の店舗なのかなと思わなくもないものの、でも小説版の方にも「小さなカフェ」に行った、とわざわざ書いてあるし、しかも他の映画館でも書店でも全部、想定されているだろう場所が実際にある状態。これで「小さなカフェ」だけが架空の店だなどということがあるだろうか? いや、あるはずがない。

 という訳で楊双子先生に「モデルはここですか?」と、私が見つけた中では一番雰囲気が近い感じだったお店の名前を添えて問い合わせてみたところ、「『小さなカフェ』はここです」と先生が教えてくださったのが、錦町通一丁目と榮橋通の交差点で大樹の陰に佇むカフェ「老樹咖啡」でした。

 位置的にも阿貓の縄張りに近く、非常に納得な感じです。

 なお、このカフェ探しの過程で、台中には他にも「日替わり台中カフェ365日」がやれそうなくらい、素敵なカフェやら茶館やら美味しそうなケーキ屋さんやらが山ほどあることも判明しております。


 榮橋通沿いでは通りの向かい、錦町二丁目の北側角地に目をやると「桔滋早午餐」という店が。錦町二丁目37番地だったここにも、日本時代は書店がありました。

 明治30年創業の棚邊書店。明記されている業務内容は、書籍、月刊誌、各種文房具、運動具販売と新聞の取次。しかしそれ以外に、日本時代には数々の写真絵葉書を発行し、当時の台中市の景色を今に伝えています。

 昭和10年時点の店主は棚邊久吉さんですが、昭和6年(1931年)の中島新一郎著『六千分之一臺中市街圖』、昭和9年(1934年)の杉目妙光著『臺中州鄉土地誌』の発行者は棚邊久太郎さん。この棚邊久太郎さんは昭和10年(1935年)11月の「第一回市會及街庄協議會員選舉」にも出馬しているので、出馬のために久吉さんへ代替わりしたのかも知れません。なお久太郎さんは昭和13年(1938年)に臺中商工會議所議員に任命されています。

 一丁目の犀川善光堂と池ヶ谷さんの書店、そしてこの棚邊書店。この三ヶ所を回れば、欲しい日本語書籍はだいたいゲットできたのではないでしょうか。加えて、職業地図にのみ掲載されていて番地が判明していませんが、寶町三丁目には榮山堂書店、錦町二丁目には大石丸書店という二店もあったようです。

 そして「桔滋早午餐」はよく見ると、恐らく木造の二階建て。ということは日本時代の和風寄棟角地店舗を魔改造した物件で、つまりは棚邊書店の建物そのものということになるのでは? 確認に行きたい。


 榮橋通を越えて錦町二丁目に入ると、錦町通二丁目沿いではブロックの中ほどを過ぎた北側、錦町二丁目30番地だったあたりにモダニズム風の二階建てが。窓の配置的に分割利用はしにくそうなので、恐らく看板建築ではなく、二階建てビルとして建てられているはずです。この住所には日本時代、食品、酒、缶詰、米を扱う平田商店がありました。


 三丁目との境の新盛橋通(中山路)沿いには、寶町との境になる中山路143巷及び臺灣大道一段253巷を過ぎたあたりからまた日本時代物件が増えてきます。二丁目側では錦町通の交差点から南側を覗いてすぐの44番地だった中山路153號と155號に和風看板建築の名残りではという気配が漂い、三丁目側では臺灣大道一段253巷のすぐ北にモダニズム看板建築が(錦町三丁目81番地あたり)。ペンシルビルを一棟挟んでその北の二軒は、木造店舗長屋の魔改造なようです(錦町三丁目83、84番地あたり)。

 一方、錦町通との交差点より新富町方向では、三丁目側で臺灣大道一段299巷手前に二軒、和風店舗長屋の分割利用らしい魔改造済みの二階建てが見えます。日本時代にはその手前の三階建て部分まで含めた長屋だった可能性が高そう。この路地の北側にはバロック看板建築が三棟(錦町三丁目1、8、9番地)。このうち、1番地だった北側角地は日本時代には錦町郵便局の所在地でしたが、戦後のどこかで移転したらしく今は入居していません。


