第13話 昭和台中市~新高町その壱:太平路北側今昔

 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第二作、日本時代を舞台にした『昨夜閑潭夢落花』に於いて、重要な役割を果たすのは一頭の不思議な水鹿。主人公である日本人少女の渡野邊茉莉と台湾人少女の林荷舟が耳にするその水鹿に関する噂は、同級生の少女による「ねえねえ水源地って工事中だったでしょう?」というこの台詞から始まります。

 昭和台中市の北側、市街と言ってもやや郊外の新高町にある台中水道の水源地が、公園用地として都市計画内に組み込まれたのは昭和7年(1932年)のことでした。

 領台初期の戦いにおける日本軍の死者は戦死者よりも戦病死者が多く、戦病死者のかなりの枠がコレラによるものでした。また台湾人自身も飲料水を河川や溜め池に頼るところが多く、たびたび伝染病が発生しています。衛生的な飲料水の確保は、台湾の都市計画に於ける喫緊の課題であり、まずはお雇い外国人技師だったウィリアム・バートンさんが總督府の依頼を受けて、領台開始の翌年である明治29年(1896年)にさっそく来台しました。台中の都市計画調査を行った人物でもあるこのバートンさんは、しかし基隆水道のための水源地を探している最中に風土病に罹患し、明治32年(1899年)に日本へ戻った後亡くなってしまいます。このため台湾の水道敷設はバートンさんの弟子である濱野彌四郎さんに引き継がれました。

 バートンさんに同行して来台し、師の帰国後も一人台湾に残った濱野さんは、まず明治32年(1899年)に淡水の滬尾水道を完成させ、続いて基隆、台北と次々に水道を敷設していきます。

 台中水道の敷設は大正3年(1914年)。台中市は北東側の新高町が高台になっていて、南へ向かってゆるやかに斜面を下っていく地形だったため、送水に引力を使えるよう新高町が水源地に選ばれました。当初は臺中州営だったこの水道は、大正10年(1921年)から市営になっています。

 『台中市概況』によると昭和10年時点での設備は木造平屋建ての第一ポンプ室と煉瓦造の第一水源井、煉瓦造平屋建ての第二ポンプ室とコンクリート製の第二水源井、高さ18メートルの鉄筋コンクリート製貯水塔でした。このうち、第二ポンプ室と第二水源井、貯水塔が現存し、文化資産に指定されています。どれも現役の水道設備なので内部見学はできませんが、外観は今後、建設当時の姿に修復されていく予定です。


 水源地には昭和になって次々とスポーツ施設が設けられました。

 最初に完成したのは精武路と雙十路の交差点に近い「臺中市水泳場」。昭和3年(1928年)に昭和天皇即位記念の一環として完成したこのプールは、現在では國立體育運動大學のプールとして使われています。

 実は台中市にはもともと、台北市よりも早くにできた初代市民プールがありました。台湾初のプールでもあったこの施設は大正8年(1919年)に大正町六丁目の初代臺中市武徳殿隣にオープン。ここの地下には暗渠があったため、その地下水を使用しています。しかしこのプールは設備が古くなってくると藻が増えてしまって、使用が困難になっていました。このため昭和天皇即位記念で二代目プールを作ることにしたのです。

 プールの利用者は日本人が中心で、日本人男性が約10700人、日本人女性は2300人ほどが利用していました。一方で台湾人男性は4600人ほど、そして台湾人女性は皆無です。公學校では初期から女生徒の体育も実施され、高等女學校では水泳の授業もありましたが、台湾人女性にとって人前で肌を晒す水泳はまだまだ躊躇われるものだったようです。


 続いて作られたのは臺中市陸上競技場と臺中市野球場。

 水源地が公園用地として都市計画内に組み込まれる前年の昭和6年(1931年)に、折下吉延さんという人が台中を訪れます。この人は日本の造園家で、内務省の委託を受けて欧米の都市計画や公園緑地事業を視察し、日本の都市の緑化に携わっていました。関東大震災後の東京や横浜で続々と大型公園を産み出していたこの人が水源地内での陸上競技場と野球場設置を提案し、これを受けて水源地の都市公園化が動き出しました。

