第27話 昭和台中市~村上町通南側今昔:官庁街だった幸町、利國町、村上町

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、小説家志望の自称「ニート」な阿貓が住んでいるのは利國町。

 この利國町と、その南隣の幸町、北隣の村上町通南側。臺中高等女學校や地方法院のある明治町の背後にあたるこのエリアは、日本時代からの官庁街で職員用の官舎も多く、戦後に日本人が引き揚げると、新たな支配者として台湾にやってきた國民党のスタッフとその家族たちが入れ替わりに入居します。阿貓のおじいちゃんおばあちゃんもその頃に台中に来て、利國町のどこかでエドワード・ヤン監督や侯孝賢監督の映画のような生活を始めたのでしょう。

 初代「臺灣縣知事」だった兒玉利國さんの名前にちなんで命名された利國町のうち、台中女中の裏手にあたるのは三、四丁目。そして利國町三丁目は通りの南側が臺中州議事堂、北側が警察署という官庁街だったため、官舎地帯だったのは四丁目のみとなります。昭和12年(1937年)の地図を見るとこの区画に建ち並んでいたのは長屋タイプの割と大型な官舎。

 これらの建物を、一軒分の区画を更に二分割したり、庭部分にもトタン屋根を延長させて居住スペースにしたりすることでどうにか居住場所の不足を補い、さらには空き地にバラックを建てるなどして「眷村」ができていきました。そしてその後、木造建築が老朽化を迎えた1970年代頃になると、マンションやペンシルビルへの建て替えが始まり、今の四維街両側の街並みができていきます。阿貓が暮らしているのもその時代に建て替えられた国営マンションの一室だとのこと。


 官庁街としてのこのエリアの歴史は、日本時代の最初の年から始まります。

 清代の臺灣省城は、東大墩集落から周辺集落に向かって伸びていく街道の分岐点をほぼ全て城内に囲い込む位置に設置され、だいたい八角形に近い形の城壁に八つの門を設ける計画でした。

 この八つの門の内、北西に設けられた小北門を入ってすぐの西側には、科挙やその予備試験である童試の回答審査及び結果発表を行う「元誠考堂」及び試験会場である「儒考棚」が1891年に建てられています。

 省城の真ん中に設けられた「臺灣縣廰」の建物が、周りにはまだ街もなくがらんとしていた一方で、この試験場は省城の端に設けられていて小北門を出ればすぐ東大墩集落があり、城壁と城門も既にできていました。このため、日本時代が始まると「元誠考堂」に「臺中縣廰」が置かれ、「儒考棚」にも様々な役所が入居したのです。


 臺灣省城の八つの門からは、周辺集落に繋がる道が放射状に伸びていきます。大北門を出るとすぐに東大墩集落があり、そこからは北屯路と西屯路が。北西の小北門からは公館集落を経由して南屯へ向かう道が。大西門からは烏日と彰化へ向かう後の線路や復興路及び中山路などと重なる道が。南西の小西門からは頂橋仔頭集落を通って南の大里集落へ向かう道が。大南門からは烏竹圍集落へ向かう道が。南東の小南門からは内新集落へ向かう道が。大東門からは太平集落へ向かう今の振興路と重なる道が。北東の小東門からは旱溪集落へ向かう今の旱溪街が。

 日本時代になるとそのほとんどに製糖鐵道や手押しトロッコ軌道が敷設される重要路線を全て抑えた扇の要が臺灣省城の立地で、それはそのまま日本時代の台中市へと引き継がれました。

 その一方で、本来は街を囲むはずだった厚さ5メートル超、高さも5メートル超の城壁は、一部しかできていません。楼閣を備えた門も同様です。

 城壁は、大北門から小北門を経て大西門に到る2キロ少々が築かれたのみで工事が中断され、これ以外は1.5メートルほどの壁を築いただけでした。城門も完成したのはこの三つだけです。大北門は楼閣部分が日本時代に臺中公園へ移築されて残っていますが、それ以外の二つの門と城壁は取り壊されました。


 小東門から城壁内へ入ってくる道が通っていたのは、日本時代から台中市の真ん中を貫く大正橋通(民權路)よりはやや西側、一丁目と二丁目の間くらい。今も残る日本時代の臺中州廳と臺中市役所が建つのは、この道の反対側である「下街」と呼ばれた部分です。

