第17話 昭和台中市~太平吳家

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第三作、日本時代を舞台にした『庭院深深華麗島』の舞台となるお屋敷「林家公館」。

 日本時代台中市の櫻町通から花園町通にまで至る広大な庭園を持つこのお屋敷にもモデルがありました。

 『庭院深深華麗島』の主人公である東大墩林家のお嬢様、林雁聲。そしてその父の側室である廖蘭鶯。この「東大墩林家」のモデルとなった台中の名家は二つ。一つは今も台中市郊外の観光名所となっている広大なお屋敷の主だった「霧峰林家」、そしてもう一つが臺中駅裏手のこの場所にその時代実際に建っていたお屋敷の主「太平吳家」でした。


 『綺譚花物語』第四作『無可名狀之物』の中で、主人公の片方である大学院生、羅蜜容が夢の中で滔々と語る「公館の由来」。

 その中には「藍興堡」という地名が登場します。「堡」は砦の意味なので、まあ城一つ分くらいの広さだよね、と思ってしまいがちなのですが、ところがどっこい、清代の「堡」は今の日本でいう郡くらいの広さが普通にありました。「藍興堡」は昭和の台中市とそこに接する大字の全て、加えてその東側の山の中ほどまでをすっぽり含む、広大なエリアです。

 この広々とした藍興堡の開拓には、多くの人が参加しました。太平吳家のご先祖である吳國桂さんもその一人。

 太平吳家の二代目である吳錫泰さん(通称が錫泰公で、東大墩林家の過去エピソードに登場する金泰爺のモデル)は清の康熙元年(1662年。明側から見れば南明朝の鄭氏政権による永暦16年)に、鄭成功に従って来台し、台南に入植した人でした。その後、一旦故郷に戻ってお母さんをも台湾に連れてきたそうで、このため「太平吳家の初代」は吳錫泰さんのご両親となっていますが、「太平吳家の開台祖」は二代目の吳錫泰さんになっています。吳國桂さんは吳錫泰さんのひいひい孫の一人にあたる人物なので太平吳家の六代目。


 広大な藍興堡の中の、かなり東の方。山裾の「太平」が吳國桂さんの入植地で、このため家の名前も「太平吳家」となります。現在でいう台中市太平區、そう、「太平林家」の所在地です。

 そして実は現実にも「太平林家」という一族がいます。

 太平は「東大墩林家」のもう一つのモデルでもあり、作中には「阿罩霧の李家」として登場する「霧峰林家」の父祖の地でもありました。

 霧峰林家の開台祖は林石さんといい、1746年に福建省から来台するとやはり藍興堡に入植し、南の「大里」(今の台中市大里區の一部))で暮らしていました。ところがその後、1786年に台湾で起こった林爽文事件という反乱に巻き込まれ、逮捕された挙げ句処刑されてしまいます。1729年生まれだそうなので、17歳で来台し、40年間開拓に励んだ挙げ句の57歳での刑死でした。

 一族は肩身が狭くなり、林石さんの長男、林遜さんの妻だった黃端娘さんは夫の遺児である林家の三代目当主、林甲寅さんを連れて「阿罩霧」に引っ越します。この新天地で一族は順調に復興し、「阿罩霧」という地名は後に「霧峰」と改められて、この地の林家は「霧峰林家」と呼ばれるようになりました。

 その一方で、大里に残った林石さんの他の息子たちのうち、四男だった林隸さんの息子、林志芳さんが太平に引っ越し、そちらは「太平林家」と呼ばれるようになっています。


 『水面の月を掬う人』には太平林家について「17世紀末に来台した」という説明があり、また「林氏宗廟の一員となれるような羽振りの良さはないけれど」という一文があるので、「霧峰林家」との繋がりを示唆しつつ、来台時期は「太平吳家」の歴史に即していることになります。「太平林家」の二つのモデルを結び付けたのは「太平」の地であり、「東大墩林家」の二つのモデルもまたこの地によって繋がっているのです。


