第12話 昭和台中市~台中駅今昔

 臺灣省の省都を台中に設けると決めて街造りを始めた初代臺灣巡撫の劉銘傳は、鉄道の敷設にも着手していました。基隆から台南までを繋ぐ路線の第一歩としてまずは基隆~台北間が1891年に開業。炭坑用の軽便鉄道ではない台湾初の本格的列車運行でした。しかし劉銘傳の都市計画と鉄道計画は臺灣省の財政で賄いきれるものではなく、臺灣省が財政破綻寸前に。このため1891年に彼が辞任して離台すると、後任の巡撫は台中での省都建設を含め、進行中だったプロジェクトのほぼ全てを中止します。

 鉄道は1893年に新竹までの延伸が行われましたが、当初の計画に基づいての南進工事がこれ以上行なわれることはありませんでした。


 日本時代が始まると、この路線はまず軍用列車の運行に使われますが、予算不足の中で造られた鉄道のため実はあまり質が良くないことが、この段階で判明します。その後、總督府は民間会社にこの鉄道を任せて縱貫鐵道を開通させようとしましたが民間会社の手に負えるものではなく、明治32年(1899年)から總督府が直接乗り出しての、既存路線の改良と未着工部分、そして台南から高雄までの新区間建設が始まりました。


 初代臺中駅舎は明治38年(1905年)に設置。ただしこの時点では臺中駅の二駅北側にあたる葫蘆墩駅(現在の豐原駅)とその更に北の三叉河駅(現在の三義駅)間が未開通で、この区間は軽便鉄道による仮設路線が繋いでいる状態です。


 木造だった初代臺中駅舎は二代目駅舎よりもやや南西側にあり、相対式ホームが構内跨線橋で繋がれている構造でした。なお、駅の裏手にあたる台中市南側の街造りはこの時点ではまだ進んでいません。敷島町の製酒工場も高砂町の製糖工場もまだなく、清時代にできた邸宅が数軒点在している程度で住民もまだほとんどいないため、こちら側との行き来はあまり考慮されていませんでした。ただ製糖鉄道による貨物線軌道もまだない時期なので、駅構内を住民が徒歩で往来していてもさほど危険はなかったと思われます。


 未開通区間は三年後の明治41年(1908年)に開通。これで縱貫鐵道の工事は全て完了し、10月には臺中公園で開通式典が行われました。

 台中市の発展はここから一気に加速し、大正6年(1917年)には今も残る赤煉瓦の二代目駅舎が完成します。


 この駅舎でもホームは相対式で、構内跨線橋によって繋がれていました(二番線ホームは戦後に島式に改造)。

 その前年である大正5年(1916年)には、駅の裏手である台中市南側の櫻町に製糖鉄道路線が開通しています。当初は台中と六股までを結び、その後、大正7年(1918年に南投まで開通して「中南線」となりました。

 大正元年(1912年)にできた高砂町の帝國製糖工場へ原料のサトウキビを運び、出来上がった砂糖を臺中駅まで運び出す役割を担ったこの路線は貨物線であると同時に、サトウキビの生産拠点である市の南側郊外の集落を繋いでいることから私鉄としての役割も帯びていました。このため、臺中駅では南側の「中南駅」との間にある線路上を徒歩で横断する乗り換え客が急増。行き来が安全に行えるよう、二代目臺中駅舎は、駅裏手の櫻町にもう一つ小さな駅舎を設け、構内跨線橋をそこまで延長させます。


 この櫻町側臺中駅舎は中南線の中南駅舎と長らく混同されていましたが、実際には別々の建物だったことが、数年前の『臺中火車站周邊文化資產(市定古蹟及歷史建築)修復及再利用報告書』で判明しています。

 木造の中南駅舎は大正5年の開業時にはもっと高砂町寄りにありました。大正5年の地図を見ると、清時代の街並みが斜めに櫻町に食い込んでいて、二代目臺中駅舎の背後に当たる位置に旧来の道などがまだ残っていたことがわかります。このため、高砂町寄りにしか駅舎を設けられなかったという事情でしょう。

 大正6年の二代目臺中駅舎開業時にはこの問題が解決されたようで、二代目の中南駅舎がやはり木造で、大正6年頃に櫻町三丁目1番地の北端辺りで建設されました。

 この二代目中南駅舎のやや西側、20番倉庫のすぐ東にあたる部分に、時期は不明ですが二代目臺中駅舎の小さな櫻町側駅舎が建てられ、跨線橋が延長された、ということになります。


