第16話 昭和台中市の日本家屋たち

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』で主要な舞台の一つとなっている「太平林家の日本家屋」。

 「祖厝」と呼ばれる太平林家の本邸である古い屋敷の敷地内に日本家屋が増築されたのは、小説版によると昭和になってからのこと。


 更に、同じ太平林家祖厝を舞台にした楊双子さんのデビュー作『撈月之人(水面の月を掬う人)』には、この「祖厝」が位置するのが台中市太平區であることと、なぜこの日本家屋が建てられることになったかの由来も書かれています。もともとは四合院だった屋敷が火事に遭い、「門樓」という四合院の中で一番前面にあり通りに面している玄関棟と、右護龍と呼ばれる外から見て左に建つ棟(家の奥から見れば右側)が焼けてしまった、それで右護龍のあった位置に建てられたのがこの日本家屋でした。

 『撈月之人』では、その後、近年になるともともとは門樓が建っていた場所にも今度は鉄筋コンクリートによる今風な三階建ての「透天厝(一戸建て)が増築されて、「祖厝」がなんちゃって四合院のような状態になっていることも記されています。


 四合院や三合院では、門を入った正面奥が「正身(本棟)」で先祖の位牌が祀られ、その家の主が暮らす部分。そしてそこから見ての左側の縦棟が左護龍(門から見れば右側)、右側が右護龍(門から見れば左側)となります。左近の桜右近の橘がお内裏様から見ての左右だというのと同じ理屈です。そして左の方が右よりも尊いとされているので、右護龍の位置に建つ日本家屋の方が左護龍より大きくなってしまっている時点で、四合院(この時点では門樓がないので三合院)の本来あるべき形としてはちょっとどうなのという状態になってしまっている訳です。


 『昨夜閑潭夢落花』の主人公の片方である林荷舟にとっての「本家」であり、同じく『綺譚花物語』の第一作である『地上的天國』ではやはり主人公の片方である李玉英の母の実家である太平林家祖厝。

 その所在地とされている、台中市太平區、日本時代の太平庄の一角は、当時の台中市エリアから見れば直線距離で五キロほどの郊外。なぜその場所なのかという理由には、また後程、別の記事で触れる予定ですが、昭和時代には市内からここへと移動するのには、まず太平集落までを帝國製糖鐵道中南線に乗り、その後は車籠埔まで手押しトロッコに乗り、車籠埔からは一キロほど歩く、という移動距離にして9キロ近いなかなかに時間の掛かるコースでした。もしくは高砂町の製糖工場南側の道から車籠埔までをまとめて手押しトロッコで移動し、車籠埔からはやはり歩きで、というルートになります。


 『昨夜閑潭夢落花』の作中で、友人である日本人少女の渡野邊茉莉を追い太平林家祖厝を飛び出した荷舟は、恐らく車籠埔までの道をひた走って手押しトロッコに飛び乗り、押し手を必死に急かして太平集落で製糖列車を捕まえ、辿りついた臺中駅からは櫻町通を走って大正橋通に出、ガード下を潜ってかつての通学路である大正町通へと辿り着いたのではないでしょうか。

 これらの交通網は今では全てバスに取って代わられ、『水面の月を掬う人』では主人公が「バスなんて待っていられない」と自転車で駆け抜けています。


 原題の台中市を舞台とする『撈月之人』には、『昨夜閑潭夢落花』のラストで荷舟の従弟である本家の跡取り少年、林明正(通称、あきら)が書いていた手記であり同じく『綺譚花物語』の第四作『無可名狀之物』では主人公の片方である博識な自称「ニート」の阿貓がそのタイトルを口にする『撈月箚記』が、「主人公の祖父が書いた手記」として登場し、『昨夜閑潭夢落花』の「あきら」が将来『撈月之人』の主人公の祖父となるのだということもわかります。

 ただし、この二つの家は同一の存在ではあるのですが、「出版社が違うので、『綺譚花物語』を漫画化する際は敢えて描写を『撈月之人』とは完全に一致させなかった。たとえば『撈月之人』では二階建てと書いてあるけれど『昨夜閑潭夢落花』漫画版では平屋建てにして、台湾で比較的よく見られる日本家屋をベースに作画していたりとか」とのこと。


 昭和の台中市には和風建築がどのくらい建っていたのでしょうか?