 新盛橋通を越えて錦町三丁目に入ると、北側角地がスケルトンになっています。二階建てのこれも恐らくは日本時代の建物。ただし、錦町通三丁目の北側は、臺灣大道一段299巷との間の部分がこのスケルトン含めて全て47番地。このため、この建物が何だったのかは非常に判断しにくい状態です。

 可能性が高そうなのはやはり病院。大正元年(1912年)に張灥生先生が自宅で開業した小児科の「博愛醫院」が錦町三丁目47番地のどこかにありました。病室も八室なので、それなりの規模だったはず。ただしこの先生は1968年に亡くなり、その後、この病院がどうなったかも、そもそもこの病院の所在地がこの角地だったかもわかりません。

 錦町三丁目には他にも45番地に、内科の王醫院があります。この場所には元々「長春醫院」という病院があり、昭和9年(1934年)までに王清木医師の王醫院がそこへ移転した模様。昭和4年(1929年)の資料では王医院は櫻橋通の向こう錦町四丁目40番地にあり、この場所は長春醫院ですが、昭和9年の『臺灣人士鑑』時点では既に王醫院の住所が三丁目45番地となっています。

 村上町一、二丁目の臺中醫院にほど近いこのエリアは私立病院と薬局のメッカでもありました。


 錦町通三丁目沿いでは日本時代物件がかなり残っていて、まず通りの北側、錦町三丁目47番地の一角だった平等街71、73號が閩南式アールデコ看板建築長屋の二分割利用で、71號側が取り壊し済み。通りの南側では平等街56 巷を過ぎた58號(錦町三丁目56番地の一角)が和風店舗建築のやや魔改造。通りを挟んでこれと向き合う北側の錦町三丁目47番地の一角だった77 、79號も同形式の和風店舗建築長屋に三階を増築したもの。北側ではこの先、85、87、89號(やはり錦町三丁目47番地の一角)も和風店舗長屋の三分割利用で85號が大幅魔改造済み。その向かい、通りの南側では錦町三丁目56番地の一角だった64號がベランダタイプの閩南式洋風二階建て。

 ただし残念ながらこれらの店舗建築にどういった店が入居していたのかはほぼわからない状態です。

 内科の王醫院は、錦町三丁目の最東端、櫻橋通に面した北側の角地にありました。戦後に建てられたらしい三階建てビルに、今は皮靴店が入居しています。


 櫻橋通沿いは寶町と錦町の境になる臺灣大道一段253巷と臺灣大道一段258巷の北側から、日本時代物件が多め。

 三丁目側では臺灣大道一段253巷の北側角地、臺灣大道一段255號(錦町三丁目65番地)が昭和モダニズムな三階建ての魔改造で、その北隣の257號(錦町三丁目65番地)も日本時代のアールデコ看板建築。そこから一棟置いた261號(錦町三丁目61番地あたり)が和風店舗建築で、そこからまた一棟置いた263號、265號(錦町三丁目57、60番地あたり)の二棟もそれぞれ和風看板建築の魔改造物件らしい気配があります。

 錦町通と櫻橋通の交差点北側では、臺灣大道一段299巷を過ぎた先で、臺灣大道一段307、309號(錦町三丁目39番地)が、モダニズム看板建築長屋を分割利用後にそれぞれで魔改造し、三階だけ共同で増築した物件の模様。


 一方、櫻橋通沿いで錦町四丁目側は、錦町通より南側だとビル化が進むなどして日本時代物件があまりないのですが、錦町通と櫻橋通の交差点を過ぎて北側に入ると、俄然物件が増え始めます。

 まず、交差点の四丁目北側角地がモダニズム三階建てで、その北側にバロック看板建築が二連棟。ここは角地と合わせて錦町四丁目75番地の一角。その北の臺灣大道一段306巷を越えた先、錦町四丁目40番地の南端部分だった臺灣大道一段310號が、ベランダ部分をはみ出させた閩南式洋風看板建築の魔改造。

 その北隣、312號(錦町四丁目40番地)はモダニズム看板建築に三階を増築。そのまた北隣の316號(錦町四丁目40番地)は和風看板建築の魔改造物件。この北、318號とその隣は、錦町四丁目1番地だったモダニズム煉瓦看板建築長屋の二分割利用で、318號が三階を増築されている状態。

 その次の322號と324號は錦町四丁目2番地だった昭和モダニズム煉瓦造看板長屋で、324號がパネルで覆われている状態。その次の326號(やはり錦町四丁目2番地)もパネルで覆われていますが、これは恐らく独立一棟の昭和モダニズム煉瓦造。