 太平吳家の二代目である吳錫泰さん(通称が錫泰公で、東大墩林家の金泰爺のモデル)は清の康熙元年(1662年。明側から見れば南明朝の鄭氏政権による永暦16年)に、鄭成功に従って来台し、台南に入植した人でした。その後、一旦故郷に戻ってお母さんをも台湾に連れてきたそうで、このため「太平吳家の初代」は吳錫泰さんのご両親となっていますが、「太平吳家の開台祖」は二代目の吳錫泰さんになっています。吳國桂さんは吳錫泰さんのひいひい孫の一人にあたる人物なので太平吳家の六代目。

 広大な藍興堡の中の、かなり東の方。山裾の「太平」が吳國桂さんの入植地で、このため家の名前も「太平吳家」となります。現在でいう台中市太平區、そう、「太平林家」の所在地です。

 そして実は現実にも「太平林家」という一族がいます。

 太平は「東大墩林家」のもう一つのモデルでもあり、作中には「阿罩霧の李家」として登場する「霧峰林家」の父祖の地でもありました。

 霧峰林家の開台祖は林石さんといい、1746年に福建省から来台するとやはり藍興堡に入植し、南の「大里」(今の台中市大里區の一部))で暮らしていました。ところがその後、1786年に台湾で起こった林爽文事件という反乱に巻き込まれ、逮捕された挙げ句処刑されてしまいます。1729年生まれだそうなので、17歳で来台し、40年間開拓に励んだ挙げ句の57歳での刑死でした。

 一族は肩身が狭くなり、林石さんの長男、林遜さんの妻だった黃端娘さんは夫の遺児である林家の三代目当主、林甲寅さんを連れて「阿罩霧」に引っ越します。この新天地で一族は順調に復興し、「阿罩霧」という地名は後に「霧峰」と改められて、この地の林家は「霧峰林家」と呼ばれるようになりました。

 その一方で、大里に残った林石さんの他の息子たちのうち、四男だった林隸さんの息子、林志芳さんが太平に引っ越し、そちらは「太平林家」と呼ばれるようになっています。

 現代の台中を舞台とし、そして『綺譚花物語』に登場するやや超常的な家系「太平林家」の子孫たちを主人公とする楊双子先生のデビュー作である小説『撈月之月』には作中の太平林家について「17世紀末に来台した」という説明があり、また「林氏宗廟の一員となれるような羽振りの良さはない」という一文があるので、「霧峰林家」との繋がりを示唆しつつ、来台時期は「太平吳家」の歴史に即していることになります。「太平林家」の二つのモデルを結び付けたのは「太平」の地であり、「東大墩林家」の二つのモデルもまたこの地によって繋がっているのです。


 この吳家公館の位置は櫻町五丁目であり、今、大型ショッピングモールの大魯閣新時代が建っている辺り、とよく言われるのですが、これは若干間違い。建設されたのは日本時代以前なので、塀で長方形に区切られていたこのお屋敷が、日本時代の都市計画で出来上がったブロックの形に沿っている訳がないのです。吳家公館の塀の形に沿った路地が一本、このエリアには残っています。和平街188巷がそれ。

 吳家公館は東大墩の家々と同じで、東西南北を正確に押さえた形で建っていました。このため、採光と風通しのためにやや斜めに設定された日本時代の都市計画から見ると建物は斜めになっています。

 吳家公館の敷地は、北東の角が大智路と復興路四段の交差点付近、北西の角が大智北一街と復興路四段及び復興路四段197巷に囲まれたエリアの真ん中辺り、南西の角が大公街95巷と忠孝路290巷、立德街と忠孝路で囲まれたエリアの真ん中辺り、南東の角が信義街と大勇街の交差点辺り、という状態で、碁盤の目ブロック六個分に亘っていました。大魯閣新時代があるブロックはあくまでも、吳家公館の主要建物が固まって建っていた辺り、に過ぎないのです。庭園「怡園」の主要エリアは櫻町四丁目とその隣の楠町四丁目でした。

 臺灣省城建設のため、台中には官僚がしばしば訪れています。この公館は官僚を接待するための迎賓館でもあったのです。


 しかし1889年に工事を開始した臺灣省城建設計画は予算不足のため頓挫。1891年に工事が中断され、1994年には省都が台北に移されてしまったため、省城建設予定地ど真ん中の一等地に豪奢な公館を建てた吳部爺は、梯子を外された形となります。