 臺灣省城の官庁ができたことで、城壁外の東大墩集落から少しずつ店などが進出して生まれた「東大墩下街」は、臺灣省城の工事が中断され省城の機能も台北へ移されてしまったことで梯子を外された形となり、空き家だらけのさびれた状態で日本時代に突入します。「下街」と呼ばれる通り、ここは東大墩の集落から見れば完全に街外れで、おまけに城壁で東大墩集落から隔てられ、官庁が台北に移転してしまえば何のうまみもない土地でした。

 しかし日本時代が始まると台中にちらりほらりと訪れ始めた日本人は、まずこの空き家を拠点として商売を始めます。

 その後、日本人が増えると「新町」と呼ばれる日本人街が小北門の外側で誕生し、下街部分には「臺灣銀行臺中支店」「臺中郵便電信局」「臺中市役所」「臺中州廰」が次々と建てられて行きました。


 このうち、当時の建物が今も残る「臺中市役所」は、実は明治44年(1911年)の落成当初は市役所ではなく、「臺中廳公共埤圳聯合會事務所」として使用されています。市役所庁舎として使われるようになったのは大正9年(1920年)からでした。そして戦後になると今度は市役所機能が向かいの「臺中州廳」庁舎に移転してしまい、空き家となったこの建物にはこれ以降様々な機関が次々に入居。その後2002年に文化資産に登録され、2005年からは市の歴史などに関する展示を行うギャラリー「台中故事館」として使用されています。内部では「CAFE1911/昭和沙龍」という喫茶店も営業中。


 一方、森山松之助さんの設計による「臺中州廳」庁舎は大正2年(1913年)に着工。大正13年(1924年)までの四期に亘る工事で、今の形が出来上がります。その後、第五期として昭和8年から年に掛けて増築が行われました。

 台中周辺の行政区画は、清時代に臺灣省城が設けられた時に「臺灣縣」となり、日本時代に於いてもまずは「臺灣縣」として統治が始まります。その後、明治29年(1896年)から「臺中縣」と変わり、明治34年(1901年)に「臺中廰」となり、大正9年(1920年)からようやく「臺中州」となりました。従って着工時にはまだ「臺中廳」だったことになります。明治44年(1911年)の実測図には、現在の庁舎が建つ前の先代庁舎が載っていますが、これも「臺中廳」となっています。

 戦後は「臺中市政府(市役所)」として用いられ、その後、西屯區に新庁舎ビルが建てられて市役所機能は徐々にそちらへ移転しました。最後まで残っていた部門も移転した後、2022年からは「國立台灣美術館臺中州廳園區」となる予定で整備中です。


 このブロック内で村上町通と大正橋通の角地部分にあった臺中知事官邸は、明治41年(1908年)の臺灣縱貫鐵道全通式でメインゲストだった閑院宮の宿泊所としても用いられた堂々たる西洋館。残念ながら戦後の1972年に取り壊され、跡地には台中市議會の議会場が建ちました。その後、2010年に台中縣と合併したことで議会も西側の新市街に移転し、今は交通局が入居しています。


 大正橋通の向こう側、寶町一丁目では、寶町通の北側に「臺中郵便電信局」が、南側には「臺灣銀行臺中支店」が建てられます。

 台中にはまず明治29年(1896年)に「臺中野戰郵便局」が設けられ、その後「臺中郵便電信局」と改称しました。現在の位置、寶町一丁目1番地に木造二階建ての初代庁舎が完成したのは明治40年(1907年)のこと。昭和7年(1932年)には壁式耐震構造を持つ煉瓦造二代目庁舎への建て替え工事が始まり、台北郵便局と似たデザインを持つこの新庁舎は昭和8年(1933年)に完成します。

 戦後は台灣郵電が庁舎を接収して業務を引き継ぎ、1949年に電話局が分離したことで「台中郵局」と名が変わりました。残念ながら戦後のどこかの時期で二代目庁舎もまた建て替えられ、現在は三代目庁舎であるビルが聳えています。


 臺灣銀行臺中支店は明治32年(1899年)に、マンサード屋根の木造二階建て店舗(実質は木造三階建て)がこの地に完成。数年後に向かいに建てられる臺中郵便局の初代木造庁舎も、この建物とよく似たデザインを持っていました。その後、詳しい記録は残っていませんが、昭和11年の鳥瞰図を見るとビルの形状を持つ建物が描かれているので、どこかの時点で一度建て替えが行われたものと思われます(昭和初期はまだ木造のまま)。