 新富町との境になる臺灣大道一段336巷の手前、330號と332號は錦町四丁目3番地で、モダニズム看板建築長屋を二分割利用し、それぞれに三階を増築している状態。330號側の魔改造が激しく、増築部分も同じ色のタイルを張っているため、パッと見では増築だとわかりません。


 臺灣大道一段336巷を入った場所に「天天饅頭」の屋台があり、これは楊双子先生の『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』にも登場した台中の味の一つ。

 日本時代にこの店があったら臺中高女の生徒達もきっと食べていたはずとまで言われているらしいおやつ、「揚げ饅頭」の屋台。1949年からの営業だそうなので、昭和11年の主人公達がこれを食べられるようになるまでは残念ながらあと13年待たなくては。

 「饅頭」に餡が入っていて不思議がられないのは、たぶん日本時代に日本式の餡入り饅頭の存在が浸透したから。中華圏では本来「饅頭(マントウ)」は中身なしのパンみたいなもので、中身が入っていればそれは「包子(パオヅ)」。でも「天天饅頭」は「饅頭」と書いても餡入りな日本感覚の「揚げ饅頭」です。

 なお、寄り道厳禁、生徒だけでの飲食店出入り厳禁な臺中高女の生徒の皆さんはそれでもそれなりに台湾の味に親しんでいた模様。同窓会が出している会報に、同窓会の様子が書かれていて、ある時ビュッフェスタイルで油條などテーブルに並べたところ「きゃー懐かしい!」な反応だったようで。

 両親と一緒に「醉月樓」で食べたの!とかではなく、どう考えてもその辺の屋台の味だと思うんですが、女學生の皆さん、それ、日本時代にどういうルートでゲットして召しあがっていたんですか??


 時を13年巻き戻して、昭和11年の錦町四丁目に入りましょう。櫻橋通(臺灣大道)に面した北側角地の建物は三階建てのモダニズムビル。錦町75番地のここでは、東京齒科醫學專門學校への留学から戻った張深鑐医師が昭和4年(1929年)から「昭和齒科醫院」を開業していました。

 昭和10年(1935年)の第一回市會及街庄協議會員選舉で当選し臺中市會議員となるなど、日本時代の台湾に於ける台湾人の自治を求めた張医師は戦後、二二八事件の際に「二二八事件處理委員會」となったことから逮捕される羽目に。危うく処刑されるところだった張医師は、友人たちが助命に走り回ってくれたおかげで幸い釈放に漕ぎつけましたが、「昭和齒科醫院」はこの時、政府からの要請で「招和齒科醫院」と改名しています。

 その後の張医師は戒厳令下の台湾で、再び台湾の民主化のために党外人士として奔走し、民主化後の1995年に亡くなりました。

 「招和齒科醫院」はその間に「深鑐牙科診所」へと再び名を変えて中山路104號に引っ越し。大正町三丁目の新盛橋通沿いモダニズム看板建築の中の一棟に、今も「深鑐牙科診所」の文字がぼんやりと見て取れます。


 「昭和齒科醫院」のモダニズムビルと錦町通を挟んで向かい合う、南側の角地は錦町派出所。ここに隣接する南側の臺灣大道一段258巷と櫻橋通の角地、寶町から錦町に入ったすぐの場所には臺中市消防組詰所がありました。

 『台中市概況』によると、市内の中心でなお且つ標高が高かったためここが設置場所になったとのこと。煉瓦造の二階建てで、さらに「地上六十一尺」ざっと18メートルの高さまで到達できる鉄骨製火の見櫓が派出所の屋上に設置されていました。

 戦後も1960年の地図ではこの配置で派出所と消防署があるのが確認できますが、今では四丁目側の櫻橋通沿いは消防署のあった場所から派出所の場所まで一棟の大型ビルになり、その中には消防署も派出所も入っていません。

 なお、市會議員となった張歯科医は当選記念の集合写真をモダニズムビルの前で撮っています。派出所に向かって笑みを浮かべ記念写真を撮る気分はなかなかに格別なものだったでしょう。