 民間の大邸宅は日本人が建てるのでも台湾人が建てるのでも、この時期はどちらかというと洋風なデザインが主流になりつつありました。

 店舗なども同様で、日本の旧街道沿いなどでよく見られる、間口を広く取った平入の和風建築の商店は、耐火性と耐震性の面からも、都市計画が進むにつれ存在を許されなくなっていきます。台中市内で日本人商店が多かった寶町あたりには二階建ての和風店舗建築がそれなりの数残っていますが、これも現在では分割利用されているものが多いことからわかるように、耐震性を上げるため内部にはしっかりとした間仕切りが施されていて、従来の日本家屋のように建具で仕切っただけの大空間が広がっている訳ではありません。

 さらにこれらの店舗長屋の耐火性を上げるため、煉瓦や鉄筋コンクリートを使った洋風なファサードを持つ「看板建築」が登場します。

 日本では関東大震災以降に全国へ広がっていきましたが、台湾ではそれより前から存在しています。元々は台湾人街で、通りに面したファサードだけを洋風の二階建てのように仕上げ、しかし実際にはその裏にある建物は昔ながらの閩南式平屋建て街屋、という「閩南式看板建築」がポピュラーな存在となり、それが日本人にも浸透したようです。煉瓦壁やモルタル仕上げの洋風ファサードを二軒分もしくは三軒分作成し、その後ろに昔ながらの木造平入二階建て長屋を建てた物件は、台湾人街であれ日本人街であれ、この時期の台湾の商店街でよく見られるものでした。

 しかしたとえその店の二階で暮らす店主家族の生活が畳に布団の日本式生活であろうとも、この建物自体は「和風」とは言い難い存在でしょう。

 あとは今も残っている公務員用官舎や民間の社宅ですが、これらも実は昭和台中市のエリア内に残っているものは、純粋な和風建築というよりは和洋折衷の文化住宅的なものの方が主流なのです。

 台湾で「日本建築」と呼ばれている日本時代に建てられた家を見ると、日本人が「日本建築」と言われて無意識に思い浮かべる「日本建築」、特に「古民家」とは大きく異なっている場合が多いのはこのためでしょう。屋根を日本風の黒い瓦で葺き、屋内の建具は襖と障子で、和室と縁側を備えた木造家屋であっても、例えば玄関にポーチとドアが採用されていたり、壁がペンキ塗装されていたり、引違いのガラス戸を使った大きな腰高窓が居室に設置されていたり、といった西洋住宅を意識した要素の採用されている建物の方が、台湾には多く残っています。


 しかし台中市には「これこそ『撈月之人』で書かれた太平林家の日本家屋の元ネタ」と思しき見事に和風な建物が一軒あります。繼光街に残る「彰化銀行招待所」、当時で言えば千歳町通に建っていた「彰化銀行迎賓館」がそれ。

 文化資産に登録済みではあるものの、銀行の所有物ということで、調査や修復、その後の公開といった見通しはまだ立っていないのですが、紛れもない「和風な日本建築」であり、招待客の目を楽しませるべく和の美を追求している建物です。


 ここからは漫画版で描かれた太平林家の日本家屋を詳細に見ていきましょう。漫画の一ページ目を見ると、この建物は切妻屋根の母屋から切妻がもう一つはみ出したL字型もしくはT字型になっていることがわかります。

 台湾に残る古民家(官舎なども含めて)は、なぜかこういった形状が多く、家の形が真四角ではない、玄関部分などどこかしらが突出することでL字やT字になっているものが主流な気がします。

 突出部正面は出格子になっているので、玄関が設けられているのはこの突出部分の側面でしょう。

 この日本家屋部分は右護龍が建っていた部分にあるため、南に向かって建つ四合院の敷地内では西側に位置することになります。門樓部分も火事で焼けてしまっていたので、この時点での太平林家祖厝は日本家屋と合わせた変形三合院状態でした。


 さらに見ていくと、玄関であろう突出部の左側は、縁側の外側、雨戸の内側に、ガラスを用いた掃き出し窓を設置することで、縁側をも家の内側であり雨風の防げる空間「広縁」として利用する、明治以降にポピュラーになったスタイルだとわかります。