 このため恐らく三代目の店舗として建てられたと思われる現在の建物には臺灣銀行ではなく「合作金庫商業銀行台中分行」が入居していて、臺灣銀行は明治町通二丁目の南側、日本時代には臺灣銀行の社員倶楽部と支店長社宅が建っていた区画のビルに移転しています。


 「臺中市役所」と「臺中州廰」の間を通る幸町通を二丁目方向へ進みましょう。市役所隣にある「公設質舖倉庫」も文化資産の一つです。

 一般の質屋よりも利率が低く抑えられるなど借り手に対する優遇措置が多い「公益質屋」は、庶民への融資を目的に社会福祉事業の一環として誕生しました。日本では昭和2年(1927年)の「公益質屋法」で設置が始まりますが、台湾ではこれより早く、大正8年(1919年)に總督府が同様の勅令を出し、台北、基隆、宜蘭、新竹、台中、彰化、台南、嘉義、高雄、屏東の各市で、市役所経営による公益質屋が設けられています。台北の店舗は三ヶ所でしたが、他の市では一ヶ所ずつでした。

 台中市の「公設質舖」は大正11年(1922年)に市役所横で開業し、『台中市概況』によると昭和8年に店舗と倉庫の新築工事が始まって翌年3月末に完成しています。煉瓦造の建物の壁面にモルタルで白く線を引いた「なんちゃって辰野式」のこの倉庫は、『台中市概況』によると実は鉄筋コンクリートブロック造。日本の建築が煉瓦造から鉄筋コンクリート造へ移行していく過程で、燃えにくい建物を廉価に手早く作るため採用されていた方法です。

 導入初期に関東大震災で大きな被害を産んだこと、また日本では元々、梁と柱を用いた架構式の建築が主流であって、煉瓦などの建材による組積式構造は文明開化の象徴としてファッション感覚で取り入れられていた外来のモダンな建築方法に過ぎなかったことから、日本、特に関東では組積式構造そのものが忌避されるようになり、あまり普及しませんでした。しかし煉瓦が伝統的な建材の一つだった台湾では、鉄筋を通す穴を開けた軽量煉瓦を使用する鉄筋煉瓦造が現在でもポピュラーな建築方法の一つになっています。

 昭和10年(1935年)の利用者は、日本人約一万二千人に対し、台湾人約八千人。この年の台中市の人口比は日本人約一万六千人、台湾人約五万四千人なので、日本人の利用率はかなり高めです。質草は日本人だと衣類が多く、台湾人だと貴金属が多めでした。

 戦後になるとこの建物は國民党に接収されて1986年まで宿舎として使用され、その後は1989年から2008年まで選挙管理員会が使用、選挙管理員会の退去以降は臺中市政府の所有となります。戦後のどこかで壁面にタイルが張られる魔改造が施され、木造の店舗部分もなくなったことで、長らく「忘れ去られた建築物」でしたが、2014年に「臺中市役所」の第二期修復作業の過程で再発見され、文化資産としてかつての姿を取り戻しました。

 なお、東海岸にある宜蘭市の公益質屋は木造の店舗部分も含めて残っていて、見学ができます。


 このブロックは村上町通北側の臺中病院まで含めて全て、一丁目と二丁目が一体化し、さらに「臺中州廰」側は利國町通も一丁目部分がなく、二丁目部分は辛うじてあるものの道幅はかなり細くなっています。

 日本時代の地図に載っている路地はこのブロック内ではすべて当時のまま残っていて、その路地沿いの職員官舎や臺中州廰の付属庁舎などが現在は修復中。


 太平林家の日本家屋で触れた昭和モダンな文化住宅系の「民生路老宅56‐3」もこのエリアの路地沿いに建っています。昭和8年(1933年)の火災保険地図によると村上町二丁目6番地だった場所。火災保険地図には、恐らく儒考棚の名残りだったと思われる真北を向いた建物が記載されているので、それ以降にこれらの官舎が建てられたのでしょう。民生路56巷では「老宅」の西側向かいの一軒も日本家屋の成れの果てのように見えるほか、三民路一段192巷との角地北側も、切妻部分に簓子下見板張りが見て取れます。三民路一段192巷では、その北隣も若干怪しい気がしなくもありません。


 二丁目と三丁目の境である民生路を北上していくと、利國町通だった民生路38巷との交差点北側で「大屯郡役所」がやはり修復中。

 台中市郊外の大里庄、霧峰庄、大平庄、北屯庄、西屯庄、南屯庄、烏日庄を管轄する役所で、水利組合などもここに入居していました。大正13年(1924年)に庁舎本体が完成し、その後昭和7年(1932年)に附属施設が増築されています。