 錦町通四丁目では、干城橋通手前の角地が南側、北側共に日本時代の寄棟角地店舗をそのまま使用している状態で、保存状態も上々。

 北側の角地はその手前にも錦町四丁目61か62番地だっただろう和風店舗建築が見て取れます。ここの南側角地は台湾菓子店の「異香齋」。

 この異香齋も楊双子先生お勧めの台中の味。

 『無可名狀之物』が掲載された『CCC創作集』の「聖地巡礼特集」にも掲載され、『開動了! 老台中』でも取り上げられているこの台湾菓子店は、大正10年(1921年)にこの場所で創業。小豆や緑豆を使ったお菓子の味はその頃のまま、今に受け継がれています。つまり、主人公達が食べた台中の味でもある訳です!

 店内の壁に掛かるレトロな丸時計の文字盤には「赤尾時計店」の文字。この時計店は錦町二丁目の新盛橋通沿い、45番地にありました。愛媛県出身の赤尾賢治さんが大正12年(1923年)に創業し、時計の他、眼鏡、貴金属、装身具を扱っています。残念ながらこの店舗があっただろう場所は、隣の46番地にあった有本和義さんの写真店とセットでビル化済み。


 異香齋の向かい側、やはり日本時代からの寄棟角地店舗「永利行」も、『CCC創作集』の「聖地巡礼特集」で楊双子先生がガイドを書いたお菓子屋さんで、こちらはナッツやキャンディーなど乾きもの中心。店舗の外観、中の秤やショーケースも昭和そのままです。日本時代の台中の大通り角地には、モダニズムビルや洋風仕上げの看板建築だけでなく、こういう和風な店舗建築も並んでいました。異香齋も、錦町二丁目の棚邊書店も、きっと日本時代はこんな感じだったはず。


 干城橋通(成功路)沿いでは、臺灣大道一段258巷と成功路202巷が寶町との境。これを越えると、四丁目側では異香齋の南隣「大梵天宮」(錦町四丁目111番地)が閩南式看板建築に三階を増築した物件。

 錦町通との交差点を過ぎて北側、臺灣大道一段306巷を越えて臺灣大道一段207、209號(錦町四丁目13番地)が恐らく背後の建物は和風店舗長屋だった看板建築の二分割利用で、207號部分は取り壊し済み、209號は全面パネルで覆われた状態。その先、新富町との境になる臺灣大道一段336巷手前の建物は、錦町四丁目11番地だっただろう閩南式モダニズム看板建築長屋を二分割して魔改造したもの。ほぼ全面を覆われていますが、所々に煉瓦が覗いています。その南の215號部分も元は二階部分に上げ下げ窓が三つ並んでいたモダニズム看板建築で、三階と四階が徐々に増築されていったのだろうと推測可能。


 五丁目側では錦町通との交差点を過ぎた北側で、成功路228巷と干城橋通との角地、そして新富町との境になる成功路248巷と干城橋通との角地に、同じデザインの二階建てがそれぞれ魔改造されています。恐らく昔は成功路228巷から成功路248巷まで同じデザインの二階建てが続いていて、それが分割利用され、所々建て替えも経て今の状態になったのではないでしょうか。建物側面の様子を見ると、これは看板建築で、左右それぞれ三棟ずつが路地の入り口部分までを含め横長L字型の二階建て看板を設置した中に閩南式長屋を建て、真ん中四棟分がセットバックしたビルだったようで、このセットバック部分は昭和12年(1937年)の地図でも見て取れます。

 日本時代はまるごと錦町五丁目9番地だった干城橋通沿いのこのブロック。錦町五丁目9番地には陳朔芳医師が明治44年(1911年に開業した内科外科産科の「體仁醫院」がありました。弟の陳英芳医師も、後に彰化で同じ名前の病院を開業しています。

 體仁醫院は病室十三室を備えたそこそこの規模の病院。陳朔芳医師は臺灣總督府醫學校を明治43年(1900年)に卒業後、臺中病院に勤め、その一年後にこの病院を立ち上げました。四丁目の張深鑐医師と同じく台中市の市會議員も務めていたようです。