 しかしその一方で、荷舟がこの春だけ暮らしている部屋がある部分は、外側にガラス戸を用いず、雨戸をはめ込むのみのスタイルになっています。

 このため、荷舟の部屋はこの玄関突出部のある面以外に位置していることになります。


 荷舟の部屋の前が庭になっていること、その庭部分にシンプルな門があって、茉莉と荷舟はそこから敷地に出入りしていること。

 この庭部分が元は四合院の門樓が建っていた場所であり、敷地への出入りは本来そこから行われていた、と考えると、右護龍の代わりとして建てられた日本家屋は仮の門樓の役割も負っていたのではないでしょうか。

 プライベートな空間である四合院の中庭及び正身と左護龍を来客の目に触れさせないため、敷地を囲む塀の西側にも開口部を設け、来客はそこから日本家屋の玄関に案内していた、西向きに建つ日本家屋は応接間及び客間として利用されていた、と考えると納得できるものがあります。


 そして荷舟の部屋からは障子越しに、本来のこの家の門だっただろう庭の門が見え、更に部屋の前の縁側越しに塀が見えています。

 この塀が、二方向が障子となっている荷舟の部屋の、障子にそれぞれ面していると考えると、荷舟の部屋が位置するのは西南方向。そうするとこの日本家屋は、玄関のある突出部の右手側にも部屋があり、そっちが荷舟の部屋だということになります。

 西側の門を入ると日本家屋があり、その日本家屋は、西門に向かって玄関部分を突出させたT字型の建物。T字の右手側南端部分が荷舟の部屋。荷舟の部屋は西が塀に面していて、南が本来は門樓のあった場所であり、そこが焼け落ちた後を今は日本庭園としていて、その日本庭園越しに本来の門が見えている、という状態だと思われます。


 荷舟の部屋の前を通る縁側部分で採用されている、雨戸のみのスタイルは、ガラスがなかった江戸時代の武家屋敷やそれ以前の寺院などでよく見られるもの。ガラス戸が出現した明治から、大正を経て昭和に至った時代に於いて、新規に建てられる日本家屋としては、かなりレトロなスタイルです。

 玄関部分の左側にはガラス戸を用いているため、右側の南面部分には敢えてガラス戸を用いなかったのだと解釈していいでしょう。

 縁側自体も「切れ目縁」と呼ばれる、厚めの短い板を建物に対して直角に並べるもの。製材技術が向上し、薄く長い板を建物に平行に張る「くれ縁」が既に一般的になっていた昭和の日本家屋としては、やはりもはやレトロな造作です。

 また、この南向き縁側部分には西側にも東側にも戸袋がなく、この部分の雨戸は古い閩南式家屋で建具として用いられるはめ込み式の板戸と同様の取り外し可能なスタイルだったのではないかと思われます。敢えて旧式な建具とスタイルを採用することで、中庭を隔てて建つ閩南式の正身及び左護龍とのギャップを和らげ、敷地南側の道から門越しに見える中庭沿いの三棟の建物にそれなりの一体感を持たせる試みだったのかも知れません。恐らく、正身に面した北側部分、中庭に面した東側部分もこのレトロスタイルが採用されていると思われます。このタイプの日本家屋が、台湾北部、淡水には残っているとのこと。


 この漫画版太平林家祖厝日本家屋のモデルと思しき建物としてまず挙げたいのは、「林之助紀念館」。『無可名狀之物』小説版で、阿貓と、語り手でもあるもう一人の主人公、大学院生の羅蜜容が虎爺探訪の合間に訪れた場所として出てくるスポットでもあります。

 歴史建築として文化資産登録されたこの建物は、元々は昭和3年に師範學校の教員宿舎として建てられた左右対称の完全分離型二世帯住宅。日本画家がアトリエとして用いていただけあって、障子と襖、そして板戸で仕切られた室内はなかなかに採光性がよく、四合院の南側、本来は門樓が建っていた部分に設けられた日本庭園と、日本家屋の入り口部分に面している西側の道路沿いに建てられた塀に向かって、二方向に四枚ずつ障子が配置された漫画版に於ける荷舟の部屋を思わせる空間となっています。

