第19話 昭和台中市~高砂町と製糖列車の旅

 臺中駅南側の発展を促した二つの工場の片方である帝國製糖臺中工場。高砂町はその全域がこの帝國製糖で占められていました。

 現在公開されている「臺中營業所」部分の他に、今後は國家漫畫博物館の入居先として公開される予定の工場部分、他にも日本から赴任してくる社員のための社宅など、当時は関連施設が全てこのエリア内に詰め込まれています。


 帝國製糖株式會社は台中で明治43年(1910年)に発起し、高砂町に工場を作り始めました。創業メンバーはすべて日本人でしたが、実は吳部爺がこの時、工場建設に大規模な出資を行い、大株主として会社の運営に口を出せる立場を確保しています。

 吳部爺のこの行動は、高砂町のそれ以前の歴史に理由がありました。

 明治28年(1895年)に台中にやってきた日本軍の臺中駐屯大隊は、作りかけのまま放置されていた臺灣省城のあちこちを駐屯地とします。

 しかし臺灣省城内で利用できる空き物件はかつての官庁しかなく、そのうち既に城壁が築かれていた城内西北部にある「元誠考堂」及び「儒考棚」は既に「臺中縣廰」など行政部門の入居先として使用されることが決まっていました。

 このため駐屯大隊は城内中央部に建っていた元の「臺灣縣廰」庁舎、そして西門の外にあった「武營」を入居先としますが、それでは場所が足りず、城内にあった廟をも占拠して事務所や病院、倉庫などに転用していたのです。高砂町にあたる地域には孔子廟と城隍廟があり、孔子廟には明治29年(1896年)に台中に設置された衛戍病院が入居、城隍廟は衛戍病院の伝染病室として使用されていました。

 その後、都市計画が進められる中で駅にほど近いエリアに駐屯地が置かれることとなり、区画の名前が干城町と定められます。干城町駐屯地の整備は1900年代初頭から始まり、明治43年(1910年)に衛戍病院の新病棟が完成(ただし新築ではなく、野戦砲兵大隊の兵舎を改築したものです)すると、衛戍病院は高砂町から干城町へ移転しました。そして残された空き地で、その年に発足した帝國製糖の工場建設が始まることになったのです。

 吳部爺が帝國製糖の大株主となったのは、この空き地から城隍廟を移転させるため。そもそも吳部爺はこの城隍廟が臺灣省城建設に伴って1889年に建立された時に携わっていた人物の一人でした。

 姉の夫である林染春さんと二人で移築の責任者となった吳部爺によって有明町へ移築されたこの城隍廟は、現在の「台中城隍廟」。大正8年(1919年)の廟再建時には吳子瑜さん、林子瑾さんも再建計画の委員会に名を連ねています。


 また、衛戍病院になってしまった孔子廟についても吳部爺は思うところがあったようです。この孔子廟もやはり臺灣省城建設に伴って建立されたものだったので、吳部爺が当初から関わっていた廟だったのかも知れません。

 息子の子瑜さんが顏家に売却した吳家公館は、戦後の一時期、孔子廟となっています。台北の大龍峒にある臺北孔子廟を國民党政府が台中に移転させる、という計画があり、顏家はその移転先として、空き家だった吳家公館を國民党政府に廉価で売却しました。

 吳家の広大な屋敷は孔子廟にぴったりで、仮の廟として孔子像がここに安置されています。ただしこの孔子像は高砂町にあった孔子廟のものではありません。その像は既に行方も分からない状態だったため、ここに安置されたのは新たな孔子像でした。

 孔子の出身地である山東省曲阜縣の土で作った塑像で、1949年に台湾へ移住した文人、施景琛という人物が移住時に持参、その後、1950年頃に寄贈したものだったそうです。

 こうして吳家公館は「大智孔廟」となりましたが、この段階ではあくまでも「仮の孔子廟」。その後、臺中市政府が正式な廟建立のための資金確保に苦労する間に、吳家公館では不法占拠とスラム化が続き、建物は建材確保のためどんどん破壊され、孔子像の安置場所はいつしか通り道にされて、像もいつの間にか消えてしまいます。更に裏手には歓楽街ができていて、孔子廟建立に相応しい立地とは言えなくなっていました。

 最終的に市政府は吳家公館での廟建立を断念。この土地を売却し、それによって得た資金で新たな用地を確保した方が早いという結論に達します。また、この間に台北市が直轄市に昇格したため、「臺北孔子廟」も國民党政府の管轄下から外れ、台中への移転は政府の関与できるところではなくなります。

 このため、臺中市政府は「臺中市孔子廟」を設けると決め、新たな用地として、昭和15年(1940年)に水源地の北で建立された二代目臺中神社の跡地を選択しました。戦後、臺中神社本殿は臺中市忠烈祠となり、境内には学校が設けられていましたが、ちょうど学校が移転し空き地となったところでした。ここが今では臺中市孔子廟となっています。