 戦後になると大屯郡は「大屯區」となり、その後、1947年には台中市に北屯、西屯、南屯區が誕生、他の部分は台中縣大里市、太平市、霧峰鄉、烏日鄉となっていましたが、2010年からは全て台中市の「區」となりました。

 この郡役所庁舎もやはり接収され、当初は臺中縣參議會が入居していましたが、その後は憲兵隊や軍ラジオ局などが入居、1963年からは眷村としての利用も始まります。1980年には眷村部分で火事が起こり、屋根が焼け落ちた他、室内の装飾も損なわれました。その後も眷村の住民たちによる魔改造が行われるなどしていましたが、2002年に住民は退去し、2017年からは修復が始まっています。


 その先では、村上町通だった三民路一段との交差点部分に建つ、村上町三丁目の「臺中警察署廳舍」が「臺中市警察局第一分局」として現存。

 台中市及び周辺集落には明治30年(1897年)から警察が置かれるようになり、大正9年(1920年)からは「臺中警察署」となります。昭和9年(1934年)に完成したこの庁舎は、戦後は臺中市警察局及び第一分局の庁舎として使われることになりました。その後、第一分局は一旦移転し(この移転先は柳町の元「中尊寺」だったようです)、1992年に警察局が郊外の新庁舎へ引っ越すと、また第一分局がここへ入居しました。


 幸町通へ戻って三丁目の真ん中辺りにある四維街2巷の奥では「儒考棚」が修復を終え、展示スペースなどとして活用されています。

 日本時代初期は様々な入居者が次々とやってきていた儒考棚も、臺中州廳の建設が進み、大屯郡役所の建設が始まると、徐々に取り壊されていきます。このため大正13年(1924年)に、消えゆく儒考棚から主樓だけが救い出され、水源地に移築保存されましたが、「湧水閣」と名付けられたこの主樓はメンテナンス不足が災いして戦後の1950年代に倒壊してしまい、姿を消しました。

 その一方で、元々の儒考棚から見ると一番西端にあたる幸町三丁目部分は日本時代を辛うじて生き延びます。職業地図を見るとこのブロックは昭和11年には「州議事堂」でした。米軍地図では建物が幾つか建っているという状態になっていて、この内の一棟が儒考棚の残存部分にあたります。戦後になるとブロック全体が眷村となったようですが、ほぼ柱と梁のみになりつつも奇蹟的に残っていました。眷村が解体された後、やはり2017年から修復が始まり、現在はこの残存部分を新たな建物がカバーする形で保存されています。


 三丁目と四丁目の境となる四維街沿いにも、日本時代の建物が幾つか見て取れます。

 四維街を北上していくと三丁目側に春水堂の創始店があり、この左右が日本家屋。春水堂創始店も含め、日本時代は村上町三丁目11番地だった地点。村上町通に面した部分が警察署だったことを考えると、このあたりは警察署官舎が並んでいたのかも知れません。

 「日治時期警察宿舍」は村上町通を渡った向こうの末廣町四丁目にあり、今では「臺中文學館」になっていますが、あちらは長屋形式、こちらは一戸建てなので、もう少し階級が上の警察官向け官舎だった可能性はあります。

 一方で、四丁目側は日本時代は全て官舎地区だったことが判明しています。

 太平林家の日本家屋で紹介した「四維街日式招待所」は、幸町四丁目1番地。幸町通だった市府路、四維街、四維街3巷に三方を囲まれる形で、臺中高等女學校のすぐ裏手に建っています。

 三合院のように真ん中に採光用の庭を設け、三方が通りに面しているこの二階建ては、「招待所」と呼ばれていますが、日本人から見ると非常に「下宿っぽい」建物。日本時代は独身の教員向け官舎だったのかもしれません。

 楊双子先生の次作『四維街一號』で、舞台となる建物「四維街一號」のモデルはまさにこの建物だとのこと。まだ修復も進まず一般公開もされていないこの建物がどのような姿で登場するのか、とても楽しみです。


 四維街3巷は日本時代からあった路地で、このまま地方法院の裏手へと通じ、林森路24巷として五丁目六丁目を抜けていきます。一方で幸町通は地方法院に行く手を阻まれ、四丁目までしかありません。この道もまた日本時代からこの状態でした。