 このためか、33歳の時に日本時代が始まると、吳部爺は總督府と良好な関係を築き、政商として活躍。母方の従兄弟一族である霧峰林家が、当時14歳だった跡取りの林獻堂さんを本土に疎開させてまで日本による占領に抗った挙げ句、東大墩にあった別邸「瑞軒」の庭園を臺中公園の一部として物納することで許しを請う羽目になったのとはまるきり異なる路線を歩みました。


 一方、息子の吳子瑜(別名、吳東碧)さんは1985年に太平で誕生し、日本時代が始まった時は10歳。父親が官吏の幕僚という「准官吏」のような立場だったため、官職についた人物の子弟に対する呼称「舎」をつけて「東璧舍」と通称されました。「舎」は「少爺」の略称で、元々は泉州で用いられていた言い方だそうです。

 もちろんこの人が『庭院深深華麗島』の林雁聲の父である「冬玉舎」のモデル。小説版では名前も「林梓渝、またの名を冬玉」と書かれていて、梓渝と子瑜はどちらも「しゆ」「ヅーユイ」です(東碧と冬玉は「とうへき」「とうぎょく」、「ドンビー」「ドンユイ」なのでちょっと違いますが)。


 この人も漢学の素養があり、大正15年(1926年)には日本時代に於ける台湾三大詩社の一つ「櫟社」に加入しています。自分でも詩のサークル「怡社」を立ち上げていた他、「樗社」、「東墩吟社」といった詩社のメンバーでもありました。

 そんな吳子瑜さんは大正2年(1913年)、28歳の時に、前年に中華民國になったばかりの本土へと赴きます。実はこれが第三のリンク。

 霧峰林家の林獻堂さん(子瑜さんにとってははとこ)は1895年の割譲時に祖母の指示で泉州に疎開し、一年後に帰国していました。

 更にもう一人、霧峰林家には林朝棟さんという人がいました。この人は、吳懋建さんと共に出陣してやはり36歳で戦死した林文察さんの息子さん(子瑜さんにとってはやっぱりはとこ)。霧峰林家の六代目当主だった1851年生まれのこの人は、1883年に起こった清仏戦争では基隆攻防戦に出陣するなどしていたバリバリの武闘派で、もちろん割譲に大反対。家族を厦門に疎開させ、割譲反対派が台湾で立ち上げた「臺灣民主國」を支持して対日戦に身を投じます。しかし臺灣民主國は負け続きで、総統までもが形勢不利と見て台湾からこっそり逃げ出す始末。失望した朝棟さんはやはり台湾を離れて厦門に向かい、最後は明治37年(1904年)に上海で病没しました。また朝棟さんの息子の一人である林資鏗さんは、父に代わって台湾に戻りその事業を引き継いでいますが、事業の傍らで日本製品の不買運動をしたり、地方で発生する抗日蜂起に密やかに資金を援助したりしています。


 林獻堂さんの僅か一年の本土滞在と、林朝棟さんの厦門移住、そして大正2年からの吳子瑜さんの北京滞在、この三つが作中で結びつけられ、少年時代の冬玉舎が父の命令で北京に疎開し、そのままそこで成長したことで父子が疎遠になる、というエピソードになっているのです。


 実際には吳子瑜さんの本土行きは、事業のための赴任。本土で炭坑を経営するべく旅立った吳子瑜さんは、しかし北京で孫文たちと親交を結び、中でも同じ「吳」姓を持つ吳佩孚とは、吳佩孚が吳子瑜さんの一人娘を義理の娘として扱うまでの仲になっています。


 そう、この北京滞在中、吳子瑜さんには娘が一人生まれました。北京(燕京)で誕生したことから、この娘は「燕生」と名付けられます。

 太平吳家の十代目である「燕生」。日本語なら「えんせい」、北京語なら「イエンション」。彼女こそが『庭院深深華麗島』のヒロインである林雁聲のモデルとなった女流詩人、吳燕生さんでした。


 吳燕生さんの誕生時、祖父である吳部爺は跡取りとなる孫「息子」の誕生を切望中。

 燕生さんが生まれた大正4年(1915年)には父の子瑜さんは既に30歳なので、当時としては比較的遅くにようやく生まれた子供ということになります。父親を失望させまいと、子瑜さんは北京と台中の距離をいいことに「息子誕生」と大嘘を報告し、写真を送る時にも燕生さんを男装させました。『庭院深深華麗島』の作中に登場する「北京から台湾に送られた五歳の雁聲の写真」は、この「男装した燕生さんの写真」がモデルです。


