第28話 昭和台中市郊外~南屯今昔

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、主人公である小説家志望の自称「ニート」な阿貓と大学院生の羅蜜容が決別する場となった公館。ここから蜜容が暮らす南屯方向へ向かう道は、日本時代にはやはりトロッコ道だった南屯路。

 刑務所の南側から始まるこのトロッコは、日本時代のかなり初期から敷設されていたようです。臺灣省城の西門を写した写真が大正9年(1920年)の雑誌に載っていますが、この写真をよく見ると、荷物運びに使われているのはトロッコ。西門の北側にあったはずの臺灣省城城壁は既に取り壊し済みで、その辺りには恐らく刑務所の建物の一部だったのではと思われる簓子下見の壁が写っています。


 西門はちょうど臺中刑務所典獄長官舍の建っている位置辺りにあった門。この場所に官舎が完成したのは大正4年(1915年)なので、雑誌掲載時には西門はもう存在していなかったはず。刑務所は明治36年(1903年)に完成しているので、この写真は明治36年から大正3年頃までに撮られたことになります。

 西門から烏日や彰化方面へ繋がっていた街道は、その後、臺灣縱貫鐵道の線路や復興路及び中山路などに置き換わり、輸送力が強化されていきました。

 その一方で、小北門から出て公館を経由し南屯へ通じていた道は、後に途中までが村上町通となり、その先の北上部分が南屯路となります。

 臺灣省城内で西門に通じていた道は明治町通へと整備され、刑務所の南側で従来の行き先を線路に引き継ぐと、今度は南屯路の一部となってトロッコ軌道を敷設された状態で北上し、村上町通と斜めに交差してそこから本来の南屯路に接続されることになりました。

 南屯路のトロッコ軌道は今はバスに引き継がれているので、蜜容はどこかの停留所でバスを拾い、番社腳の家へと帰ったはずです。


 それでは私たちも蜜容の後を追い、南屯方面へ向かいましょう。南屯路の道筋は日本時代と全く変わっていませんが、傍を通る川のルートは変わり、台中靜和病院の西を通っていたはずの土庫溪は暗渠となって、今では病院のだいぶ東側で柳川に合流しています。

 南屯溪という小さな川を渡るとかつての南屯集落。

 作中で阿貓が口にした旧地名「犁頭店」はこの辺り。この川沿いには「犁頭店福德廟」があるなど、今もこの地名が残っています。西屯から烏日へ向かう街道との交差点でもあるこの南屯集落は、重要な交易地。「犁」とは鋤のことで、ここは農具を商う店が並び、鍛冶屋と農民が取引をする場所でした。


 虎爺の写真を撮りに蜜容が訪れる南屯萬和宮はこの南屯集落にあります。

 この廟が建立されたのは雍正四年(1726年)。萬春宮が建立された雍正元年(1723年)よりも少しだけ後に、地元の住民たちがお金を出し合って工事が始まり、翌年に完成しました。しかしこの地で媽祖様が祀られるようになったのはそれより早く、清の康熙帝時代の割と初期だった1684年。南屯に入植した張國さんという方が来台前に航海のお守りとしてやはり湄州で勧請し、無事に海を渡った後、小さな祠を作ってお祀りしたのが起源です。

 1821年に地震のため損傷を受けて修理されたのを皮切りに、1886年、大正2年(1913年)、昭和7年(1932年)、1963年と修理が繰り返されました。特に昭和7年の工事では柱が木製からコンクリート製に交換され、戦後の修理もかなり大規模な工事だった模様。

 この修復の際には、雁聲のモデルとなった燕生さんの記した文字「后德配天天道無私施萬眾(媽祖様の功徳は等しく万民に施される)」「母儀稱聖聖宮最大著千秋(勝るものなき媽祖様の廟の名声は永遠に尽きない)」を彫った石柱も奉納されました。

 またこの廟の梵鐘はやはり日本時代に京都で作成されたもので、幸い供出を免れて今に残っています。同じ媽祖廟でも台中市内の萬春宮がかなりぞんざいな扱いを受けていたのに対し、この廟はそれほど不遇な目に遭わずに日本時代をやり過ごせたようです。