 臺中市陸上競技場は昭和9 年(1934年)3月末に、臺中市野球場は昭和10年(1935年)3月末に完成します。

 『昨夜閑潭夢落花』の主要な舞台は昭和11年の春。茉莉と荷舟が臺中高等女學校を卒業したのは昭和10年の3月末なので、水鹿の噂話はその少し前。この時行なわれていた工事は、昭和9年11月8日に始まり、昭和10年3月31日に完了した野球場の工事でした。


 臺中市陸上競技場は、二万人の観衆を収容可能な大競技場として陸上の他、ラグビーの試合などの会場にも使われます。戦後は台中市體育場となり、その後は台灣省立體育場となり、国体などもここで行われました。現在はプールと同じく國立體育運動大學の陸上競技場として使われています。

 一方、臺中市野球場も一万人の観客を収容可能な大スタジアム。1998年以降は台湾では唯一の国立野球場となっています。


 昭和の水源地公園には、野球場とプールの間に一棟の中華風な楼閣が聳えていました。「湧泉閣」と呼ばれていたこの建物は、1891年に臺灣省城の主要施設の一つとして建てられた「儒考棚」の主樓だった部分です。科挙の受験資格を得るための童試や、科挙の地方試験を行なう試験会場だったこの建物は日本時代開始以降、様々な役所の仮入居先として使用され、更には解体されて建材としても用いられたことでその存在は風前の灯火となっていました。大正13年(1924年)に、消えゆく儒考棚から主樓だけが救い出され、水源地に移築保存されます。

 しかし湧泉閣はその後メンテナンスが施されないままに放置された結果、戦後の1950年代になって倒壊し、水源地から姿を消しました。逆に元の所在地である臺中州廰傍に取り残されて朽ちるにまかされた果て、昭和11年には州議會場の一部として使用されていた儒考棚の最後の一角が、今は修復され展示施設として公開されています。


 昭和10年(1935年)の水源地では、野球場の他にもう一つ、別な工事も行なわれています。この年の二月四日に、水源地では「臺中放送局」の棟上げ式がありました。

 半官半民の臺灣放送協會(THK)は昭和6年(1931年)に成立。この設立前の昭和3年(1928年)から既に台北での放送を開始しています。昭和7年(1932年)には臺南放送局ができ、臺中放送局は三番目にできたラジオ局でした。

 放送時間は毎朝六時から夜十時までで、受信料は一ヶ月一円。今のNHKと同じ仕組みで、ラジオを購入したら登記を行い、受信料を払う仕組みです。ラジオを持っていない人でもある程度放送が聞くことが可能なよう、公園などに「ラジオ塔」が設置されて街頭ラジオの役割を担いました。臺中公園にも当時のラジオ塔が「放送頭」として残っています。

 戦後、この放送局は中央廣播事業管理處によって接収され、中國廣播公司の臺中廣播電臺となります。その後、「中國廣播公司臺灣廣播電台」と名を変え、衛星放送やデジタル放送に乗り出した後、1998年に移転。空き家となった建物は台中市にゆだねられました。現在は文化資産となり、2015年からは台中の文創団体「@STUDIO文創」が運営する文創スポットとなっています。


 放送局の北側を走る道「電台街」を東へ辿ると、「水源街」と名が変わります。今では暗渠となっていますが、この辺りには綠川の源流が流れていました。精武駅の北側辺りの線路脇に湧きだした水は、力行路と富貴街の間辺りを通り、進化路221巷辺りを走って水源街の東を走る精武路186巷に到ります。そこからは精武路を跨いだ後、道沿いを走って雙十路一段の上り線部分で太さを増し、南京路との交差点から今も残る綠川となるルートです。

 進化路221巷辺りにはこの頃、大字東勢仔の集落があり、精武路186巷の周囲には今も清の時代からの古い三合院が幾つか路地の奥に残っていて、文化資産として調査と修復を待っています。