 他にこの建物には、やはり漫画版で太平林家日本家屋の突出部分にもついている出格子が、少なくとも二ヶ所に見られるのもポイント。壁も太平林家と同じく簓子下見板張りで仕上げられています。


 この簓子下見板張りは、それになっているだけで「日本家屋!」「古民家!」という雰囲気になりますが、どちらかというと西洋風な南京下見板張りの方が台湾の日本家屋では多く使われている印象。これは今残っている建物に占める割合として官舎率が高い分、ひと手間余計に掛かる簓子下見より手早く仕上げられる南京下見が多く採用されていたのか、残っている建物が昭和になってからのものが多い分、西洋住宅を意識した南京下見の方がモダンで文化的として好まれていたのか。


 もう一つ、モデルと思しきものは、茉莉と荷舟の昭和11年から数年後にできたであろう建物であり、やはり文化資産になっている「孫立人将軍故居」。

 当時の大字後壠子に位置するこちらは、人口爆発を起こしつつあった台中市が郊外に設けた昭和ニュータウンの一角にあるため、家の形式としては和洋折衷の文化住宅。壁も南京下見板張り仕上げで、建具がペンキ塗装されていることもあり、あまり外観に「和」は感じられませんが、中に入るとリビング部分の内装にはこだわりの書院造が見て取れます。


 ただし恐らく当時は畳敷きだっただろう床はフローリングになり、住民が暮らしていた当時の家具配置などをそのまま維持しているため、床の間の前にテレビなどが置かれ若干ごちゃっとした印象になっています。

 昭和11年を偲ぶにはやや不自由な感じですが、この家の主は台湾に来た後、1955年から1988年までこの家で軟禁状態にあったため、それを偲ぶ意味でリビングはこの人の生前のままになっているのです。


 この家は庭に面した縁側沿いに掃き出し窓を設置。太平林家日本家屋の西向き部分と同じ、明治以降によく用いられた広縁スタイルです。

 ここの掃き出し窓は一枚の戸を四つに区切って大きめの一枚ガラスを四枚はめ込むだけの相当にシンプルというか不愛想なデザインですが、台中文學館の一部として公開されている「日治時期警察宿舍」や、明治町七丁目の「臺中刑務所典獄長官舍」に見られるガラス戸は、ガラスをただ均等に区切るだけではなく桟の配置にデザイン性の見られる「ガラス障子」というべきものになっています。


 太平林家の日本家屋のモデル、としての要素が感じられるのは以上の三軒ですが、昭和の台中市内エリアにはまだ他にも、日本時代に建てられた家屋が。


 臺中高等女學校の裏手だった幸町通沿いにある「四維街日式招待所」。こちらは「招待所」と言っても周囲に庭がある訳ではなく、三方向が道路に面しているため、「彰化銀行招待所」に比べるとあまり和の美を意識した要素は感じられず、どちらかというと下宿屋のような雰囲気が漂う建物。


 この建物の庭は採光用として建物内側に設けられ、西向きの三合院のようなスタイルでした。当時は西側に隣接していたのが平屋建ての長屋式官舎だったため、中庭からの採光も通風も妨げられることはなかったでしょう。壁は南京下見板張り仕上げで、縁側やガラス戸はなく、一階二階ともに無数の出窓が付いているのと、二階に一ヶ所だけ丸窓が付いているのが特徴です。

 こちらも「彰化銀行招待所」と同じくまだ修復は行われておらず、通りから外観が見られるのみ。


 他に歴史建築指定はされていないものの市内に残っている民間の日本家屋としては、「悲歡歲月人文茶館」(当時は旭町五丁目だったエリアに建つ個人の住宅であり、師範學校裏手にあった農事試驗場で米の研究をしていた教授の家だったとのこと)やその近くの川端町にある「解憂老宅」が、それぞれカフェとして営業中なため、建物内部を見学可能。