 高砂町の製糖工場は明治44年(1911年)の12月から稼働し、その翌年には敷地内に第二工場を建設します。また創業の年に台中にあった臺中製糖、協和製糖、松崗製糖を合併し、大正5年(1916年)には南日本製糖株式會社を合併して新竹製糖所と竹南製糖所を確保しました。この年には神戸市に神戶精製糖工場も建設しています。

 その後、大正6年(1917年)には高砂町内にアルコール工場を建設。大正7年(1918年)には新竹製糖所にもアルコール工場を設けています。これらのアルコールは燃料として使われたため、第二次大戦末期の空襲時にはアルコール工場が軍需工場と見做され、製糖工場もろともに爆撃目標となりました。

 大正6年には臺中駅の隣駅がある潭子庄に潭子製糖工場も建設しています。大正12年(1923年)に神戶精製糖工場を明治製糖株式會社へ譲渡していますが、その後も昭和14年(1939年)には中壢に崁仔腳製糖所を設置しました。


 これらの工場に原料のサトウキビを充分にいきわたらせるため、帝國製糖はその創業初期に周辺の稲作地帯でサトウキビの栽培を強要。これに怒った農民たちが役場へ押しかける事態を引き起こしています。

 サトウキビは米に比べて廉価なため、そればかり作っていては農民の生活が成り立たず、また主食であるコメに比べて農民にとっては食べられない作物だったためでした。このサトウキビ生産強要は、「黒糖地獄」と呼ばれた薩摩藩と奄美諸島の関係に似ています。帝國製糖の創業メンバーには鹿児島出身者が多く、発想の根幹に「黒糖地獄」があったのかも知れません。最終的に、サトウキビ育成に補償金を出して農民の生活が成り立つようにしたことで、この問題は解決しました。


 帝國製糖は昭和16年(1941年)に大日本製糖によって吸収合併されます。その後、大日本製糖は昭和18年(1943年)に「日糖興業株式會社」と改称。

 戦後になると「日糖興業株式會社」の台湾に於ける資産は全て中華民國に移管され、その後は臺灣糖業公司の管轄になります。

 臺灣糖業公司台中工場となった高砂町の工場は1993年に操業を停止。1997年になると敷地内にショッピングモールを建造する計画が動き始めました。しかしこの計画は、地下室を作るため掘削を始めた2000年に大型台風が襲来し、掘りかけの地下室が巨大な池と化してしまったことで断念されます(この池が現在の「臺糖生態湖」)。建物はその後、2007年に文化資産として指定されました。


 高砂町に残る「昭和11年」はこの工場だけですが、工場敷地の南側、建成路沿いに近年移転してきた建國市場には実は、台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、主人公である小説家志望の自称「ニート」の阿貓と大学院生の羅蜜容が巡っただろうと思われる虎爺がいます。

 建國市場は元々、1972年に臺中駅北側の建國路沿いにできた市場で、橘町と臺中駅の間の建國路を北へ進んでいった干城町エリアにありました。台中市内の鉄道高架化に伴い、駅の南側で新市場が2013年から着工。2016年に完成し、移転します。

 この市場内には聖母宮と普聖宮という二つの廟が設置されていて、この廟も新市場内に移転。虎爺がいるのは聖母宮の方です。


 また市場前の建成路を北へ進むと、かつて大字旱溪の中心だった旱溪集落に建つ「樂成宮(旱溪媽祖廟)」が。

 旱溪の開拓が始まったばかりの1753年に建立されたこの廟は、150年が経過した1900年代初頭にはかなり傷んでいたため、修復計画が持ち上がります。吳部爺はこの修復にも参加していました。


 ここからは、『綺譚花物語』第三作『庭院深深華麗島』の主人公の一人、林雁聲が生まれた「東大墩林家」のもう一つのモデルであり、華麗なる林家公館のモデルの一部にもなっている霧峰林家を目指すため、製糖列車に乗って移動しましょう。


 櫻町の中南駅から乗り込む製糖列車は、昔の三等車輌のようなこじんまりとした車輌でした。

 中南駅を出ると、線路は高砂町の製糖工場敷地内へ。貨物列車は工場建物の間を進んでいきますが、私たちの乗った旅客車輌は工場建物を避けて敷地の端を進んでいきます。


 工場内を抜けてきた貨物列車の軌道と合流するのは、旱溪の手前。当時の旱溪はその名の通り、川があるんだかないんだかという砂州でしたが、今はけっこうしっかりと水が流れています。

 振興路の東門橋の北側に、当時は鐵道橋が掛かっていました。ここから線路は振興路沿いを進みます。振興路は清時代からの旧街道で、昭和11年には花園町六丁目の果物檢査所脇から伸びるトロッコ軌道もこの道に敷設されていました。

 振興路は途中で一度曲がりますが、製糖列車はまっすぐ走っていくため、最初に旱溪を渡ったところでは線路が北側、振興路が南側だったのが、東英路との分岐辺りを目処に、振興路が北側、線路が南側、と入れ替わります。

 この辺りで貨物列車軌道は分岐し、北の聚興集落方面へ向かうルートと、南西の大里集落へ向かってその先また分岐するルートが遠ざかっていきます。この分岐路線はどちらも貨物専用軌道でした。