「萬和宮では虎爺の写真を撮らせてもらえない」というのはフィクションで、楊双子先生はちゃんとここで虎爺の写真を撮影済み。

 廟の外、南屯路へ向かう萬和路一段にはちらりほらりと、日本時代からあると思しき煉瓦造やモダニズム看板建築、さらには和風店舗建築も。日本時代、大字地区に住んでいる日本人は珍しく、更にここは大字の範囲外。ということはこの和風な店舗も台湾人が建てた台湾人の店舗だったと思われます。昭和の犁頭店集落の写真では、看板建築の裏手の建物も従来の閩南式街屋ではなく、切妻の上に屋根がはみ出す和風や洋風の造りになっているのが見て取れます。日本時代に於いては台湾人の間でも、木材を用いて架構式構造の家や店舗を建てるのがそれなりに流行っていた、そう考えていいのかも知れません。


 南屯集落を過ぎると、南屯路は二手に分かれます。北側の新庄子集落へ向かう道は、今では臺灣美術館前から伸びてくる五權西路と合流して主要道路になっていますが日本時代は細道に過ぎず、番社腳へ向かう南側の永春路の方が当時は主要な道路でした。川を渡り、台湾新幹線こと台灣高速鐵道の高架を潜るとそろそろ番社腳。


 郊外だったこの辺りは戦後にかなり道が変わっていますが、忠勇路と永春路の交差点周辺が日本時代の番社腳集落です。

 番社の「番」は「台湾原住民」のことを指します。台湾にもともと住んでいた中華文化の影響を受けていないオーストロネシア語族の人々を、明や清の時代に漢民族は「蕃人」や「番人」と呼称しました。

 これは日本時代にも受け継がれ、主に平地に暮らして漢民族との混血も進み独自の文化のほとんどを喪失して半ば以上漢民族化している人々「平埔族」を「熟蕃」、主に山岳地や、漢民族の移住の進んでいなかった東海岸に暮らし、漢民族との混血も進まず独自の言語や文化をまだ保っていた人々を「生蕃」と呼びます。

 その後、皇民化が進み、身体能力の高い台湾原住民の人々をも南方の戦場に送り込むことになった頃、「蕃」と蔑みながら戦闘力を搾取するのはどうかということで「高砂族」という呼称が生まれ、戦後になるとやはり似たような事情から「山地同胞」といった呼称が誕生します。

 現在、台湾に暮らすオーストロネシア語族の人々は、自らを「原住民」と名乗っています。日本の感覚だと「先住民」ですが、台湾の感覚では「先住民」とはもともと住んでいたものの今は滅んでしまった人々のこと。もともと誰よりも早くから台湾に住んでいて今もなお住み続けている彼らは「台湾原住民」なのです。

「番社」とは「蕃人の村」。「腳」は麓。「番社腳」はすぐ傍に平埔族が住んでいた地域ということになり、実際にかつては平埔族の村でした。そして「羅」姓は清の時代に反乱の制定などに協力し功績のあった平埔族に与えられた姓の一つです。このため阿貓は蜜容のルーツを「平埔族」なのでは、と推測したのでした。


 その西側、嶺東路には日本時代、烏日駅傍の東洋製糖工場へ通じる製糖鐵道が走っていました。

 戦後になるとこの辺りには大肚山の麓の今は観光地「彩虹眷村」となっている軍人村ができ、1964年には後の嶺東科技大學となる嶺東會計專科學校が誕生して順調に発展を続けたこともあって番社腳集落は徐々に西へも発展。蜜容が住んでいるのも昭和の番社腳集落よりは西側で、嶺東科技大學キャンパスの南面にあたる、一戸建てがそれなりに多いあたりだとのこと。

 なお、嶺東科技大學はやはり台中出身の作家で、台湾ラノベの女王と呼ばれる護玄先生の人気作、台中を舞台にしたホラーミステリー『因與聿案簿錄』シリーズで、主人公が通う大学のモデルとなっている場所。このためこのシリーズには南屯區のあちこちが舞台として登場します。

 「彩虹眷村」も今でこそカラフルに塗られ絵が描かれた観光地ですが、ここがこうなったのはそもそもこの眷村が住民を失い、廃墟に近い過疎地となったから。『因與聿案簿錄』にはこの眷村が彩虹眷村となる前、住民をほぼ失った廃墟となり、高校生たちの秘密のたまり場となっていた様子もちらりと登場しています。

 ではこの眷村はどうしてここに誕生したのか? その答えは、『綺譚花物語』の第一作『地上的天國』で主人公の片方である蔡詠恩がゴルフボールにあたって命を落としてしまったあの大肚山のゴルフ場に深く関わっています。