 子瑜さんの妻は「蔡頭」さん。台中郊外の清水に暮らす名家「蔡家」の出身でした。燕生さんの母はこの人です。詳しいプロフィールや系図がわからないのですが、清水蔡家の蔡蓮舫さんという人物が、明治44年(1911年)に吳部爺と一緒に臺中銀行を作ろうとして總督府に申請した(ただし總督府が認可せず設立計画は中止に)、ということがあったので、事業で付き合いのある家の親戚のお嬢さんとの結婚だったのではないでしょうか。蔡蓮舫さんも櫻町の吳家公館傍に公館を構えていて、新庄仔構成メンバーの一員だったようです。

 他に側室として、名前がわかっているだけで「蘆屏」と「王金」、「張蘭英」という女性たちがいましたが、結局、燕生さん以降、子瑜さんに子供が生まれることはありませんでした。このため子瑜さんは早逝した異母弟「吳東珠」さんの幼い息子「吳京生」さんを跡取りとして養子に迎えています。

 吳部爺にとって正妻の子は長女と子瑜さんだけでしたが、他に林梅さんと何月英さんという二人の側室から一人ずつ息子が誕生していました。林梅さんの産んだ吳東珠さんは子瑜にとってはすぐ下の弟となります。なお吳部爺の側室は全部で五人いたとのこと。


 大正デモクラシーの時代を、誕生したばかりの中華民國で送った子瑜さん。この間、子瑜さんは國民党に入党し、更に1922年には北京在住の台湾人によって組織された「北京臺灣青年會」に参加。はとこである林獻堂さん(獻堂さんが四歳年上)が始めた臺灣議會設置請願運動、加えて台湾の民族主義運動を熱烈に支持するようになります。

 日本時代の台湾に於いても清朝の遺臣として、門の中に閉じ込めた仮初の「中華世界」で生きている『庭院深深華麗島』の「冬玉舎」は、林獻堂さんと吳子瑜さんの経歴を繋ぎ合わせて誕生したのでした。


 しかし大正11年(1922年)に、吳部爺が台湾で病に倒れ、子瑜さんは急ぎ帰国します。ここは『庭院深深~』とは少し違い、吳部爺が亡くなったのは子瑜さんの帰国から半年後のことでした。

 吳家の当主を継いだ子瑜さんは吳部爺の遺言に従い、父祖の地である太平區の冬瓜山に墓所「吳鸞旂墓園」を建造。更にその隣には広大な庭園「吳家花園」を築きます。霧峰林家の屋敷にも劣らない面積を持つ、塀に囲まれたその敷地内には煉瓦造の洋館「東山別墅(別荘)」(「東大墩林家」の命名はここにもちなんでいるのかも知れません)が建ち、剪定された木々によって構成されたどちらかというとフランス風な庭園があり、それらの間を川が流れて所々に橋が設けられていいました。華麗な当時の姿を伝える写真が何枚か今に残されています。

 また五百本以上のライチの樹が植えられ、後々まで収穫もされていたとのこと。


 この東山別墅と吳家公館を行き来して詩社の集まりを開く際に、子瑜さんが常に伴っている女性がいました。それが『庭院深深華麗島』のもう一人のヒロイン「廖蘭鶯」のモデル、側室の「張蘭英」さんです。「蘭英」と「蘭鶯」。日本語では「らんえい」と「らんおう」ですが、北京語読みではどちらも「ランイン」となります。『庭院深深華麗島』の蘭鶯と同じく、彰化で生まれた張蘭英さんは、女子公學校を優秀な成績で卒業後、高等女學校の入試を受け合格します。しかし家が貧しかったため学費を工面できずに中退し、下働きとして奉公に出たのでした。子瑜さんの側室となった後、通信教育制度を利用して学業を再開し、当時の早稲田大学高等科と日本女子大学を卒業するに到ります。吳家で詩会が開かれる際に文具や茶菓、酒の用意といったアシスタント役をこなし、自らも詩才を発揮していた蘭英さんは、吳家を訪れる詩社のメンバーたちにも愛されていました。