 阿貓の家は利國町四丁目。職業地図では幸町通四丁目と村上町通四丁目の間は全て「官舎」となっています。この全てが戦後は眷村となり、そして建物が老朽化するとマンションに建て替えられて行きました。

 初代の「臺灣縣知事」だった兒玉利國さんの名前に由来する「利國町通」は今の府後街。村上町通だった三民路一段沿いは高層マンションや大型ビル化した建物が多い反面、府後街と市府路、四維街と康樂街に囲まれたエリアは、道路沿いでも高くてせいぜい七階建て程度の低層マンションが多く、路地に入ると四、五階建てのペンシルビルや、三階建てのテラスハウスといった小規模物件も珍しくありません。

 楊双子先生のイメージとしては、五階建てくらいの国営マンション。日本と同じでだいたい70年代くらいまでに建てられた、団地風な壁式構造の、ちょっと懐かしい感じのマンションです。

 この辺りはてんでんばらばらに建て替えが進んだらしく雑然とした街並みになっていますが、その分生活感溢れる生き生きとしたエリアで、いかにも阿貓の地元という感じ。一階部分には飲食店が多く、路地裏を歩くのはかなり楽しそう。

 この辺りの官舎は既にほとんどが建て替え済みですが、五丁目との境になる康樂街と府後街との交差点、利國町四丁目の北側にあたる2番地だったところの角がどうやら日本時代の建物らしく、切妻部分に簓子下見が見えています。


 明治町五、六丁目の地方法院横と裏手は、地方法院職員の官舎地帯。利國町通五、六丁目の南側に並ぶ官舎は、建物を見る限りでは多少の庭を備えた戸建て住宅形式のものだったようですが、周りに建つ塀を見ると、戦後は一軒に二家族が入居する形でも使われていたようです。また庭に軒を大きく張り出させてその下も居住区として使うなどの魔改造も見て取れます。

 その一方で建て直しは行われていなかったため、日本時代からの官舎が多数残っていて、現在は「臺中地方法院舊宿舍群」として調査と修復が進められています。


 その裏手、利國町通の北側と村上町通の南側、康樂街と三民路一段156巷に囲まれた、五丁目と六丁目半ばまでのエリアは、日本時代にはテニスコートなどのスポーツ施設と、臺中刑務所の初代道場及び二代目の「臺中武徳殿(大日本武德會台灣地方本部臺中支部演武場)」があった場所。


 大正町六丁目にあった木造の初代「臺中武徳殿」は都市計画のため昭和5年(1930年)に解体され、鉄筋コンクリートの二代目「臺中武徳殿」が、昭和6年(1931年)に臺中刑務所初代道場の隣に建てられます。この建物は戦後になると憲兵隊の詰め所として使用され、1997年に取り壊されて、「中山地政大樓」というビルになりました。

 その隣、臺中刑務所初代道場だった場所には、康樂街側に警察局の交通分隊庁舎が建ち、中山地政大樓との間には、村上町通の北側に位置する忠孝國小(日本時代の村上公學校)の校舎の一つ「明志樓」が建っています。

 これらの建物の南側は、居仁國中の校外運動場。戦後、明治町二丁目の幸公學校跡地に誕生した「臺中市立初級中學(後の居仁國中)」は1948年に、付近の空き地と合わせてここを校外運動場として整備しました。

 職業地図によると、昭和11年時点のここは「テニスコート」。鳥瞰図によると「幸町グラウンド」。また昭和8年の火災保険地図では「児童遊園地」となっています。いずれにせよ行楽地であり、昭和10年代には運動用地として使われていたようです。

 なお、このエリアには五丁目と六丁目を区切る道路を通す計画が日本時代にはあったようですが、道路建設は行われないまま日本時代は終わり、現在も路地しかありません。

 運動場との境になっているこの三民路一段156巷と、六丁目七丁目の境となっている林森路との間は、日本時代にはやはり官舎が建っていました。

 利國町通の南側官舎地帯よりは一軒一軒の庭が広く、建物も「臺中刑務所典獄長官舍」とあまり変わらない規模だったと思われる、恐らく高官向けだっただろうこの官舎地帯は、今、林森路側には中層大型マンションが建ち、三民路一段156巷側には七階建ての中型マンション、瀟洒な透天厝が並んで、阿貓が暮らす四丁目の官舎街に比べるとまとまりのある街並みになっています。

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