 ただこの病院があったのが真ん中のビル部分だったのか、それともこの並びの別の部分だったのかはわかりません。


 干城橋通を渡って錦町五丁目に入ります。ここで南側の角地にあるのは、阿貓と蜜容が「訪れなかった」廟。

 台中媽祖の通称を持つ「萬春宮」は、『無可名狀之物』で蜜容が語った「公館」の由来で登場する藍家一族によって建立されました。

 藍家一族によるもう一つの廟、初音町の輔順將軍廟順天宮も元々は錦町六丁目の北側にある「新富尋常小學校」敷地内だったので、この辺りにはその昔、藍家ゆかりの廟が二つ建っていたことになります。


 清の四代目皇帝である康熙帝の治世末期、1721年4月に台湾では武装蜂起「朱一貴事件」が勃発。これは元々は悪辣な「臺灣知府」親子に対する一揆でしたが、人集めのために「反清復明」をスローガンとし、わかりやすい旗印として明朝の皇族と同じ朱姓を持つ「朱一貴」という人物が担ぎ出されたことから、清朝への反乱へと激化します。

 偶然朱姓だっただけのこの朱一貴さんが「中興王」を名乗って台南で即位し、明朝の後裔として「大明」という新国家まで樹立。更に台湾中部でもこれに呼応する反乱が起きて、かつての鄭氏政権の生き残りという、こちらは本物の明朝関係者が合流してくるようなところまで事態がエスカレートしたところで、清朝が鎮圧のために派遣したのが福建水軍の提督だった藍廷珍さんでした。


 6月に厦門から出陣した藍廷珍さんは、それに先立って湄洲朝天閣に赴き媽祖様を勧請、その神像を携えて台湾へと向かいます。

 後に萬春宮に祀られるこの媽祖様は、来台後はまず台南大天后宮に預けられて兵士たちの心の支えとなり、一揆があっさりと平定された後は1723年に「大墩庄店」で建立された「藍興宮」に安置されました。

 この建立年には異説があり、また古地図に記載がなかったりもするのですが、遅くとも1778年には建立済みだったようです。

 康熙帝は一揆鎮圧後、1722年の11 月に崩御し、1723年に雍正帝が即位。雍正元年である1723年に藍廷珍さんは一揆平定の功績で「福建水師提督」へと昇進し、一族を率いて台湾へ入植、台中盆地の開墾を決意します。こうして「藍興莊」の開拓史が始まり、霧峰林家や太平吳家が台中へやってくるきっかけとなったのでした。


 藍廷珍さんも、後を継いだ息子や孫も本職は軍人だったため、「藍興莊」の開墾は、開墾者を募集して藍家が彼らに土地を貸し出し賃料を徴収する、という方式で行われます。なお、この辺りは元々平埔族のパポラ族が所有していた土地で、藍家はパポラ族に賃料を払って土地を借り、開墾希望者に又貸ししてレンタル料の差額で稼いでいました。

 平埔族と山地原住民との緩衝帯である土地は、所有者である平埔族にとっては危険地帯であり、耕作や村づくりへの活用ができない場所だったため、移住者への貸し出しはパポラ族にとっても、いいビジネスだったようです。

 ただし移住してくる側には危険が伴い、実際、藍家の前にこの地で開墾を始めた張家の「張鎮莊」は、1719年9月に山地原住民の襲撃で開拓者九名が命を落とし、放棄されていました。

 藍家の開拓はこの「張鎮莊」廃墟をベースとして始まり、張家の二代目である張嗣徽さんも合同経営者として参入したため、「藍興莊」の初期名称は「藍張興莊」でしたが、いつしか張家の名は消えていきます。


 「藍興莊」の開拓が進むに連れ、人々の心の拠り所である「藍興宮」もまた発展。途中、1786年に起こった「林爽文事件」のとばっちりで伽藍が破壊されるという事態に遭遇したりはするものの、1824年には「萬春宮」と名を変え、台中を代表する廟として日本時代を迎えました。

 そして、ここから萬春宮の不遇の歴史が始まります。


 萬春宮は当時、今の場所よりも一ブロックほど北にあり、ここは明治43 年(1910年)と44年(1911年)の大水害を受けての新富町通開通計画で、道路予定線の真上となりました。

 このため萬春宮は東大墩集落で予定線に引っ掛かったその他の家々と同じく取り壊されてしまい、媽祖様は信者宅に仮安置されることとなります。

 しかしそれ以前、領台翌年の明治29年(1896年)には、台中に進出してきた浄土真宗が萬春宮を勝手に占拠し、「中尊寺」と改名して自分達の布教所にしていますし、明治33年(1900年)に中尊寺が柳町に堂宇を建立して出ていくと、今度は臺中公學校がまだ少人数だった女子部の生徒のための教室として使い始めます。