 しかし、子瑜さんが再び別の下働きに手をつけたことから二人の関係はこじれ、蘭英さんは揮発油を飲んで自殺します。作中の蘭鶯と同様、昭和7年(1932年)の夏に僅か22歳で帰らぬ人となった蘭英さん。蘭鶯のひっそりとした死とは違い、名士の側室の自死というスキャンダルは新聞沙汰になりました。告別式は吳家花園で行われ、大勢が参列。多くの詩人が蘭英さんの追悼詩を作成し、子瑜さんもまた石碑を建てて追悼文を刻んでいます(ただしこの追悼文、蘭英さんの死因をぼやかし、自分の浮気にも言及していないのですが)。


 さて、子瑜さんは詩作に耽る一方で、「春英株式會社」を設立し、社長に就任。他にも「吳鸞旂實業株式會社」(後に「吳鸞旂拓殖株式會社」)を設立して、こちらでも社長を務め、更には大正15年(1926年)から「大東信託株式會社」副社長になっています。

 そして蘭英さんが自殺した翌年、昭和8年(1933年)に新たな事業として子瑜さんが乗り出したのは、劇場経営でした。


 昭和8年当時、市内に劇場は四ヶ所。このうち、大正館と娛樂館は映画専門館なので、芝居などが見られる劇場は初音町の樂舞台と榮町の台中座。そして樂舞台のある初音町は、遊郭があるだけあって街外れ。駅の傍に住んでいる日本人にとって気軽に芝居を見に行ける交通の便のいい劇場は台中座だけとなります。

 ところがこの台中座は建設から25年が経って老朽化し、使用の継続は危険だとの指摘を受けていました。

 このままでは市の中心部に「劇場」がなくなってしまう。そこで子瑜さんが思い付いたのが、駅の反対側、吳家公館の庭園「怡園」内にある自家用劇場の拡大と、一般観客への開放でした。


 元々の劇場は大正8年(1919年)に吳部爺が建てたもの。吳家公館の主要建物があったのは櫻町通五丁目と楠町通五丁目に挟まれたブロックですが、「怡園」があったのは櫻町通と楠町通、花園町通のそれぞれ四丁目。劇場があったのはこのうち櫻町通と楠町通の間にあたるブロックで、天外天劇場が建っていたのと同じブロック内ですが、位置はもっと楠町通寄りだったようです。

 計画発表時の臺灣日日新聞によると、当初の計画では劇場名が「蓬莱劇場」、収容人数は690人と割とささやかで、翌年である昭和9年(1934年)の6月には完成予定でした。

 しかし、この計画はここからどんどん大規模化していきます。子瑜さんという人は富豪のお坊ちゃまだけあって、凝り始めると金に糸目をつけないタイプでした。加えて商売が下手というか、採算というものを最初から全く意識していないようなところがあります。オタクとしては非にシンパシーを感じざるを得ないこの人は、この時も恐らく「台中に台湾一の劇場ができたら最高」くらいな感覚で、採算度外視で夢の劇場建設に突っ走りました。


 結果、設計は總督府の技師だった斎藤辰次郎さんが担当し、東京の宝塚劇場に勝るとも劣らないと言われる、まさに台湾一の本格西洋式劇場が完成します。

 当時の台湾の民間施設としては珍しく、煉瓦をいっさい用いないフル鉄筋コンクリート製。建物正面は二階建てで、その屋上部分に塔屋が二つ建っている、なんとなくノートルダム大聖堂に似ていなくもないデザイン。そしてその塔屋の間からは、奥の劇場部分にかぶせられている巨大鉄骨に支えられた番傘のような構造の八角形の緑の丸屋根が姿を覗かせています。収容人数は当初予定よりも少し減って630席。客席と舞台の他に、食堂と喫茶室、ダンスホールまで備えていました。


 完成時期は昭和11年(1936年)3月15日。『庭院深深華麗島』のラストシーンである元宵節はこの年の2月7日にあたるので、そこから一ヶ月ちょい後となります。当初の完成予定からはざっと二年遅れでのオープンでした。

