第26話 昭和台中市~大字公館今昔

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、小説家志望の自称「ニート」な阿貓と大学院生の羅蜜容が行う虎爺巡りの最後の探訪。その日の目的地は中興大學傍の頂橋仔頭福德宮。そして、公館の三民市場内にある「台中西區三民市場聖母宮(媽祖廟)」

 先に二人が訪れたのは頂橋仔頭福德宮の方なので、そこから二人は高架化された台灣鐵道の下を通って、公館方面へ向かったのだろうと思われます。

 頂橋仔頭から有明町通(忠孝路)を渡り有明町、木下町、敷島町、老松町を通り抜けて線路の向こうへ至るルートは今ではいくつもありますが、あくまでも当時に忠実にマニアックに行こうと思うなら、選べるルートは二つだけ。

 一つは有明町通を東へ向かい、三丁目と四丁目の境だった合作街を北上、老松町通をもう一ブロック東へ進んで民生路で線路を越え、壽町の明治小学校横に出る、というルート。当時は踏切だったようですが、戦後はガード下を潜る形に。今なら新しくできた高架線とこれまでのガード下、両方を潜る、という恐らく今だけのレアな感覚が楽しめます。

 しかし歴オタたるもの、ここはやはりもう一つの、よりマニアックなルートを推したい。

 頂橋仔頭福德宮を出たら、すぐに綠川を渡って永和街に入りましょう。この永和街こそはその昔、頂橋仔頭集落の横を通り、福德宮の脇を抜け、旱溪に架かった橋を越えて南へ向かう道でした。これを北上し、有明町通の端を戦後に飲み込んで拡幅された建成路を斜めに過ぎる横断歩道を渡った先でもさらに永和街を北上します。清時代から頂橋仔頭へ向かう街道だったこの道は、最後、學府路168巷に繋がるので、そこから東へ進んで敷島町通(愛國街)へ入り、これを國光路まで直進。敷島町六丁目と七丁目の間となるこの國光路を北上して線路を渡る、というルート。今はガードとなっていますが、ここも当時は踏切でした。

 線路を越えてすぐの左側、今は駐車場になっている三角地帯は、日本時代はトロッコの待機所や荷物置き場などがあった場所。明治町通だった自由路一段は、ここから先は南屯へ向かう道となり、日本時代はトロッコが走っていました。蜜容が暮らす南屯へ向かうこの道については、別の項でまた触れます。


 右手のブロックは明治町六丁目。この道、林森路の東側は明治町、幸町、利國町、村上町のそれぞれ六丁目、西側は七丁目で、七丁目は日本時代、村上町通までの全域が臺中刑務所の敷地になっています。

 臺中刑務所の歴史が始まるのは日本時代が始まって一年後の明治29年(1896年)。当初は「臺中廳藍興堡臺中街臺中65番(後の臺中市幸町)」に「臺中縣臺中監獄署」として設置。その後、幾度か名前が変わり、大正13年(1924年)から「臺中刑務所」という名称になりました。

 刑務所が新たな獄舎を建てて幸町からここに引っ越してきたのは、明治36年(1903年)。住所は利國町七丁目となります。

 五角形の刑務所は真北を向いた状態で建てられたため、構内道路などは一部がそれに沿う形となり、このブロック内には斜めに走る道が多くありました。戦後に刑務所が移転してブロック内の再開発が始まると、これらの構内道路も旧獄舎ともども大半が撤去され、周辺道路に合わせた区画割りが改めて施されています。ただし、旧官舎などの関連施設が構内道路も含めてある程度まとまって保存されたため、そこでは周辺道路から見れば斜めになっている建物の並びなどが今でも確認できます。


 戦後は「臺灣第二監獄」となり、1947年からは「臺灣臺中監獄」として運営されていたこの刑務所は、1992年に大肚の新獄舎に移転。跡地は幾つかに分けられてマンションや学校などに再開発されました。

 利國町通(府後街)が延伸されて敷地内に食い込み、それより南側の部分に日本時代からの官舎などが残っています。

 利國町通と林森路の交差点に一番近い部分に建つのが「道禾六藝文化館」として公開されている、刑務所の看守用道場。

 日本時代は「臺中刑務所武徳殿」と呼ばれていたこの道場は、刑務所の道場としては二代目で、初代の道場は村上町通五丁目の南側に建っていました。

 初代道場は大正13年(1924年)に建てられ、その後昭和12年(1937年)に、二代目道場が刑務所敷地内に完成します。初代道場がそれ以降どうなったのかは不明ですが、初代道場のあっただろう辺りには今、警察局の交通分隊庁舎と、村上町通の北側にある忠孝國小(日本時代の村上公學校)の校舎の一つ「明志樓」が建っています。戦後も道場が残っていたのなら、その建物が臨時の警察庁舎、もしくは臨時の校舎として使われて今に至っているのかも知れません。

 刑務所敷地内の二代目道場は戦後になると、臨時の獄舎として使われた時期もあったようです。


 そこから更に南の林森路25巷沿いにある「臺中刑務所浴場」は、入浴施設のない官舍に暮らす看守たちのための共同浴場でした。道場と浴場の間に建つ「臺中刑務所官舍群」ともども、ここに獄舎ができた明治36年の建設。修復は終わっていますが、まだ公開はされていません。


 林森路25巷の更に南側、南屯へのトロッコ道との間には太平林家の日本家屋の項でも取り上げた「臺中刑務所典獄長官舍」が。

 広々とした庭に面して建てられた和洋折衷の官舎は、他の建物より10年ほど遅く、大正4年(1915年)に完成。高官用の官舎として、浴場はもちろん、女中部屋なども備えていました。