 振興路が北側、線路が南側、となってから少し進むと大里溪。道とトロッコ軌道は太平橋を渡り、ここからは太平路となります。製糖列車は太平橋のやや南に設けられた鐵道橋で大里溪を渡り、ここからは少しずつ南の方へ。

 太平路はこのままトロッコ軌道と共に太平集落の真ん中を突っ切って、車籠埔集落で終わりますが、製糖列車は永義路225巷に入り、長億六街を進んでいきます。これらの細道は、かつて中南線の線路が敷かれていた部分がそのまま道として残ったもの。長億六街と太平集落の振興路から延びてくる中南路との交差点にあったのが「太平駅」。中南路はまさに中南線に乗り降りするための道でした。

 太平駅の駅舎は、瓦屋根の平屋建てな日本時代からの駅舎が2010年代前半辺りまでは残っていましたが、2018年頃までには取り壊されてしまいました。この取り壊しが行われた時期には、「日本時代に建てられた中南線の駅舎なら後站になった中南駅がまだ臺中駅に残っている」と思われていた訳ですが、実際には太平駅こそがその頃唯一現存していた中南線の日本時代駅舎だった訳です。


 太平駅を発車し長億六街を進んでいく製糖列車。頭汴坑溪に架かる橋は光德橋で、旧線路道の名前はここから光德路に変わります。

 慈明高中の前のバス駐車場付近が当時の車籠埔駅。車籠埔の実際の集落からはかなり郊外に当たります。駅裏手からは竹子坑の集落に向かってトロッコ軌道が伸びていました。この駅の名前は戦後になると「光隆」に変わっていたようです。


 引き続き光德路を南下し、途中「牛角坑溝」という小川を越えると、道の名前は鳳凰路になります。仁化路との交差点手前が番子寮駅。これも番子寮の集落からはだいぶ逸れた場所でした。

 仁化路を越えると道の名前は光正路になりますが、線路はここから今は道のない部分を鳳凰路の延長線上で過ぎり、隣接する美群北路に入ります。塗城路との交差点手前が塗城駅で、塗城集落からもかなり近い位置です。

 塗城路を越えて、道の名前は美群路に。草湖溪に架かる美群橋を渡るとここからは錦州路。

 当時トロッコ道だった吉峰西路との交差点を過ぎた場所が北溝駅で、ここからまた錦州路を走ります。

 錦州路が中正路に合流すると、ここからは中正路を南下。霧峯駅があったのは、今では中華電信の営業所ビルが建っている場所で、グーグルマップの口コミを見ると誰かが「この霧峰服務中心は元は霧峯駅があった場所」だと書き込みをしていました。

 ここで製糖列車を降りれば、霧峰林家のお屋敷まではせいぜい徒歩五分の道のりです。


 この製糖列車ルートは、実は作家の佐藤春夫さんが『殖民地の旅』で辿ったルート。佐藤さんは通訳のA君こと臺中州通訳の許媽葵青年と共に、台中から汽車に乗って阿罩霧(後の霧峰)の林獻堂さんを訪ねていくのです。

 そして駅で汽車を降り、屋敷へ向かって歩いている途中で、A君の友人である獻堂さんの甥っ子(林獻堂さんの兄の息子で、本家の跡取り)が二人に声を掛けてきます。


 実はこの甥は、二人が乗っていた汽車が臺中駅を発車すると同時に馬に鞭を入れ、霧峰までの道をひた走って汽車と競争していたのでした。汽車は臺中駅を出た後、製糖工場の敷地を通るのと、集落を幾つも経由するため北東にぐるっとカーブを描く遠回りで霧峰に向かっていますが、馬で走る道は霧峰までの最短距離。

 だから昨日は汽車と同着だった。今日こそ勝とうと思っていたが、今日は負けてしまった、ということを、獻堂さんの甥っこは友人であるA君と、その連れの佐藤春夫さんにテンション高く、日本語と台湾語チャンポンでまくしたてるのです。


 中南線の走る距離は、霧峰までざっと十二キロほどでしょうか。佐藤春夫さんの記憶によると二十五分ほど掛かったそうです。

 獻堂さんの甥っこが馬でひた走った道は、今で言う台中路。途中で明徳街を一瞬走り、そこからは中興路二段に入って大里溪までひたすら南へ向かいます。川を渡るとここからは中興路一段。再び川――今度は草湖溪――を渡り、霧峰區に入ると農業高校のところで二股に分かれる道を中正路に入って、この道の途中、今は933號と地番が付いている中華電信が以前の霧峯駅。

 東の錦州路から中正路へ入る製糖列車はこのカーブを曲がるため、きっと手前でブレーキを掛け始めたでしょう。そして中正路に入ってからの五百メートルは、駅できっちり停車するために、汽車はブレーキを掛けつつ余力で走ることになるはずです。

 臺中駅から霧峯駅までは、直線距離でなら七、八キロほど。道の曲がりを考慮しても、十キロはないはずなので、汽車が霧峰まで二十五分なら、ほぼ互角。ここまでひた走ってきた馬にラストスパートを掛けさせ、さあ、勝負の行方や如何に?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る