第18話 昭和台中市~櫻町、楠町、花園町、曙町今昔:台中駅のもう一つの駅前 

 吳家の関係者によるニュータウン「新庄仔」の北側半分ほどを線路の下にして臺灣縱貫鐡道が開通し臺中駅ができると、吳家公館ばかりが目立っていた駅南側にも、少しずつ変化が見えてきます。


 明治44年(1911年)には東側の高砂町に製糖工場が建ち、大正5年(1916年)には製糖鐵道の中南線が開通。

 西側の敷島町にも大正3年(1914年)には「赤司製酒場」ができました。ここも大正5年には「大正製酒株式會社」の「臺中工場」となって規模を拡大します。

 二つの工場という「出勤先」を得て、駅裏手であるこの地域も人の動きを増し始めました。


 この辺りの街造りが本格化したのは大正10年代かららしく、大正11年(1922年)には櫻町通に面した櫻町一丁目7番地に「櫻町消費市場」が設けられています。この市場はその後、昭和3年(1928年)に敷地の関係で櫻町一丁目の裏通り側へ移転し、更にその後は昭和7年(1932年)に敷島町側へ移転して「臺中市第三市場」として今に至っていますが、当初の所在地は櫻町側でした。


 櫻町及び楠町の一、二丁目は商店街だったらしく、個人経営の商店や病院で住所がわかっているものは、この辺りに集中しています。


 林澄瑩医師が大正12年(1923年)に錦町五丁目で開業した内科小児科の杏林醫院(杏林堂醫院とも)は大正15年に(1926年)に櫻町の一丁目13番地へと移転してきました。他にこのエリアでは昭和10年に陳茂堤医師が櫻町二丁目26番地で茂堤産婦人科を開業。また櫻町二丁目9番地に、吳泗輝医師による吳醫院が遅くとも昭和11年(1936年)には開業し、耳鼻咽喉科の他、産婦人科の診療も行っていました。


 小児と妊婦の数に関係があるのか、昭和10年末の職業地図では楠町三丁目に「靈光社兒童園」という施設が見えます。

 また楠町通と曙町通に挟まれたエリアには、明治44年(1911年)の地図から「再生舎」という施設名が見えています。

 「臺中再生舎」は刑務所から出所した人を社会復帰まで保護する施設で、臺中刑務所の職員によって明治40年(1907年)に設けられました。これは前年に臺南刑務所の職員が「臺南累功舎」を設置したのがきっかけで、再生舎ができた明治40年には、台北でも「臺北一新舍」が誕生します。

 楠町一丁目28番地にあったこの施設は、職員の寄付、慈善団体や個人からの援助、施設で生産した作物などの販売、總督府からの補助金などで運営費を賄い、どうにか経営が軌道に乗った大正4年(1915年)に三舎が合併して「財團法人臺灣三成協會」を設立。その後も昭和2年(1927年)に新竹更新舍を発足させ、各地に支部も誕生しました。

 戦後になると臺灣三成協會は、各地の自治体が発足させていた保護機構ともども臺灣高等法院によって接収され、臺灣省司法保護會としてまとめられます。その後幾度かの名称変更を経て、現在は「財團法人臺灣更生保護會」として引き継がれています。


 再生舎の敷地は、発足当初の時点では楠町通から曙町通にまで及ぶかなり広大なものでしたが、その後、曙町に「臺中公學校曙分教場」が開校したことで、半分ほどに面積が減りました。子供を含めこの周辺に住民が増えたことが窺えます。大正12年(1923年)に開校したこの分教場は、その後、大正15年(1926年)に独立して「曙公學校」となり、昭和7年(1932年)からは「臺中市曙公學校」となります。

 この学校は現在の「臺中市東區臺中國民小學」。当時の校舎などは戦後になって全て建て替えられましたが、所在地だけは当時と同じです。


 さらに昭和10年(1935年)には楠町側でも二丁目に「臺中州立臺中家政女學校」が成立し、再生舎の土地はさらに狭まります。

 家政女學校は現在の「臺中市立臺中家事商業高級中等學校」。

 曙町の臺中國民小學が二ブロック分の土地を丸々使っているのに比べて、この学校の土地がやや狭いのは、元々が二丁目側のブロックのみを敷地として設立された学校だったせい。この時点ではまだ一丁目側には再生舎がありました。しかしその後の爆撃図を見ると、一丁目側には運動場ができています。この時点ではまだ道路で女學校と隔てられていますが、現在では一体化し、間の道路は消えました。