 典獄長官舍の横から南屯トロッコ道な自由路一段に戻り、恐らくあの日に阿貓と蜜容が歩いただろうこの道を、南屯方向へ向けて進んでいきます。道沿いにある光明國中も元は刑務所の敷地だった場所。学校横にある「公館路」が当時の刑務所敷地との境にあたる部分です。

 実はこの道の奥にも、虎爺のいる廟が一つあります。

 幸町七丁目にあたるだろうこの場所にある廟は「台中西區光明福德祠(五福福德正神、陰陽正神)」。

 創建年代は不明ですが、2007年時点で、既に百年余りの歴史があるとのこと。ここの神様は土地公様に進化はしていたものの元々は石頭公で、いささか妖怪寄り。このためか、この廟とご神木であるガジュマルをこの場所に移転させる際、工事が順調に進まず、作業員が病気になったり怪我をしたり、という祟りがあり、さらにその後、光明國中の校庭拡張工事をした時にも、作業員や機械に不調が出たそうです。その後、2005年に現在の土地公様の姿に石像が彫られました。

 この廟の転機もまた2005年。土地公様の石像が彫られた一月後に、台湾のグリコ森永事件と言われる毒入りドリンク事件が勃発します。犯人はじきに逮捕され、取り調べが始まりました。この時に、担当検察官がこの廟にお参りしていたところ、実に速やかに取り調べが進み、さらに余罪もゴロゴロ出てきた、ということがあって、廟は一躍有名になり、土地公様の像ももう五体増えて今に至っています。


 公館路を過ぎると、いよいよここは大字公館。自由路一段と、村上町通だった三民路一段が斜めに交わる場所にある緑地が、阿貓と蜜容の別れの場となった公館公園ですが、まずは村上町通を渡って三民市場へ入りましょう。

 日本時代、村上町、旭町、末廣町は、九丁目までの区画整理が計画されていましたが、実際は一番整理の進んだ村上町でも八丁目どまり、旭町は村上公學校裏手の五丁目までしかブロック分けができておらず、末廣町は完全に手つかずとなっています。

 旭町六丁目と七丁目の境になるはずだった林森路の西南側及び、から、刑務所との境だった公館路先の部分、当時は川が流れていて境界線になっていた五權駅の西側辺りまでの線路から北側が、大字公館だったエリアになります。

 日本時代は民家がちらほらと点在するものの、ランドマークと言えば職業地図に掲載された「台中牛乳大和牧場」だけでした。

 なお、牧場と言えば、さっき線路を渡る際に通った國光路の西側、老松町七丁目も職業地図によると昭和11年時点では「中島牧場」でしたが、この牧場は老松町六丁目の駅付近が街として発展したことにより、爆撃図時点までには姿を消しています。職業地図を見ると台中市内にはもう一ヶ所、東勢子に「川内牧場」もあって、これは水源地と練兵場の間あたりになります。

 牧場が開けるほどのどかだった公館も、戦後は人口が増え始め、付近の住民向けに三民市場が設けられるほどになりました。


 市場のできた時期を明言している資料には出会えなかったのですが、恐らく初音町の「竹圍市場」、後壠子の「忠信市場」と同じような成り立ちであり、市場内の聖母宮も、大体そのくらいの時期、露店が出始めた1950年代か、市場建物が設けられた1970年代頃の創建だったのではないでしょうか。

 その後、駅付近の旧市街だけでは徐々に手狭となってきた台中市は外周へ向かって発展を始めます。清時代の臺灣省城は、東大墩を目指して四方八方から集まってくる街道の交差点を城壁の真ん中に収めていました。日本時代の都市計画も、当初はこれらの街道を環状道路で繋ぐ街造りが提案されています。一度は潰えたそれらの計画が息を吹き返したかのように、戦後の台中市は環状道路を設けて外へ外へと広がっていき、それに連れて居住地も移転していったことで、三民市場も利用客と賑わいを失っていきました。


 その分、聖母宮が存在感を増したようで、グーグルマップなどで写真を見るとまるで三民市場はまるごと聖母宮のための神殿になったかのように思えます。

 かつては裏側の大全街(かつての旭町通の延長)辺りまでがまるごと市場だったようですが、今では三民路と、自由路がこの交差点から名を変えた南屯路沿いの店はまだ営業しているものの、大全街と三民市場3巷沿いはシャッター商店街と化し、特に裏手の大全街東側ではマンションなどへの建て替えも進んでいる様子。ただし聖母宮の赤い提灯がずらりと並ぶ三民市場3巷は、さびれているはさびれているなりになかなかに風情ある光景となっています。


 公館公園は蜜容が立て板に水の勢いで解説したように、台中の基礎となった大荘園、「藍興莊」の事務を行う「公館」があった場所。

 実はこの近く、三民市場の裏手の方には「藍興福德祠」という廟もあります。

 この廟の歴史は古く、当時は田畑だった中に建てられた際の石碑が残されていて、それによると清の道光帝時代、1835年に創建されたとのこと。藍家が台湾に入植したのは雍正帝元年の1723年なので、それから百年が経ち、開墾地もかなり広がっていただろう頃です。

 戦後の1950年頃にこの廟は修復と増築工事が行われました。また長年個人所有の土地に建っていましたが、2003年にこの土地を買い取り、その後、2005年に再度の修復工事が行われて、今に至っています。

 またこの辺りの地名も、1968年からは「藍興里」となりました。このため、付近には藍興公園など「藍興」の名を持つ施設が幾つか見受けられます。


 あと五分、を小説版では二人は何度か繰り返し、この小さな公園内をぐるぐると歩き回ります。ここはまさに郊外の南屯へ帰る蜜容と、市内の利國町へ帰る阿貓との分かれ道。この公園を一歩出てしまえば、二人が一緒に歩く必要のある道は互いの帰り道に一ミリたりともないのです。

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