 プールの脇から雙十路二段に入って北上すると、育才街との角に建つ西洋館が「宮原武熊宅邸」。

 橘町に建つ宮原醫院の院長先生だった宮原武熊医師の自宅がここです。宮原醫院の開設から二年後の昭和4年(1929年)、新高町116番地に建てられたこの邸宅は、何事もなければ宮原医師の終の棲家になっていたのでしょう。

 宮原医師の引き揚げ後、主を失ったこの邸宅は台中市の持ち物となり、市長公邸として使用されます(日本時代の市長公邸は大正町六丁目の臺中公園向かいに建っていたはずなのですが、なぜそちらに入居しなかったかはわかりません)。しかし1989年以降、市長がここを公邸として使用することはなくなっていました。

 その後、2002年に文化資産に登録されると2003年から修復が開始されます。日本時代の姿を取り戻した屋敷は2004年からは「市長官邸藝廊」の名でギャラリーとして使用され、2016年からはレストラン「不老夢想125號」となって、和風な定食と、ドリンクやデザート類を提供しています。宮原医師が暮らしていた頃にも食事時には卵焼きやお味噌汁の香りが漂っていたでしょうか。それともドイツ留学経験を持つ宮原医師は案外洋食好みだったか、実は宮原醫院裏手にある醉月樓で台湾料理にはまっていたりしたのか。大規模な入院設備を備えた宮原醫院で患者と同じ釜の飯を三食食べていたので屋敷の台所はコーヒーを淹れるくらいにしか使っていなかった、なんて可能性もあるかも知れません。


 宮原武熊宅邸のあるブロック、太平路と雙十路、育才街と一中街に囲まれたエリアは、大正元年(1912年)から昭和6年(1931年)までは農事試驗場があった場所でした。宮原邸は昭和4年の建築なので、その頃にはもうある程度、後壠子への移転が始まっていたのかも知れません。

 それ以前、この辺りは墓地であり、農事試驗場だった頃も大正15年(1926年)の地形図を見れば一中街と三民路の間には墓地の地図記号がまだ見て取れます。しかし昭和になるとこの辺りも住宅建設が進み始めたらしく、太平路と三民路、育才街と一中街に囲まれた部分には、昭和9年(1934年)に木造平屋建ての賃貸用市営住宅が12戸建設されています。


 宮原邸の隣、育才街の向こう側に建つのが臺中州立臺中第一中學校(現在は、臺中市立臺中第一高級中學)。日本語版が岩波書店から出版されたばかりの、游珮芸先生が原作を、周見信先生が作画を担当した臺灣バンド・デシネ『台湾の少年』にも、主人公である日本時代生まれの実在人物、蔡焜霖さんの母校として登場する学校です

 大正4年(1915年)に開校したこの学校は、当初は「台湾人青年への高等教育」を目的とする私立中学として大正2年(1913年)に発足しました。しかし總督府の許可が出ず、最終的に台湾人生徒のみを募集する「公立」の「臺灣公立臺中中學校」としてスタートします。

 なお、この学校の発起人のうちの一人は、宮原医師の戦後の台湾在留を國民党政府に願い出る手紙を書いた林獻堂さんでした。宮原医師がこの学校の隣に家を建てたのは、そういった人間関係に因るところもあったのかも知れません。

 開校当初は校舎が未完成だったため明治町の「臺中尋常小學校」(後の明治小學校)に間借りしてのスタートでした。大正11年(1922年)から日本人の入学も許可し、「臺中州立臺中第一中學校」に改名します。頂橋仔頭に日本人生徒がメインの臺中州立臺中第二中學校が開校し、そちらを第一にするという提案を校長が突っぱねたのもこの時のことです。


 戦後はまず「臺灣省立臺中第一中學」となり、1968年に中学と高校の管轄分離政策によって「臺灣省立臺中第一高級中學(高校)」となりました。「臺灣省立臺中第一中學」時代の校門の様子は『台湾の少年』第一巻のラスト近くでも描かれています。その後、2017年からは台中市立の高校になって、今に至ります。