 戦後になるとこの櫻町側駅舎は「後站」と呼ばれるようになり、中南駅は「中南站」となりました。そしてモータリゼーション時代の到来で利用が低迷した中濁線(中南線は戦後に明治製糖「濁水線」と一本化されて「中濁線」と改名していました)は水害による路線損傷の影響もあって1961年に廃線となります。

 その後、1964年に二代目臺中駅舎は構内跨線橋を地下道に切り替えました。一番線二番線ホームに下り階段を設け、貨物線軌道の下を掘り抜く大工事です。この時に地下道への大階段を設けるため「後站」駅舎が東側へ拡大され、それにぶつかる形となった「中南站」駅舎は取り壊されています。


 なお、改札を潜らずに駅の南北を行き来するルートとして、構外跨線橋も駅のやや北側にいつの頃からか設けられていました。この二つの跨線橋は米軍爆撃地図には記載されていないため、空襲が盛んになった頃に木造跨線橋は危険視されて一度撤去されたのかも知れません。戦後の写真では構外跨線橋と構内跨線橋は全く同じスタイルで長さのみが違うものだったことがわかります。一度撤去されて戦後にまとめて架け直された可能性は高いと言えるでしょう。この構外跨線橋もやはり60年代に地下道化されました。


 現在、臺中駅周辺では広範囲に亘って線路が高架化され、臺中駅も高架線に対応した三代目駅舎が開業しています。この高架化によって台中市の駅周辺は、鉄道開通以来初めて平面移動が可能となりました。

 國定古蹟に指定されている二代目臺中駅舎は、文化資産である「後站」駅舎(拡張部分以外が日本時代の建物)、周辺の倉庫(大半が日本時代からのもの)、第二次大戦期に設けられた防空壕やトーチカなども合わせて、今後は鉄道公園として整備されていく予定。なお倉庫の一部は高砂町の製糖工場と合わせて「台灣漫畫博物館」の展示スペースとなる予定です。


 そして昭和11年の鉄道は、実は今とは全く違う運行の仕方をしていました。

 明治41年に完全開通した、竹南駅から臺中駅を経由して彰化へ着くルート。このルートは「山線」と通称されています。建設中に日露戦争が勃発したこともあって、艦砲射撃が避けられるようにと海岸線から遠い山の中を走るよう作られた臺灣縱貫鐵道ですが、この区間は苗栗駅と豐原駅の間に急勾配がありました。これを克服するため多くのトンネルや鉄橋が設けられていますが、それでも大量の荷物を積んでいたりすると運行に支障が生じます。

 第一次世界大戦の際、貨物輸送の需要が急速に高まりましたが、臺灣鐵道はこの区間があるために輸送能力が需要に追いつけず、大量の荷物が積み残されて溜まっていく悪循環に陥りました。

 そこで臺灣縱貫鐵道は土地が平坦な海側に新たなルート「海線」を設けることにします。竹南駅を出た後、緩やかなカーブを描いて西へ向かい、海岸線を辿って南下し、台中市の西側にある大肚山のふもと沿いを進んできて、追分駅を出たところで従来のルートである「山線」の線路と合流し、彰化へ向かう「海線」が開通したのは大正11年(1922年)でした。


 この海線の開通によって向上したのは貨物の輸送力だけではありません。これ以降、急行列車や長距離列車は海線を通ることでスピードアップし、基隆高尾間の移動時間は短縮されました。

 海線は竹南駅彰化駅間が90.2キロ。山線は81.1キロ。距離の差が僅か9キロなら、海線を走った方がよほど早かったのです。

 とは言え、それらの列車にも台中市に立ち寄る要望はあったため、急行列車は独特なルートを走ることになります。基隆発の高雄行き急行列車は後ろに台中行き車両を連結して海線を走り、追分駅で連結を切り離して高雄へ向かいます。切り離された台中行き車輌は機関車を付け替えて台中へ向かいました。一方、高雄初の急行列車は一旦追分駅へ向かい、ここから台中へ向かう線路を走ります。台中に到着後は、機関車を付け替えて、今来た線路を戻る形で追分へ向かい、追分から海線を走って基隆へ向かいました。

 山線は普通列車の専用ルートとなっていましたが、荷舟が補習科に進んだ直後の昭和10年(1935年)4月に発生した新築・台中大地震によって鉄橋が破損するなど甚大な被害を受けます。昭和13年(1938年)7月に修復が完了するまで山線は使えず、全ての列車が海線を走っていました。


 戦後になると車輌の電化も進み、更に山線のルート自体も1998年に三義駅豐山駅間が新しいルートに付け替えられたため利便性が増して、今では山線がメインルートとなっています。海線の列車が追分駅からの折り返し走行を行うこともなくなり、今では海線を走る列車の本数はかなり減っています。

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