 また、当時は初音町の七丁目だった一角にも和風建築の住居が残っていて、ここは今では「小豆芽書局」という書店になっているようです。


 平屋建ての壁のほとんどは塀に隠されていて屋根しか窺えないこの初音町の日本家屋は、実はひそかな重要ポイント。

 太平林家祖厝は郊外の太平庄にありますが、荷舟の家があるのは市内。香蕉福德廟からほど近い、この初音町七丁目という設定なのです。

 そして漫画を見ると荷舟の家で宿題をやっている場面で、荷舟の部屋は和室です。

 この辺りは清時代からの台湾人街。このため、ついつい当時は三合院や四合院、西洋風に作られた店舗などしかなかったのでは、と思ってしまいがちですが、実際にこうして日本家屋がある以上、案外、荷舟の家も祖厝に倣って日本風の離れを庭に建て、そこが荷舟の部屋になっていたのかも知れないという風に推察することもできます。そしてこの初音町の書店もまた、そんな歴史を経てきた建物だったのかもしれません。


 また、台中市内には多くの官舎も残っています。

 台中市内の官舎は当時、新高町(臺中公園と臺中一中の間のあたりには長らく農事試驗場があり、スタッフは官舎住まいでした)、明治町、幸町、利國町、村上町に掛けての各官庁の敷地内、これらの官庁街から村上町通を隔てた旭町、末廣町、そして臺中醫院や師範學校、その裏手に移転してきた農事試驗場の隣接地である川端町などに集中していました。

 これらの官舎のうち、地方法院の横と裏手にあった「臺中地方法院舊宿舍群」では最近調査が行なわれ、現存する建物のうち数軒が紛れもなく日本時代からのものだと確認が取れたことで、今後は当時の姿を取り戻させる修復作業を経て文化資産として一般公開される予定です。


 官舎はその性格上、日本人スタッフが引き揚げた後は入れ替わりに来台した外省人スタッフが入居。このため、歴代住民によってかなりの魔改造が施されているものの、公的な資産であるため保存から修復へ向けての動きは非常にしやすくなっています(なお、同様に日本時代のものと思われていた何軒かはこの調査によって、戦後に日本家屋の建材を再利用して建てたものと判明しました)。


 地方法院近くでは、刑務所長の官舎だった「臺中刑務所典獄長官舍」と、一般の看守が住んでいた「臺中刑務所官舍群」、浴室のない官舎に住む彼らのための共同入浴施設だった「臺中刑務所浴場」がやはり文化資産となっています。このうち、玄関を境として建物の左右が、左は洋風、右は和風とはっきりわかれた造りが特徴の文化住宅風「典獄官舍」が一般公開中で、「浴場」は修復を終えたものの未公開、「官舍群」はまだ修復中。


 他に公開中の文化資産は「台中文學館」の一部となっている「日治時期警察宿舍」。

 ここで使われているやや不愛想なコンクリート製の階段型沓脱は、台中の他の日本式官舎でもよく見かける物。高温多湿な気候に合わせて通常の日本家屋よりも床を高めにしてある台湾の日本家屋では、沓脱に適した高さの石を探すよりも、この方が便利だったのかも知れません。


 村上町の「西區民生路56巷日式宿舍」は現在修復を終え「民生路老宅56‐3」の名で、イベントに使えるレンタルスペースとして運営を開始しています。こちらは昭和モダンな文化住宅系。


 一方、文化資産登録されて修復を待っている官舎は、旭町の「大屯郡守官舍」と「臺中州農林課地方技師宿舍(林森路75號日式宿舍)」、村上町の「朝陽街日式宿舍群」。

 このうち「大屯郡守官舍」は文化住宅風、「臺中州農林課地方技師宿舍」は出入り口がポーチに両開きのドアだったりテラスが備わっていたりと外観にはかなり洋風な要素が備わっていながらも内部は書院造のやはり和洋折衷な建物です。


 「朝陽街日式宿舍群」は「林之助紀念館」と同じく、左右対称の完全分離型二世帯住宅だった模様。入口と窓の配置や、簓子下見板張り仕上げの壁、朽ちかけていますが広縁までを玄関から見通せる構造にも「林之助紀念館」との共通性が感じられる、どちらかというと和の味わいが強い造りになっています。


 これら以外にも、文化資産として登録されていない建物がまだ台中市内に潜んでいる可能性も考えられるでしょうし、現在の台中市全体にまで範囲を拡大すれば、公學校の教員宿舎など文化資産登録された官舎は他にも存在しています。太平林家日本家屋の面影はそれらにも宿っているかもしれません。

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