 開校時に作られた講堂は、現在は校史館として文化資産に。そして文化資産ではありませんが構内にはもう一つ日本時代の名残りが。

 校庭に建つあずまや「光中亭」の土台部分は、実は日本時代にここにあった校内神社の土台です。戦後に神社の建物は取り壊され、長らく土台だけが残っている状態でしたが、1976年になってこのあずまやが建てられました。


 さて、この学校の西側、裏手にある三民路三段を渡った向こうには臺中州立臺中商業學校(現在は、國立台中科技大學)も建っています。この学校の建つ場所は日本時代には新高町に隣接する大字邱厝子の一部でした。

 大正8年(1919年)に「臺灣公立臺中商業學校」として創立されたこの学校は大正10年(1921年)からは「臺中州立臺中商業學校」となります。戦後は「臺灣省立臺中商業職業學校」となり、2011年からは大学となりました。


 この辺りの学生街はグルメスポットでもあり、特に第一中學校裏手の一中街は流行の発祥地、新しいメニューの出店は台中ではまずここでという場所になっています。そして楊双子先生がエッセイ集『開動了!老台中(懐かしの台中、いただきます!)』でおすすめしている台中の味もここにはかなり集中しています。


 まずは「宮原武熊宅邸」と同じブロックにある偈亭泡菜鍋。ここはもともと泡沫紅茶(シェイク紅茶)で有名になったお店でしたが、競合店が次々に出てきて差別化を図る必要が生じた時に「泡沫紅茶と鍋料理」というなかなか思いつかないような路線に進化。名物の「小火鍋」は「ミニサイズ火鍋」ではなく「アルコールランプで加熱する一人用鍋」の意味で、具材やらスープのバリエーションが非常に多く五十種類を越えるそうです。このため、この店の愛好者は皆「好みのマイ鍋」があるので「どの鍋がお勧めか?」になると意見が割れまくるとか。


 続いて一中横の育才街にあるかき氷店の一中豐仁冰。台湾かき氷として真っ先に頭に浮かぶふわふわの「雪花冰」ではなく、日本のかき氷に近い「刨冰」という昔ながらのかき氷。酸味の効いた「酸梅冰」に甘く煮た豆と手作りバニラアイスクリームを二玉載せたのが、看板メニューの「豐仁冰」で、このかき氷に病みつきになる人が続出したため「瘋人冰(病みつきかき氷)」と呼ばれるようになって、いつしか同じ発音を持つ「豐仁冰」になったのだとか。お店の歴史を辿ると最初は「紅茶冰」、次は「鳳梨冰(パイナップルかき氷)を売って、最後にこの「豐仁冰」が開発されたそうなので、そっちも気になります。


 一中と科技大學の間を通る三民路三段の日日利海盗飯糰は、台湾式のもち米おにぎりの店。具材は豚肉と目玉焼きとピリ辛ソーセージで、「豚肉か目玉焼きのどっちか入り」「豚肉と目玉焼きの両方入り」「プラスソーセージの全部載せ」と値段が上がっていく出世メニュー。出店当初、飯糰にしては高額だったので(通常百円台のおにぎりが一個八百円くらいする感じ)、「ぼったくりだ」「ぼったくりだ」と言われまくった結果、開き直って「海盗飯糰(ぼったくりおにぎり)」という店名になったそうです。

 台湾おにぎりは日本のおにぎりが日本時代に定着して伝わった、訳ではなく、戦後になって國民党と共に海を渡ってきた上海人によって持ち込まれた「粢飯糰」というおこわメニューが元祖。木筒やお椀などに入れて形を作るのが本来でしたが、台湾ではおにぎりっぽく手で握るようになりました。なお、日本式のおにぎりは冷めたご飯を握る性質上、あったかメニューを好む台湾人には当時は馴染まなかった模様。


 このエリアにはまだ他にも台中の味があるのですが、太平路以南のお店はまた別な項で。


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