 さて、この間に、そもそもの天外天劇場開設のきっかけとなった台中座の方も、三代目台中座の建設を着々と進めています。昭和11年6月に、榮町でオープンした三代目台中座は、収容可能人数が千人。かくして四つの劇場が映画の観客を奪い合い、芝居好きの台湾人を二つの劇場が奪い合う時代が台中に到来しました(日本人の芝居好き向けな演目は台中座でしかやっていないのでこちらは一人勝ち)。


 この頃、実は子瑜さんは台湾を離れ、一族を率いて本土へ移住しています。移住に際し、吳家公館の屋敷を仕事上で付き合いがあった基隆の炭坑王、基隆顏家の顏欽賢さんに売却していました。ひょっとすると劇場の拡大工事にも、資産整理の一環という側面があったのかも知れません。

 なお、天外天劇場の建設理由には、伝説も一つあります。

 ある日、京劇を見に行った子瑜さんが、途中でトイレに行って戻ってくると、自分の席に誰かが座っている。当然、どいてくれと言うのですが、相手はどこうとしません。「座席にあんたの名前が書いてでもあるのかい?」。せせら笑う相手に腹を立てた子瑜さんは自分で劇場を造り、630個の座席全てに自分の名前を書いた、というこの話に、残念ながら証拠はないそうです。


 天外天劇場の名前にも伝説があって、こちらは子瑜さんが劇場の命名を娘の燕生さんに頼んだ、というもの。子瑜さんの性格はとても「天(おおざっぱ)」なものだったため、燕生さんは「天外天」と名付けたのだ、というこの伝説にもやはり証拠はないとのこと。


 天外天劇場の完成によって、吳家の繁栄は絶頂に達した、かのように見えます。しかし実際には子瑜さんの大雑把な性格と商才のなさから、徐々に吳家の財産は目減りし、家運は傾きつつありました。昭和10年(1935年)の本土移住も金策のためだったようです。残念ながらこの移住は本土での商売がうまくいかなかったことから失敗。吳子瑜一家は昭和12年(1937年)に帰国し、終戦までずっと台湾で過ごしました。吳家公館は売却してしまったため、これ以降、吳家の生活の場は吳家花園に移ります。


 日中戦争が始まると、劇場の経営にも少しずつ陰りが見えてきました。太平洋戦争が激化する中、昭和18年(1943年)に農林專門學校(後の中興大學)が台北から台中に移転してきた際には、劇場の一部も臨時の学生宿舎として利用される状態になっています。昭和19年7月には「決戦非常措置要綱」で劇場も「高級享楽」とされ営業を停止。空襲を避けるため建物には迷彩塗装が施されていました。


 終戦後、台湾は吳子瑜さん自身も党員だった國民党の手に渡り、中華民國となります。

 先祖伝来の土地を売って食いつなぐ一種の筍生活状態にあった子瑜さんは、それでもこの時期、かつて孫文が滞在した台北の料亭「梅屋敷」の保存と修復、「國父史蹟館」化のために大規模な出資を行ないました。なおこの「梅屋敷」は、大正時代の台北を舞台とした清水先生の漫画『友繪的小梅屋記事簿(友繪の小梅屋備忘録)』で主人公一家が経営している料亭「小梅屋」のモデルです。


 天外天劇場は1948年2月に営業を再開。しかしチケットの売り上げは低迷し、収入源となるどころか、10月1日からは再び停業する羽目に陥ります。更に心労が祟ってか子瑜さん自身が過労で倒れてしまい、遂に天外天劇場も吳家の手から離れることになりました。

 劇場は新たなオーナーの下、「國際大戲院」と名を変えて営業再開したもののやはり経営不振が続き、12月6日にまたもや停業します。


 1951年5月15日に子瑜さんは65歳で死去。その文才を受け継いだ女流詩人、吳燕生さんによる文壇での活躍はあるものの、「富豪」としての吳家がその存在感を蘇らせることはありませんでした。

 昭和10年の本土移住に際し基隆顏家に売却した吳家公館。1955年に顏家はこの土地を政府に廉価で転売。これは孔子廟建築のための土地提供でしたが、孔子廟は結局建っていません。正確には、吳家公館の建物を使用して仮廟は設置されたのですが、その後の計画がスムーズに進みませんでした。住む人を失ったこの屋敷は、戦後になると建物の一部が公務員住宅として使われ始め、庭園などの空きスペースでは不法占拠が始まります。所有者である基隆顏家も二二八事件の余波でかつての力を失いつつあったため管理がままならず、仮廟が設けられた後もスラム化に歯止めが掛かりませんでした。