 そんな日々の果て、遂にという感じの取り壊しでした。昭和に入って皇民化が盛んとなる前であっても、日本は廟、そして台湾人の土着信仰に対し公的には非常に冷淡な態度を取り続けてきたと言っていいでしょう。


 『綺譚花物語』と同じく台中を舞台にし、『綺譚花物語』に登場する「太平林家」の子孫たちを描いている楊双子先生の『撈月之人』は、従兄一家の暮らす家がなぜ「宮廟厝」と呼ばれているのかを説明する部分で、日本時代に媽祖様が台中の民家を転々としながら大切に守られていたことに触れています。そして日本時代が終わると1947年に、廟の再建委員会が組織されて再建プロジェクトが始まりました。

 元の所在地は今では三民路の下。地価の高い街の中心部に信徒たちは頑張って小さな土地を確保し、工事を開始。1951年に廟は再建され、媽祖様はここへと戻ってきました。

 阿貓と蜜容が、「だって行っても虎爺には会えないしね」と訪れなかった萬春宮。「お留守の虎爺」とハッシュタグの付いたこの廟は、日本時代には虎爺だけでなく媽祖様も廟そのものもお留守だったのです。


 萬春宮は『綺譚花物語』第一作の主人公、李玉英(通称、英子)が、お守りのペンダントをご祈祷してもらった場所でもあります。昭和11年に16歳の誕生日を迎える英子は大正9年(1920年)生まれなので、萬春宮はもうなかった時代。それでも大正6年(1917年)には台湾中部にある七つの媽祖廟から媽祖様が大集合する「七媽會」という40日間に亘るイベントが開かれ、臺灣鐡道もこのイベントに協力するなど、廟はなくなっていたものの媽祖様への信仰はそれほど妨げられていなかった模様。英子が生まれた後の大正13年(1924年)にも、以前萬春宮があった新富町通の空き地でこの七媽祖様大集合が開かれているので、英子のお守りはその時のものかもしれません。


 そして、新高町の香蕉福德廟に行った皆さんは、疑問に思ったのではないでしょうか。『綺譚花物語』第二作『昨夜閑潭夢落花』の漫画内で描かれた香蕉福德廟の虎爺と、実際に香蕉福德廟にいる虎爺は、全然別虎爺に見えるけど、なんで?と。


 実は『昨夜閑潭夢落花』で「香蕉福德廟の虎爺」として描かれたこの虎爺は、彰化縣の「鹿港新祖宮(敕建天后宮)」にいる虎爺。


 この媽祖廟もまた、萬春宮に負けず劣らずの不遇な日本時代を過ごした廟でした。

 この廟の建立は1788年。霧峰林家の開臺祖だった林石さんが巻き添えで刑死する羽目になった「林爽文事件」の頃に遡ります。この乱の平定時、台湾へ派遣された軍が途中で台風に遭遇、しかし媽祖様にご加護を願ったところ無事に鹿港へ入港できたという事態がありました。

 この奇蹟に対するお礼として乾隆帝の勅令で建立が始まったことから、この廟は「敕建天后宮」とも呼ばれます(ここは台湾では唯一の、勅令で建立された媽祖廟)。また、鹿港には既に雍正帝時代に建立された「鹿港天后宮」があったため、そちらは「舊祖宮」と通称され、こちらが「新祖宮」という名称になりました。

 以降、1806年と1833年に建て替え工事が行われた「鹿港新祖宮」が日本時代を迎えたのは、二度目の建て替えから62年後のことでした。

 まず軍によって倉庫として使用された「鹿港新祖宮」は、その後は鹽務支局の庁舎とされ、専売制が始まると專賣支局の庁舎とされ、という運命を辿ります。明治40年(1907年)に專賣支局の移転が決まりますが、その時にはなんと廟を取り壊してその建材を新庁舎の建材としてリサイクル利用する計画が持ち上がりました。