 このため、日本時代末期には再生舎はここから消えていた、恐らくどこかへ移転していたことが窺えます。

 なお、楠町三丁目に「靈光社兒童園」が姿を現すのは職業地図での一度きりで、どのような団体でありどのような施設だったのか、詳しいことはわかりません。


 臺中駅はバナナの出荷拠点でもあり、半官半民企業の「臺灣青果株式會社」が大正13年(1924年)に創業すると、品質管理のための検査場「臺中果物檢查所」が花園町六丁目に設けられます。敷地の横にはトロッコも設けられ、バナナ生産地である台中市南側の農村と検査所とを結んでいました。


 櫻町通の駅寄り側には倉庫が立ち並び、貨車へのバナナの積み込みや、逆に台中に届いた荷物の荷下ろしや荷捌きが行われています。

 櫻町二丁目のバロック風二階建て、屋上部分の屋根飾り「山牆」に「文」の文字がある「文青果組合會社」もバナナを扱う会社でした。7番地にあたるこの建物は、通り側はモルタルで塗装され、更にパッと見だと石造りだと思えるよう装飾がされていますが、横の路地に入ってみると実は煉瓦が主体だとわかるのが面白いところ。裏手から見ると建物の屋根の一部は閩南スタイルで、路地に面して本来は採光用の中庭があったことも見て取れます。中庭の奥に倉庫棟が設けられているこの建物配置も、閩南式街屋の伝統に則ったスタイル。

 また、櫻町通に面して隣の建物も、通り側は南京下見板張りですが文青果組合會社側から見た側面は簓子下見板張りであり、恐らくは日本時代の建物です。ただし二丁目5番地の6及び7だったはずのこの建物にどういう店が入居していたのかは情報が見当たりません。


 櫻町四丁目で、ブロックの真ん中にある路地、復興路四段138巷を覗き込むと2021年の年明けまではそこに天外天劇場の廃墟が佇んでいました。

 劇場の裏手には戦後の1956年に台中市によって「東區公娼區」が設けられます。駅から最も近いこの歓楽街には台中市周辺の軍営から、休暇の度に兵士が押し寄せました。干城町からくる者は駅北側の構外跨線橋を渡り、駅に着いた者達は南側の構内跨線橋を渡って東區公娼區を目指します。このため台中っ子は彼らを「爬天橋的」(歩道橋を上る人、歩道橋野郎)と呼んでいたそうです。

 天外天劇場の戦後の名称「國際戲院」にちなみ「國際巷」と通称されたこの公娼區はその後、陸軍干城營區の移転、製酒工場と製糖工場の操業停止などが要因となり1990年代からは急速に衰退、2018年に台中市内最後の公娼館だった「白蘭花」「夜城」(二枚看板で実際には一店舗)が閉館して歴史を閉じます。

 「東區公娼區」が開業した頃には隣接する吳家公館もスラム化し、不法占拠の住民たちの干した洗濯物が所狭しと翻っていましたが、ここはひとまずまだお屋敷も吳家も天外天劇場も輝きを失っていなかった時代に戻りましょう。


 吳家公館と櫻町通を挟んで向かい合う辺りのどこかには、吳子瑜さんの妻の親族だっただろう清水蔡家の蔡蓮舫さんが公館を構えています。これは新築ではなく、既存の建物を買い取って、公館として利用していたとのこと。更に、実際は側室との息抜きの場としての利用が主だったようです。


 天外天劇場が建つ場所の裏手。楠町通と花園町通の四丁目に挟まれたブロックには、吳家公館の敷地に食い込む形で、霧峰林家の一員である林烈堂さんの公館がありました。

 林獻堂さんとはおじいさんを同じくする従兄弟同士だった烈堂さんは、吳子瑜さんとははとこ同士に当たります。獻堂さん烈堂さんの祖父だった林奠國さんは、吳子瑜さんの祖母である林純仁さんのやはりお兄さんの一人でした。


 林烈堂さんの公館は、実は市内にもう一ヶ所あるのですが、初音町一丁目5番地辺りに建つ昭和10年(1935年)築のモダンな西洋館は「林烈堂南台中公館」以外に「林烈堂花園」「林烈堂花園別墅」などとも呼ばれていて、どちらかというとプライベート重視な空間だったようです。戦後は長らくホテルとして使用され、現在はカラオケボックスとして使われています。

 一方で楠町花園町四丁目のこちらは、同じブロック内に烈堂さんが取締役社長をしていた「禎祥拓殖株式會社」もあり、どちらかと言えばオフィシャルな空間でした。大正11年(1922年)に創業し事業内容は土地の売買と開墾だったこの会社の住所は楠町四丁目10番地。これは昭和12年(1937年)の『臺灣人士鑑』に掲載されている烈堂さんの住所と同じです。