 結局この土地は転売され、それによって得られた資金で台中市は水源地北面の土地に「臺中市孔子廟」を建立しています。

 1985年に吳家公館廃墟の再開発工事を行なおうとした際には不法占拠の住民との間に争いが勃発。最終的には強制執行で住民を排除しての更地化が行われ、ここには大型ショッピングモールの大魯閣新時代が建ちました。

 当時の建物でまだ面影を留めていたのは、敷地の入口に立つ正門の門樓だった「更樓」のみで、これは1983年に臺中公園へと移築されます。


 天外天劇場は1950年代にはまた映画の上映を続けていましたが、1964年には今度こそ所有者が劇場としての登記を取り消しました。建物は1975年からは冷凍工場として使われ、1990年からは海老の釣り堀とレース用鳩の鳩小屋に。更に2012年からは一階部分が駐車場として使用されます。メンテされることのない建物はかつての丸屋根が朽ち果てて骨組みの鉄骨が剥き出しとなり、巨大な鳥籠のように見える極めて特徴的な「廃墟」と化していきました。とは言え鉄筋コンクリート製のため、同時代の他の民間建築に比べて構造体へのダメージは少なく、文化資産としての保存が検討されていましたが、紆余曲折の果てに所有者がこっそりと取り壊しを強行。発覚した時には既に建物の正面玄関がほぼ崩されている状態で今さら手の施しようもなく、2021年2月20日に天外天劇場は姿を消しています。


 更に、父祖の地である太平區にあった吳家花園も80年代に再開発され、セキュリティゲートを設けられた広々とした敷地内に低層マンションとテラスハウスが整然と立ち並ぶ「高級新興住宅地」と化しました。再開発前には、もはや人が住まなくなって久しい東山別墅は屋根も落ち、アーチ形の開口部を持つ外壁だけが残る美しい廃墟となっていた様子が写真に残っています。

 吳鸞旂墓園のみは敷地の一角に残され、1992年に文化資産として登録されました。その後、1999年の地震で墓地の装飾壁が全て崩れ落ちるという大ダメージを被りましたが、丁寧な修復が行われた結果、今ではかつての姿を完全に取り戻しています。36歳で戦死した吳懋建さん(作中の林茂築のモデル)、その妻の林純仁さん(李珪のモデル)、吳鸞旂さん、吳子瑜さん、そして1976年に死去した吳燕生さんもここに葬られている一人。


 昭和5年(1930年)の「全島詩人大會」で『春蠶』を詠み一位を獲得していた吳燕生さんは父の死後、台湾を代表する女性詩人として世界に名を轟かせます。

 作中に登場する記念集合写真は、実際に昭和10年(1935年)10月28日に台北の著名な台湾料亭「蓬莱閣」で撮影された「全島聯吟大會」の記念集合写真ですが、この年の大会に燕生さんが参加していたかどうかはわかりません。

 昭和10年は、秋に台北で「始政四十周年記念臺灣博覧會」が開催されたため、全島的な漢詩大會を含む複数の文化イベントも、この開催期間中に台北で同時開催し、博覧會に花を添えていました。しかし昭和10年は吳子瑜一家にとっては吳家公館を基隆顏家に売却して中国本土へ移住した年でもあります。一家の移住時期が大会の前だったのか後だったのか、日付を記した資料は見つかりませんでした。ただし燕生さんはこの前年、昭和9年に嘉義で開催された「全島詩人大會」には父の吳子瑜さんとともに参加し、記念集合写真に姿を残しています。

 なお家の跡取りとしては養子として迎えられた弟の京生さんがいたため、彼女に結婚と出産の重圧は掛かっていません。一度結婚して息子を一人出産、しかしその後離婚した燕生さんの人生は大正生まれの富豪のお嬢様としては相当に自由なものであり、彼女の詩もまた同時代の他の女流詩人とはかなり異なる味わいを持つという評価を得ています。

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