 大肚山のゴルフ場は、正式名称を「大肚山ゴルフリンクス」といい昭和3年(1928年)にオープンしました。昭和13年(1938年)発行の臺灣總督府交通局によるガイドブック『臺灣觀光の栞』によると、最終的には9ホール、7.5万坪の規模になっていたようです。

 大肚山は台中の西側に位置する台地。海からの眺望を妨げるこの山の存在は、今の台中市の位置に臺灣省城が築かれることになった理由の一つでもあります。

 西方を望める高台の大肚山は、清時代に於いては墓地として使われていた土地でした。日本時代になった後も、大正年間の地形図では、墓地を示す地図記号が多く見て取れます。

 詠恩が命を落とした昭和9年(1934年)は、ゴルフ場のオープンから数年後。赤星四郎さんというゴルフコース設計士が来台して、コースの大幅改良を行っていた時期に当たります。春休みの一ヶ月前、2月26日時点では既に墓地の撤去が終わっていた模様。

 春休みが終わる前に、詠恩たち蔡家の人々は山へ遊びに行って、詠恩が事故に遭っています。

 日本時代、春休みの初日は天皇による宮中祭祀の一つ、皇霊祭が行われる春分の祝日でした。この日は中華圏ではもともと、祖廟を祀る日です。日本でもお彼岸に相当したため、日本時代の台湾では社会全般的に祖霊を祀る日となっていました。そして4月1日の始業式から間もない4月3日は、日本時代に於いては神武天皇祭(神武天皇の崩御日)の祝日。さらに中華圏では春分から15日が経った4月4日もしくは5日は清明節の始まりの日でもあります。

 「死」と不思議なほど距離が近いこの時期に、「死」と縁の深いこの場所で、詠恩は命を落としたのでした。


 台中の名所の一つとして日本時代の臺灣ガイドブックにも掲載され、日本人高官がこぞって遊びに来た他、林獻堂さんもプレイしたことがある大肚山ゴルフリンクス。

 林獻堂さんがこのゴルフ場でプレイしたのは、コース改良前の昭和6年(1931年)。かなりはまってもいたようで、自宅に、つまり霧峰林家のあのお屋敷のどこかの庭に、ミニコースを作って遊んでいたそうです。ゴルフはこの時代、台湾人上流階級の間でも人気になっていました。


 さらに大肚山ゴルフリンクスの北側には競馬場も設けられ、遊園地の設置も計画されます(テーマパークではなく、子供向けの屋外遊具やふれあい動物園などが設けられる昭和な遊園地)。大肚山は昭和の台中市民にとって緑豊かな郊外の行楽地でした。

 詠恩の死後となる昭和9年の暮れには臺灣縱貫鐵道の烏日駅と王田駅(今の成功駅)間にバイパス路線が設けられ、ゴルフ場の最寄りとなる「遊園地前」駅と、競馬場の最寄りとなる「學田」駅が設置されます。學田集落は東洋製糖工場への製糖鐵道路線からやや外れた位置にあるため、この路線は集落住民の通学通勤の足にもなりました。

 しかしガソリン動車用だったこの路線は、戦争中の昭和17年(1942年)にガソリン不足のため廃止となってしまいます。優雅にゴルフなどを楽しめる環境でもなくなり、遊園地も結局は設けられることなく、大肚山ゴルフリンクスもまた過去の存在となっていきました。


 そして戦後、大肚山ゴルフリンクスと競馬場は、今度は基地へと姿を変えます。

 西側の海岸線を見下ろせる大肚山は、國民党軍にとって格好の陣地でした。成功嶺と呼ばれる基地がここに置かれたことで、後に彩虹眷村となる眷村も基地の背後の山裾に誕生したのです。今では兵舎が建ち並び、ゴルフ場も競馬場も面影はありません。

 普段は基本的に立ち入れない場所であって、ストリートビューもなく、内部の様子がグーグルマップに投稿されていることもないのですが、基地内部には「成功嶺歴史館」という見学施設があり、この施設を含めたエリアが毎年国防部によって一般開放されているとのこと。見学できる唯一のチャンスで写真も撮れるようですが、これって台湾人以外も参加可能なんでしょうか? あと、恐らくそこまで自由には見て回れないんじゃないかと思います。

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