 このため地元の人々は、總督府の覚えめでたい「統治に協力的な御用紳士」だった辜顯榮さんという人物を代表にして、廟の建物とその土地の返還を願い出ます。

 廟が当初「占領」され、そのままなし崩しに總督府の財産として專賣支局の庁舎として提供されていた経緯、由緒ある廟でありながら、總督府が寺廟の台帳を作成した時点では既に媽祖様がよそへ避難済みだったため廟として登録されていなかったことなどが、總督府の調査によって明らかとなり、廟と土地の所有権は辜顯榮さんの手を経て明治42年(1909年)に鹿港の人々の元へ戻ってきました。

 しかし、領台の際の戦火によって、廟は激しく損傷しています。壁は落ち柱も梁も傾いたような状態だったこの廟の修復が行われるのは、戦後の1955年。日本時代に修復は行えず、媽祖様もお留守のままです。七媽祖様の大集合の際も、鹿港から参加したのは「舊祖宮」こと「鹿港天后宮」の媽祖様の方でした。

 という事情を考えると、『昨夜閑潭夢落花』の作中で、福德正神様としては極めて異例なことに「少女の姿」を取って、太平林家の一員である荷舟と明正の前に顕現した「香蕉福德廟の福德正神様」が口にしたぼやき「私は住処さえ焼け出されて肩身の狭い思いをしておるがの」はまったく違う意味を持ってきます。「鹿港新祖宮」の虎爺を「うちの猫」と呼ぶ以上、この「少女姿の福德正神様」は、まさに「鹿港新祖宮」から戦火で焼け出されてしまっていた「鹿港新祖宮」の媽祖様に他ならないはず。

 「鹿港新祖宮」の媽祖様が、不遇な立場に置かれている日本時代の台湾に於ける全ての媽祖様の代表格であるならば、太平林家に安置されている萬春宮の媽祖様もまたその分身の一つ。

 そう考えれば「既に受け取り済み」な対価とは、荷舟による祈り以上に太平林家の行いそのものであり、だからこそ媽祖様が林家の「祖姑婆様」としてせめてもの礼に顕現し、茉莉の件を解決してくれたのだ、と非常に納得がいきます。


 さあ、錦町五丁目を進みましょう。

 錦町通五丁目の南側、萬春宮の東隣の平等街108號(錦町五丁目47、48番地)は、どうも日本時代に建ったビルを新たな建物で屋根まですっぽり包み込んだ状態のように見えます。耐震補強の一種なのかもしれません。

 その隣に建つ「大覺院」というビルは、日本時代からこの場所にあった曹洞宗の寺院。台湾人信徒によって建立され、日本時代には布教拠点の一つでした。

 その東隣、市府路138巷手前の112號、114號(錦町五丁目54、55番地)にあたるコンビニが、路地から見ると和風店舗長屋の魔改造だとわかります。六丁目との境となる光復路の手前では、122號、124號(錦町五丁目59番地)が和風看板建築長屋を二分割利用しそれぞれ若干魔改造済み。恐らくその東隣の126號(錦町五丁目60番地の一部)も同様の看板建築をこちらは分割せずに利用しています。

 錦町通五丁目の北側は、通りの途中から澄清醫院に。

 林澄淸医師が昭和7年(1932年)に開業したこの外科病院は、病室十五室。澄淸医師は東京帝大に留学して血清学を専攻し博士号を取得した人でした。昭和5年(1930年)に帰台し錦町五丁目38番地に病院を建てて開業します。当時の病院は今の敷地のちょうど真ん中辺りに、三分の一ほどの規模で位置していました。西側の三分の一は日本時代には錦町五丁目39番地で、奈良県出身の中西武夫さんが明治30年(1897年)に創業した老舗料亭「日柄喜」があった場所です。

 林澄淸医師は終戦直後の11月に急逝してしまい、日本に留学中だった息子の林敬義さんが急遽帰台。台湾で学位を取って24歳で跡を継ぎました。

 日本時代は二階建てだった病院は、1947年に三階を増築。その後、1989年に敷地を東西に大幅拡張しての建て替え工事が行われます。

 病院自体も1967年からは総合病院となり、今では台中のあちこちに支院が建っていますが、始まりの地であるこの場所は、今もこの病院の本院です。


 六丁目との境である光復路沿いに日本時代の建物はなく、六丁目側は日本時代は公共施設用地。錦町通六丁目の北側にある小学校については新富町で触れるので、錦町はここまでとなります。

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