 また、烈堂さんの妻は蔡蓮舫さんの妹である蔡佩琨さんで、その意味でもこちら側の方が重要拠点だったと思われます。

 このエリアにはもはや社屋もお屋敷も残ってはいないのですが、「林烈堂記念公園」化する計画があるとのこと。


 そして吳家公館の裏手にあたる南側で一部境界を接していたお屋敷が、庭園部分はほぼ完全に失いつつも建物はしっかりと今に残っています。

 文化資産にもなっている「瑾園」。

 明治44年(1911年)までには建っていたこの家の主だった林子瑾さんは、林獻堂さんともつながりの深い詩人でしたが、霧峰林家の人ではありません。子瑾さんの父親である林染春さんは漢方医で、旅の医者として単身来台し、台中に腰を落ち着けた人物です。吳鸞旂さんと同じく童試に合格して生員となってもいた林染春さんは、吳鸞旂さんの姉である吳杏元さんと結婚し、そして生まれたのが林子瑾さんでした。このため、吳子瑜さんにとっては従兄ということになります。子瑾さんは1878年生まれなので、子瑜さんよりも7歳年長。

 お父さんの林染春さんは官吏ではありませんが、お母さんの吳杏元さんは准官吏的な立場にあった吳鸞旂さんの姉。このため子瑾さんも官吏の身内扱いとなり、従弟である子瑜さんが「東璧舍」と呼ばれていたように、「阿楨舍」と通称されました。

 そして子瑾さんの号は「大智」。このため「瑾園」の横を通る、日本時代には五丁目と六丁目の境だった名もない道路は、今では「大智路」という名になっています。


 吳子瑜さんと同じく、日本時代に於ける台湾三大詩社の一つ「櫟社」に加入していた漢詩人であり、「瑾園」は「櫟社」の活動拠点の一つでもありました。他に、台湾に於ける漢文の使用維持を目的として文学グループ「臺灣文社」を立ち上げていて、「瑾園」はこのグループが発行していた「臺灣文藝叢誌」の編集事務所でもあった場所です。

 また子瑾さんは蔣渭水さんが大正10年(1921年)に立ち上げた「臺灣文化協會」の主要メンバーでもあり、子瑜さんと同じく臺灣議會設置請願運動を支持していて、林獻堂さんとともに請願のため東京に赴いてもいました。このため、大正12年(1923年)に臺灣文化協會の幹部が逮捕された時、子瑾さんは北京に脱出、それ以降は北京を拠点として台湾の民族運動を繰り広げます。

 昭和12年に母親の吳杏元さんが亡くなったため一度帰台していますが、昭和15年(1940年)には再び北京へ戻り、終戦まで北京で過ごしました。

 戦後になって1949年に帰台しようとしますが、既に71歳だった子瑾さんは体調を崩し、結局台湾へは戻れないまま1956年に北京で亡くなります。「瑾園」は2018年に文化資産となりましたが、個人の住宅であり、今も住民がいるため公開はされていません。


 さて、このエリアに残る昭和11年はこのくらいですが、ここにも実は台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、主人公である小説家志望の自称「ニート」の阿貓と大学院生の羅蜜容が巡っただろうと思われる虎爺が一尊いるのです。「瑾園」前の信義街172巷から、曙町通方向へ目をやると見える小さな廟、忠孝福德宮。日本時代、建立当初のこの廟は地元の人によって作られたささやかなお堂で、単に「福德祠」と呼ばれていました。

 曙町通は現在の忠孝路ですが、この道は日本時代にはまだ曙町側ではほとんど整備が進んでいませんでした。大正橋通(台中路)の西側、有明町通にあたる区間では頂橋仔頭の集落に繋がる道として整備され、今とほとんど変わらないルートを走っていますが、曙町側では臺中市曙公學校の南側しかきちんとした道になってはいなかったのです(振興路100巷が整備前の曙町通の一部に当たります)。

 戦後になって1967年に臺中國民小學より東側の部分でも忠孝路の整備が始まると、拡幅されまっすぐになる道路の予定線がこの「福德祠」に掛かり、「福德祠」は整備を終えて新しいルートを走るようになった忠孝路沿いの今の位置に移転しました。

 その後、1996年に「福德宮」の名前で登記申請され、翌年には廟の整備も行われて「忠孝福德宮」として現在の姿になっています。

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